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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第11章   ──模倣された「アイスパレスの王女さま」 ──
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32   「推定無罪」

 最初、僕は目の錯覚だと思っていた。でもそれが、次第に数を増やしていくことで単なる見間違いなどではないことが理解された。それはアスファルトの地面に同化して、見えたり見えなかったりを繰り返している。わずかに風景が歪むことで、そこに小さな塊としての透明な何かがいるような感覚。それは女の子を先導するような形で、いつの間にか僕たちの少し前を移動している。強風で僕たちが少しの間立ち止まると、やや遅れてそいつも立ち止まり僕たちを待つ。風が収まり手を繋いだ女の子と佐伯ちひろが歩き始めると、また先導する形でいそいそとそいつも動き始める。その存在に気づいて僕が目を凝らしていると、同じような別の何かが女の子と佐伯ちひろの右手のところを移動していることにも気づく。左手の、もう少し後ろの方にももうひとつ。それらは独立した動きで、でも僕たちに歩調を合わせる点では一致して、導くように僕たちと同じ道を進んでいる。正体を確かめようと左手を行くやつに近づいてみると、そそくさと足を速めて前の方に進み出て僕との距離を開けてしまう。重心の低いその動きに、僕は喚起されるものがあるような気がする。それについて考え詰めていると、いつの間にかもっと多い数の透明な何かが、僕たちの周りを囲むようにして歩いている。そこでようやく、僕は思い当たる。こいつらは雪ねこだ。もちろん今は雪なんて降っていない。彼らのことを書いた「雪と雪ねことねこキラー」では、このように記述もしている。雪ねこは雪そのものの質感で、淡く白い。それに対して僕たちを囲む雪ねこたちは、無色透明でわずかに風景を歪ませているだけ。でもその輪郭は、そうと思ってよく見てみればねこのものだし、足音を忍ばせて歩くその仕草も、ねこのそれに一致している。そしてそれにも増して、僕は彼らが僕たちを取り囲んで、邪魔するというわけではなく同じように歩いている状況に、雪ねこらしさを感じる。作品の中でねこキラーを取り巻いて後に従った、その光景を目の前で再現されているように僕は受け取る。その延長として、丘の上の神社まで続く長い坂道の始まりにある「木陰」という喫茶店を、あの作品のラストシーンに登場する喫茶店に重ねて僕は見つめる。早く出ていかないか! とねこキラーに怒鳴りつける、老店主の声が頭の中で再生される。

 可愛いお店だね、と佐伯ちひろも喫茶店に気づいて、女の子に教える。ねえ、朝ご飯あそこで食べない? 女の子は拒否の反応を示して、もうキシの家で食べたからと伝える。じゃあ、帰りにお昼ご飯で寄ろうか。佐伯ちひろが諦めずそう提案するのへ、女の子は肩をすくめて対応する。女の子も佐伯ちひろも、確かにその喫茶店に目を向けていた。同じようにその瀟洒なつくりの喫茶店を眺める僕の目には、新たな雪ねこが、その建物の真正面からこちらに向けて歩いてくるのが写っていた。それなのにふたりは、それに対する反応らしい反応を見せなかった。気づいていないのか、あるいは見えていないのか? その新たな雪ねこが他の雪ねこたちの輪に加わる、その瞬間を見定めたように女の子は止めていた足を動かして、長い坂道を登り始める。手を繋いだ佐伯ちひろが体を寄せるようにして付き添い、そして雪ねこたちは無音でその後を追う。その様子を麓の位置から見上げると、素早い速度で流れる濃い灰色の雲がとても近いところにあるように感じる。頂上の雑木林は、まるでその雲に樹々のてっぺんを突き刺しているようにさえ見える。黒ずんで見える雑木林は、以前見たときの印象よりもさらに排他的な印象を僕に与える。今からそこへ向かわなければならないんだ、という想念は僕の肩の上に疲労感をのしかからせる。結局のところ、僕に選択の余地はないのだけれど。

 丘の頂上近くに来る。見下ろす形に遠くまで拡がる街の風景は、死に絶えたように静かで動きがない。それでも建物の隙間から辛うじて幹線道路が見える部分を見つけると、そこだけ車の動きがささやかな血流のように流れているのを確認できる。その流れが、ふいに緩やかになり止まる。近くに信号機があるのだと僕は了解する。強風に、そしてそのうちには暴風雨に耐えることになりながらも、忠実に自分の任務を遂行する信号機。風に揺れる信号機、と女の子は言った。改めて僕は、その言葉に惹きつけられる思いがする。当の女の子は、佐伯ちひろを導いてさっさと境内に向かう雑木林の隙間のような細道へと進んでいる。雪ねこたちはバラバラに、その踏みしめられた道よりは林内部の樹々の隙間を縫うようにしてその後を追いかける。僕はもう一度だけ眼前に広がる市街地の眺めを確かめてから、その小暗い道へと入っていく。樹々のざわめきが、脅しつけるようにものものしく僕たちを囲む。それでも攻撃的な風の唸り声は、雑木林に阻まれることで弱くなる。それは別世界での出来事のようによそよそしく僕の耳に届く。晴れ間でも薄暗い雑木林のトンネルは、不思議な暗がり方を示す。細部を細かく見分けられるほどの明るさはあるのに、必要以上に暗い印象を与える。樹木は稠密で、いつの間にか視界は遠近の樹幹によってほとんどを遮られている。林の向こうに何があるのか、うかがい知ることができない。確かに以前にここへ来た時も同じ印象を受けたけれど、と僕は思う。でも、ここまで極端に密だっただろうか? そして以前の印象であれば、すでに古びた鳥居が現れて境内が見通せてもいいはずなのに、相変わらず樹々の重なり合いとしてしか前方の視界は開けない。あまりに長すぎる。だとすれば、この道は以前僕が通った道とは別のものなのだろうか、そう思い始めた頃、ようやく現れた境内入口の鳥居は確かに僕が以前くぐったものと同じものだ。褪せた朱色の塗料がところどころ剥げて、木目の見える古い鳥居。そしてその先に広がるささやかな境内。頭上が開けてまた風の音が強くなる。林の隙間から境内に出た雪ねこたちは、弾むように駆けて境内で陣形を取るように散らばって位置を占める。女の子と佐伯ちひろは、境内中央まで進み出てそれぞれに四囲を見渡す。未だに繋がれたままの手が、僕の心をかき乱す。

