第39話 衆寡敵せず
39
足首から下に魔力で作った空気の層を纏う。地面に靴底が着く時にはほんの少しだけ、薄い綿を踏むような感覚があるが、足捌きに影響があるほどではない。地を蹴るのも踏みとどまるのも普段と変わらない。
違う点は足音がしないことだ。後ろから無造作に近寄っても口を手で塞ぐまで、奴らは俺に気づかない。後は素早くナイフを突き立てるだけ。
便利な高等スキルを編み出したかと思いきや、魔力を結構使う。こいつらだから通用するが、魔力智覚が使えるヤツが相手なら子供用の音の鳴るサンダルのようなものだろう。
獣人のクロは素で足音はおろか、気配も消して同じことをこなしているのだからわざわざ自慢するようなものでもない。
一つ恐れていたのは、齢を経たゴブリンには魔力を扱うものが稀にいるらしいということだ。が、昨日から注意深く観察した中には、そんな特異な反応を持つ個体はいなかった。この群れは普通のゴブリンの集団のようだ。
「はぁ、はぁ。…………んぐ。……ふう。……次ね」
最後までもつか不安なのは、水だけではないな。まあ水のほうは今日一日ぐらいなら魔力で出せば、渇きだけは癒せないこともない。
ゴブリンなど敵じゃないふうなことも言ってたが、そんなに簡単な仕事なワケがないよな。命の取り合いなんだから。
……ん。
「クロ。一旦離れるぞ。群れが足を止めた。さすがに異変に気づいたようだ」
俺の細工により冷たく白い闇に包まれた森。その霧の中を西のタブ村へ向かって移動する飢えたゴブリンの群れ。後列を行く奴らには弱っているものも少なくなかった。
獣人ほど匂いに敏感ではない奴らでも……炙った干し肉の、食い物の匂いには反応を見せる。
隊列から釣りだされた数匹には、さらに革袋の水を魔力で換えて作り出した濃い霧を浴びせかける。視界は完全に塞ぎ、他からも見えないように孤立させてから狩る。
群れの後を追う俺達二人の狩人の存在はゴブリンどもには可能な限り気づかれてはならない。
三百の群れが反転しこちらへ襲い掛かってくれば、あっという間に囲まれて嬲り殺しにされてしまうだろう。と言っても、こうしてひたすら削っていればいつかはバレるわな。
「……もうとっくに森を抜けててもおかしくないもの。道を知ってる奴がいたなら気がつくわ」
俺達が昨夜突貫工事で造ったこの偽の道は元々通じていた西の岩山には向かわずに、森の中ほどで緩やかにUターンするような形になっている。俺は途中で仮眠に入ったから仕上げはクロに任せたけど。
実際には途中までの未完成らしいがそれでいい。仲間の露払いと騙されていても昼を回って霧が晴れでもすれば、進む方向が違うことにはいずれ気がつくだろう。夜の暗闇で一人の作業も大変だからこれで上出来だ。
……あっ。やべ。
「まずい。奴ら二手に分かれた。……一方は偽の道を無視して西へ向かっている。もう一つの群れはこっちへ引き返してくるぞ」
「時間稼ぎもここまでね。今度はあたし達が狩られる番ってことか。どうする?」
半径一キロ未満の魔力の存在がわかる俺の魔力智覚。魔物特有の濁った魔力反応で捉えられていた大蛇のような一塊は二つに分かれ、こちらへ向かう群れはさらに動きを変えた。
「完全に俺達の存在に気がついたようだ。こいつらも道を無視して散らばってる。手分けして探しに来ているぞ」
もうそろそろ昼か? 朝からの三時間程度で……五十近くは狩ったはずだ。手を下さなくても倒れて動かなくなる奴もいたからな。二手に分かれたとして、こっちに来るのは雑に考えて百二十五か。
……バラバラに向かってくるのなら、まだもう少し戦えるか?
