第08話 覚悟、そして決着
8
森の中に響くのは身体の芯から震え上がるような獣の咆哮。
今は少し距離があり、なおかつ相対していない状態にありながらも、眼下で猛り狂う熊の魔物に感じる恐怖は少しも衰えない。
それが全身に纏う濁ったような魔力もまたその存在の異質さを際立たせる。
対して地上で向き合う冒険者は恐れなど微塵も感じていないように、落ち着いた様子でロングソードを下段に構える。経験を積んできた熟練の佇まいだ。
再び熊が吠える。冒険者は迎え撃つ姿勢を崩さない。四つ足の姿勢から繰り出される突進を交わし斬りつける。すぐにまた距離を取る。
速い。左目の無い敵の死角を利用する動きが見て取れる。熊と交差する瞬間、魔力の高まりをわずかに感じる。刃筋のみに魔力を乗せているのか。
俺がミリルを抱えて転げ落ちた崖の下は少し開けた場所だが、当然平らな土の上などではない。枯れ枝や倒木、巨木の根がそこらじゅうに横たわっている。
それら障害物と斜面の高低を巧みに利用し、人間の速さを超える獣の攻撃をかわし続けている。
冒険者の上背は高くない。華奢とも言える細身だ。盾はなく、鎧も軽装。戦い方からも一撃受け止めれば無事ではすまないだろう。
今のところ隻眼熊に一方的に傷を負わせてはいるが、その獣の動きは何ら変わらない。おそらく毛皮程度にしか刃は通っていないのだろう。
村の大人によると討伐隊が寄越される、という話だったからそもそも一人で戦うのが無謀な相手だ。巻き込んでしまって申し訳ない。逃げ回って満身創痍のこの身でも何か援護ができないものか。
「冒険者さん! 大丈夫ですか!?」
「ああ!! 仕留めるのは無理だが、コイツが嫌になって引き上げるくらいに粘ることならできそうだ! 小僧は降りてくるなよ? そこでおとなしく、して……ろッ!!」
おお、乱暴な物言いと低い声でちょっと怖い人だがやっぱり女性だ。口調は荒いがその足運びと剣捌きは実に丁寧だ。
……ここでこの熊を討伐できないのは残念だが仕方がない。お互い様で向こうにも今日のご馳走は諦めてもらってお帰り願おう。
まだ終わってはいないのだが先ほどまでの絶望的な状況から一変し、何とか命を拾って帰れそうな目処が立ったため少し気を緩めてしまった。
「……レノ? 私、きゃああぁっ!!」
「あっ! ミリルッ!!」
しまった! 気絶していたミリルが目を覚ました! 初めて見る冒険者の戦いに目を奪われてしまい気がつかなかった。自分の居る場所を把握できていないミリルが起き上がろうとして枝から落ちてしまった。
「チッ!! このクソガキども!!」
ミリルがぼすっと落ちた枝下は深い茂みになっている。小枝や背の高い草に沈み込んでケガの心配はそれほどなさそうだ。
しかしご馳走が欲しい魔物は目の前の手強い人間よりも、獲りやすい獲物が地面に降りてきたことを見逃してはくれなかった。
俺達の避難している巨木に近かった女冒険者は素早くこちらへ駆け寄り、茂みの中からミリルを抱え出す。
しかし先ほどまで保っていた有利な位置をを失った所に、勢いに乗った隻眼熊の噛み付きが飛んで来る! 唾液の湿り気を帯びた不快な唸り声が耳をつく! ダメだ! ミリルを抱いた今、それはかわせない!
「……ふうううぅッ!!」
冒険者の裂帛の気合とともに、獣の巨体が立ち木にぶつかる大きな音が森に響く。突進の勢いのまま二人を巻き込んで隣の太い幹に激突したのだ。ミリルは!? 冒険者は!?
こちらに背を向ける熊の頭部がもぞもぞと動く。一瞬嫌な想像が頭をよぎるが、それは別の感覚に否定される。魔力だ。今までで一番大きく、力強い魔力がその獣の前に存在するのを感じる。
「おい! お前走れるか? 行け!」
ミリルも無事なようだ。熊の脇から転がり出てくる。ミリルを追わせまいと遮るように彼女が体を入れ替える。凄い! 胸元に押さえ込んだ小さな人間の頭を齧り取ろうと、遮二無二暴れ狂う獣の顎をロングソードで受け止め堪える。
……だが、魔力が、徐々に……?
「……小僧ッ!! ここまでだ! 長くは持たねェ! そいつを連れて村まで走れ!!」
うわ、やっぱりか! あの大きさの獣と張り合うために必要な魔力ってどんだけだよ! くそっ、思いつきはしたものの、やらずに済めばと思ったが……このままあの人を見捨てて逃げるくらいだったらやってやる!
