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ねこキラーの逆襲  作者: AK
終章
44/45

33   「ねこを傷つける少女」

 東京行きの夜行バスの車内で、もう何度も読み返したその手紙をカバンの中から取り出し、読むというわけでもなくそこに書かれた文字を見つめる。最初の衝撃こそ弱まったものの、僕は今でもその手紙を見ると心を揺すぶられる思いがする。もちろんそこに書かれた内容にも胸を掻きむしられるような切実な印象を与えられるけれど、それにも増して、僕はそこに書かれた文字そのものに猶予のない直截的な悲しみを味わう。エミリー・ザ・ストレンジの便箋に手書きで書かれたその文字は、その年齢の女の子によくある丸っこさの字体で、僕の記憶にある老成とした女の子の印象を、あっさりと裏切るものだったから。少し画数の多い漢字になると、辞書を片手に書いたことがあからさまなほどのバランスの悪さだ。それは無理をしたひずみのように際立って目に留まる。文字の拙さというよりも幼さは、全体的な悲惨さを何よりも強調しているように僕には思えた。

 十一月の終りに僕は小説を完成させ、あまり多くない数の人にそのデータを送った。唯一返事がなかったのが、あの女の子だった。もちろん女の子とはあれ以来ずっと音信不通だったから、そのメールが届いていることも期待していなかったけれど。でもその返事はとても意外な方法で届けられることになった。それが、十二月の中旬で、今からちょうど一週間前のこと。

 大学からアパートへ戻り、郵便受けにその封筒が投函されていることに気づいた。赤と黒を印象的に配色したそのデザインに、すぐにそれがエミリー・ザ・ストレンジのモチーフであると分かった。実際にそこには、黒ねこを従えてあぐら座りでこちらを睨みつける、エミリーのイラストがプリントされている。その封筒を使用している時点で、僕にはこの手紙が誰から送られてきたものなのか、もう察しはついていた。差出人の名前がないことは問題になるどころかむしろ確信へと導いた。僕の部屋にはエミリー・ザ・ストレンジの本が幾冊かあり、女の子もそれに興味を示していた。エミリーが従えている四匹の黒ねこの、名前を憶えるくらいにのめり込んでもいた。いつも無表情でシニカルなエミリーというキャラクターを、女の子がどういう目で見つめていたのか、察しがつく。

 バスの中でもう一度だけ読み通してから、灯りを消して支給された薄い毛布を頭までかぶる。短く不十分な眠りを繰り返して、明け方頃に新宿駅に到着する。頭上の棚から荷物を下ろす乗客たちはみな一様にあくびを噛み殺し、鈍い目つきで窓の向こうの新宿駅の様子を眺めている。僕もそれほど多くない荷物をまとめ、バスを降りる。まだ夜中のようにあたりは暗い、それでもすでにたくさんの人間が駅周辺を歩いている。僕はあらかじめ調べておいたスパ施設の方向に歩き始める。大浴場で汗を流し、仮眠室で昼ごろまで眠った。目覚めると、携帯電話に矢崎からのメールが届いていた。「時間通りに着けそうです、そちらはどう?」僕はさっそく返信する。「新宿駅にはもう来てるから、こっちは大丈夫。待ってるよ」

 待ち合わせの場所に、矢崎は恋人と一緒に現れた。小柄な女性で、好奇心の強そうな目をしている。簡単に自己紹介をしてから、わたしも「ねこキラー」を読んだよ、と教えてくれた。お礼を言って、読みにくい小説でゴメンなさいと自虐めかして言うと、自然な動作で首を横に振って、読み始めたら一気に読んじゃったよ、とのんびりとした印象のしゃべり方で言った。積もる話もあると思うから。矢崎が冗談っぽく口を開いて、提案する。とりあえず、どこかお店に入ってお昼ご飯を食べようよ。こんなところに突っ立っておしゃべりを続けるのもなんだしね。そして先導するように駅のレストラン街へと歩いていった。

 並ばずに入れたレストランでランチを食べながら、「ねこキラーの逆襲」についての話をした。矢崎よりは、むしろ彼の恋人の方が積極的に質問をした。小説の中の「女の子」は、実在する誰かをモデルにしてるの? そう訊かれて、僕は首を振った。全部僕の空想です。サラダをつついていた矢崎が嬉しそうに僕に言った。じゃあ「夜鷹」は? 僕は笑いながら、あれも僕の空想、と答えた。そして三人で笑った。

 店を出てから、別の駅に向けて電車に乗った。名古屋とは比べ物にならない密度の人ごみに圧倒される僕を、ふたりは適切に導いてくれた。混みあった車内で、矢崎は僕に勤めていた会社を辞めたと伝えた。何か理由があって? そう僕が訊ねると、どうしてもやりたいことがあったから、と真剣な眼差しで窓の向こうを見つめながら矢崎は答えた。少し離れたところに立っている彼の恋人は、聞いているのか聞いていないのか定かでない表情のまま、静かに同じ窓の向こうを見つめていた。これからが頑張りどころだね。僕は正直言って答えに窮して、そうつぶやくのが精一杯だった。矢崎は力強くうなずいて、本当にね、と決意を込めて言った。僕はあいまいにうなずいて、その場を切り抜けた。

