7 「僕は名前をつけるのが苦手なんだ」
次の日が快晴になることは天気予報で確かめていたから、その日に洗濯をしようと決めていた。早朝に目を覚ますとまずはシャワーを浴びた。その後で洗濯物を洗濯機の中に放り込み、自動運転のスイッチを押した。機械が洗物をしている間にコーヒーをいれ、それを飲みながらノートパソコンに向かう。昨日大学で印刷した紙に赤ペンで書き直しをした「アイスパレスの王女さま」の文章を、テキストファイルに打ち込んでいく。単純にそのまま写すのではなく、一度文章を口の中で転がして、違和感のある部分はその都度書き直していったから、その作業はすぐに終るというものではなかった。自動洗濯の完了を知らせるブザーが鳴ったとき、まだ全体の三分の一も進んでいない。キリのいいところで書き直しを中断し、圧力のある陽の光に照らされたベランダに洗濯物を干す。冷房の利いた部屋に戻ってすぐに書き直しを再開したけれど、予想以上に時間がかかる。ようやく最後のシーンまで打ち込みが終ったとき、時刻は十二時を過ぎていた。
テキストファイルを保存してから、簡単に昼食を作った。ツナとトマトのスパゲティ。食べ終ったとき、すでに一時半を過ぎていた。昨日ユサと約束した「ねこ殺しの街」まで行ってみようかとも考えたけれど、今から準備を始めて出かけるのが躊躇われて、やめた。どうせ行くのなら朝から部屋を出て、向こうで昼食でも取りたい。そう判断して、僕は使い終った食器を洗い始めた。それから思い立って部屋の掃除を始めた。まだ日差しの強いベランダに布団を干し、床を箒で掃いて、テーブルを拭いた。スポンジで浴槽を洗い、台拭きで流しを磨いた。トイレを掃除し、押入れを整理した。エアコンを切って窓を開け、空気の入れ替えもした。全部終ってからコーヒーをいれ、クッキーを齧りながらゆっくりと飲んだ。午後の四時十分前。女の子は宣言どおり今日も訪ねて来なかった。ベルを鳴らすものは、誰もいない。
休憩が済んでから、僕は再び作品の書き直しにかかった。今度は文章の調子に意識を配るのではなく、それぞれのシーンの光景を思い描くことを念頭に置いて作品に向かった。文章を読み、それが喚起するイメージをさらに発展させ、描写を密にしていく。ときどき目を閉じて、具体的な情景を頭の中に強く描くこともする。そうすることで、見えてくるものもある。外は相変わらず強く晴れていたけれど、僕の意識は台風の近づく荒れた天気の只中にいた。凶暴な風が強弱をつけた叫び声をあげ、つぶてとなった雨滴が絶えず窓ガラスを叩き、寡黙な信号機が痛みを堪えるようにかすかに揺れる。その世界に僕はいて、物語の進行を少し離れた場所から静かにうかがう、そんな気分になる。客の少ないイタリア料理店で、主人公の青年とねこの目の女の子は昼食を取っている。主人公はアラビアータを、ねこの目の女の子はトマトソースのパスタを目の前にしている。いいや、それは違うと僕は思う。女の子は以前、トマトが苦手だと言った。おそらくトマトソースは避けるだろう。僕はその部分を消して、サーモンとホワイトソースのパスタに書き換えた。ねこの目の女の子はそのスパゲティを器用にフォークに巻きつけて、口に運ぶ。
一時間半ほどで作業を切り上げた。パソコンの電源を落とし、紅茶を入れようと思いキッチンへ行く。お湯を沸かし、茶葉を入れた缶に手を伸ばしたときにふと、牛乳と砂糖を混ぜて甘いミルクティーにして飲むことを思いつく。スパイスにシナモンを加えるのも悪くない。でも冷蔵庫を開くとあいにく牛乳は切らしていた。まだ残っていると思ったけれど、いつの間にか女の子が全部飲み切ってしまっていたようだ。迷ったけれど、明日行こうと思っていた買い物を前倒しすることに決めた。沸きかけていたやかんの火を消して、戸締りを確かめてから部屋を出る。陽が傾きつつあるとはいえ、外の空気はまだ暑かった。そしてたっぷりと湿気を含んでいた。階段を下りてアパートのエントランスを出る、たったそれだけの距離を歩いただけで首筋はわずかに汗ばんだ。ひさしの向こう側の日向に、一歩踏み出すのさえ僕は一瞬躊躇した。
