「名前探しの迷宮」
作成日時:2009年8月16日
更新日時:2009年9月4日
(以下プレイ内容を記述)
(真っ黒なウィンドウに白の文字が現れる。文章はセンテンスごとに表示され、エンターキーを押すと次の文章が流れる仕組み。一度表示された文章は消えず、スクロールバーでこれまでの文章を追うことも可能。BGMや効果音などは一切なく無音)
「名前探しの迷宮」
「少女は自分の名前を探していた。それはどこにでもありそうで、でもどこにもなかった。とりあえず思いつく限り、少女はいろいろな名前を名乗ってみたけれど、それは全然馴染まなかった」
(地下一階の最初の設問まで省略)
(薄暗い小部屋の写真表示。小さな机の上にランタンが灯っている)
「石版にはこう書かれている。いつからか目に見えるものが現実とは限らなくなっていることに気づいていた。それを受け入れるとあらゆることが可能性という言葉で肯定されるようになった。わたしは死んでいるかもしれないし生きているかもしれない。聡明かもしれないし馬鹿かもしれない。右手は左手かもしれない。明日は昨日かもしれない。ここはここではないのかもしれない。全てが肯定されるから、否定さえも肯定された。それこそが迷宮の原理。でも迷宮を進もうとすれば、さまざまな可能性の中からひとつの答えを選択しなければならない。さてここで問題です。わたしはねこを殺したのでしょうか? 右の道は肯定。左の道は否定。可能性を摘み取りなさい」
(選択肢表示)
「1.右の道を進む(肯定) 2.左の道を進む(否定)」
(1を選択)
「それはやさしい道だった。足許は踏みしめられて堅く、かびの臭いは先に進むほど弱くなった。少女が苦もなく歩いていくと、やがて道の先に明かりが見えた。洞穴は大きな空洞になっていて、そこに小屋のような建物がある。明かりは、その窓から漏れたものだと少女は気づいた。西洋風の瀟洒な建物で、看板はないが何かの店らしいことが分かる。空洞は袋小路になっていて、その建物の他は何もない。少女は恐る恐るその建物のドアを開ける。芳ばしい香りの暖かい空気が、室内から外に漏れ出す。目の前はスツールの置かれたカウンターになっていて、その向こうにはコーヒーをいれる老人の姿が見える」
(写真表示。喫茶店のマスター風の、年配の男性。細口のヤカンでコーヒーを作っている)
「出ていかないか、とあなたを叱りつけるわけにもいきませんから、少しだけお話をしましょうか。コーヒーにお湯を注ぐ手を止めて、老人は少女に話しかける。わたしは卑劣な人間を憎みます。そういう人間は、わたしの人生でうんざりするほど出会うことになりました。今思い出してみても、殴りかかりたくなるくらいにロクでもないやつらでした。それでも、例えどれほど卑劣な行いをしていようと、あなたのような子供を追い出すようなこともできません。けれどもね、あなたを卑劣な人間だと指摘することはしますよ。その卑劣さは、ご自分でもよく分かっているはず。あなたは確かにとても多くの悪意に晒されて、大変な思いをされてきた。そのことについて、わたしも心を痛めます。しかしね、その与えられた悪意を同じように誰かに与えるのだとしたら、あなたもやはり卑劣なのです。そのことに、まずは気づいてください。卑劣な行いを改めるのは、その後のことです。どうかあの女のように、悪意の虜にはならないでください。あなたなら、まだ引き返せるはずなのですから」
(写真表示。長い黒髪の若い女性の後ろ姿)
「もちろんそんなことは、あなたご自身でもよく分かってらっしゃるはず。正確に言えば、あなたのある部分では、ということでしょうか。あなたはご自分を見失ってらっしゃる、だからこそ名前をなくし、このようなところまで来た。あなたは名前を変えるたび、新しい自分というやつを目指そうとした。そしてそれが成功をしないから、あなたはまた名前を変える、そういう循環に陥っていた。あなたが一番最初に名前を変えたのは、『クリスタルパレス発』のコメントを書いて、それに対する反撃を食らったときでした。その失態を受けて、あなたは一番最初にご自分に与えた名前を捨てた。それはとても大きなことでした、そしてそれゆえに、あなたは分裂してしまったのです。もはやあなたには、現実と幻想の境がよく分からなくなっているのではないでしょうか? それは、とても危険なことです。