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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第10章   ── 同時にたくさん存在する別々の顔 ──
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29   「答えはノゾミです」

 気づいたら、朝だった。タオルケットもかけず剥き出しのまま、僕はベッドの上に横になっていた。朝のけして弱くない光が部屋に差し込んでいた。いつの間に眠りに落ちてしまったのか、僕は昨夜の記憶を辿っていったけれど、ユサとの通話が切れたところから先を思い出すことがどうしてもできなかった。部屋を見渡して、僕はツバメの姿を探した。でもどこにも見当たらなかった。ガラス製のローテーブルの上には、確かに昨日取り出した消毒薬のビンとガーゼが置かれている。でもツバメに差し出したはずの、そしてそれで血を拭ったはずのハンドタオルはどこにも見当たらなかった。僕は急にある思いに突き動かされて、ベランダの窓を開けた。おそらく過度にセンチメンタルになっていたためだろう、僕はベランダに小鳥の死骸が落ちているのではないかと思いついてそれを確認した。小鳥の死骸は、でもベランダのどこにも見当たらなかった。そのことに僕は安堵しつつ、ツバメと昨夜どのように別れたのかが思い出せない以上、それで安心し切るというわけではもちろんなかった。僕はベランダの柵に寄りかかって空を見上げた。カラスは見当たらないし、その鳴き声も聴こえない。耳に入るのは、ただ近くの幹線道路を通過する複数の車の音の総合体のみ。くっきりとした日差しが暑くなって、僕はすぐに部屋に戻った。スリープ状態のまま放置されたノートパソコンを起動させると、昨夜書いていた文章のデータが中途半端なところで途切れたまま保存もされず残っていた。簡単に文章に目を通し、とりあえずはそのままデータを上書きする。すぐに続きに取り掛かる前に、僕はシャワーを浴びて汗を落としてからコーヒーを入れた。そうして準備ができて改めてノートパソコンの画面に向かってすぐ、携帯電話が着信して振動を始めた。ユサからかと思い表示版を見ると、登録のされていない電話番号が表示されている。どこかで見覚えがあるような気がしたけれど、特に思い当たらないままとりあえず僕は電話に出た。スピーカーを通して耳に届いたのは、女の子の声だった。

 今日、遊びに行ってもいい? と女の子は訊ねた。いつも通りの、年齢の割にややハスキーな、不機嫌そうな声で。いいよ、いつ頃来る? という僕の問いに、お昼過ぎ、と女の子は短く答える。僕は時計を見て再度訊ねた。一時ごろかな? お昼ご飯を用意したほうがいいよね? それに対して女の子はきっぱりと、ご飯はいらない、と断った。あたしたちはあたしたちで食べてくるから。その言葉に反応して、わたしたち? と僕は繰り返した。女の子は小さく息を吸って、今日は「みゅみゅ」とふたりで遊びに行きたいんだけど、と怒ったみたいな口調で言った。「みゅみゅ」と佐伯ちひろが頭の中でリンクするまでに少し時間を置いてから、分かったよ、と僕は了承した。じゃあ後でね、と硬質な声で言ってから、女の子は一方的に電話を切った。携帯電話に女の子の番号を登録しようかどうか、少し迷ってから、僕は結局何もせずに携帯電話をしまう。どうせ僕の番号にかけてくる人は限られているし、それに登録名に「女の子」と入力するわけにもいかないと思ったから。ふと思いついて、僕はユサの番号にコールしてみた。でもそれは、おそらく電源が切られているため届かなかった。多分このまま回線を止めてしまうのだろう。ユサとの連絡手段は、これで消えた。

