表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
十八歳・ふたりの限りなく透明な季節  作者: 香月よう子
第一章・戸惑える一学期
10/44

十七歳・残された日々(10)ずっと、いつまでも。 ☆

作中、喫煙シーンが出てきますが、未成年の方は決して真似をしないで下さい。

 それは、あの冬のものとは比較にならない口づけだった。

 脳髄の奥へと血が昇ってゆくかのような感覚を、私は感じている。

 ヘヴィな、長く、狂おしいその接吻キスを、私はどうしていいのかわからずに、ただありのまま受け入れていた。


 なにも、何も考えられない。

 ただ私と彼だけが在る。

 そんな時間が流れてゆく……。


 しかし、私は。

 私は、その次に訪れるべきことを知らなかったのだ。


 どうして……。

 どうして、こんなこと、するの……?!


 私は度を失っているに違いない。

 何も考えられず、今、何が起きているのかも私には、わかっていないのかもしれない……。

 躰の力は抜けてゆくかのように、ただ微かに震えている自分を意識しながら、私は今更のように、彼が男であったことに驚いていた。利き腕でもないのに彼は、左手で器用に私の自由を封じながら、物慣れた仕草で私を探ってくる。

 言葉も出せずにいるのに私は、吐息に近い声が漏れ出そうになるのを必死で抑えている。

 時折むずがるように顔を背けながら、流れてゆく時を受け入れることも拒否することさえ出来ないまま、ただひたすらに堪えている。


 それは、私の知らない情景だった。


 私は。

 私はどうして女なんだろう……。

 哀しいくらいに自分が女であるということを、彼という男を通して、私は認識している。

 冷たい彼の手を口唇くちびるを白い生身の素肌で感じた時、私は言いようのない感覚を覚え、そして私は、はっきりと自分の中の女を見たのだ。


 守屋君……。

 彼は、私の胸中からふと顔を上げると、私の顔に手を当て、前髪をかきあげていた。

 無言のまま、彼は愛おしそうに私を見つめている。


 ──────見ないで。

 そんな瞳をして私を見ないで……!!


 彼の微妙なその表情に堪えられなくなり、私は仰け反るように顔を背け、瞳を閉じた。

 そんな私の背中に彼は両腕を滑り込ませると、次の瞬間、息も出来ない程の力で私を抱き締めたのだ。

 その瞬間。

 私は、身の内を何かが走ったような、気がした。


 彼は。

 彼は本当に私の姿を見ているんだろうか……。

 ずっと。

「玲美さん」の存在を知った時からずっと私の脳裏にこびりつき、離れないその疑念おもい

 彼に口づけられながら私は、凍り付くような、その想いに囚われている。

 彼の瞳は私の瞳を通り越し、その奥に亡き彼女の幻を見ているのではないか──────


 その時。


「や…いやっ……!」


 その一瞬、私は初めて反射的に、全力で彼の胸を押しのけていた。彼が更に奥深く私を探ってきたその瞬間ときだった。

 視線と視線が交錯する。

 今にも泣き出しそうに、顔を背けた。


「嫌…なの。もう……」


 絞り出すように、掠れた声でそう言った。

 彼はゆっくりと私から身を離したが、彼の手が再び私の胸の前に伸びてきて、一瞬、ビクリと躰を震わせた。


「ごめん。もう、しない」


 しかし、彼はそう言うと、ブラウスの胸のボタンを一つ、一つゆっくりとはめていく。

 声が出ない。

 私は何も出来なかった。

 こんなにも。

 こんなにも私は……。

 彼を拒む力も、何が起きるのかさえもわからなかった私は、なんて無力で無知なんだろう……。


「泣くなよ。……な」


 あの去年の秋の放課後の彼のあの言葉を、再び、私は彼の口から聞いていた。

 彼はじっと私を見つめ、時折私の長い髪を梳く。それはまるで幼な子をあやしているかのように。


「神崎が泣いたら俺、どうしていいかわかんないよ……」


 私に向けられる、彼の静かな凪いだ言葉を聞きながら、私は彼の真意を推し量ろうとしている。

 私は。

 でも、私は……。


「私……。帰る」


 私は結局そう呟いて、身を起こした。


 私には無理なんだ。

 私はやっぱり飛ぶことなんて出来ない。

 私は……。


 惨めさに打ちひしがれ、その部屋を後にしようとしたその時──────


「行くな! 神崎」

 