そのときふと、少し離れた電信柱の狭い陰にあの目つきの鋭い黒白ねこがたたずんで、こちらをじっとうかがっていることに気づいた。僕とねことの距離はいつもよりもずいぶんと近い。黒白ねこは日陰にしっかりと腰をおろし、立ち上がる素振りさえ見せない。しっぽも体にぐるりと巻きついている。そしてにらむようにこちらを見ている。僕は目を細めて観察し、ねこが怪我をしていないかを探った。もちろん全身をくまなく確かめられたわけではないけれど、黒白ねこに怪我はなさそうだった。栄養失調気味でいくぶん痩せ、ところどころ体毛が薄くなってはいるけれど、少なくとも外傷は見受けられない。首輪はしていないけれど、おそらくどこかの飼いねこが迷子になったのだろうと僕は思う。帰り道を見失ってしまったのだろう。このアパートの前でよく見かけるのは、きっとこのアパートの住民がときどきエサを与えているからだ。ねこがこちらを見つめるのも、もしかしたらエサをもらえるかもしれないと計算を働かせているからだろう。試しにその場にかがみこんで、何かを握りしめているふうを装ったこぶしをねこのほうへ差し出してみると、黒白ねこは鼻をひくつかせてそれを凝視した。こちらに近づきこそしないけれど、その姿勢はいくぶん前かがみになる。僕は握りこぶしをゆっくりと開いて何もないことを示し、残念でした、と意地悪く微笑んでねこに語りかけた。黒白ねこは上目遣いに恨めしげな目を僕に向け、二三度鼻先を軽く舐めた。僕は立ち上がり、じゃあねとねこに声をかけてから近所のスーパーマーケットへと歩いていった。途中で振り返ると、ねこは静かにこちらをにらんでいた。
食材に膨らんだトートバッグを肩に提げて戻ってきたときも、黒白ねこは相変わらずアパートの前の電信柱の日陰にたたずんでいた。初めアパートの入り口のほうに視線を向けていたけれど、帰ってくる僕に気づくとまたにらむような眼つきでこちらを見つめた。僕は少しねこと遊ぼうかとも思った。でもカバンの中には牛乳やら生ものやらが入っているから簡単に声をかけるだけでその隣を通り過ぎた。部屋に戻り買ってきた食材を整理していると、そのなかにキハダマグロの切り身があるのを見つけた。刺身などで余った部位を寄せ集めたものだから安く売られていて、しかも夕方近かったから半額シールが貼られていたので使う予定もないのに思わず買った。僕はそのマグロを切り分けてラップに包み、すぐに使わない分をフリージングパックに入れて冷凍庫へしまった。そして余った分をさらに小さく切り分けて、手のひらに包んでこっそりと外へ持っていった。ねこはまだエントランスのそばにいた。僕はあたりに人がいないことを確かめてから、先ほどのようにその場にかがみこんで、おいでと言ってねこに手招きした。もちろんそんなことでねこがすぐに寄ってくるはずもなく、うろんげな視線を僕に送るだけだった。でも僕が握りしめたこぶしを差し出すと、疑いつつもねこはそれに興味を示した。また鼻をひくひくと蠢かせる。僕がゆっくりと手のひらを開くと、今度はそこに小さく切り分けたマグロの赤い切り身がある。ねこは目を見開いて、マグロと僕の顔を等分に見比べながら、小さな頭の中で僕に近づくことのリスクを必死で計算しているようだった。その葛藤の果て、黒白ねこはおそるおそるではあるけれどゆっくりと、僕に近寄った。絶えず僕の動きを警戒し、何か少しでも危険な兆候があればすぐにでも逃げ出せるよう意識をしながら、それでも僕に近づいた。僕の間近まで来て、そして手のひらの上のものの匂いを嗅いだ。そして一切れだけその切り身を食べた。その瞬間黒白ねこは僕を見上げ、まん丸に開いた瞳孔で僕を見つめた。そして勢いよく次の切り身をくわえ、夢中で咀嚼してすぐに飲み込み、また素早く次の切り身を口に運んだ。ねこはあっという間に僕の手のひらの上のマグロを平らげ、その血のわずかに残る僕の手のひらさえ名残り惜しそうに舐めた。紙やすりのようにざらざらした舌はくすぐったかったけれど、僕は我慢して好きなだけ舐めさせた。やがてそれに飽きるとねこはいそいそとまた先ほどの日陰に戻って腰をおろし、しっぽを体に巻きつけて僕をにらんだ。満足そうに鼻先を舐め、前脚の肉球を舐めた。