 小説を書いていると、十時ごろにまた携帯電話が振動した。佐伯ちひろからのコールだった。暗号の件、解けましたよ! と普段よりも少しハイな調子で佐伯ちひろは言った。ねこの目の女の子がノベルワークで一番最初に名乗っていた名前、分かったんです。「名前探しの迷宮」の中で、実際にその名前を入力したら、先へ進めました! まだ最後まではたどり着いてないんですけど、でも終りは近いですね。キシさんにもその名前、教えようと思って電話しました。いかがですか? 僕はすぐに聞き出すのが何故かためらわれて、その代わりにどうやって名前を見つけたのかをまず佐伯ちひろに訊ねた。ふっふっふ、と自慢するような作り笑いをした後、一転して素朴な声音で佐伯ちひろは言った。「夜鷹」さんのおかげなんです。実は昨日の夜、メッセで「夜鷹」さんとお話をしてたんですけど、その時の話の流れで、「夜鷹」さんがキシさんのノベルワーク時代の作品をいろいろと保存してるって聞いたんです。お願いをして、わたしのパソコンにそのデータを送ってもらったんですけど、そのオマケとして、「夜鷹」さんが「クリスタルパレス発」の感想コメント一覧も付けてくれたんです。そこでのやり取りが面白くて、特別に保存したんだと「夜鷹」さんは言ってました。それで、コメント投稿者の名前の欄に、あったんです。ねこの目の女の子が一番最初に使っていた、ハンドルネームが。でもキシさん、それに全く心当たりはないですか?

 思いつかないな、と僕は実際そう思って答えた。そうなんですか、少しも? と佐伯ちひろは食い下がった。カタカナ三文字です、とヒントを出しもした。でもそれで、僕の記憶が喚起されることもなかった。佐伯ちひろは残念そうにつぶやいた。そうなんですか。この名前は普通の女の子の名前で、だからもしかしたらあの子の本名じゃないかな、と思ったんですけど。じゃあ言いますね、メモの準備はいいですか? 答えはノゾミです。カタカナ三文字で、ノ、ゾ、ミ。これってもしかして本名なんでしょうかね? キシさん何かご存知ないです? 僕は念のため手許のレポート用紙にボールペンでその名前を記しながら、違うと思う、と佐伯ちひろに伝えた。そもそもあのゲームの目的が、あの子の本名にたどり着くことだとしたら、それが途中の暗号で使われるのも変じゃない? 僕の疑問に、佐伯ちひろは納得した。ああ、そっか、確かにそうですよね。じゃあ違うのか。そして考え事をするように黙り込む佐伯ちひろに、今日のお昼遊びに来るんだって? と僕は水を向けた。ああ、そのこと言うの忘れてました! と慌てた様子で佐伯ちひろは話題を拾った。そうなんです、昨日はあの子とも、ノゾミちゃんともメッセでお話したんですけど、そのときに、ふたりでキシさんの家に遊びに行こうってことになったんです。キシさんに連絡しなきゃってわたしが言ったら、そんなの必要ないって、ノゾミちゃんは明日行こうって話を決めちゃうんです。キシさん大丈夫でした?

 さっそく採用されたノゾミちゃん、という呼び方に違和感を覚えつつ、ともかく僕は遊びに来るのは構わないと伝える。良かったです、とほっとしたような声で佐伯ちひろは言った。わたしたちは、どこかでご飯を食べてから遊びに行きます。たぶん一時ごろになるかなと思います。キシさんの部屋にはゲーム機がありますよね? それで三人で遊ぼうって、昨日はそんなことも話してました。わたし、ビデオゲームとかやったことなくて。ノゾミちゃんも、やっぱりキシさんのところに遊びに行くまではゲームに触ったこともなくて、でもキシさんのところで遊ぶようになって、結構はまってきたって言ってました。楽しみにしてます。それでは後ほど。電話が切れた後で、僕は「名前探しの迷宮」をプレイしてみようかと少しだけ考えた。でもそれは、後回しにして今は小説を書こうと結論した。ノゾミ、という新たな呼び名を奇妙な手触りの感覚とともにときどき思い出しつつ、僕はキーボードを叩いた。もちろんその名前は、新しいものではなく過去から取り出されたものだけれど。