 背中で彼の声を聞き、瞬間、ビクリと躰が震えた。


「もう俺を……。独りにしないでくれ」


 絞り出すようにそう言うと、


「ずっと。ずっとお前が好きだった」 


 私を後ろから抱き締めながら、守屋君は呟いた。


「愛してる」


 あの冬の夜からずっと聴きたかったその言葉を、確かに彼の口から私は聞いていた。


「本当に信じていいの?」


 声が、震えた。

 答える代わりに、彼は私を更に強く抱き締めた。

 背中で彼の胸の鼓動を聞いている。

 また、涙が溢れてくる。

 彼は私を正面に向かせると私の顎を軽く持ち上げ、そしてその長い指でそっと私の涙を拭った。


 そんなことしないで、守屋君。

 涙、止まらなくなってしまう……。


 ゆっくりと彼の胸に顔を埋める。

 そのまま抱き締めていてくれる。


 守屋君──────


 ずっと、ずっと。

 いつまでも。



挿絵(By みてみん)



作中イラストは、藤乃澄乃さまより頂きました。


澄乃さん、素敵なイラストをどうも有難うございました!


尚、以下に守屋視点のスピンオフを掲載します。本編と併せてお楽しみ頂ければ幸いです。




***【守屋の夏】


「今日は有難う。珈琲、ご馳走になって……」


 玄関で靴を履き終わると、紅い顔をしたまま神崎がそう言った。


「予備校前でバス乗るんだろ? 送ってくよ」

「でも……」

「遠慮するなって」


 そう言うと、俺も靴を履いた。

 俺の背よりも高い門を潜り抜け、俺たちは夕暮れ刻の住宅街を黙って歩き始めた。


 こいつ、こんなに肩が華奢だったっけ……。

 俯いたまま歩く神崎を見下ろしながら、俺は思う。

 二年の時より更に痩せて。

 ちゃんと飯くってんのかな……。


「神崎」

「え?」

「いや……」


 俺はそのまま口籠もった。

 ちゃんと飯くってるか?なんて、そんな父親か兄貴みたいなこと言えるか。

 でも。

 こいつ、本気で勉強始めたらほんとに寝食忘れそうだもんな。

 心配だよな……。


 そんなことをぼんやりと思っていた。


 気がつけば、綺麗な夕陽が西の空を彩っている。

 しかし、相変わらず外は炎天下の温度を保ち、蝉が喧しいほど鳴いている。


 俺の十八の夏────── 


「神崎は大学、どこ受けんの?」

 神崎の隣を歩きながら、俺はおもむろに問うた。

「うん。……東応とうおう大学、目指してるけど」

「やっぱ! すげえな」


 東応は、東京トップクラスの国立大学だ。


「今のままじゃとても受かんないけどね」

「そんなことないだろ」

「三年になって試験の出来も悪いから」

「悪いって言っても、成績いいもんなあ」

「そんなことないんだってば……」


 困ったように神崎が言う。


 そう言えば、神崎はこういう会話を好まないかもしれないと、思った。

 マジメな自分というものに、こいつはどうもコンプレックスを抱いているらしい。


「だから。大阪浪速おおさかなにわ大の外国語学部。ドイツ語学科に志望変更も考えてる」

「どうしてドイツ語なわけ?」

「中学時代からなんとなく。ドイツ・オーストリアやスイスの山間地方に、憧れていて……。いつか。一人で旅してみたいの。その時はツアーのガイド頼みじゃなくて、自力でなんとかしたいじゃない。だから」

 そう言うと、

「単純かな……」

 と、神崎はまた顔を赤らめた。

「いいよな、そういう。夢があって」

 俺は呟いた。

「俺は……何もないから。行きたい大学も、何が学びたいとか。何も」


 俺は虚ろに視線を泳がせた。

 高校時代を何に打ち込むことなく、空虚に過ごしてきたそれは俺の罰だ。


「夢は大学に進んでから探してもいいんじゃない?」

 と、しかし、神崎はまっすぐ俺を見つめた。

「ほら、「モラトリアム」って言うじゃない。とりあえず大学に進んで、そこでいろんな勉強して。そこから、将来を考えても遅くないと思うわ」

「……やっぱり。しっかりしてるよな、神崎は」

「だから、そういうんじゃないんだってば」


 俺たちは顔を見合わせ、そして笑った。


 大事に。

 大切に守ってやりたいと、俺は思う。

 玲美を幸せに出来なかったことも含めて、俺は神崎を愛してゆきたい。

 今度こそ、幸せになるために。

 神崎を幸せにするために。

 俺はこれからの人生を生きてゆく。


 悪夢の夏は終わりだ。

 これから夏が幾度巡ろうと、もう悪夢に魘されることはない。

 俺は「悪夢の夏の朝」から目醒めたんだ……。

 それは確信に近い想いだった。


「神崎」

 俺は不意に神崎を抱き寄せた。

「も、守屋君……」

 神崎が身を固くする。

 しかし俺たちは、どちらからともなく口づけを交わした。


 神崎の躰の温もりが、俺の中にいつまでも快く残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