十七歳・残された日々(10)ずっと、いつまでも。 ☆
作中、喫煙シーンが出てきますが、未成年の方は決して真似をしないで下さい。
それは、あの冬のものとは比較にならない口づけだった。
脳髄の奥へと血が昇ってゆくかのような感覚を、私は感じている。
ヘヴィな、長く、狂おしいその接吻を、私はどうしていいのかわからずに、ただありのまま受け入れていた。
なにも、何も考えられない。
ただ私と彼だけが在る。
そんな時間が流れてゆく……。
しかし、私は。
私は、その次に訪れるべきことを知らなかったのだ。
どうして……。
どうして、こんなこと、するの……?!
私は度を失っているに違いない。
何も考えられず、今、何が起きているのかも私には、わかっていないのかもしれない……。
躰の力は抜けてゆくかのように、ただ微かに震えている自分を意識しながら、私は今更のように、彼が男であったことに驚いていた。利き腕でもないのに彼は、左手で器用に私の自由を封じながら、物慣れた仕草で私を探ってくる。
言葉も出せずにいるのに私は、吐息に近い声が漏れ出そうになるのを必死で抑えている。
時折むずがるように顔を背けながら、流れてゆく時を受け入れることも拒否することさえ出来ないまま、ただひたすらに堪えている。
それは、私の知らない情景だった。
私は。
私はどうして女なんだろう……。
哀しいくらいに自分が女であるということを、彼という男を通して、私は認識している。
冷たい彼の手を口唇を白い生身の素肌で感じた時、私は言いようのない感覚を覚え、そして私は、はっきりと自分の中の女を見たのだ。
守屋君……。
彼は、私の胸中からふと顔を上げると、私の顔に手を当て、前髪をかきあげていた。
無言のまま、彼は愛おしそうに私を見つめている。
──────見ないで。
そんな瞳をして私を見ないで……!!
彼の微妙なその表情に堪えられなくなり、私は仰け反るように顔を背け、瞳を閉じた。
そんな私の背中に彼は両腕を滑り込ませると、次の瞬間、息も出来ない程の力で私を抱き締めたのだ。
その瞬間。
私は、身の内を何かが走ったような、気がした。
彼は。
彼は本当に私の姿を見ているんだろうか……。
ずっと。
「玲美さん」の存在を知った時からずっと私の脳裏にこびりつき、離れないその疑念。
彼に口づけられながら私は、凍り付くような、その想いに囚われている。
彼の瞳は私の瞳を通り越し、その奥に亡き彼女の幻を見ているのではないか──────
その時。
「や…いやっ……!」
その一瞬、私は初めて反射的に、全力で彼の胸を押しのけていた。彼が更に奥深く私を探ってきたその瞬間だった。
視線と視線が交錯する。
今にも泣き出しそうに、顔を背けた。
「嫌…なの。もう……」
絞り出すように、掠れた声でそう言った。
彼はゆっくりと私から身を離したが、彼の手が再び私の胸の前に伸びてきて、一瞬、ビクリと躰を震わせた。
「ごめん。もう、しない」
しかし、彼はそう言うと、ブラウスの胸のボタンを一つ、一つゆっくりとはめていく。
声が出ない。
私は何も出来なかった。
こんなにも。
こんなにも私は……。
彼を拒む力も、何が起きるのかさえもわからなかった私は、なんて無力で無知なんだろう……。
「泣くなよ。……な」
あの去年の秋の放課後の彼のあの言葉を、再び、私は彼の口から聞いていた。
彼はじっと私を見つめ、時折私の長い髪を梳く。それはまるで幼な子をあやしているかのように。
「神崎が泣いたら俺、どうしていいかわかんないよ……」
私に向けられる、彼の静かな凪いだ言葉を聞きながら、私は彼の真意を推し量ろうとしている。
私は。
でも、私は……。
「私……。帰る」
私は結局そう呟いて、身を起こした。
私には無理なんだ。
私はやっぱり飛ぶことなんて出来ない。
私は……。
惨めさに打ちひしがれ、その部屋を後にしようとしたその時──────
「行くな! 神崎」
背中で彼の声を聞き、瞬間、ビクリと躰が震えた。
「もう俺を……。独りにしないでくれ」
絞り出すようにそう言うと、
「ずっと。ずっとお前が好きだった」
私を後ろから抱き締めながら、守屋君は呟いた。
「愛してる」
あの冬の夜からずっと聴きたかったその言葉を、確かに彼の口から私は聞いていた。
「本当に信じていいの?」
声が、震えた。
答える代わりに、彼は私を更に強く抱き締めた。
背中で彼の胸の鼓動を聞いている。
また、涙が溢れてくる。
彼は私を正面に向かせると私の顎を軽く持ち上げ、そしてその長い指でそっと私の涙を拭った。
そんなことしないで、守屋君。
涙、止まらなくなってしまう……。
ゆっくりと彼の胸に顔を埋める。
そのまま抱き締めていてくれる。
守屋君──────
ずっと、ずっと。
いつまでも。
作中イラストは、藤乃澄乃さまより頂きました。
澄乃さん、素敵なイラストをどうも有難うございました!