その歪みを元に戻すためにあなたがご自分の本当の名前を見つけ出されるというのなら、わたしはそれを応援します。しかしね、あなたがご自分のために一番最初に用意した名前、それはある種の暗号が含まれていました。それはあなたの本当の名前との折り合いとも言うべき大切なものだったはず。それをなくしてしまったことで、あなたは暗号を消失してしまった。もしかしたらそれが、全ての災いのもとだったのかもしれません。どうか、思い出してください。それは大切な名前だったはずなのだから。過去に折り合いをつけなければ、あなたは先へは進めないはず。どうか、思い出してください。あなたがそれを捨てた理由になった、暗号の電子掲示板というやつに、その名前を入力してみてください。そこには何らかの答えが、暗号の形で、帰ってくるはずですから」
(写真表示。カップに注がれたブラックコーヒー)
「長々と話をしてしまいました。あなたがコーヒーをお気に召すかどうか分かりませんが、ともかくこの一杯は差し上げます。あなたがもし、今後卑劣なことをされないとお約束いただけるなら、という条件付きですが。あなたはもう、ねこを殺すようなことはなさらないと誓っていただけるでしょうか?」
(選択肢表示)
「1.誓う 2.誓わない」
(1を選択)
「ありがとうございます、と老人はにこやかに言って、少女にコーヒーを差し出した。少女はカップに口をつけて、熱いコーヒーを少しずつ飲んだ。老人は背後の棚からCDを取り出すと、コンポーネントステレオでそれを再生した。少女にはクラシックとしか呼び方のわからない、バイオリンの響きが印象的な曲が、せまい室内に満たされる。老人はそれに合わせて鼻歌を歌いながら、新聞を拡げて顔を隠した。少女がコーヒーを飲み終るころ、曲は終りを迎えたくさんの拍手の音が湧き上がった。ごちそうさまでした、と少女は言った。老人は満足そうに微笑んで、背後の扉を少女に示した」
(イラスト表示。扉の絵)
「ここから先へ進めます、と老人が言った。あなたの本当の名前は、まだ先にあります。でもこれだけは忘れないでください。あなたが本当の名前を見つけ出したとしても、あなたがこれまでに名乗ってきた名前は、それでチャラになるわけではないことを。どうか、それを忘れずに」
(画像表示。洞窟の風景イラスト。すぐ先に降りの階段が見える。以前使用されたものと同じ)
「少女が扉をくぐると、背後で扉の締まる音がした。前に進むとすぐに降りの階段が現れ、少女は踏み外さないように慎重に降りていった。階段が終り、二番目の迷宮が目の前に広がる」
「地下二階」(通常より大きいフォントで表示)
(この先、地下三階のファミリーレストランのところまで、以前と同じ選択肢を選ぶ)
「全ての始まりはクリスタル・パレスだった。それが僕たち幻想の出発点だった。君は今でもあの言葉に捕らわれている。暗号の電光掲示板。それを読み解こうと君は戦っている。どうしたら読み取れるんだろう? ツバメは最後にひと言つぶやいた、誰が書いているんだろう、と。それも分からない。でも君には暗号の電光掲示板という概念がとても重要だった。リアルだった。君がキシの作品を読み続けたのは、初めは負けず嫌いな性格がそうさせただけかもしれない。でも途中から、それだけじゃなくなった。君は明らかにキシの他の作品の中に、暗号のコードを探すようになった。それがどこかに見つかるかもしれないと君は思った。それはときどき、本当に見つかりそうに思えた。その手触りや重さを感じることもあった。形が見えそうなときもあった。そして君はねこキラーに出会った。これこそがコードだったのかもしれないと君は思った」
「暗号を入力してください」
(文字入力指示)
(「ノゾミ」と入力)
「先に進む気になったんだね、と少年は言った。その名前にたどり着いたなら、最後の部屋は近いよ。でもその前にもうひとり、君は出会わなければならない人がいる。この先にエレヴェーターがある。それを使って、深く、深く、潜ったところに、最後の部屋がある。そこには君のよく知っている人がいる」
(写真表示。小型のエレヴェーターを外側から撮ったもの)
「空を飛ぶ代わりに、地下に潜ることを、君は強いられている。暗号の電光掲示板の、さらに奥。そこから出られることを、僕も祈っているよ。大丈夫、君ならできる」