「あたしの名はアキュレイだ! 組合には五人は連れて来いと伝えてくれ!」
「そいつをそこから動かさないでッ!!」
「なッ!!?」
逃げるために木から降りるのではなく、枝を上に、熊を押さえる自分に向かって駆ける俺を見て冒険者が目を見張る。手持ちの武器はへし折られ、樹上に避難したものの俺は丸腰ではなかった。魔力反応を感知して拾っておいたのだ。
登れる限りの高い位置から隻眼熊に向けて跳ぶ。前世も含めてこれまでの人生でこれほど生き物に対して強い殺意を抱いたことはない。全員が生き残るためには、あの魔物を殺さなければならない。
俺の体重が二十キロくらいで今ここが五メートル以上!
幸い刀身にまだわずかに魔力が残っている。これが魔物の毛と頭蓋を通らなかったら本当にもうできることはない。落下しながら全ての感覚を集中して全エネルギーを正確に刃先一点に伝える。
「……うおおおおおぉぉっ!!」
その時、刀身の魔力に反応してか俺の両手から熱がほとばしる。気にしている暇はない。これを頭に貫き通して命を絶つ!!
「……あたしが最初に投げたやつか。よく見つけてたな」
「あいつがもし木に登って来た時に、素手よりはマシかと思って」
鍔まで埋まり込んていたナイフをようやく引き抜き、女冒険者が俺を見る。凄絶な戦いは熊の魔物の絶命により終わった。俺は動くことができず樹木に背を預けて座り込んでいる。血は止まったが疲労と痛みはなかなかだ。
静かな森の中に、俺にすがりついて泣くミリルの涙声が小さく響き続ける。……アキュレイさんは休むことなく魔物の処理に取り掛かっている。
俺が即死を狙って振り下ろした魔力の込められたナイフは狙いの頭を外れて首に刺さった。しかしそれで良かった。
即死とはいかなかったので首筋に突きたてたまま、しばらく強烈に振り回された。が、やがて魔物は地に倒れ伏して動かなくなった。
……泥と血と獣の匂いで体中が臭い。テオドル様に消毒してもらわないと病気になりそうだ。
今冷静に考えてみれば硬くて丸い頭蓋骨よりも首を狙うべきだったな。延髄や脊髄だって生き物の急所だ。頭の丸みで逸らされて刺さりもせずに落下したら詰むところだったわ。
そうして動かなくなったところでアキュレイさんのロングソードが止めを刺した。彼女が言うには魔力を持つ魔物の肉は普通の獣よりも高く売れるらしい。肉以外の毛皮、爪なども貴重な素材になるとのことだ。
……うわっ!? アキュレイさんが熊の胸に手をあてて魔力を送りこむと死体の顔面や傷口から血が吹き出した! 俺はミリルがそっちを見ないようにそっと肩を抱く。子供の前でそんなグロい血抜きするなら一言教えて欲しい。
「……よし、後はちょっと冷やしとくか。運ぶ手立てを考えねえとな」
「あの、ありがとうございました。助けていただいて。僕はレイノルド、この子はミリルと言います」
「ふん。クソ丈夫なガキだね。肝も据わってやがる。あたしも助かったよ」
俺がミリルを枝から落ちないようにちゃんと押さえてたら死にかけることはなかったはずだが、口調とは別に彼女は微笑みながら言う。初めて近くでゆっくりと顔を見る。
マントを外した彼女は白に近い長い金髪を背中で一つにまとめている。冒険者らしく髪は余り手入れをされていない。日に焼けた顔にも傷跡がいくつか目立つが、目鼻立ちは整っている。綺麗な人だ。
「おばちゃん、ありがとう」
「……アキュレイだ。あんたは大したケガがなくて良かった」
ミリルが突然泣き止んでお礼を言う。かすかにアキュレイさんの眉毛が動いた。その言葉は使わないほうがいいみたいだ。
「レノ君!! ミリルちゃん!!」
「……ア、アキュレイさん!?」
少し離れた木々の向こうから声が聞こえてくる。助けがきたようだ。テオドル様と、装備の整った知らない男が二人……、冒険者か。
「テオドル様!! よかった早く! レノが死んじゃう!」
「大丈夫だってミリル、死ぬほどじゃないから。……死ぬほど痛いけど」
「あー、お前らいい所に来た。金は払うから赤の回復薬持ってないか? 質は問わねえ」
「……よ、よし、とりあえず話より先に手当てをしましょう。エドさん達に狼煙をお願いします」
良かった。森に入れる村人は猟師のエドさんくらいしかいない。助けが来ることはないだろうと思っていたが、冒険者が村に着いたのか。