尚、以下に守屋視点のスピンオフを掲載します。本編と併せてお楽しみ頂ければ幸いです。
***【守屋の夏】
「今日は有難う。珈琲、ご馳走になって……」
玄関で靴を履き終わると、紅い顔をしたまま神崎がそう言った。
「予備校前でバス乗るんだろ? 送ってくよ」
「でも……」
「遠慮するなって」
そう言うと、俺も靴を履いた。
俺の背よりも高い門を潜り抜け、俺たちは夕暮れ刻の住宅街を黙って歩き始めた。
こいつ、こんなに肩が華奢だったっけ……。
俯いたまま歩く神崎を見下ろしながら、俺は思う。
二年の時より更に痩せて。
ちゃんと飯くってんのかな……。
「神崎」
「え?」
「いや……」
俺はそのまま口籠もった。
ちゃんと飯くってるか?なんて、そんな父親か兄貴みたいなこと言えるか。
でも。
こいつ、本気で勉強始めたらほんとに寝食忘れそうだもんな。
心配だよな……。
そんなことをぼんやりと思っていた。
気がつけば、綺麗な夕陽が西の空を彩っている。
しかし、相変わらず外は炎天下の温度を保ち、蝉が喧しいほど鳴いている。
俺の十八の夏──────
「神崎は大学、どこ受けんの?」
神崎の隣を歩きながら、俺はおもむろに問うた。
「うん。……東応大学、目指してるけど」
「やっぱ! すげえな」
東応は、東京トップクラスの国立大学だ。
「今のままじゃとても受かんないけどね」
「そんなことないだろ」
「三年になって試験の出来も悪いから」
「悪いって言っても、成績いいもんなあ」
「そんなことないんだってば……」
困ったように神崎が言う。
そう言えば、神崎はこういう会話を好まないかもしれないと、思った。
マジメな自分というものに、こいつはどうもコンプレックスを抱いているらしい。
「だから。大阪浪速大の外国語学部。ドイツ語学科に志望変更も考えてる」
「どうしてドイツ語なわけ?」
「中学時代からなんとなく。ドイツ・オーストリアやスイスの山間地方に、憧れていて……。いつか。一人で旅してみたいの。その時はツアーのガイド頼みじゃなくて、自力でなんとかしたいじゃない。だから」
そう言うと、
「単純かな……」
と、神崎はまた顔を赤らめた。
「いいよな、そういう。夢があって」
俺は呟いた。
「俺は……何もないから。行きたい大学も、何が学びたいとか。何も」
俺は虚ろに視線を泳がせた。
高校時代を何に打ち込むことなく、空虚に過ごしてきたそれは俺の罰だ。
「夢は大学に進んでから探してもいいんじゃない?」
と、しかし、神崎はまっすぐ俺を見つめた。
「ほら、「モラトリアム」って言うじゃない。とりあえず大学に進んで、そこでいろんな勉強して。そこから、将来を考えても遅くないと思うわ」
「……やっぱり。しっかりしてるよな、神崎は」
「だから、そういうんじゃないんだってば」
俺たちは顔を見合わせ、そして笑った。
大事に。
大切に守ってやりたいと、俺は思う。
玲美を幸せに出来なかったことも含めて、俺は神崎を愛してゆきたい。
今度こそ、幸せになるために。
神崎を幸せにするために。
俺はこれからの人生を生きてゆく。
悪夢の夏は終わりだ。
これから夏が幾度巡ろうと、もう悪夢に魘されることはない。
俺は「悪夢の夏の朝」から目醒めたんだ……。
それは確信に近い想いだった。
「神崎」
俺は不意に神崎を抱き寄せた。
「も、守屋君……」
神崎が身を固くする。
しかし俺たちは、どちらからともなく口づけを交わした。
神崎の躰の温もりが、俺の中にいつまでも快く残っていた。




