第07話 遭遇
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炭焼き小屋は森の中で比較的なだらかな場所を切り開いて作られている。小屋の向こうにはさらに山の奥へ、南へと入っていく道があるが今日は用はないので来た道を引き返す。
表の作業場を離れ森の道へ戻ろうとした時、小屋の山側の茂みから草が動く音がした。
……!!
「……ひ、……レ……レノ……ッ!」
「……よ、よし。……そのまま、だ。……落ち着いて。お、大きな声を出すんじゃない……ぞ」
振り向いたところ、山の斜面少し高い位置に黒い塊があった。こちらとの距離は十メートルもない。俺たちが振り向いたのを見て相手は動きを止めた。
でかい……! 四足で構えているから全長を計り知ることはできないが、この大きさの生き物と遮蔽物無しで対峙した経験は前世でもない。
象やキリンよりは小さいと思うが、目の前の生き物は人を喰う魔物だ。その威圧感は草食動物とは比べ物にならない。
対処法を思い出し、歯を食いしばってそれと目を合わせてみる。赤く鈍い眼光が一つ。左目は傷に潰れている。まだ治りきっていない醜い傷痕がさらに恐怖を駆り立てる。
……まずい。こ、れは……死ぬ。
後ろへ下がろうとするが足が動かない。下半身の感覚がない。上半身は頭頂部から腰にかけて、背中をばりばりと虫が走り回るに似た、痛みとも痒みともつかない不快感がおさまらない。
竦み上がり言うことをきかない体に必死で力を込めるうちに、唯一右手にだけはまともな感覚が残っていることに気がつく。
思い出した。俺は今ミリルの手を握っている。離さないようにきつく。痛くないように優しく。
彼女の冷えた手の温度を感じ取ると共に、少し背中の痛みがやわらぐ。地に足がつく。ゆっくりと肺に空気を送り込む。
「…………目を逸らすな。……ゆっくりと後ろに下がるぞ」
「…………ふっ! ……ふっ!」
ミリルの返事がおかしいが俺の言いたいことは伝わったようだ。恐怖のあまり呼吸が整わないらしい。軽く手を引いてやって合図を送り、できるだけ音を立てないようにゆっくりとすり足で一歩後ろに後ずさる。
がさりと耳障りな音を立てて黒い塊が大きくなる。瞬間毛穴が広がり汗が噴出す。が、動いたのは一歩だけだ。さらにこちらの様子を窺っている。同じ一歩だが歩幅が違うため、さっきより距離は縮まった。
逃がすつもりはないと言いたげに、がふがふと気持ちの悪い唸り声を立てる。
「カゴを寄越せ。……俺がアイツに向かって投げたら背中にしがみつくんだぞ」
刺激しないようにゆっくりと左手で六尺棒を構え、右手でカゴを受け取る。この食い物の匂いにも気がついているだろう。食いついてくれれば儲けもの、鼻面にぶつけて怯ませてやる。
隻眼熊の右目を睨み付けたまま、視界の端の太い前足に意識を集中する。ヤツがさらに距離を詰めようと体重をかける際を見逃すな!
「……今だミリルッ!!」
前足が沈む瞬間、全力で顔面へカゴを叩きつける。当たるを確認せずに振り返って走る。ミリルはしっかりと背中にしがみついている。
「歯をしっかり食いしばっていろ! 手足も緩めるんじゃないぞッ!」
熊が本気で追いかけてきたら人の足では逃げ切れない。危険だがまともに道を降らずに木々の間を走り抜ける。身体の大きさが違うのだから少しは距離が稼げるはずだ。
しかし後ろからはやはり奴が追いかけてくる。振り返って確認せずとも首筋にびりびりと殺気のこもった気配を感じる。人のものとは違う、何かが混ざったような濁った魔力だ。加えて恐ろしい咆哮とともに木々がなぎ倒される音が聞こえる。
「……き、……来てるっ……」
「わかるから! しゃべらなくていい!」
子供一人を背負って、道ではない山の斜面を駆け下りる。とりあえず方角は気にしていられない。安全な足場を探し、少しでも隻眼熊から距離を取る。背負っているミリルの負担も考えないといけない。
走っても飛び降りても奴は追ってくる。樹木の折れる音、岩の転がる音が山中に響く。前世で熊から逃げたことはないが、こんなにしつこいのはたぶん魔物と化しているからだろう。
人間を貪りたいという魔物の本能が奴をそうさせているのだ。まずいな、森で引き離すことは可能なのか? 草原に入ってしまったら確実に終わりだ。
「……ハァ……ハァ……クソッ、足が……」
火事場の馬鹿力も長くは続かない。二分か三分か、極限の集中力で酷使した足と呼吸器に限界が訪れる。背後には……いない? 撒いたか!?
