激震
南西方向の夜空に浮かぶみずがめ座を見上げると、その周辺では光の筋が小雨のように現れる。
放射状に打ち出される流星群の光。
その星の輝きはいや応なく大気圏で燃え尽きて消えていく。
今また発生した光の帯も大気へと溶けていく運命のはずであった。
だがその小さな星は燃え尽きる事なく、十分に速度を落とした後、星空よりもなお暗い海原へと落ちていった。
──2016年8月某日 東京
風すらも茹だるような暑さの中でも人々は行き交い、ギラつく太陽をウィンドウに反射させながら、大小様々な車両が道路を埋め尽くしている。
日光を遮る雲は一つも無く、コンクリートの合間に点在する木々からは、どれだけいるのかというほどに響きわたる蝉の大合唱が、来日した外国人を苛んでいた。
熱中症対策を喚起する声が街頭モニターから響く中、夏の日常も滞りなく進み、照りつける太陽が高層ビルの向こうに隠れはじめた頃、それは始まった。
まだまだ透き通るような青さの空の下、蝉が一斉に鳴き止んだ。
ビルの影が落ち始めた空間に奇妙な静寂が訪れ、それは郊外の閑静な住宅街でも同じであった。
ほどなくして、その静寂を切り裂くように電子音が鳴り響く。
それはオフィスや住宅、歩道を行き交う人々から、車道を埋め尽くす車の中、駅のホームでも。
幾種類もの不協和音を耳にした人々は、揃えたかのように同じ動作で携帯端末を取り出し、小さな液晶画面を確認する。
なぜなら電子音の発生源は、地震速報アプリの電子音であったからだ。
《 東京都 震度7 震源 小笠原諸島付近 M9.9 震源の深さ ごく浅い 地震到達まで256秒 》
カラフルな日本地図とともに表示された簡潔な情報。
しかしそれは多くの人々を驚愕させることに成功した。
──気象庁 地震火山部
どこからでも見えるようにと少し高いところに設置された液晶モニターには、赤から青までに色分けされた震度を示す多数の円が、東京を中心にして日本全土を埋め尽くす様子が表示されていた。
太平洋側の全ての海岸には津波警報を示す赤から黄色のラインが伸び、それは日本海側にも達して日本をまるっと囲んでいる。
片隅に表示された津波の高さは10m以上、東京への地震到達時刻は200秒あまりとなっていた。
警戒システムへの第一報から、ここ気象庁の一室では急ピッチで解析作業が進められていた。
「震源は西之島だと思われます。」
「父島、母島の4基共にデータ一致しています。」
「八丈島もデータ一致。」
空間として広くはあるが通路は狭い室内で、端末と向き合い次々と声を上げる職員達。
その内の一人が手を上げて報告する。
「父島の観測所に繋がりました。現地では揺れを体感していない模様。」
その一報に室内の空気が幾分和らぐ。
「被害も無しか?」
「はい。少なくとも観測所内では落下物等も無いとのこと。現在警察、消防の方にも問い合わせているようですが、問題無く通話できているようです。」
その報告に腕を組んで考える。
今やまさに成長株となっている火山島の西之島が震源であれば、地震の可能性は十分にある。
だがマグニチュード9.9という数字は疑いたくもなるし、ほど近い場所にある父島や母島の住民が揺れを体感できないなど考えられない。
「誤報だと思うが、どうだ?」
「低確率ですが諸島の観測装置か通信網に障害が発生したのかもしれません。」
「観測所員に機器の確認を指示。防衛省および、海上保安庁にも連絡。航空機と船を出せないか聞いてくれ。」
観測装置は高い信頼性を保ってるものの、様々な要因から発生する不具合をゼロにできるわけではない。
観測地に近い現場の人間が地震を体感できていないのなら、原因は不明だが誤作動の可能性が高いだろう。
ちらりと壁のモニターを確認すると、到達時間はあと120秒となっている。
「よし。キャンセル報を出せ。マスコミ対応も始めてくれ。」
