田原
【1】
岐阜警察署の田原和己は、その日の昼休みも近所の定食屋に来ていた。この所ろくに昼休みなど取っていなかった田原にとってはようやく得た心休まる時間であったが、彼の憂鬱は時間とともに増すばかりであった。定食屋のテレビからは、連日続く連続通り魔事件の詳細が聞こえてきた。この店の客層はおおかたサラリーマンであろうか、彼らはテレビのニュースなど意にも介さずせかせかと昼食をかきこんでいた。彼らのせわしない雰囲気のせいか、店内は夏の序盤とは思えないほどの熱気に包まれていた。夏序盤での店内のこの暑さに、田原は真夏の店内を憂い、今から気が滅入る気がした。いや、気が滅入っている原因はこの暑さだけではない。担当している一連の通り魔事件の容疑者の供述が引っ掛かり、昼食がのどを通らずにいた。資料に目を通していると、勢いよく店内に入ってくる男が目に入った。
「田原さん、また眉間にしわ寄ってますよ」
にこやかにそう言うと彼は田原の向かいの席に座り、出された水をごくりと飲み干した。
「そうか?集中してるとついな」
田原の向かいに座ったのは、去年の春から同じ部署に配属されてきた中島純二だ。中島は二十八歳という若さながら、ベテランの多い田原の部署に配属されてきた優秀な男だ。
「通り魔事件、現場の証拠から見て容疑者で間違いないと思うんですけどね」
「ああ、だが一向に犯行を認める様子も無いし、ないよりあいつが人を殺すと思うか?」
「そうですね、でも実はそんな人の方がってこともありますし」
「だったら事件は解決でいいんだが、どうもな。それに、二件目の事件の時間帯は容疑者にアリバイがあるんだ。犯人は別にいるよ」
田原は煙草に火をつけ、ため息とともに煙を吐いた。
「田原さんってめんどくさい方に行きたがりますよね」
ぼんやりと煙を見ながらそう言う中島に、田原は少し呆れて笑みをこぼした。
「うるせえ」
眉間からしわは消えていた。
【2】
店を出た後、中島と別れ二件目の事件現場に向かった。ここに来るのは三回目だ。事件直後の騒然とした雰囲気に比べ、現場はすっかり静まり返っていた。もともと人通りが少ないとはいえ、不自然なほど静まり返った現場に若干の違和感を覚えた。
「事件があってから変な噂が立ちましてね。誰が言い出したのかはわからんのですが、事件以降に不審者がこの辺りをうろついてるってんですよ。おかしなもんですよ、警察が捜査でこのあたりによくいるんだから犯人も戻ってこれないだろうに」
腹立たしそうに語るのは、鑑識課の三納孝志だ。彼もまた今回の事件の解明にあたる一人だ。頭は切れるが、くせ者のため周りからは敬遠されがちな存在であるということは有名な話だった。
「そうですか。ですがもし本当に不審者が出るのであれば話を聞きたいところです。もしかしたら犯人の手がかりが掴めるかもしれない」
「手がかりって田原さん、もう容疑者は捕まったんでしょ?だったらはこの事件はあらかた解決したも同然でしょう。それとも、気になることでもあるんです?」
「連続するこの通り魔事件、犯行手順や遺体の被害箇所まで一致しているのにこの現場で起こった事件の時間帯、容疑者にはアリバイがある。にもかかわらず、一件目の事件の凶器からは容疑者の指紋が検出されている。さらに言うなら現場に髪の毛まで落ちていた。頭を抱えるのも無理もないでしょう」
「容疑者に共犯者がいる可能性があるのでは?」
「それも考えたんですが、容疑者に友人関係や協力関係にある人物はほとんどおらず、いずれもアリバイが確認されました。困ったものです」
「なんだかややこしいなあ、これは睡眠不足が続きそうですな」
何故か嬉しそうにそう言う三納を見ていると、自らの憂鬱が少し軽くなる気がした。
三納と別れてから、もう少し周辺を見て帰ることにした。不審者が出るという情報が聞けたのは有益だった。もしかすれば、この情報が事件解決の解決のカギを握る一縷の望みになるかもしれない。とはいえ、暗雲の中を歩いている感覚に変わりはなかった。数年に一回ぐらいこういう暗雲は訪れるが、毎回もう死ぬんじゃないかと、そんな気分になる。結局死にはしないのだから、自分の感覚なんて大してあてにならないものなのだろうと、これも毎回思う。そんな自分の感覚を信じて動くのは幾分か不安だが、何もしないよりはマシだと思った。
随分と歩いたところで足が疲弊していることに気づき、公園のベンチに座って休むことにした。この周辺を三時間ぐらい歩き聞き込みをして回ったが、結局手がかりは得られなかった。行き詰ると、こうやって公園を眺めてしまう癖がある。公園は好きだ。誰も乗っていないブランコでさえ、こうやって見ているだけで心が休まる気がする。遊んでいる子供たちの無邪気な笑い声もまた、凝り固まった脳内をほぐしてくれるような気がした。目の前の滑り台で遊んでいる子供たちが不思議そうな顔でこちらを見ているので、まもなく帰ることにした。
あの子たちは六歳ぐらいだろうか。二件目の被害者の女性にも六歳の娘がいたな___。
残された子はこれからどんな気持ちで生きていくのだろうという考えがよぎってすぐ、そんな事を考えるのはやめようと思った。まずは一刻も早く事件を解決しなければ、そう決意してその日は事務所に戻ることにした。
事務所に帰る途中、奇妙なものを目にした。奇妙なもの、いやあれは奇妙な人。不審者とはあれのことだろうか。ベージュのトレンチコートを着てマスクで顔の大半を隠しているその男は、ひたすら電柱に話しかけていた。
「悪いことをしたんじゃない。仕方なかったんだ。君ならわかってくれるよな」
掠れたような、泣いているような声でそう繰り返していた。彼を横目で見ながらも、特に目立った動きがなかったため気にしないことにした。