「南西に移動しながら近づいて来る奴を狩るぞ。敵全体を把握することはできなくなるけど、タブ以外の南の村には絶対に行かせられない」
「ギイィーーッ!!?」
「ガブッ!?」
樹上から放った俺の矢がゴブリンの胸に突き立つ。クロが幹を蹴って飛び、茂みの中に潜んでいたゴブリンを踏み砕く。
……クソ。枝を削って作った矢はもうなくなった。あれは丈夫ではないから回収しても使い物にならないことのほうが多い。
後続はまだいくつも森の中をやって来ているな。青く澄み渡った空の南に太陽が昇り、高さのあるここからは魔力に頼らずとも何者かが揺らす森の木々が遠くまで見える。久しぶりの快晴だ。
「もう十分よ! 逃げよう!」
「そっちはダメだ。回り込まれてる。前を突破するぞ」
獣を狩り尽くすくらいなのだから、森の地形については俺よりも詳しいか。
……霧があるうちに退くべきだったな。逃がすまいと塞がれる後ろよりは、数が少ないほうへ行こう。
「もう止め刺さなくていいから、もらわないよう全力で逃げるんだぞ?」
「わかってるわ。あんたこそあたしから離れるんじゃないわよ」
走りながらの減らず口は元気だが、疲労は確実にあるな。こっちも少々見積もりが甘かったか。
だが休んでる暇はない。囲みが出来上がる前に抜ける!
進行方向にいるゴブリンの数をクロに伝えながら、樹木を避け、岩を飛び越えて剣を振り降ろす。斬り飛ばしたゴブリンを振り返らずにさらに駆ける。おっと! こっちだな!
「レノ待って! この先は!」
……何だって? うおっ!
しまった! 走り抜けようとした眼前の草木が、突然地面と共に消失する。
代わりに現れたのは目もくらむような深い谷だった。水の流れもここからは確認できない。これはちょっと飛ぶのは無理だ。
……ちっ。囲まれた。もしかして誘い込まれたか。俺が数の少ないほうに逃げているのを悟ったのか? ゴブリンにハメられるとは。
「ぼさっとしてないで! あいつデカいわ! 抜けるならこっちよ」
何。
振り返ると、深い森の中、木々の間に無数のゴブリンの姿。その中でも最も密集した集団の中に、一際身体の大きい個体がいた。あれが総大将ってやつか?
ボスの周りには魔力反応の強い戦士級が何体もいる。確かに囲みを突破するならあっちは無理だ。
そう考える間にクロが反対側のゴブリンどもをなぎ倒す。頼りになるなコイツ。俺もぼーっとしてるわけじゃない。味方が倒されたのを見て放たれた矢を風魔法で防いでから、クロを追いかけて走る。
「…………クロ」
「何よ! 一杯いるのよ! もったいぶらないで逃げる方向だけ言いなさいよ!」
「命令だ。二十数える間だけ俺を守れ」
「ちょっ!?」
返事を待たず立ち止まって矢を番える。
枝を削っただけの量産型の矢ではない。本身の、ラタ村の猟師エドさん手製の、数少ない貴重品だ。こいつに目一杯魔力を練り込む。一度も試したことはないが、普段やってることの応用だ。
あいつは周りに部下を侍らせて元の位置から動いていない。
囲みが完成したと、逃げ惑う俺達を捕らえたと油断している。そうだろう、この距離ならこんな小さな弓の普通の矢はほぼ確実に当たらない。
棒立ちの俺に襲いかかる前後左右のゴブリンをクロが殴りつけ蹴り飛ばす。極限状況ではまだ慣れてないナイフは邪魔か。
「……ぐッ!! あ……っ!」
いかん! 俺に届く棍棒をクロが背で庇いよろめく。やはり四方八方からの敵の相手はこいつでも無理か! 一発殴られたら簡単に立て直せるものじゃない。
二十秒ももたん! 邪魔が入る前に撃つしかない!
……ぃッ……けぇッ!!
弓から放たれた矢は白い光の軌跡を糸引きながら、ありえない速度でボスの頭部に着弾する。いや、貫通する。光と音の波が森の木々を激しく揺らす。
溜めに時間がかかるが、攻撃魔法ではまだ出せない射程距離だな。
「ギギャァッ!!?」
「ギアッ!?」
おぉ。いった。ゴブリンの本陣と言える集団は突然の事態に混乱している。周囲の雑魚どもも今の音と光に驚き、動きが止まった。
……あ。あれ耳残ってないけど金はもらえるのか!?
「ぼさっと、すんなって! 済んだらさっさと走るのよ!」
ちょ、ちょっと待て。身体に魔力が纏えない。ちょっと気分もふわふわしとる。一回に使える限界で撃つとこんなことになるのか。
雑魚ゴブリンどもが呆然としてるうちにさっさと離れないとまずいな。これ回復するのにどんくらいかかるんだ?