 ここにはいつも、野良ねこが集まってる。僕に背を向けたまま、小さくつぶやく女の子の声が何故か風の音に紛れることもなくしっかりと僕の耳に届く。さすがに今日は、どこかもっと安全なところに隠れてるみたいだけど。でも、もしかしたら林の中にいるのかな。そう言って林の方へ歩いていこうとするのを、手を繋いだ佐伯ちひろは立ち止まって抵抗する。女の子は振り返って佐伯ちひろを睨んだけれど、佐伯ちひろが何かをささやくのを聞いて、本意ではないようだけれどもまた佐伯ちひろのそばに戻る。佐伯ちひろに導かれて、ふたりはお堂の石段に並んで腰をかける。向かい合う形になった僕は、何となくふたりの隣に座るわけにもいかず、距離を置いてふたりの前に立つ。おどしつけるような樹々のざわめきを背景に、ちゃんと届くようにやや声を張り上げて僕は女の子に訊ねる。ここへはよく来てたの? 女の子は不機嫌そうに細めた目で僕を見つめて、たまにね、とだけ答える。ねこと遊びに来てたんだよね、と隣の佐伯ちひろが何故かからかうように言うのを、睨む目つきで返して繋いでいた手を振りほどくように離す。佐伯ちひろはくすくすと笑ってから素早く視線を僕に向け、キシさん穴掘りはお好きですかと平然とした声で訊ねる。どうだろう、最近穴掘りなんてしないから。僕の答えに佐伯ちひろは背負っていたリュックサックを肩から外して体の前に置き、その中を探りながら返事をする。わたし、スコップ持ってきましたから一緒に穴掘りしましょう。ちゃんと埋めてあげるんです、大きめの穴を掘らなくちゃ。あ、中覗いちゃダメですよ! サプライズがあるんですから! 別にリュックサックの中身を覗こうとしていたわけではなかったけれど、佐伯ちひろがその中身を僕に見せないようにわざとらしく身じろぎするので、一歩後ろへと引き下がる。佐伯ちひろは嬉しそうに含み笑いをして、リュックの中から銀色のスコップをふたつ取り出して僕に示す。お好きな方をお使いください。その言葉とは裏腹にふたつとも同じものにしか見えないスコップの、右手で差し出された方を僕は受け取る。じゃあわたしはこっちで、と左手で持ったスコップを佐伯ちひろは小さく振ってみせる。リュックサックの口を閉じて石段の上に寄せ、立ち上がると僕をお堂裏の空き地へと導く。目前に迫る雑木林と、木材などが立てかけられた朽ちたお堂との隙間のスペース。常に日陰になるらしく湿っぽい土に、生える雑草は丈の短い弱々しいものばかり。音も立てずに数匹の雪ねこが手前側と奥側から姿を見せ、その後で女の子もついてくる。佐伯ちひろは僕にというより女の子に対して、ここに穴を掘って埋めましょう、と提案する。僕も女の子も何も言わなかったけれど、佐伯ちひろはしゃがみこんでスコップを地面に突き立てて土を掘り起こす。僕も隣に並んでそれに加勢する。ザクザクと土を切り裂く音と風の音が入り混じる。少し離れた位置から黙ってその様子を眺めている女の子は、同じようにたたずむ雪ねこたちの親玉みたいだ、と僕はふと思う。こちらを見つめるものとしての存在感が、どこか似ている。目を閉じれば、そこに本当にいるのか疑わしく思えてしまう気配の薄さも。でももちろん、女の子は雪ねこたちとは違う。例えば女の子は、僕に向かって声をかける。

 前に、殺されたねこを土に埋めたって言ったけど。僕は手を止めて女の子を振り返る。僕と目が合って、苛立たしげに視線を逸らしたけれど、女の子は言葉を続ける。本当はウソ。あたしはねこの死体を見つけても、逃げることしかできなかった。土に埋めてあげたいって、思ったよ。ハエやアリにたかられて、じわじわ腐っていくなんて、可哀想だって思ったから。地面の下で、ゆっくり眠って欲しかった。でも、あたしには死んだねこに触ることができなかった。怖くて、気持ち悪くて、どうしてもその勇気が持てなかった! 逃げて、家に帰って、でも忘れることもできなくて、殺されたねこの姿がずっと頭から離れなくて、あたしが埋めてあげなかったせいで、あのねこは死にきれなくて、ゾンビみたいに街をうろついてるんじゃないかって、バカみたいなことも考えて、それを冗談にもできなくて。ねえキシ、見えるよね? 雪ねこたちが今もあたしたちを囲んでいるの、見えるよね? この子たちは何も言わない、言えない。怒りもないし、他の感情もない。それなのに存在し続けなくちゃならない、きっと永遠にここにいて、この子たちは天国にも行けないんだ。誰のせい? 雪ねこなんてものを書いた、キシのせい? 殺されたねこをちゃんと埋めてあげなかった、あたしのせい? どうしたらこの子たちは、あたしの目の前から消えてくれるの!?