僕はそのままの体勢でしばらく黒白ねこを眺めた。体は痛々しく痩せ、左後ろ脚は膝の部分の毛が禿げてしまい薄いピンク色になっている。他にもところどころ毛が薄くなっている箇所がある。耳の付け根の辺りや、下腹部など。残っている毛皮も土に汚れ、艶もなくボサボサしている。それでもねこの立ち居振る舞いには一貫して堂々としたところがあって、野良のような粗雑さがない。人間に対する警戒心はあるけれど、それも徹底されてはいずにどこか甘い。頼るものとしての認識が根底にあるように見える。僕はますますこのねこが誰かのペットだったはずだという考えを強くした。ふと、このねこがユサの友だちのいなくなったねこならいいのにと思った。でもそれがありえないことは、昨夜のうちに送られてきたユサのメールに添付された画像からはっきりしている。ユサの友達のねこは虎斑の毛皮をしている、黒白ねこではない。
ユサの友達のねこの名前は「チーズ」という。どうしてそんな名前をねこに与えたのか僕は知らない、昨日ユサがねこの画像を送るついでにメールの本文でその名前を教えてくれたけれど、残念ながらその由来についてまでは触れていなかった。ユサが教えてくれたところによると、まわりの人たちは「チーズ」とは呼ばず「チーちゃん」あるいは「チー」と呼ぶそうだ。そしてねこのほうもそう呼びかけられれば寄ってくる。だからもし画像のねこに似たねこを見かけたら、試しに「チーちゃん」あるいは「チー」と呼びかけてみて、何らかの反応があればそのねこはいなくなった友だちのねこの可能性がある。ユサはそう書いていた。だから僕は目の前の黒白ねこにその名前を呼びかけてみた。もちろん反応はなかった、黙ってうろんげな視線をこちらに向け続けるだけだ。僕は思いつくまま、とある漫画に登場するねこたちの名前を呼びかけてみた。チビ。キャラウェイ。ラフィエル。ブチ。ホワイトフィールド。ヨーデル。モルド。グリン。たまや。ニャーニャ。チャーコールグレー。でもそのどれに対しても黒白ねこは反応を示さなかった。ただ黙って、咎めるように、上目遣いに僕をにらみ続けるだけだった。でも僕がふざけてクロシロネコと呼びかけた、その一瞬だけねこは些細な反応を見せた。白いヒゲをわずかに震わせたという、あるかないかの本当に小さな動きに過ぎなかったし、そもそもそんなものは名前とも呼べない。だから僕は真剣には取らなかった。ねこは相変わらず僕をにらみ続ける、本当の名前を見つけるよう促すみたいに。見つけられない僕を、なじるみたいに。
ふと、唐突に、このねこは新しい名前を求めているのではないかという思いにとらわれる。飼われていた家を飛び出したせいで、元の名前を失ってしまったのだ、呼びかけられて反応するべき自分の名前を、このねこは失くしてしまった。だから新しい名前を見つけてほしいとこのねこは訴えている。呼びかけられて反応するべき、自分の名前を。ねこのにらむような視線には、確かにある種の切実さが感じられる。何かを強く求めている確かな力がある。そしてそれは今僕に向けられている、僕が名前をつけることを求めている。僕はそんなことを思い、そして実際に何かいい名前がないかと頭を働かせもした。でも正しい名前はひとつも浮かびはしなかった。
悪いけど、君の名前を見つけてあげられそうにない。僕は小声でねこに語りかける。一応頑張ってみたつもりだけど、いい名前はなかなか思いつかないみたいだ。もし後で何かいい名前が浮かんだら、またそのときに伝えようとは思うけど、でもあまり期待しないでほしいな。僕は名前をつけるのが苦手なんだ、昔から。だから他の人に、たとえば君にエサをやってる人に、お願いしたほうがいいと思う。そして僕が言い終ると、まるでその言葉を理解したみたいに、ねこは体に巻きつけていたしっぽを解きどこかしらそわそわした足取りで駐輪場のほうへと去っていった。ねこの姿が見えなくなってから、僕は無意識のうちに右の手のひらを鼻先に持っていって匂いを嗅いだ。マグロの血の匂いが、かすかに残っていた。