 一時を少し過ぎた頃、ふたりはやって来た。佐伯ちひろの呼び方にならって、ノゾミは、やっぱり不機嫌そうな表情で僕の部屋に入ってきた。いつもの通り、僕の部屋に落ち度があることを探すような目付きであたりを見渡すと、無造作にピンクのリュックを床に落とした。佐伯ちひろは、こちらもおなじみの微笑の仮面を被って興味深そうに僕の部屋を見渡した。佐伯ちひろが高校の制服ではなく私服姿であることに僕は何故かほっとした。何飲みたい? ノゾミは佐伯ちひろに向かってぶっきらぼうに訊ねた。コーヒーか紅茶なら、いつでもあるから。佐伯ちひろはちょっとだけ僕を見て、どちらかというと、コーヒーよりも紅茶が好きです、と困ったような笑みを浮かべて言った。だって、とぞんざいな視線を向けるノゾミに、今作るよ、と僕は諦めを装って従った。その様子を、佐伯ちひろはクスリと笑った。そういうふうにノゾミの行動が相対化されるのを、僕は新しい出来事として受け止めた。キッチンで紅茶の準備をしながら、となりの部屋で佐伯ちひろとおしゃべりをするノゾミの声を聞くというのも、そう。僕の部屋の批評をしているらしいので、なるべく内容は聞き取らないよう努めたけれど。

 紅茶を持っていくと、ふたりは並んでベッドに腰掛けて、ゲームの説明書をめくっていた。ガラス製のローテーブルにカップを置くと、ありがとうございます、と佐伯ちひろは丁寧にお礼を言った。ノゾミは当然のように無視して、ゲームの説明を続けた。でも何故か、その無視の仕方がどことなくぎこちなく感じられてしまう。無理をして無視している、という印象を受ける。それが実際にその通りなのか、それとも佐伯ちひろの態度と対比してそのように見えるだけなのか、その判断はつかないけれど。僕はキッチンに戻り、クッキーを取り出して皿に盛った。テーブルの上に載せ、ふたりに勧めてから自分でも一枚食べる。ノゾミは説明を中断して、佐伯ちひろと目配せをしてからクッキーを取った。それを齧りながら、ようやく紅茶に口を付ける。美味しいですね、と佐伯ちひろはしんみりと言ったけれど、どこまで本気でそう思っているのかよく分からない。ノゾミはノゾミで眉間にしわを寄せて黙り込んだまま食べているので、まずいものを無理やり咀嚼しているように見える。僕が食べてみた分には、少なくともそんな顔をして食べるほどにはまずくはないと思うのだけれど。

 本がいっぱいあるんですね、と佐伯ちひろは思い出したように僕に話しかけた。スチール製の白い書棚を指さして、何冊くらいあるんでしょうね? と訊ねる。僕も書棚を振り返って、何冊くらいあるのかなあ、としみじみつぶやく。数えたことないから、見当もつかない。それに、買ってそのままの本も結構あるから、これを全部読んだわけじゃないよ。僕の説明に、佐伯ちひろはコクコクうなずいて反応を示したけれど、ノゾミはやっぱりわざとらしく無視をしていた。僕は、ノゾミを話に巻き込もうと考え、話題を替えた。今日は何を食べてきたの? ふたりがそうやって遊ぶようになるなんて、想像もつかなかったけど、どんな話をしてるの? しっかりとノゾミを見つめて訊ねたのに、それに答えたのは佐伯ちひろだった。待ち合わせをした駅前のドトールで、サンドイッチを食べました。美味しかったよね? お話は、特別テーマを設けてとかそういうことじゃなく、本当にただのおしゃべりです。わたしが学校とか家族とかの悪口をたくさん言って、ノゾミちゃんが鋭いツッコミを入れる、とかそんな感じです。でもノゾミちゃんひどいんですよ! 一番最初、出会ったときにわたしに向かって何て言ったと思います? あなたのことはノベルワークで見かけたから名前は知ってるけど、作品は全然面白くなかったから、読んでない。初対面でイキナリですよ! そりゃ、わたしみたいな頭の悪さ全開の小説なんて、ノゾミちゃん嫌いだろうなってことくらい自分でも分かりますよ、でも、そんなことイキナリ言わなくてもいいじゃないですか! こっちはそんなこと言われて頭の中真っ白ですよ! ひどいですよね? 責め立てる言葉とは裏腹に心底楽しげに話す佐伯ちひろは、ノゾミちゃんという呼び名を使ったとき、当のノゾミが非難がましい鋭い目付きで自分を睨んだことに気づいていない様子だった。いずれにしても、ノゾミは睨みつけるだけでそれ以外の態度を示さなかったから、その抗議は意味を為さずすり抜けられてしまった。その後の会話で、ノゾミちゃんという呼び掛けは当たり前のように繰り返されることになった。

