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ねこキラーの逆襲  作者: AK
終章
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34   「旅」

 帰りのバスは午後三時に東京駅を出発する予定だった。前日に僕は矢崎が恋人と暮らすアパートの部屋でたくさんのお酒を飲んでいた。駅前の成城石井で矢崎のおすすめの輸入ビールを買い、僕は宿代としてカルヴァドスを買った。一足先に矢崎の部屋に戻った僕らふたりは、まずはビールで乾杯をして、簡単なおつまみから食べ始めた。本棚に整然と並んださまざまな種類の本を眺めたり、矢崎の大学時代の思い出などを聞いたりしながら時間を過ごした。矢崎の恋人が遅れて部屋に戻ってきた時には、すでにどちらもほろ酔い気味になっていた。改めて三人揃ってビールで乾杯をしてから、矢崎の恋人はキッチンで食事の支度をし始めた。途中から矢崎も加わりふたりであれこれと作っている様子を、僕は隣の部屋からカルヴァドスを片手にぼんやりと見つめていた。

 目覚めた時は朝の十時を過ぎていた。記憶がないけれど、いつの間にか僕はちゃんと布団で眠っていたらしい。食事をしていたリビングルームにスペースを設けて、そこで僕は眠っていた。隣の寝室では矢崎たちがふたり仲良く眠っている。喉が渇いたので、僕はキッチンへ行き水を飲んだ。流しの上の出窓から見える見慣れない風景を、珍しいもののようにじっくりと眺める。僕が起きだした気配に気づいて、まずは矢崎の恋人が布団を抜け出してきた。おはよう、と心底気怠そうに言って、同じように水を飲む。続いて、叩き起された冬眠中の動物みたいにむっつりとして矢崎が起きてきた。朝だね、と僕は言った。朝ですよ、と矢崎は答えた。

 矢崎のいれたコーヒーを飲んで一息ついてから、僕たちは身支度を整えて駅の方へと歩いていった。駅前のプロントでブランチを取って、少しおしゃべりをした。その中で矢崎はこんなことを訊ねた、「ねこキラーの逆襲」を、本当にコンピューターウイルスを使ってばら蒔くつもりはあるの? 僕はグラスの水をひと口飲んでから、それについて答える。僕にコンピューターウイルスを作る技術はないし、そういうことのできる知り合いもいない。だからそれを望んだとしても、そもそも実現できる状況にない。それでね、その上で僕はこういうことを空想している。矢崎にもそうしたように、僕は少数の知り合いに作品のデータをメールで送っていて、それをさらに別の人に送ることを許可している。つまり、僕の知らない人にも読んでもらえるチャンスがあるんだ。もちろんそれは細々とした、限定的な拡がり方でしかないけれど、それでも着実に読んでくれる人は増えていく。そしていつか、必要な技術を持った人がこの作品を読んで、作中に語られる企みに乗ってくれるかもしれない。その人は自作のコンピューターウイルスに「ねこキラーの逆襲」を添えて、世界中にばら蒔く。僕はそれを、第三者というのはちょっと変だけど、ともかく離れた位置から自分の預かり知らないこととして眺めている。

 犯罪幇助だよね、と矢崎は呆れた声を作ってつぶやく。え、僕も捕まっちゃうかな? とこちらも技巧的に心配する声を作って答える。どうだろね、とひとり本気か演技か分からないのんびりとした口調で矢崎の恋人は口を開く。もう少しだけふざけた雰囲気の会話を楽しんでから、矢崎は真面目なトーンに声を戻して自分の考えを僕に訊ねた。知らない誰かが作中の女の子にならってコンピューターウイルスで「ねこキラーの逆襲」を放流する、それも女の子の表現のひとつということなのかな? 僕は大きなガラス窓の向こうの人通りを見つめながら、静かにそれについて考えてみた。自分の中で出された答えを、口に出すことはなかったけれど。

 駅でふたりと別れて、私鉄に乗って東京方面へと戻る。別れ際に交わしたまた会おうねという約束を、きっと遠くない未来に果たすだろうと確信して僕は電車に揺られる。山手線に乗り継いで東京駅まで着いたとき、まだ時間に余裕があったから通りがかりに見つけた喫茶店でコーヒーを飲んで時間を潰す。名古屋に戻ってから、夕食をどうしようかと考えていると、テーブルの上に載せていた携帯電話が振動を始める。ユサからのコールだった。

 もしもし、と僕は勢い込んで電話を取る。やっほー、とこちらは全く気負いのない声で懐かしいユサの声が聴こえる。お久しぶりだね、長くて一ヶ月とか言ってたのに三ヶ月も音信不通で悪かったね、心配した? 僕は心をこめて、本当に心配してたよ、とユサに伝えた。残酷なほど無邪気な笑い声が返ってきた後で、ユサは言った。ゴメンよ、思っていたよりもずっと「旅」が長引いたから。まあ「旅」と言っても、本当にどこかへ出かけてたわけじゃないんだけどね。ねえ、今自宅にいるの? ユサの謎かけはとりあえず無視して、今は東京にいると僕は答える。でも、これからバスで名古屋に帰る予定だから、夜にはそっちに戻ってるよ。ユサはわざとらしく驚いた声で、東京? と繰り返した。そうだよ、と答えて、友人の家に遊びに行ってきたと伝える。友だちなんていたの!? とさらにふざけた調子を強めてユサが言うのを、表面上は面倒臭そうに受け流しつつ、でも僕はとてもほっとした気分で聞いていた。二度と会えなくなることもありうると覚悟していたユサが、以前と変わらない態度でいることが、僕には嬉しかった。そしてユサが誘い出す言葉を、なくしていた宝物のように僕は受け取った。じゃあさ、帰ってきたらそっちから電話くれる? またあそこのバーでお酒を飲もうよ。僕はもちろん賛同した。電話を切りそうな気配のユサに、ひとつだけ訊いていいかな? と呼びかける。この三ヶ月間、どこへ行ってたの?