 最初の静かな語り口から、段々と感情的になって最後にはガタガタになったと僕は感じた。これまでに何度か感情的になった女の子の姿は見たけれど、ガタガタになった、という印象はこれが初めてで、僕は内蔵がすっぽりと抜き取られたような虚無感に似た何かに全身を覆われた。佐伯ちひろはスコップを置いて立ち上がり、女の子のそばまで行くと優しくその体を抱きしめる。女の子の顔を隠すように両手で頭を支え、あやすような穏やかな声でささやく。ノゾミちゃんはいろんなものが見えすぎてるんだよ。見なくていいものまで見ちゃうから、辛くなる。だからノゾミちゃんは、見ない努力(・・・・・)をするべきなんだ。勝手に目に映るものは、拒否しよう。大丈夫、そのやり方なら、わたしが教えてあげるから。

 女の子は密着する佐伯ちひろとの間に両手を押し込んで、そのまま前に押し出す形で佐伯ちひろを離れさせる。予期に反して女の子は泣いていなかった。乾いた瞳を疑わしげに睨みつける形にして、間近に佐伯ちひろを見つめて訊ねる。本当にやるの? 佐伯ちひろはコミカルに肩をすくめて、どうして? だってもう穴だって掘っちゃったし、やろうよ、と答える。そしてまた僕の隣に戻ると、しゃがみこんでシャベルを手に土に向かう。再開された穴掘り作業を、女の子は睨みつける目つきを変えず見守る。僕はシャベルで掬った土くれを、近くにいる雪ねこに投げつけてみる。でも雪ねこは避ける動作はしなかったし、土も雪ねこをすり抜けて背後に散らばるだけだった。振り返って女の子の反応を確かめたかったけれど、土の硬い部分に突き当たって両手で握ったシャベルを振りかざした佐伯ちひろが、僕に話しかけることでそれを遮る。キシさんは、ねこを殺したことありますか? 勢いを込めて振り下ろされた銀色のシャベルが硬い土に突き刺さる、そこからさらに力を込めて掘り返そうとする佐伯ちひろに、もちろんないよ、と平板な声で僕は答える。そうですか? と佐伯ちひろは意外そうにつぶやく。だってキシさんは、ねこ殺しの小説を書いているんですよね? 僕はどう感情を出していいか分からず、やはり平板な声で佐伯ちひろに反駁する。人殺しについて書いたら、人殺しになるの? ミステリー作家は殺人者だらけだね。その捉え方はおかしいと思うよ。それでも佐伯ちひろは譲らず、なおも僕に訊ねる。じゃあ、どうしてねこ殺しについて何かを書こうって思ったんですか? ノゾミちゃんからも聞きましたけど、キシさんは結構その主題についてこだわって書き続けているんですよね? 少なくともねこを殺すことについて、関心は持っているわけです。キシさんは、心の奥底ではねこを殺したくてたまらないんですよ、きっと。僕には佐伯ちひろの発言に、挑発の意図があるのかないのかが掴めなかった。内容だけ捉えれば十分に挑発的なのに、佐伯ちひろのしゃべり方にはそれを感じさせる響きがまるでない。純粋に、心からそう感じて、そのまま何の衒いもなく口に出しているとも取れる印象。いずれにせよ僕は、心の奥底のことは分からないけど、とお茶に濁して口を開く。でも仮にそういう欲求が僕の中にあったとしても、僕はねこを殺せない、本質的に臆病な人間だからね。

 何が怖いんですか? 佐伯ちひろは素っ気なく、でもさらに踏み込んだ質問をする。巨大な塊同士がすり合わされたような、重々しい雷の音が鳴り渡る。ずっと掘り進めている穴に目を向けていたけれど、その時になって初めて横を向いて佐伯ちひろの顔を見つめる。佐伯ちひろは無表情に地面を見下ろしている、そこに何か本質的に冷たいものが潜んでいるのを僕は感じる。金属に触れたような冷たさを背筋に感じて、僕はゾッとする。口に出そうと思っていた言葉は、臆病な小動物が穴ぐらに引っ込むように胃袋の奥に飲み込まれる。何かが違うと僕は思う。隣にいるこの人間は、僕たちとは決定的に違う。その内向的な拒否反応を感じ取ったのか、佐伯ちひろは僕と目を合わせると思い出したように微笑んで口を開く。穴はこれくらいでいいと思います。お手伝いいただいて、どうもありがとうございます。これでちゃんと、埋めてあげることができます、ね、ノゾミちゃん! そして立ち上がると女の子のところまで歩いていき、耳許で嬉しそうに何かをささやいてからお堂正面の方へと去っていく。

 険しい表情の女の子は佐伯ちひろがいなくなった後、ふいに思い出したように僕を呼ぶ。僕は足許にシャベルを置いて立ち上がり、女の子のそばへ行く。女の子は無言で僕の服を引っ張ると石段のところまで導いて、並んで座るよう仕草で示す。女の子はレモンイエローのレインコートを脱いで、その下に背負っていたリュックサックを降ろしてから石段に腰掛ける。僕もその隣に腰を下ろし、何となく掘り起こした穴へ目を向ける。カルディの袋ごとすっぽり収まりそうな大きさの穴と掘り返された黒っぽい土の堆積が、平坦な地面に唐突な印象で存在している。いつの間にか全ての雪ねこが集まって、半円状に僕らを囲んでいることに気づく。そのうちの半分はその穴を、そしてもう半数は並んで腰掛ける僕たちを見つめている。しゃべり始める女の子の声は、どことなくその視線を意識しているふうに僕には聴こえる。引っ越すのと女の子は言った。最初僕はその音が形成する意味をうまく把握できなかった、ヒッコスノ? 僕がその言葉を理解する前に、女の子は先に進む。二学期の始業式にあたしが登校して、でもその後が続かなくて、親は転校するしか他に方法はないって結論づけて。あたしがふらふら遊び歩いてることにも、不満みたいだし。それで、もう無理矢理みたいに急に決められちゃった。どこに行くかなんて聞かないで。遠いところだけど、地獄よりは近いところだから安心して。でも、もしかしたら、地獄に似てるのかな。