(写真表示。エレヴェーター内部の写真)
「少女がエレヴェーターの中に入ると、扉はひとりでに閉まった。ボタンも押さないのに、それは勝手に下降を始めた。表示板はB3からひとつずつ数字を増やしていく。低いモーター音とともに、エレヴェーターは下降を続ける。やがて緩やかに減速してB16で止まり、少し間を置いて音もなく扉が開く。外は一面の闇で、エレヴェーターからの光が漏れる箇所以外は、何も見えない。少女は恐る恐る部屋を出る。すると、背後の扉が前触れもなく閉まり、完全な闇に包まれる」
「地下十六階」(通常より大きいフォントで表示)
(空白。エンターキーを押しても、改行されてスクロールするだけで何も表示されない。数度エンターキーを押してみるが、「地下十六階」という文字が、徐々に上方に押しやられていくのみ。他のキーを押してみても、反応はない。仕方なくエンターキーを押し続けると、やがて「地下十六階」という文字は画面から完全に消え、ウィンドウは何も表示されず真っ黒な背景だけが映るのみとなる。その後、しばらくはエンターキーを押し続けても改行が続くだけで変化はない。真っ暗な画面を見つめ続けることになる。ウィンドウの高さで三スクロール分空白が続いた後、突然写真が表示される。学校の集合写真から切り抜いたと思われる、ノゾミの顔。眩しそうな表情)
「ハンドルネームというものを知らない時期から、あなたはすでにノゾミという名前を用意していた。それはあなたの理想像だった。強くて、頭が良くて、媚びなくて、笑わない。時によって必要以上に攻撃的になれるし、気の向くままに何もかもを拒否できる。友だちなんていらない。ひとりきりで生きていける。そういう存在として、あなたはわたしにノゾミという名前を与えた。あなた自身の分身として、そして、あなたを導く友人として。あなたは学校でノゾミになりきることができない代わりに、ネットの世界ではノゾミになった。あなたは小説が好きだったから、いくつかの小説投稿サイトを見て回って、それらの投稿作品のレベルの低さを知った。あなたはノゾミというハンドルネームを使って、それらの批評コメントを書いた。それは自然と攻撃的になった。そして、自分でも的確な批判だと感心もした。そういうことを繰り返して、あなたは信じるようになった。この世界でなら、自分はノゾミでいられる、と」
(画像表示。「ノベルワーク」トップ画面の画像切り抜き)
「あなたが最後にたどり着いたのは、『ノベルワーク』というサイトだった。ここは作品へのコメントに合わせて五つ星評価を与えることが特徴だった。その獲得ポイント数によって、投稿者や投稿作品への評価が決まる。参加者たちの間の空気は、甘いとまでは言わなくとも割に緩かった。『ぬー』というサイトの愛称がそれを象徴している。『NW』という略称を、さらに砕いた読み方は、分かる人には分かるという参加者同士の閉鎖的な繋がりへの志向を表している。そういう状況だったから、せっかくの五つ星評価性でも多くの人は三つ星以上で採点していた。二つ星、あるいは一つ星評価を与えるのはよっぽど稀な人か、あるいは明らかにひどい作品かのどちらかだった。そういう中であなたは、まず明らかにひどい作品は端から無視をして、その上で多くの人から高評価を受けている作品を中心に、批判的なコメントを書いていった。まわりが四つ星か五つ星評価で埋められている中で、孤立したように二つあるいは一つ星のあなたのコメントが並ぶ。それは、無視まではされないにしても受け入れられなかった。あなたの批判に対して深く考える、という投稿者はいなかった。みんな通り一遍のことを言うだけで、他の馴れ合いのようなコメントの方を大事にした。だからこそあなたは、さらに攻撃的になることができた。鋭く、そして本質的な批判の術をあなたは手に入れていった。ノゾミという名前を、あなたは満足して使いこなしていた」
(画像表示。「ノベルワーク」に投稿された「クリスタルパレス発」の画面)