 何度か乗り換えをしてたどり着いた駅の名前は、改札を抜けた頃にはもう忘れてしまっている。導かれるまま歩いていく先に、背の高い建物と建物の間に挟まれて建つ、無機質なコンクリート造りのビルがある。重いガラス製のドアを押して中に入ると、地階へと続く階段にはすでに行列ができている。矢崎は僕にチケットを渡す。そこにプリントされた小さな活字を見るには、この場所は暗すぎた。僕は矢崎に、すごい人だね、と感心して伝えた。意外にも矢崎のほうも驚いたみたいに返事をした。本当だね、いつもはここまでじゃないよね? 呼びかけられた恋人も、そうだね、とどこかのんびりした口調で返す。がやがやと話し声に満ちた狭い階段で、むしろ僕たちは黙りがちに順番を待っていた。ようやく受付のところまで来た時に、係の人は矢崎の恋人を認めて嬉しそうに声をかけた。来てくれたんだね! 嬉しそうにおしゃべりを続けるふたりの様子を示しながら、もともとここの劇団に参加してたんだよ、と矢崎は僕に教える。役者としてじゃないけどね。別の係の人に自分のチケットを渡してから、僕はさらに続く階段を降りて矢崎たちを振り返る。おしゃべりに加わった矢崎を含めた、三人の姿が少し離れた位置に見える。

 パイプ椅子の並んだ観客席の、三人並んで座れる場所を見つけて僕たちは腰を下ろす。椅子の上にはたくさんのパンフレットがまとめて置かれ、他は別の演劇の宣伝だったけれど一番上は今回の演劇の内容が書かれたものだった。他のものはまとめてカバンの中にしまって、僕はそれを手に取り目を通す。あらすじを読む限り、今回の公演は過去に日本で起こったある原子力事故に題材を取った演劇ということだった。いつもはそんなにシリアスな演劇はやらないんだけど、と隣に座る矢崎がささやく。今回のは、結構重い内容なんだって。でも彼らの自信作には変わりないから、きっと楽しめると思うよ。僕はまた、あいまいにうなずくことで返事に替えた。

 劇が始まってからは、もちろん僕たちはそれぞれに黙って目の前で繰り広げられる芝居に向き合っていた。それでも僕は、ときどき逃げるように目を逸らして、隣に座るふたりの様子をこっそりと覗き見た。そういうときは、だいたいにおいてふたりとも目頭を抑えていたりハンカチを口許に押し付けたりしていた。僕自身はそれを見ることで何とか体勢を立て直していた。舞台上のひとりひとりの役者の鬼気迫るほどの研ぎ澄まされた演技と、巧みな演出、そしてそれが事実であったという無言の迫力に、僕は圧倒される。二時間を超える公演を、少しも長いと感じずに最後まで引き込まれたまま過ごした。それは明らかに素晴らしい演劇だった。頭の中にたくさんの新しいものを詰め込まれたみたいに、身体の疲労と対照的に僕の心は満たされていた。幕が引けて、ざわめく会場の中で帰り支度を始める人たちが出てきたころになっても、僕はまだ身じろぎもせず空っぽの舞台を見つめていた。

 すごいものを見たよ。せっせとアンケート用紙に感想を書いていた矢崎に、僕は心からそう言った。まさかこんなに素晴らしい劇が見られるなんて思わなかった。すごい人たちを知ってるんだね。一心に鉛筆を走らせているのを止めて、矢崎は心持ち充血した目で僕を見つめて感じ入ったような声で答える。今日のは特別すごかったよ、僕もここまですごいとは思わなかった。彼らもどんどん進化してるんだね、見習わなくちゃ。矢崎の恋人も、短く洟をすすりながらそれでもどこかのんびりとした印象の声で、そうだね、わたしもそう思うと同意していた。

 矢崎の恋人は公演を終えた劇団の人と少しお話をしてくるということで、劇場に残った。僕と矢崎は一足先に彼の住居に引き上げ、夕食の準備に取り掛かる、ということで話は決まる。先程電車を降りた駅まで歩いていき、そこからまたいくつかの路線を乗り継いで、隣県にあるという彼のアパートへと向かう。地下鉄や私鉄を使い分けながら移動しつつ、僕と矢崎は散発的にいろいろな話題について話をした。最近読んだ本のこと、面白かったバーについて、ノベルワーク時代の小話、卒業論文の内容、美味しいコーヒを飲める店。切れ切れに、短く話題を巡った後、最後の乗り換えで郊外へと伸びる私鉄の電車に乗ったとき、矢崎は用意していたように新しい話題を僕の前に提出した。リレー小説について。

 結局のところ、数回の往復で止まっちゃったよね、と矢崎はニュートラルに言う。その張本人である僕は、とりあえずは小さくなって謝るしかなかった。矢崎はこだわりなく笑って、そちらのせいだけじゃないと思うよ、と僕をフォローした。途中まではすごく面白かったんだけどね。お互いどこか喧嘩腰で、ものすごい危険球を常に相手に投げつけてた、そんな印象だった。どちらも一歩も譲らなくて、それぞれに自分のスタイルの展開を重ねて行って、ちぐはぐなはずなのに何か妙に力強い進み方をして。割とリレー小説の醍醐味は味わえてたと思う。まあ、ここで満足するわけじゃないけど。さっさと続いを書いて、こっちにボールを渡してくれよな!