 ようやく言葉の意味に追いついたとき、でも僕の心はまだ実感としてそれを受け止められていない。いつ、行っちゃうの、と僕は乾いた気持ちで訊ねる。女の子がよく見せる、攻撃な素早さで答えが来る。明日。驚いて僕は同じ言葉を疑問形で繰り返す。明日? 何でもないと装うように淡々と、女の子は僕に告げる。もう荷造りなんかも全部終って、台風も明日の、少なくともお昼過ぎには通り過ぎてるみたいだから、予定通り出発ってわけ。もちろんあたしが今ここにいるのは、黙ってこっそりと来てるから、親は慌ててると思うけど。携帯には何度も着信履歴があったしね、もう電源は切っちゃったけど。このままよっぽどのことがない限り、あたしは家に帰ってたぶんすごく怒られて、明日にはもうこの街を離れてる。別に好きなわけじゃなかったんだけど、もう来ないと思うと、この街にも愛着みたいなものが湧くような気がする。学校でさえね。いろんなものともう会えなくなる。でも、これからもキシとは会える、ネットを通して。そうでしょ? あたしたちはただ以前の形に戻るだけ。むしろそっちの期間の方がずっと長い。たまたま近くに住んでなかったら、こうして顔を合わせることもなかった関係だしね。

 僕の意思とは無関係に、僕は小さくうなずく。その動作の意味が自分でも分からない。続いて口を開いて吐き出される言葉が、自分自身の思惑の外から勝手に吹き込まれたもののように、他人事のように自分の耳に聴かれる。そうだね、以前のようにまたこまめにネット上でお話をしよう。最近少しご無沙汰になってたけど、メッセにもまたちゃんとログインをするよ。見かけたら、声をかけて。僕も自分の作品が書けたら送るから、またそれについて感想を聞かせてよ。女の子は同意を示すように小さくうなずく。それに力を得たからだろうか、続いてつぶやかれた僕自身の言葉は相槌の一種のように深い思いもなく口から出される。大丈夫、これまでと何も変わらないよ。でも(・・)一体何が大丈夫だった(・・・・・・・・・・)と言うのだろう(・・・・・・・)

 引越し先を女の子は意図的に隠しているように思われたので、それをあえて聞き出すことが躊躇われる。そちらへ遊びに行ってもいい? と僕は訊きたかった。でもそれは、女の子が向こうで落ち着いてからメールかチャットですればいいことと思って、保留する。代わりに僕は女の子に訊ねる。でも、本当に急な話だね。準備とかはもういいの? 女の子は自嘲気味に乾いた感じで、準備というほどのこともないから、と答える。それから少し思いつめたように、女の子のほうから僕に訊ねる。キシは引っ越しって、転校ってしたことある? 学校が変わると、どういう気分がするんだろう? 僕は小さく首を振る。僕自身は転校をしたことがないから、それについては何とも言えないな。友達で、何度か転校を繰り返してたやつがいるけど、割にドライな感じのやつだったし、どうだったのかはよく分からない。それでもやっぱり、大変だったとは思うけど。少しだけ間を開けてから、僕は訊ねる。転校することが、心配? 女の子は何も答えず、じっと目の前を見つめた視線を動かさない。僕はまた、安易な「大丈夫」を繰り返す。大丈夫、向こうでも何とかなるよ、安心していい。それについて女の子の反応はなかったけれど。

 遠く雷の音が聴こえる。その低い音に導かれて、僕はユサのベースの音を思い出す。拗ねた子犬のように観客席からはそっぽを向いて演奏する、「それいゆ」最後のライブの光景がそれに引っ張られる形で浮き上がってくる。「それいゆ」はなくなったしユサはどこかへ行ってしまった。そして隣にいる女の子も。みんな僕の目の前からいなくなる、と僕は思う。最後には誰もいなくなるのかもしれない、そして誰もいなくなった。もっとゲームをしたかった、と女の子がふいにつぶやく。せっかくキシに勝てるようになって、面白くなってきたのに。もっとキシと対戦して、もっとキシに勝ちたかった。それに対して僕は、やはり「大丈夫」という言葉を使って報いてしまう。あのゲームはネットを通じて対戦できる仕組みがあるから大丈夫だよ。離れ離れでも戦える。お互いのIDの登録が必要だけどね。もし引っ越した後でゲームを買って、ネットに繋げられるなら教えてよ。僕のIDも渡すから。女の子は真正面を見据えたまま、そうする、とだけ小さくつぶやく。

 沈黙を埋めるように雷が鳴る。先ほどよりも近い。

 今までいろいろな料理を作ってくれてありがとう、と女の子は素直な印象の声で言う。どれも美味しかった。紅茶やコーヒーも、すごく。今日食べたトマトソースだって、きっと美味しいんだと思う。それをちゃんと味わえないあたしが悪いんだ。でもこれから、少しずつ克服していきたい。本当なら、キシの作ったトマトソースで慣らしていきたかったけど。僕は女の子に、トマトソースのレシピを送るよ、と伝える。女の子は少しだけ口を開いて、でも何も言わず閉じてしまう。また雷が鳴る。少しだけ気温が下がる。風の中に明らかに雨の気配がある。女の子は唐突に、膝の上に載せていた僕の手のひらに手を重ねる。そして凝縮された力で握りしめて、低くつぶやく。何でここにいてもいい(・・・・・・・・・・)って言ってくれないん(・・・・・・・・・・)だよ(・・)! 優しく触れる感触と、ついで襲う切実な痛み、女の子の言葉に、僕は烈しく打ちのめされる。女の子はすぐに手を離すと、脱ぎ捨てたレインコートとピンクの古びたリュックサックをひったくるように掴んで立ち上がり、前に進み出る。それに呼応するように、空色のレインコートを着込んだ佐伯ちひろがお堂の影から姿を現す。胸の前に、抱きとめるようにして何かを携えて。佐伯ちひろは笑っている、雪ねこたちが一斉に視線を向ける。尻尾も脚も弛緩させて抵抗なく抱えられているそのねこの姿に、僕は憶えがある。昨日、甘く切ない鳴き声をひっきりなしに上げていた、赤と白の毛色の仔ねこ。でも今日は鳴いていない、それはけっして安心しているからという理由じゃなく、おそらくは睡眠薬か何かで体の自由を奪われて。僕は声を上げたかった。でも喉の奥が膨張して詰まってしまったみたいに声が出ない。佐伯ちひろは仔ねこの前脚を両手で掴んで、人形劇のように仕草を作って見せながら楽しげに口を開く。じゃじゃーん、ねこちゃんの登場です! 本日はこのような空模様のところ、このような場所までおいでくださいまして誠にありがとうございます! わたくしめは名も無き仔ねこですにゃん! 見た目は可愛くて頼りなく見えるかもしれないけど、酷いことをするやつには必殺ねこパンチをお見舞いするにゃん! どんなに図体の大きなやつだって、このパンチを食らったら一撃だにゃん! 人間だって、怖くないにゃん! どいつもこいつも、このねこパンチでボッコボコにしてやるにゃん!