 紅茶を飲みながら僕たちはおしゃべりを続けた。おしゃべりといっても、しゃべっているのはほとんどが佐伯ちひろで僕は聞き役、そしてノゾミはほぼ口をつぐんでいるという状態だったけれど。しばらくそんな状況が続いて、クッキーの皿が空になったところで、しゃべり続ける佐伯ちひろを遮ってふいにノゾミが口を開いた。そろそろゲームをしよう。キシ、準備をして。そう命じながら自分でもベッドから降りてゲーム機を取り出し始めた。手伝おうとする佐伯ちひろに、ちひろは説明書を読んでて、と冷たくあしらった。どのゲームで遊ぶの、と訊ねると、ノゾミはテレビの後ろからコードを引っ張り出しながら、先日も遊んだレーシングゲームを指定した。ゲームディスクとコントローラーを取り出す僕に、ちひろは初心者なんだから大人げない真似はしないでね、と釘を刺しもした。気づかれないように手加減をして、華を持たせるように気遣え、とその鋭い目で合図しているようにも見えた。つまり、三人で一緒に遊ぶということらしい。僕は手許にある三つのコントローラー全てを準備した。佐伯ちひろに手渡すと、不思議そうにいろいろな角度から点検して、テレビで見たことあります、でも実物は初めて見ます、と静かな興奮を示して言った。

 電源を付け、ゲーム画面がテレビに映し出された。ノゾミが主導して、一番簡単なコースを選び他のコンピューター操作のキャラクターも最弱設定にした。操作キャラクターを迷っている佐伯ちひろに、使いやすいキャラクターを伝えもした。そうして準備が整い、画面がコースの様子を映してレースの開始を予告すると、佐伯ちひろがにわかに焦り出した。え、もう始まっちゃうんですか? うわ、どうしよう、どうしたらいいんだっけ? ノゾミは険しい顔つきで画面を見つめながら、アクセルのボタンだけ佐伯ちひろに教えた。スタートのシグナルが鳴ってから、そのボタンを押せばいい。基本的に押しっぱなしで、後はハンドル操作だけ集中すればいいから。コースアウトしないことだけを考えて、アイテムは、今は無視していい。そうしてレースが始まってみると、案の定アクセルボタンを押すのが早すぎたため、佐伯ちひろの操作する車はスタートを失敗してエンストしていた。パニックになって騒ぐ佐伯ちひろに、自分の車を操作しながら、心配しなくていいとノゾミは伝えた。少ししたら普通に走り出せるようになるから、それまで待って。それくらいの遅れは、すぐ取り返せるから。一方僕は、高度なテクニックやアイテムは使わないという「縛り」を自らに課して、気ままに走っていた。先頭集団につけているが、一位ではない。その少し後ろに、ノゾミの操作する車が静かについてきている。ようやく走り出した佐伯ちひろに適切にアドヴァイスを挟みながら、一方で器用に自分の車を走らせもしている。僕がひとり感心していると、ノゾミの使った攻撃アイテムが僕の車をクラッシュさせ、後続車に次々に抜かれていってしまった。その後で、よろよろと頼りない走行をする佐伯ちひろの車が僕を追い越していった。つまり、僕は最下位まで落ち込んでしまった。