 努力するよ、と僕は答えた。それは、そう答えるので精一杯だったから。それでも矢崎は、満足そうに二三度うなずいて、待ってるよ、とだけ僕に言った。いつか送ってくれればいいよ。僕は冗談めかして、じゃあ三年後、と矢崎に答えた。もうちょっとやる気だそうよ! 矢崎も笑いながらそれに応じた。

 リレー小説の中でも、ねこを傷つける少女を登場させたよね。お互いの笑いの余韻が薄れた頃合を見計らって、矢崎は少し声のトーンを落として訊ねた。「ねこキラーの逆襲」に登場した、名前のない女の子とはまた少し印象の違う人物だけど。それは、何か理由があってのこと? 僕は「ねこキラーの逆襲」を読んで、そういう主題はもう書ききったんだと思ってた。だから僕たちのリレー小説にああいう人物が現れて、驚いたというか、ドキっとしたというか、こっちの世界にまで来やがったなって、そういうふうに思った。別に嫌がってるわけじゃないんだけど、何となく腑に落ちない気分だった。そのへんは、どうなんだろう?

 僕は窓の向こうの、見慣れない都市風景を眺めながらそれについて考えた。答えはすぐには出ない。でも僕は、ひとつひとつ確かめるようにして言葉を作っていった。それを矢崎は、注意深く聞いていた。

 まず、例えば僕が、これからもねこキラーというモチーフを使った小説を書き続ける、ということはきっとないよ。そういうこだわり方をしているわけじゃない。あのリレー小説で僕がねこを傷つける少女を登場させたのは、もちろん「ねこキラーの逆襲」の余波というか、惰性が働いたのは確かだと思う。それをあえてそのまま、生の形で採用したのは、純粋に面白がってというのが一番近い。そういう意味では、リレー小説の少女もねこキラーの一種とみなすことができる。雰囲気は違うかもしれないけれど、根底にあるものは同じはず。僕は、「夜鷹」にねこキラーの少女を書いて欲しかったんだと思う。「夜鷹」は僕とは正反対の小説を書く人だし、僕とは違うものを表現できる人だから。僕はきっと、僕以外の誰かにあの少女を書いて欲しかった。そう言うと、誰でも良かったみたいに聞こえるかもしれないけど、そうじゃない、それをやってもらえる相手として、「夜鷹」は面白いって思ったから、僕はリレー小説にあの少女を書いたんだ、「夜鷹」に無理やり書かせたんだよ。罠にかかったね!

 冗談っぽく付け加えた最後の言葉に、矢崎は反応しなかった。じっとうつむいて、何かを真剣に考えている態度を示していた。電車が揺れ、レールの響きがやや高いピッチへと変わる。電車は鉄橋へと進入していた。大きな河が窓の向こうに拡がる。早くも傾き始めた西日が、幅広くその川面を照らす。その美しい反射と、すでに遠くなりつつある都心部の霞んだ高層ビル群が、対の印象を僕に与える。鉄橋を渡り切り、またレールの響きが元のピッチに戻った頃、矢崎は口を開いて自分の意見を述べた。

 「ねこキラーの逆襲」の終わりごろに、同時にたくさん存在する別々の顔、という章があるよね? そこで出てくるアイディアとして、文字通り名前のない女の子をモチーフにしたたくさんの顔、イラストが同時にひとつの場所に集められるというものがある。つまり、作者の手を離れたたくさんの第三者による名前のない女の子の表現だ。さっき言ってたことは、それと繋がってるんじゃない? 僕や、僕以外の誰かにあの少女を書いてもらうこと。それはきっと、文章でもイラストでも、あるいはそれ以外の何かでもいいんだよ。ひとつでも多い数で、あの女の子を表現すること。その企みのひとつとして、僕たちのリレー小説にもねこを傷つける少女を登場させた、そういうことじゃないかな?

 そうかもしれないね、と僕は感心して言った。

 ひとつだけ気になることがあるんだよ、と矢崎はまた、声のトーンをやや落として話を続けた。「ねこキラーの逆襲」の中で、そのアイディアは当の女の子が言い出している。そして、もしそれが実現すれば、自分の勝ちだって、高らかに宣言もしてる。でも、本当にそうなのかな? 物語の前半、まだ女の子が「クロ」と名乗っていた時に、メッセを通して女の子は、自分は絶対に匿名的じゃないって、すごく怒ってた。でも、いろいろな顔が同時に存在して、たくさんの可能性に包まれるっていう状況は、匿名性とほとんど変わらないんじゃないかな? つまり、女の子は女の子として存在していてさ、その上で無数のアバターが作られるって、それだけのこととしか思えないんだよね。それがどうして女の子の勝ちになるのか、僕には分からない。初めから、女の子が存在していないなら話は別だけどさ。

 僕は何も答えなかった。

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