 紫色の閃光が一瞬だけあたりを包んで、その後で雷鳴が届く。佐伯ちひろは動じることなく立ち続け、女の子に向かって、ねこがパンチする動作を示してみせる。女の子はそれに対して反応はしない。でも拒否の態度をするわけでもなく、静かに佐伯ちひろと仔ねこを見続けている。石段からのろのろと立ち上がった僕に、佐伯ちひろは体を向けるとまた抱えた仔ねこをジタバタさせて馬鹿げたお芝居を続ける。おお! そこにいるのはキシにゃん! 会いたかったにゃん! キシにゃんは僕たちねこにゃんを酷い目に合わす物語を作っていると聞いたにゃん! これは許されないことだにゃん! いくら空想の中とはいえ、僕たちねこにゃんを苦しめるやつは容赦しないにゃん! 必殺ねこパンチで冥土に送ってやるにゃん! 覚悟!

 そう言って僕に近づき、佐伯ちひろは仔ねこの右手を動かして僕の胸に当てる。爪の引っ込んだ柔らかな前脚の先が、柔らかく触れる。佐伯ちひろは僕の耳許に顔を寄せ、お芝居用に高く作った声をむしろいつもよりも低いものに変えて、どこか警告するような口調で僕にささやく。わたしのレインコートの、キシさんから見て右側のポケットに果物ナイフが入っています。カッターナイフなんかじゃないですよ、そんなものじゃねこは殺せないです。それを使ってください。そして顔を離すと再び耳障りな高い声と仔ねこの動作でお芝居を再開させる。にゃんだと、必殺ねこパンチが効かないにゃんて! こいつは手強い相手だにゃん、でも僕は負けないにゃん! 一回でダメなら、二回でも、三回でも、百回でも、僕のパンチをお見舞いするだけにゃん! とりゃー! そう言って今度は左前脚を使って、先ほどと同じ動作をさせる。左肩を前に出す方向で体を拗らせて、佐伯ちひろが言っていた右側のポケットが差し出されるように前面に現れる。そこには確かに、果物ナイフが入っていると納得させられるサイズの膨らみが存在している。僕は目の動きでそれを見下ろし、そしてまた視線を戻して佐伯ちひろを見つめる。佐伯ちひろもアーモンド型の目で僕を見つめる。僕はそこに、どうしても感情の色を見つけることができない。どうしてこんなことをするの? と僕は静かに訊ねる。また、雷鳴が遠くで起こる。佐伯ちひろは悪戯っぽく語尾を上げるしゃべり方で話す。写実ですよ、キシさん。キシさんはねこを殺す小説を書くのに、ねこの殺し方も分からないんですよね? ダメですよ、いくら小さくてもねこはカッターナイフなんかじゃ殺せません、途中で折れたりしない、しっかりした刃物がいるんです。お腹を裂くと、どういうふうに血が流れて、どういうふうにお腹の中身が出てきて、どういうふうに死んでいくのか、ちゃんと勉強しなくちゃダメですよ。無責任な想像だけで書いちゃダメです、それじゃ物語の中で殺されるねこが可哀想じゃありませんか? その終始軽い語調に僕は佐伯ちひろが本気でそう言っているのかが分からない。タチの悪い冗談のつもりでそれを言っているのでは、という疑いがどうしても拭えない。それが、佐伯ちひろのやや高いトーンの声音に理由を持つとしたら、反対の、つまり本気でいると思わせる理由は、その冷ややかな瞳に宿る印象なのかもしれない。爬虫類のような金属質の冷たさの瞳。僕は首を横に振って、その瞳をしっかりと見つめる。そのねこを離してあげて。僕はねこを殺すことはしない。僕の言葉に、佐伯ちひろは一歩後ろへと下がって、仔ねこの前脚ごと肩をすくめる動作をして見せてから口を開く。大丈夫ですよ、ここにはわたしとノゾミちゃんしかいませんし、こんな日にここまで来る人だっていません。誰にもバレませんよ! わたしもノゾミちゃんも、口は固いです。絶対誰にも言いませんし、わたしたち自身もそれが全然なかったことのように振る舞います。白昼夢みたいなものですよ、キシさんもそう思い込めばいいんです。誰も夢の中でのことは責めたりしないですからね! 僕は、虚ろな声で反論する。でも、殺されるねこは現実だ、夢なんかじゃない。佐伯ちひろは本当に無邪気に含み笑いを返してから、年下の子供に優しく間違いを指摘するような声で僕に伝える。キシさん、この子はキシさんが何をしなくても死んじゃいますよ。それくらいの量の睡眠薬を飲んでます。どのみちもう助からないんです。それこそ、永遠の夢の世界にもう入り込んでるんです。キシさんは正しく導いてあげればいいんです、そしてちゃんと土に埋めてあげれば、ノゾミちゃんだって安心します。この子だって感謝するはずですよ! わあ、どうもありがとう! そして抱えた仔ねこの前脚を高く掲げて左右に揺らし、踊っているような動作をさせる。光を失った仔ねこの瞳が、薄く開かれたまぶたの隙間からこの世界を見ている。小さな顎の間から、粘度のあるよだれが真下に糸を引いている。僕はまた喉がつかえてうまく声を発せない。息だってうまく吸い込めない。尻込みしてしまいそうなほど圧倒されて、僕は救いを求めるように、離れた場所にいる女の子に目を向ける。女の子はいつの間にかレモンイエローのレインコートを着込んで、そのフードをかぶるところだった。