 「縛り」を課しているとはいえ、コンピューターは最弱設定にされているので先頭集団に復帰するのは難しいことではなかった。きゃーきゃー言いながら蛇行運転をする佐伯ちひろを簡単に抜かし、コンピューター操作も車たちもひとつひとつ抜かして、先頭にいるノゾミにも追いついた。そのノゾミも追い抜かしてトップに立つと、再びノゾミの放った攻撃アイテムが僕を捉え、クラッシュさせられる。ノゾミの方を見ると、細めた目で逆に睨み返された。僕は佐伯ちひろのことも忘れてただゲームにのめり込んでいる自分に、ようやく気づいた。ノゾミは佐伯ちひろの画面を確認しながら、その都度適切なアドヴァイスをしつつ、トップをキープしている。自分の幼稚さを恥じつつ、僕は体勢を立て直してまた走り始める。今度は僕も佐伯ちひろの走行に気を配りながら、ときどき助言を挟むようにした。進路がぶれるたびわめいていた佐伯ちひろも、最終ラップでは早くも安定した走行が長く続くようになり、コースを外れても焦って声を上げることはなくなっていた。結果的には最下位で終ったけれど、次こそは! と本人も意気揚々に構えていた。

 もちろん短い間に急速に上達する、ということもなかったけれど、四レースのセットが終る頃には最弱設定のコンピューターたちとそれなりに競えるくらいにはなっていた。でも集中しすぎたせいか、佐伯ちひろは疲れきって、続けてゲームをすることができなかった。ちょっと休憩させてください、と佐伯ちひろは申し出た。良かったら、おふたりで勝負してみてください。わたし、見てますから。それで、僕とノゾミと勝負することになった。ノゾミは迷わず一番難しいコースを選び、他のコンピューター操作の車も最強設定に戻した。レースが始まってみると、ノゾミは明らかに本気で挑みかかっていた。使える技術も補助アイテムも全てを使ってレースに臨んでいた。ゲームを始めたばかりの佐伯ちひろがそれを見て、自分にはついていけないとげんなりした気分にさせてしまうのではと恐れたけれど、ともかくその本気モードのノゾミに付き合う形で僕も出し惜しみせず戦った。そしてレース中、意外にもノゾミはとても饒舌にそれと関係のない話を始めた。キシの正しい「アイスパレスの王女さま」は、進んでる?

 そこそこね、と答えながら、僕の車はノゾミの車と烈しいコーナリングの攻防を繰り広げていた。最近特に順調に進んでるよ。もちろん今月中に書き終るとか、というレベルでもないけど。年内には書き上がるんじゃないかなって、期待してる。ノゾミの車を弾き、僕の車はトップに躍り出た。コースから逸れたせいで、ノゾミの車は減速しすぐには僕に追いつけない。ひと息ついた僕に、横から佐伯ちひろが訊ねた。「アイスパレスの王女さま」は、この前の夏祭り競作企画に出された作品ですよね? その続編を、今書いてるんですか? 執念深く僕を追跡するノゾミが、低くてそのせいで怒っているように聞こえる声で補足する。またあたしをモデルにした女の子が出るんだよ。それを聞いて佐伯ちひろは嬉しそうに声を上げた。僕は、気まずく沈黙しなければならなかった。

 その小説の中で、やっぱりあたしには名前がないんでしょ? 僕との距離を縮めるため、危険なほどのコーナリングでカーブを曲がりながらも声音は冷静にノゾミは言った。どうせその女の子も、小説の文章では代名詞で呼ばれてるんだ。それをいいことに、その姿だって匿名的に書かれてると思う。というか、実際にそう書いてるよね。バラしちゃうけど、あたしたまにキシのパソコン勝手に見てるからね。ねこの目のって枕詞さえなくして、あたしはただの「女の子」になっちゃった。あたしはどんどん顔のない人物になっていってる。でもそれを、文句を言うわけじゃない。キシがそう書きたいのなら、そう書けばいい。それは勝手だよ。でもね、あたしはあたしで、それに対する逆襲を考えてもいる。キシ、どんなふうに逆襲されるのか、知りたい?