部屋に戻って手を洗い、ようやくミルクティーを作って飲んだ。ローテーブルの上にノートパソコンを置き、ネットに繋いでメッセンジャーを立ち上げると「夜鷹」がいた。「こんばんは」と僕は話しかけてみた。「こんばんは!」とすぐに向こうから返事が来る。間を置かず、続く文章が届く。「作品は順調ですか? 後一週間で公開日です。思ってたよりもたくさんの方が参加してくれそうで、もうけっこう出来上がった作品が送られてきてます。きっと盛り上がります!」それに対して僕は言葉を返す。「作品はひと通り最後まで書き上がって、今はじっくりと書き直しを繰り返している段階です。一週間後には十分間に合います。夜鷹さんのサイトの掲示板の様子なんかを見ていても、いろんな人たちが書き込んでいて、にぎやかな企画になりそうですね。僕の作品もその手助けになればいいんですが」窓の外はわずかに夕闇が迫っていた。僕は簡単に夕食の用意を始めながら、ときどきパソコンの画面を覗き込んで返信がないかを確認し、それに対して文章を打つ形で会話を続けた。話題はその都度いろいろな方面に飛躍した、そのやり取りのひとつで、「夜鷹」はこんなことを言った。「キシさんの作品を読んでいると、僕は何となく落ち着かない気分になるんです。歯痒いというか、じれったいというか、語弊を覚悟で言えば、イライラさせられるんです」僕はその文章を読んで、先日の女の子の言葉を思い出した。主人公の男の子に対して、ツバメはもしかしたらイラついているかもしれないね。僕は棚からウィスキーの瓶を取り出してきてグラスに注ぎ、ひと口飲んで返事を書いた。「その指摘には心当たりがあります。でも僕は、もちろん読み手をイライラさせようと思って書いているわけじゃありません。その原因は僕自身にもよく分かっていないんです。一体何が夜鷹さんをイライラさせるんでしょう?」五分ほど間をあけて送られてきた夜鷹の返事は、特に僕を満足させる内容ではなかった。「ごめんなさい、僕にもうまく説明できないです。ただキシさんの書く作品を読んでいると、読んでいてその世界に触れていると、どうしようもなくそれを否定したい気分が湧いてくるんです。そうじゃないだろって気分になるんです。世界はそんなふうにはできていないんだぞ、って。でもそれを明確に、どのように間違っているかを説明することは今の僕にはできないみたいです。こちらから吹っかけておいて、申し訳ないですけど」
それを境に「夜鷹」との会話は疎遠になった。僕は冷凍しないでおいた分のマグロを粒マスタードを添えて焼き、それで夕食にした。時間をかけず平らげた後、パソコンを切るため暇乞いを言う前に、僕はひとつだけ「夜鷹」に訊ねてみた。「突然ですけどねこに名前をつけるとして、何かいい名前はありませんか?」三分ほどの沈黙の後、軽やかなアラームとともに「夜鷹」の返事が届く。「それって、キシさんの書いている小説に関わることですか?」僕は短く否定の返事をしてから、続いて簡単に説明する。「僕の住んでるところの近所によく見かけるねこがいるんです。黒白のねこです。別に必要に迫られてるわけじゃないんだけど、そのねこに何か名前をつけたいなと、ふと思ったんです。でも僕は生き物に名前をつけたことがたぶん一度もなくて、なかなかいい名前が浮かばないんです」再び三分ほどの沈黙を経てから、メッセンジャーのアラームが鳴った。「そうなんですか。僕はてっきり、キシさんの例のねこキラーの小説に出てくるねこの名前を考えているのかと思って、ちょっとドキドキしました(笑)。殺されるねこの名前を決めるのは気が重いですからね。それで、現実のねこの名前ということですけど、それならやっぱり現実にそのねこを見ているキシさんが名前を与えるべきじゃないでしょうか? 現実の何かを現実に見ないで名づけるのって、何だかチグハグな気がして僕にはできません。別にそんなに気合を入れて考えなくてもいいと思うんですよ、何となく、てきとーでいいんだと思います。チビでもタマでもいいんです。