「並行して原因究明も必要ですね。忙しくなりそうです。」
「データが中心の職分なんだ、機械の尻拭いも仕事の内だろうさ。」
地震到達時間が100秒を切った頃、地震警報システム網に対し最初のキャンセル報が発信された。
震度7というとんでもない情報を受け取った多くの人々は、しかし何もできないまま、あるいは情報に懐疑的な視線を向けた状態で誤報の知らせに安堵し、再び日常へと戻っていった。
──
東京から南に約1,000kmの海上に位置する西之島。
結果的に誤報と発表されたものの、気象庁からの要請に対して海上保安庁は本土から測量船を、防衛省は哨戒機を上げ、西之島からさらに200km南の硫黄島からは海上自衛隊の救難ヘリを父島方面へと出動させて情報収集任務へと充てていた。
──小笠原諸島 西之島近海
海上自衛隊の哨戒機は星空の浮かぶ暗闇の中を進み、幻の震源地となった西之島へと近づいていく。
操縦士は哨戒機を観測ルートに乗せ、後方では搭乗員達が周囲の安全確認と情報確認を行っていた。
西之島の観測を始めてすぐ、搭載された赤外線カメラで観測を行っていた一人が声を上げる。
「西之島の山頂付近に光が見えます。」
「火山活動か?」
「溶岩の流出かもしれませんが、小さなものが一つだけです。」
「日没前の情報では新たな噴煙等は無かったはずだが。」
「西之島近海に船舶の情報無し。」
地震騒ぎが誤報だったとはいえ、今の西之島は活発な海底火山から生まれた島だ。
その3年にわたる溶岩放出は、もともとあった島の6倍を超える面積の陸地を形成し、最近になってようやく落ち着いてきたという。
いくら空の上とはいえ、いや空の上だからこそ、不確定な要素を含んだまま近づきたくない場所だった。
だが南海の孤島という地理も相まって人の目は少なく、海から近づく物好きはいるかもしれない。
「上陸した者がるかもしれない。報告は密に、周辺警戒を厳となせ。対潜哨戒へ移行する可能性もある。島から距離を置いて高度を落としてくれ、島の事は海保に任せる。引き継ぎに向けた情報収集と安全確保のため、可能な限り哨戒を続ける。」
「了解。」
──海上保安庁 測量船
水平線が薄っすらと緋色に染まっていく。
海上を進む測量船の窓辺にも光は届き、暗闇の中での緊迫した空気が若干和らぐような気がした。
「明けてきたな。」
「まだ島影だけですが情報通り大規模な噴煙等は無い模様。」
暁の空を背景に西之島の小さな影が海上に浮かんでいる。
島の上空に噴煙の影は一切無く、地震騒ぎがあったとは思えない穏やかな海域を測量船は進み、朝日の上昇とともに光を受けた地表を遠目に確認できた。
しかしそこには違和感があった。
船が進んでいくうちに、双眼鏡で西之島を見ていた観測員が声を上げた。
「地表の様子が変わってます。森ができているようです、かなり広い。」
「見間違いじゃないのか?」
そう言いながら自らも双眼鏡を手に取り、朝日の光を受け徐々に照らされる島に向ける。
西之島は海底火山の火口が露出し、溶岩でできた陸地が海面を覆っていたはずだ。
火口の北側に存在した旧島も徐々に溶岩に飲み込まれ、そこにわずかに残った草地は森林などといえる規模ではない。
だが双眼鏡の向こうには、あるはずの冷えた溶岩は無く、青々とした木立が広がっていた。
「なんだ、これは。」
異変を目の当たりにした観測員達を載せた船はさらに進み、島へは西側からアプローチしていく。
東から昇り始めた朝日に照らされた島の西側はまだ影に覆われているが、それでも地表の木々は目視できた。
船外を見る事ができる数名は内心で茫然としつつも、観測に向け黙々と作業を続けられるのは日頃の訓練の賜物か。
幻となった巨大地震の翌日。
溶岩の島であったはずの西之島には、生い茂る豊かな木々とそれを擁する森林が出現していた。