 キシさんがやらないなら、わたしたちでやりますよ。佐伯ちひろは右手だけで仔ねこを抱え直すと、空いた左手をレインコートのポケットに突っ込んで果物ナイフを取り出す。その刃先はケースに収められている、抱えた右手の先でそれを抜き取ると、濡れたようにきらめく刃が姿を現す。佐伯ちひろは微笑む。やめろ、と僕は声に出す。やめるんだ。佐伯ちひろは笑みを浮かべたまま、そのアーモンド型の目をわずかに細めて僕を見つめる。何をですか? まるで本当に何のことか理解していないように、それは純粋に疑問の形を持って響く。抱きかかえた姿勢のまま、佐伯ちひろは果物ナイフの刃先を仔ねこの喉許に当てる。仔ねこを殺すな、と僕は静かに言う。だからもう死んじゃうんですってば、と佐伯ちひろは楽しげに笑いながら答える。僕は力強く首を振って、説得するように呼びかける。動物病院に連れて行って、看てもらう。ねこはまだ生きてるんだ。確率は低いかもしれないけど、助かるかもしれない。ねえ、ちひろが睡眠薬を飲ませたの? だったらどんな薬を飲ませたかを教えてくれないか? 獣医も薬の種類が分かれば、より正しい処置ができるはずだから。もちろんちひろのことは言わない。そこはうまく誤魔化すから、早くそのねこを僕に渡して、飲ませた薬の名前を言うんだ。お願いだ。

 抱きしめる力を強くして、果物ナイフの先をさらに近づけて、佐伯ちひろは同じ表情のまま口を開く。おかしいな、キシさんはそんなこと言わない人だと思ってました。絶対死にますよ、この子は。絶対絶対、100%です。それはキシさんだって分かってるはずです。動物病院に連れて行って、やれるだけのことはやったぞって、自己満足したいだけですよね? そんなのは意味がないって、キシさんは真っ先に反対するタイプの人だと思ってました。現実を見ましょうよ、キシさん。キシさん自身が気持ちよくなるための感傷が、この子に何の役に立つんです? この子にしてあげられることはもう何もないんです。可哀想だけど仕方がないし、逆にこれ以上可哀想にもなりようがないんです。だったら大切に使いましょうよ。感傷のための道具にするんじゃなく、今しかできないことをするんです。ねえキシさん、知ることはとても大切なことですよ。想像することも大切ですけど、根拠もなしに想像するだけじゃ空しいだけです。もちろん、知っている以上のことを想像しないのもダメですけどね。それはどっちも必要なんです。でもキシさんは、偏りすぎてる。ねこを殺すことについて、知りましょう。ノゾミちゃんは勇気を持ってそこへ踏み出そうとしています。それについて知ろうとしています。どうしてキシさんだけ、尻込みをしているんですか?

 僕はレインコートをフードまでかぶった女の子に目を向ける。女の子は僕と目が合うとすぐに視線を逸らして、こちらに向けて数歩歩く。立ち止まって佐伯ちひろのほうへ体を向けると、意志を感じさせる勢いでそこにしゃがみこむ。これから佐伯ちひろが行うことを、しっかりと見据えることを主張するように。女の子と目が合ったのか、佐伯ちひろは女の子に向けて笑いかける。それに対して女の子がどのように反応したのかは分からない、佐伯ちひろは女の子に向けて小さく二回うなずいて、そして鋭く僕へ視線を向けてから宣言する。じゃあ、殺します。僕が叫び声を上げて佐伯ちひろの方へ走りかかるのと、佐伯ちひろが果物ナイフを振りかぶるのが同時だった。間に合わない、と思った瞬間、拳ほどの大きさの黒い塊が水平方向に飛んできて佐伯ちひろの左手に直撃する。佐伯ちひろは悲鳴を上げて果物ナイフを地面に落とす、黒い塊はぶつかった後高いところまで飛翔して、Uターンするように旋回する。拡げた両翼はたくましく、お腹の側の白毛が鮮やかに目に映る。翼を畳んで滑空の体勢を取ると、再度佐伯ちひろに狙いを定めて襲いかかろうとする。見上げた視界に喉の赤い部分が印象を残した刹那、さらに大きな黒一色の塊が、汚らしい鳴き声とともに覆いかぶさるようにしてその動きを阻止する。襲われた側の甲高い鳴き声と、襲う側の低くしわがれた鳴き声が交錯する。両脚で相手を押さえつけたカラスは威嚇するような力強い鳴き声とともに翼を大きく羽ばたかせて、雑木林の中へと姿を消す。まだ生きてたんだ。防衛の姿勢を解いた佐伯ちひろは感心と嘲弄を混ぜ合わせたような声でつぶやき、二羽の鳥を見送る。林の中から響く鳴き声は、すでにカラスのものだけになっている。はたき落された果物ナイフを探すと、それは女の子の間近に転がっている。それを拾い上げる女の子に、佐伯ちひろは嬉しそうに微笑みかける。