それでもやっぱり、どんな簡単な名前でもそれを与えるならその名前を使う人自身が選ぶべきだと僕は思います」そのいくぶん生真面目な返答は半ば予期していたものだったから、僕は特に落胆するわけでもなく、「その通りですね」という趣旨の返事を送った。退席の挨拶をしようと文章を打っていると、それを阻むように「夜鷹」から再び文章が送られてきた。「ねこキラーといえば、キシさんが一番初めに書いたねこキラーの出てくる短篇小説、タイトルはちょっと思い出せないんですけど、あの作品は僕にとって一番イライラさせられる作品だったように思います。何ていうタイトルでしたっけ?」
「雪と雪ねことねこキラー」僕は書きかけの文章を消してから簡潔に答える。「あの作品も、確か何かの企画で書いた作品じゃなかったかな、たぶん雪か何かがテーマの。投稿する前にある程度覚悟はしていたけど、でもやっぱり散々な評価でしたね、夜鷹さんも確かに結構酷評してた。イライラさせられる、というのは、何の罪もないねこが無惨に殺される描写にあるんでしょうか、それともねこキラーというキャラクターをあまりに美化しすぎている描写にあるんでしょうか?」僕の問いに、「夜鷹」は三分ほど間をあけてから答える。「そのどちらでもないと思います。確かに僕は暴力的な表現があまり好きじゃないし、何も悪いところのないねこが人間の勝手で殺されるということに、心穏やかでもいられません。でもそれは実際に起こっていることです、目を背けるのはフェアじゃない。それを物語として取り出すことにも何かしらの意味はあると思います。そして、そのねこキラーを美しい女性として登場させることに対しても、特に直截的な不満を持っているわけではありません。それが直ちにねこ殺しを礼讃しているわけじゃないことは、分かりますから。僕があの作品にイライラさせられるのは、そういう具体的な要因にあるわけじゃなくて、ひとつひとつの細かな描写にあるという気がします。中立的な、あるいは中立であることを装った文章の、殺されるねことの距離感、殺すねこキラーとの距離感、雪ねことの距離感、そういうところに僕は心を乱されるんじゃないかな。一番初めに最後まで読んだとき、『結局この文章は何が言いたいんだ?』と強く思いました。この物語はどこにもたどり着いていないじゃないか、と。あの作品を投稿してしばらくしてから、キシさんがねこキラーの長篇小説を書きたいと言っているのを見て、当然だな、というふうに思いました。だってねこキラーに関してキシさんはまだ何も書き切れていないんだから。それと、あの文章の距離感は長篇小説の舞台でしか埋まらないのかもしれない、とも思いました。長篇小説の膨大な文章の重みで、圧縮されるように、その距離感は縮まるのかもしれない。そんなようなことをぼんやりと期待していました。でもそれは、やっぱりとても難しいことだったようですね、いろいろな試行錯誤はあったみたいですけど、結局キシさんはねこキラーの長篇をあきらめざるを得なかった。それを機にキシさんが投稿する作品の量はめっきり減りました。そしてそれとは別に、いつの間にか『ぬー』自体もなくなってしまった。キシさんは自分のサイトも持たないし、他に作品を投稿しているサイトもなかったから、僕はもうキシさんの作品を読むことはできないんだな、と残念に思っていました。だからキシさんからメールが届いたときは、結構嬉しかった。そして僕が自分のサイトで計画していた競作企画に、キシさんがのってきたのも嬉しかった。ねえ、キシさん。キシさんが今書いている小説は、もしかしてねこキラーに関するものじゃないですか? いや、答えてくれなくていいです。というか答えないでくださいw 一週間後の楽しみにしておきます。もちろんその小説にねこキラーが出てこなくても、がっかりするわけじゃありませんけどね」
その後もう少しやり取りをして、僕はメッセンジャーをサインアウトしパソコンの電源を消した。ウィスキーを飲みながらドストエフスキーの小説を読み、そして眠りに就いた。
次回更新は6/15(水)を予定