 補助アイテムの助けなしで、ノゾミは僕の間近に迫っていた。僕は、少しのミスも許されないプレッシャーで、まともに会話に参加できなかった。そのことをどう受け取ったのかは分からないけれど、ともかくノゾミは、彼女のプランを静かに僕に教えた。キシの小説を、コンピューターウイルスのメールに乗せて、世界中にばら蒔くの。乗せるデータはウイルス自体を除けば小説のテキストだけ。だから作者が作中のキシであることは何となく分かっても、それが実際にどこの誰なのか、読んだ人には分からない。だって、ウイルスに乗ってやってくるんだもんね。そうしてキシという存在が、匿名の世界に引っ張りこまれる。ただ小説の中だけの存在になる。一方でメールの文章には、こんな一文も載せておく。「女の子の顔をください」。コンピューターウイルスが拡がって、これがちょっとした話題になれば、この一文を面白がって行動を起こす人たちもきっと出てくる。それがツイッターを通してか、SNSか、あるいは2ちゃんねるかは分からないけれど、ともかくいろいろな顔が集められることになる。それはおそらく大半がイラストによるものだと思うけど、「女の子」を表現したたくさんの、別々の顔が、あるひとつの場所に集められる。そうして匿名だった「女の子」は、別の意味を持つようになる。誰でもなかった「女の子」が、たくさんの可能性を持つ「女の子」として、意味を書き換えられる。キシが匿名性に押し込めようとしていたものが、たくさんの顔を手に入れて、逆にキシの存在を匿名性の彼方に押しやろうとする。ねえキシ、そうなったら、あたしの勝ちだ!

 ノゾミの車が僕を負い抜かすと、僕にはもう、補助アイテムに頼る以外にトップを奪い返す方法はなくなってしまった。そしてときどき現れる補助アイテムも、ノゾミがキープする補助アイテムでことごとくガードされてしまう。それ以降のレースは、当たり前の光景が繰り返されるだけだった。技術に長けた方が、先を進む。そしてそれは、すでに圧倒的にノゾミの方だった。

 最初のレースが終ったとき、僕は消耗しきってコントローラーから手を離した。そしてノゾミのイメージによる、コンピューターウイルスに乗って世界中にばら蒔かれる僕の小説について考えてみた。ネット上に集められる、同時にたくさん存在する別々の顔についても。それは結局、根拠のない妄想としか思えなかった。どう転んでも、そういう進み行きにはならないだろう。でも、たくさんの顔を持つ「女の子」というイメージに、惹きつけられないわけにもいかなかった。僕はノゾミの顔をじっと見つめた。その視線を十分に感じ取っていながら、ノゾミはこちらを向かなかった。ゲーム画面を静かに見つめ、ボタンを押してくれないと、次のレースに進めないんだけど、と冷たく言った。僕は首を振って、もう疲れきったのでこれ以上ゲームはできそうにない、と伝えた。僕の負けだ。

 そうしてこちらを振り向いたノゾミの顔を、美しいと僕は思った。でもそれについて、具体的に描写することは僕にはできなかった。だらしないね。佐伯ちひろに顔を向けて、ノゾミは呆れたように言った。そうして今度はふたりでゲームを始めた。こわばった顔で神妙に僕とノゾミのやりとりを聞いていた佐伯ちひろは、遅れて笑顔を回復させていたけれど、その切り替わりの瞬間、得体の知れない表情がその顔に一瞬だけ現れたように、僕には思えた。

 ふたりは夕方までゲームをしていき、そして帰っていった。静かになった部屋で、僕は小説の続きを書こうとした。でもノゾミが置いていったさまざまなイメージが邪魔をして、そしてまた疲れきってもいたから、それは一向に捗らなかった。簡単に夕食を済ませた後で、僕は「名前探しの迷宮」をプレイした。それほど長くかからずに、僕は最後の部屋にたどり着いた。少女の前に、本当の名前が差し出される瞬間、僕はゲームのウィンドウを閉じた。女の子の本当の名前など、僕には要らなかったから。

次回更新は8/14(日)を予定

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