「キシという投稿者による、『クリスタルパレス発』という作品をあなたは読んだ。この作品は、キシにしては珍しく割に多くの人にコメントされ、しかもそこそこ評価も高い、というものだった。だからこそあなたの目にも触れて、一撃を加えてやろうという気にさせた。ざっと目を通したとき、あなたは少なくとも深夜の街で行動する少年というイメージには惹きつけられていた。でも批判ありきで作品に向かっているあなたは、すぐにこれを逆手にとって、攻撃の材料にする。少年とツバメの夜間飛行は、深夜の、誰も知らない場所で、秘密におこなわれるから意味がある。そうだとするなら、冒頭のファミリーレストランのシーンは蛇足じゃないか? その批判を軸にして、あなたはコメントを書いた。二つの星を添えて。少しして作者であるキシから、そのコメントに対するコメントが投稿される。それはあなたが初めて受ける反撃だった。そして悪いことに、あなたはその反撃に一部分でも納得されてしまっている、自分自身を見出した。それは敗北だった。それは無敵のはずのノゾミには許されないことだった。あなたはこの世界でも、ノゾミを演じきることができないことを知った。そしてあなたは名前を替えた。こうしてまた、わたしとあなたは離れてしまった」
「三島理沙」「みかげ」「桐」「東雲」「バブルス」「東風」「桐生長閑」「千の音」「トカゲ」「遠雷」「暁」「クロ」
「それ以来、あなたは頻繁に名前を替えた。明確な理由がないときも、あなたは衝動に駆られるようにプロフィールの設定に手を加えた。きっとこれらの名前を、全てひとりのハンドルネームだったと当時認識していた人はいない。もちろんあなた特有の攻撃的な語調から、コメントを見て『きっとあいつだ』というふうな捉え方はされていたはず。それが、あなたの名前と組み合わされてはいなくて、おそらくは『どうせあいつだろう』というあいまいな認識か、もう少し慎重な人ならあなたのIDと照らして判断をしていたと思う。ノベルワーク登録ID、8019として。さて、ここで問題です。『クリスタルパレス発』の投稿者であるキシの登録IDは、何番でしょうか?」
(数値入力指示。半角数字指定)
(画面を少し戻して、画像表示された「ノベルワーク」投稿の「クリスタルパレス発」の画面を確認すると、小さくではあるがそこに「投稿者:キシ(登録ID6245)」と書かれているのが見て取れる)
(6245と入力)
「もちろん、キシのID番号を憶えている人なんていない。キシはいつでもキシだったから。それ以外に識別するべきものなんて必要なかったから。あなたとは違う」
(写真表示。僕の学生証を斜めに撮ったもの)
「キシというハンドルネームは、彼のあだ名を流用した、単純なものだった。それと比べてノゾミという名前は、少し技巧的なものではあったけれど、同じようにあなたの本当の名前と繋がりを持っていた。そして、それ以降にあなたの名乗った名前は、あなたの本当の名前と、何の繋がりも持っていなかった。あなたはわたしから離れて、一体どこへ行きたかったの? どこに行けると思うの? あなたはどこにも行けず、消えてしまうだけでしょ。あなたは何かに寄生することなしにはやっていけない。あなたはノベルワークにも、もちろん他の小説投稿サイトにも、自分の作品を投稿することはなかった。ただ誰かの作品に批評家気取りで文句を書いているだけだった。オリジナルというものがない。つまり、あなたはこの世界から必要とされていないの。だから誰も、あなたの本当の名前なんて必要としない。キシは確かにあなたをモデルにした小説を書いた。でもそれは、あなたとキシの合作なんかじゃない。キシは別に、あなたでなくても良かったんだよ。目の前にいる誰でも良かった。目の前の誰かを適当に加工して、小説にして、そして本人はその小説の通りにしか目の前の誰かを認識しない。それはあなたも知っているでしょう? だったらどうして、キシに寄生しようとするの? キシはあなたをすり抜けるよ。そしてあなたは、本当に消えてしまうよ。どうしてもう一度、わたしに寄生しようとしないの? あなたの手に余る? 本当のあなたはそんなに強くはない? じゃあ、ここで死ねば?」
(写真表示。刃を出したカッターナイフを握った、ノゾミの上半身近影。写真の取られた角度から、携帯電話を使って自分で撮ったものと推察される)
「ノゾミはカッターナイフを少女の喉元に突き立てた。血が吹き出て、少女はそれをどうすることもできなかった。徐々に力が失われ、その場にへたり込み、少女は自分の血のつくる水たまりに突っ伏した。視界が暗みがかり、音が遠くなり、少女はゆっくりと死んでいった」