「レ……! 前ェッッ!!」
足を緩めて後ろを気にした一瞬、右前方の茂みから奴が飛び出してくる。回り込まれた! 真っ直ぐ追いかけてくるなんて誰が保証したのか!
「うわあっ!」
咄嗟に左へ向きを変えて跳ぶ。……しまった! この高さはちょっとヤバイ。右手の六尺棒を投げ捨てて、背中のミリルを腹へ抱きかかえる。
「身体を畳め! 丸まれッ!」
ミリルに声をかけたが確認している暇はない。両足が地に着くと同時に身体を捻って背中から倒れ込む。ごろごろっと草の上を転がって木にぶつかって止まる。体中が痛いが下がまともで助かった。
「立てるか!?」
ミリルの返事は無い。気を失ったか? まずい! このままでは……。
「後ろ来てるぞッ! 武器を拾え小僧!」
うおッ! 近い! 傍に落ちていた六尺棒を拾い、ミリルを背にかばって隻眼熊に向き直る。棒の先端を突きつけると奴の動きが一瞬止まる。遠く下から何者かが走ってくる気配がする。
「いいぞ! そのままだ! すぐに……」
しかし声を無視して自分から飛び掛かる。先手を取らないとダメだ。ミリルがいるから身をかわせない。押さえ込まれたらまず即死だ。こっちから動いて牽制しないと時間は稼げない!
「うおおっ!!」
振り回すな。全力でぶん殴ったって効きゃあしない。まず届くほどには近づけない。鼻先と、前足を、細かく払うように! 棒のリーチを生かし、相手の顔面に向けて突く。突いた先を振り下ろして前足を狙う気で地面を叩く!
背中を見せて逃げる時とは違い、隻眼熊は武器を振るうこちらを警戒している。今の内だ! 誰かは知らないが速く来てくれ!
ちくちくと必死に嫌がらせに徹していると突然、隻眼熊が歯を剥き立ち上がる!
怖ッええ! つい怯んで手を止めてしまった瞬間、遥か頭上から右の前足が振り下ろされる。濁った魔力が込められた一撃を辛うじて六尺棒で受け止めるが耐えられるわけがない。棒はへし折れ、俺は弾き飛ばされる。
「……ぅぐッ!」
……意識と命は、まだ、ある。
心臓からの血流が、脈動が、すさまじい速さで首を通って頭蓋に響く。受身の練習は心底やっといてよかったと思う。
しかしいきなりこの実戦はキツ過ぎだ。さっきからとんでもない目に遭っていると思うが、痛いのかどうかももうよくわからない。次の一撃が来ることは確実だ。まだ動けるうちは寝ていられない。身をかわさないと……。
立ち上がり、迫り来る熊の挙動に注視していた時、魔物のものとは違う魔力が後方から飛来する。跳び下がって避けた熊に素早く接近した人影がロングソードを叩き込む。視界に広がるマントに肩当、風体からすると冒険者か?
「その子を拾って木に登れ! あの一番太い奴だ速くしろッ!!」
来た! 間に合った! 転がるようにミリルのもとへ駆け戻り、ケガの具合を確かめる。よし、今のところ目に見える出血などはない。息もある。
今の内にここを離れるのが最善ではあるが、この体力で気絶したミリルを抱えて逃げるのは危険だ。熊がこちらを狙えばひとたまりもない。
……あの冒険者の足手まといにならないように言われたとおり樹上に避難しておこう。
指示された木は縦よりも横に大きく広がる巨木だ。地面からの高さに加えてミリルが簡単には落ちないであろう太さもある安全な枝に腰を落ち着け、額の汗をぬぐう。
左腕の袖口は真っ赤に染まったが、眼前の巨大な獣の殺意が取り除かれた安堵感の方が遥かに大きい。
あたりに他の人影はない。仲間はいないのか。一人であの熊を倒すつもりだとすれば相当の腕前だが大丈夫か。
呼吸が整い状況を確認する余裕ができた俺は地上の戦いの行く末を見守る。割って入ってきてくれたんだから、やられたりしないよな?