 それを無視して、女の子は果物ナイフの刃をじっと見つめている。ときどき、裏返して逆の側の刃にも目を通す。おそらくは、そこに反射する自分の顔を見ているのだろうと僕は思う。女の子は刃を見つめたまま静かに立ち上がり、なおもそれを続ける。佐伯ちひろはどこかに吸い込まれたみたいに微笑みを消して、似合わない真顔でその女の子の様子を見ている。いつの間にか雪ねこたちは女の子の周りに集まっている。女の子を丸く囲うように座り、それぞれに見上げる形で果物ナイフを手にする女の子を見つめる。ひときわ大きなカラスの鳴き声がして、それきり静かになる。女の子は静かに僕を見つめる、その表情はどこか悲しげで、僕の心を打つ。その声は、ひび割れた陶器のように物悲しい。ねえキシ、キシは本当に、あたしがねこ殺しじゃないって、信じてくれるの? そして切実にその声は響く。

 そのために小説を書いているんだ、と僕は言う。

 女の子は寂しそうに笑う。そして佐伯ちひろに向き合って、静かな、でも意志を感じさせる声で言う。その仔ねこを離してあげて、あたしはキシの見ている前で、ねこを殺したくはないから。佐伯ちひろは一瞬、不服そうに表情を歪めたけれど、すぐにそれをニュートラルに戻して、最後には困った微笑を浮かべて面倒見の良さそうな声でそれを受け入れる。仕方ないよね。それがノゾミちゃんの選んだ道なら、わたしはそれに従うよ。じゃあ、これはキシさんに差し上げます。どうぞ病院でもどこでも好きなところに連れて行ってあげてください。はい! そう言ってもののように差し出される意識朦朧とした仔ねこを、僕は嫌悪感をみなぎらせた目で佐伯ちひろを睨みながら受け取る。むしろそれを楽しむように見返す佐伯ちひろは、仔ねこを渡したことで軽くなったことを手振りで示してから、女の子のそばへ駆けていく。むき出しの果物ナイフを手にする女の子に鞘を手渡すと、そのまま耳打ちして何かを伝える。女の子は、小さくうなずいた後ケースに収めた果物ナイフを石段に置いたままのリュックサックに入れ、レインコートの上からそれを背負う。そしてまた、悲しそうな微笑みとともに僕を見つめて、口を開く。キシ、信じてくれてありがとう。キシがいろいろな方法で止めてくれなかったら、あたしはきっとその仔ねこを殺していたと思う。もちろん可能性が消え去ったわけじゃないけど、あたしはこうして、推定無罪(・・・・)のままキシの前から去ることができる。自由に羽ばたけるようにはならなかったかもしれない。「ツバメ」という名前も与えられなかった。でもそれは、そんなに大事なことじゃない。ねえキシ、これで終りじゃないんでしょ? キシが分別臭って「小説なんてもう書けない」なんて言うことは、きっとない。キシは書き続けるはずだよ。だったらそこで書けばいい。キシはたぶん本当の意味ではあたしのことを信じてない。それは分かってる、でも、少なくとも信じている振りは見せてくれた。それだけのためにここまで来てくれた。それだけで、あたしには十分だった。それ以上は、求めすぎだった。ここから先は、あたし自身の足で行く。キシを裏切ることになるかもしれないし、キシの敵になるかもしれない。でも、今、この時点では、あたしはキシにありがとうを言って、お別れしたい。ねえキシ、ありがとう。

 女の子の手を取って歩き去っていく佐伯ちひろが、僕に向けてつぶやく言葉を、僕はなぜか耳許で聴く。これでこの子はわたし(・・・・・・・・・・)のものですね(・・・・・・)。近くに雷が落ちる烈しい音と紫色の光線がほぼ同時に放たれる、そして粒の大きな雨滴がボタボタとまばらに落ち始める。僕はふたりの後を追おうと足を踏み出す、その瞬間、包まれるような優しい、けれども抗いがたい力によって後方へと体を引っ張られる。僕と同じくらいの身長の人間に、後ろから抱きとめられている感覚。絡みつくように僕と僕の抱える仔ねこを包む両腕は、なまめかしく柔らかいのにその力は理不尽なほどに強い。密着する体の感触も女性であることが明らかなのに、抵抗する余地もないほどの確実さで僕の体を苦もなく押さえつけている。そのままずるずると背後へ引きずり込まれ、雑木林の始まりの樹木のところまで連れて行かれる。木陰になっていて、そこでは雨に降られない、僕を押さえつける何かは、そこで立ち止まると僕の肩の上に顎を載せ、長い黒髪を僕の体に垂らす形になる。そいつはクスクス笑うと、錆び付いた配管を思わせるようなしわがれ方の、それでも確かに女性の声で僕の耳許に話しかける。

 やっと会えたね。

 そうだね。

 待ち遠しかった?

 全然。

 あのふたりを追いかけさせるわけにはいかないから、もうしばらくあなたにはここにいてもらうね。

 嫌だと言ったら?

 嫌でもどうしようもないことだって、世の中にはあるでしょ。

 そんなことだらけだ。

 確かにね。

 これがあんたの逆襲ってわけなのか?

 そういうことなのかな。

 成功して、嬉しいか?

 あの子とはうまくやっていけそうな気がするから。

 佐伯ちひろじゃ満足できなかった?

 イマイチだったことは否定しないけれど。

 イマイチじゃなかったら、最初に企画した長編の方が作品として完成したんだろうな。

 どうだろうね。

 最初にあんたを書いていた時は、まさかこういうことになるなんて思ってもみなかった。

 余裕があったよね。

 ふざけていたというか、本気じゃなかった。名前だって遊び半分なところもあるし。

 本人を前に酷いこと言うね!

 でもあんたはいろいろなものを巻き込んで大きくなった。僕は追い詰められたみたいな気分だった。あんたのことをちゃんと書かないと、先へ進めなくなるような。

 実際、そうだった?

 そんな気はする。

 じゃあ、こうして出会うことができて、感激だね。

 反吐が出る。

 え?

 反吐が出る!

 ちょっと、そんな喧嘩腰にならなくてもいいじゃない?

 じゃあ、手を離せよ。

 それはダメ。

 どうして? あんたはあの子を自分の側に引き入れられると確信してるんだろ? だったら僕が何をしようが、別に問題ないはずだろ?