(複数の写真表示。腹を割かれて死んだねこの写真が、次々に表示されていく)
「ゲームオーバー」
(ニューゲーム)
(選択したルートは次のとおり。地下一階、左の道(否定)を選択。地下二階、0のルートで「カッターナイフ」を入手し、再度の分岐で6を選択。地下三階、真ん中のルート選択。地下十六階の展開は省略)
(写真表示。刃を出したカッターナイフを握った、ノゾミの上半身近影。写真の取られた角度から、携帯電話を使って自分で撮ったものと推察される)
「カッターナイフを取り出したノゾミに、少女もカッターナイフを取り出して立ち向かう。喉元に向けられた刃を躱して、少女はノゾミの体に飛びつく。バランスを崩して倒れたノゾミは、しがみつく少女を切りつけようとカッターナイフを握る左手を振り上げる。少女はその左手の、親指の付け根のあたりに噛み付く。驚いて、ノゾミはカッターナイフを手からこぼす。呆然とするノゾミに馬乗りの体勢になって、少女はカッターナイフの刃を短く納め、逆手に持って、何度も何度もノゾミの顔面に突き立てる」
「グサ」
「グサ」
「グサ」
「グサ」
「グサ」
「グサ」
「グサ」
「最初のうちは抵抗していたノゾミも、すぐにその力を失った。髪がふり乱れ、血まみれの顔を隠す。荒かった呼吸が段々とか細くなる。少女は最後にもうひと突き刃を刺して、立ち上がった。左手はたっぷりと血に濡れている。少女は汚れたカッターナイフを足許に捨てた。動かなくなったノゾミを見下ろしていると、かすかな声でノゾミはしゃべり始めた。もちろんわたしは死なないけれど、これで顔を失った。この顔はあなただけのものになる。わたしにはノゾミという名前だけが残って、あなたは、わたしから完全に離れる。これで良かったの? あなたはわたしがいなくても大丈夫なの? あなたは全てを自分ひとりで担いきれるの? 本当の名前を取り戻すことで、そんな途方もない強さがあなたに宿るとは思えない。あなたは誰かの名前を借りなくちゃ、やっていけないんじゃないの? でも、まあ、いいよ。あなたは先に進んで、自分の本当の名前を取り戻せばいい。あなたのオリジナルな要素なんて、戸籍上の名前しかないんだものね」
(写真表示。どこかの学校。日中だが、人の姿はどこにも見当たらない)
「ずっと幻想の中にいればいいのに。理解力のない現実の中へ戻ることなんてないのに。あなたは本当に現実の中でうまくやっていけるの? 戻るだけの価値はあるの? あなたは確かに、今、そちらに行こうとする勇気は持ち合わせていると思う。でもすぐにダメになる。そしてまた、こっちへ戻ってくることになる。あなたにオリジナルさなんていらない。模倣と可能性の中でしか、あなたはぐっすり寝られない。さあ、先へ進んで、さっさとぺしゃんこになってきなさい! 現実では何もかもをひとりきりで受け止めるしかないんだよ」
(写真表示。おそらくは先ほどと同じ学校の、下駄箱の風景。やはり人の姿は写っていない)
「少女は靴を脱ぎ来客用のスリッパを履いた。自分の名前が分からなかったから指定の場所がわからなかったし、それに自分の上履きがそこにはないことを、少女は知っていた。階段を上り、二階に上がった。少女は自分の教室の場所を知っていた。その教室の後ろ側の黒板に、自分を貶める内容の落書きがあることも、少女は知っていた」
(写真表示。教室の出入口。やはり無人)
「少女は教室の引き戸を開けた。整然と並んだ、机と椅子が目に入る。どれも真新しくはないが、キレイに保たれている。机側面のフックには忘れ物の給食袋がひとつだけぶら下がっている。机の中からはみ出したリコーダーの入れ物が、ところどころ顔を覗かせている。表の黒板は、何も残さず消されている。一方で裏の黒板は、一ヶ月の予定や今月の目標など雑多に書き込みがされている。その中に、こっそりと、自分を貶める落書きが書かれていることを、少女は知っている。その文字をしっかりと読むため、少女は近づく。そこに自分のフルネームが書かれていることも、少女は知っている。黒板が近づく。それは黒板の右下隅に小さく書かれている。青いチョークで書かれた、遠目には気づきにくい文字。少女はその文字を」
(ウィンドウを消す。この先を僕が確認することは、なかった)
次回更新は8/16(火)を予定