 それについては、まあお酒を飲みながら詳しく話そうと思ってたんだけど、と言い淀みながらも、結局はユサは僕の問いに答えてくれる。とりあえず簡単に言えば実はあたしは別にどこにも行かないで自宅に引きこもってたんだよね。

 どうして? 驚いた僕は、ひとつだけという約束も忘れて再び訊ねる。

 まあ、「旅」といえば「旅」なんだよ。気持ち的にというか精神的にというか。ねえ、笑わないって約束する? 電話を通して笑われても、殴れないからさ。でも笑わないんなら、今教えてもいいんだけど。僕は、笑わないよとでまかせを言った。それを信じたかどうかは分からないけれど、ともかくユサは教えてくれた。あのね、あたし、ずっと漫画を描いてたんだ。

 はあ!?

 だから漫画だよ、漫画。なんだよ、笑わないって言ったから教えてやったのに、そういう態度を取るわけ? 絶対今日殴るから、忘れんなよ。

 いや、笑ってないよ、と僕は半笑いで答える。でも、え、漫画? どうして? ユサって漫画、というかイラストとか描くんだっけ? そんなこと聞いたこともないんだけど。

 言ってないからな、とユサは言った。短大の時も「それいゆ」の時も、趣味的にずっと描いてたんだよ。恥ずかしいから「それいゆ」のメンバーにも見せなかったけどね。割と子どもの頃から、絵を描くのは好きだったんだ。漫画系のイラストだけどね。いつか漫画家になりたいって、子どもの頃は思ってた。もしかしたら、「それいゆ」にいるときも、心の隅ではずっとそう思ってたのかもしれない。それで、こういうことになって、ちゃんとひとつの作品を作ってみようって気になった。どこかに投稿するとかはまだ考えてなくて、そういうのとは別に、ちゃんと頑張ったらどういうものができるのかを知っておきたかったから。それが、予想以上に時間がかかって年の瀬近くまで幽閉状態だったんだよ。ようやく解放されて、携帯電話も復活した。とりあえずこれからどうするかとかは考えてないんだけど、まあ記念ということで、ちょっとお酒でも飲もうってわけ。

 その漫画を読ませてくれるの?

 笑わないならな! とユサは答えた。そして少しだけ笑った後で、じゃあこっちに着いたら電話をちょうだいと言って電話を切った。通話の切れた携帯電話で時刻を見ると、バスの時刻が近づいていた。僕は会計を済ませて店を出て、バスの停留所へと急いだ。すでにバスは待機していて、大方の乗客はすでに手続きを済ませて座席に座っていた。バインダーにチェックリストを挟んだ乗務員に僕は自分の名前を告げ、バスに乗った。指定の座席の隣にすで腰を下ろしている若い男にお詫びを言って、上部の荷物置き場にカバンを載せてから窓際の席に着く。ポケットから取り出したiPodで、「それいゆ」の楽曲を聴く。窓の向こうに見える駅前の光景を、ぼんやりと眺める。

 いつの間にかバスが動き出している。車内放送を始めたようだったので、一時的にイヤホンを外してそれを聞く。予定通り運行されれば、名古屋駅には九時前に到着するとのことだった。僕は再びイヤホンを付けて、「それいゆ」の楽曲に戻る。バスのエンジン音に紛れて、そこにあるユサのベースの音は見つけづらい。でもそれは、確かに楽曲全体の構造を支える役割を果たしているはずだ。その音が取り除かれてしまったわけではない。仮にユサが二度とベースを手にしなかったとしても、この記録媒体に残された低音は、いつまでも再生されることを待ち続けているだろう。

 何かが終る。でも新たな何かが始まる。全てがその連続だといいのだけれど、と僕は思う。僕の最初の「旅」は終った。そのことを、僕は振り返って自分の足跡を目にすることで確かめられる。ずいぶん遠いところまで来たと僕は思う。きっと予測もしていなかった場所に僕はいるのだろう。思いもよらない出来事に出くわしたし、思いもよらない人にも会った。今でも僕は、全てをよく飲み込めているとは言い難い。それらが全て了解される日が、本当に来るのだろうか?

 充実した疲労感が僕の肩にのしかかっている。そのうちに僕は眠りに落ちてしまうだろう。眠りと覚醒の間を行ったり来たりする状態で聴く「それいゆ」の楽曲は、不思議な引き伸ばされ方をして僕の耳に響くはずだ。それを予感しつつ、僕は薄く開けた目で窓の向こうを見つめる。いろいろなものが通り過ぎていく。それらは二度と僕の前に現れないかもしれない。どこかへ行くということは、誰かと会えなくなることだ。そして、新しい誰かと会えるということ。「旅」の行方は誰にも分からない。それが現実パートであれ幻想パートであれ、僕たちが真剣に前に進む限り、どこにたどり着けるかなんて誰にも分からない。

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