 挑発してもダメ。あの子は確かに可能性としてのねこキラーに過ぎないのかもしれない。でも、だからこそ面白いんだよ。シュレディンガーのねこを、覗き見ちゃいけない。その面白さを保障するためにわたしはあなたを邪魔してるんだよ。

 あんたはゲスだ。

 酷いことを言うんだね。

 その通りだから。

 ねえ、わたしがゲスならあなたもそうでしょ?

 分かってるよ。

 本当に分かってるのかなあ? ねえ、あなたの周りをよく見てよ。気づいてた? さっきから雪ねこたちはあのふたりじゃなく、あなたの方へ集まってるんだよ。これがなぜだか分かるかな?

 あんたがここにいるからだろ。

 残念ですけど、違います。雪ねこはあなたに引き寄せられてここに来てるんです。

 僕はねこを殺さない。

 確かにあなたは現実ではねこを殺さない。でも、作品の中では酷いことをするでしょう?

 そうだけど、でも現実のねこを殺すこととは区別されるべきだろ?

 ねえ、あなたはその現実との壁を壊すようなものを書いてきたんだよ? どうして自分だけ安全圏にいられると思うの? あなたが生み出したわたしは、今こうしてあなたを押さえつけている。ほら、ご覧。雪ねこたちが誰を見つめているのか。わたしはもうすぐ消えるけれど、その後も雪ねこたちは、あなたを見つめ続けるよ。

 ……。

 でもそのうち、そのことにも慣れるよ。

 ……。

 それで、その子はどうするつもりなの?

 その子?

 あなたが今抱えてる、意識不明の仔ねこのこと。

 さっきも言ったように、動物病院へ連れて行く。

 無駄なのに?

 無駄と決まったわけじゃない。

 ねえ、大切なのは、あなた自身がそう思っていないことだよ。無意味だって思ってるのに、演技をしていることだよ。

 それは十分認識してる。

 つまり、ちひろが言っていたみたいに、自己満足のためだけにそれをするの?

 夢を見たいんだ。

 夢?

 奇跡的にこのねこが助かって、自分の部屋でこっそりと飼う夢を。

 感傷にすぎないと思うな。

 それが悪いこととでも?

 そのために死にかけのねこを利用するんだね。

 結局のところ、そういうことだから弁解はしない。

 それってわたしたちと変わりないんじゃないの?

 僕が積極的に何かをして、死に追いやったわけじゃない。

 行政が年間に殺処分するねこの数を知ってる? 人間は間接的にたくさんのねこを殺してるんだよ。

 それであんたたちの行為が相対化されるとは思わない。

 どのような形であれ、わたしたちはそれぞれにねこを利用している。

 形はとても重要だ。

 本当にそうなのかな?

 僕はそう信じている。

 まあ、何を信じるかはそれぞれの自由だしね。あなたが奇跡を夢見ることも、あなたの自由。

 その夢のために、そろそろ消えてくれないか?

 そうだね、そろそろいいかもしれない。

 そしてこの物語も終る。

 本当に、長い旅だったね、お疲れ様。あなたはこれから別の旅に出るの?

 まだ分からない。

 お気を付けて。

 ふいに押さえ付ける力がなくなって、僕は自由になる。雪ねこたちの視線は、ひとり残された僕に注がれている。僕は抱えている仔ねこの呼吸を確かめる。それは消えそうなほど弱々しいけれど、でも確かに存在している、生きている。僕はお堂正面に回って、石段に置いたままの傘を手に取る。仔ねこに少しの雨も浴びせないように、それを短く持つ。ときどき風が、僕から傘を、そして仔ねこさえも剥ぎ取りそうなほど強く吹き付ける。それを何度もやり過ごしながら、僕は少しずつ前に進む。雑木林を抜け、長い坂道を降りていく。坂の上から見渡せる街並みの中に、動物病院を探す。近くにそれがあることを願う。

 坂道を降りたところで、「木陰」という名の喫茶店を右手に見かける。暖かな光を内部にたたえ、凶暴な風雨と対立してそれは静かにそこに建っている。その中に、女の子と佐伯ちひろがいるのではと僕は思う。ふたりでランチを食べながら、窓の向こうの荒れた天候を見たり、おしゃべりをしたりする光景を、僕は思い浮かべる。「アイスパレスの王女さま」で展開された、イタリアンレストランでのシーンを模倣して。

 止めていた足を再び前に進め、その喫茶店を通り過ぎる。住宅街を抜けて県道沿いの繁華街まで行き、動物病院を探すこと。それより優先すべき事柄は、きっとどこにもない。そう言い聞かせて先を行く。雨は次第に強さを増して、傘を叩く衝撃が柄を握り締める右手に重く響く。手のひらに滲んだ汗が、風に煽られた時に傘を滑らせようとする。横殴りに吹き付ける風に乗った細かな雨粒が、少しずつ仔ねこの体毛を濡らしていく。僕のまわりを雪ねこたちが囲んでいる。尻尾を立てて先頭を歩く雪ねこの姿に、クロと名付けられた黒白ねこの面影を見て取って、僕の心は少しだけ揺れる。シルエットだけのその姿には、僕を睨みつけるあのオリーブ色の瞳は存在しない。それが寂しい。

 道の先に、県道との交差点が見えるところまで来る。進行方向の信号は赤色で、大通りに沿った方向へ車の流れが目に入る。片側二車線の道沿いに、さまざまな店が軒を連ねていたことを思い出す。コンビニ、ハンバーガーショップ、信用金庫、居酒屋。その中に動物病院があることを祈りつつ、僕は前へ進み出る。雨はますます強さを増して、それに反比例するように、仔ねこの呼吸はかすかなものへと変わっていく。交差点にたどり着く。頭上には、弄ばれるように揺れる信号機の姿が見える。細い道から大通りへ出て、その道沿いに並ぶたくさんの看板の中に、僕は動物病院を探す。

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