28 「ぐちゃぐちゃ」
それはどことなく急かすような切実さを感じさせる音だった。そう考えると、今まで聴いた音はどちらも向こう側に余裕のある響きをしていたように思う。余裕の内容はそれぞれ違うにしろ、それは聞き落とされても致命的なことにはならないという点でおそらく一致していた。つまり、今度の音は僕に対する明確な呼び掛けだった。気づいてもらわなければ困る、という意志を含んでいた。声もなく、気配もなく、それでも窓ガラスをやや強く叩く音は何にも増して存在感を持っていた。僕は立ち上がり、幅広の窓のところまで歩いた。レースのカーテンを払いのけると、闇夜を背景に窓ガラスはうっすらと僕の姿を反映していた。僕は、少し不機嫌そうな顔をして窓ガラスの向こうに立っているように見えた。その幻影を透かして見るベランダに、息づくものは見当たらない。何もいない、と結論を出す寸前で、でも僕は目の端で窓の外に屈みこんでいる少女の姿を捉えた。それは確かにそこにいた。
少女は両手で顔を覆ってうずくまっていた。肩にかかる長さの髪は、おさげの形に結われている。部屋からの明かりに照らされて、民族調の模様のベージュ色のワンピースを着ていることがわかる。背中に翼があるわけではないけれど、それがツバメであることはすぐに分かった。僕が今まで思い描いてきた特徴を全て備えているし、先日僕の部屋に現れた時の影としての姿も、目の前の少女と矛盾する要素を持たなかった。それでも僕は、彼女が当たり前のように蛍光灯の明かりに照らされてそこに佇んでいることに、正しくないという印象を受けた。ツバメは、そのようにして僕の前に現れるべきじゃない。でも、ともかく、僕は窓を開けてその少女に声をかけた。どうしたの、ツバメ? 部屋から漏れる光は、より直接に少女を照らした。少女の肩は痙攣的に揺れ、泣いているように見える。僕の呼びかけに反応はない。少し間を置いて、もう一度声をかけてみる。どうしたの、ツバメ? でもやはり反応はない、幅の狭い肩と、顔を押さえる手のひらが、小刻みに震える。僕はその指先に何か小さな違和感を覚えた。半袖のワンピースから伸びる腕の部分と手の甲の部分までは少女らしい自然な乳白色が続くのに、そこから先の指の部分だけ、何か不自然に浅黒い色をしている。目を凝らしてよく見ると、褐色のまだらなシミが彼女の指先に拡がっている、それが血の汚れだと気づいた瞬間、僕は息を呑んで思わず後ずさりさえしてしまいそうになった。
それと同期して、威嚇するようなカラスの鳴き声が孤立して闇夜に響いた。うずくまる少女はあからさまにおののいて、顔を覆ったまま逃げ惑うようにして光の充填した僕の部屋の中へと飛び込んだ。いろいろなものにぶつかりながら、少女は部屋の隅にたどり着くと一段と小さくうずくまって肩を震わせた。僕は半身だけベランダに出して空を見上げた。カラスの鳴き声は続いている。それはけたたましく鳴き、その姿を見ることはできないがおそらくはこのアパートのすぐ上空を旋回して飛んでいる。僕は見極めようと、墨で塗りつぶされたような色の空を少しだけ睨んだ。でもすぐに無駄だと諦めてガラス窓を閉めた。少女は相変わらず部屋の隅にへばりつくような格好でうずくまり、自分自身の体の奥底から湧き上る震えと必死に戦っているように見える。もう大丈夫だよ。僕は彼女の恐怖心をほんの少しでも除けられたらいいと思い、穏やかな声で言った。もう窓を閉めて、鍵もかけた。あいつはこの部屋には入って来れない。だから、安心していい。小刻みに振動するだけで何も言わない少女の姿は小動物を想起させ、それゆえに僕の言葉は何ひとつ伝わらないという気分に僕を貶める。僕は瞬間的に、黒白ねこのクロに話しかけた日のことを思い出していた。悪いけど、君の名前を見つけてあげられそうにない。そうつぶやいたとき、僕は少しでもねこにこちらの気持ちが伝わることを想定していただろうか、とふと思う。そして、今は? その答えが何であれ、僕はわななく少女にさらに声をかける。湿らせたタオルを持ってくるよ。顔が汚れているなら、それで拭けばいい。待ってて。僕はクローゼットからハンドタオルを取り出すと、水道水に濡らすためキッチンへ行こうとした。でもその前に、よく聞き取れないけれど心を強くひっかく悲痛さの金切り声で少女は叫び、僕の足を止めた。僕は少女を振り返った。同じ体勢のまま、少女は荒い呼吸の音と奥歯をカチカチ鳴らす音を新たにさせていた。そしてそれらの音のさらに隙間から漏らすような低声で、喘ぐように、少女は言った。要らないから、そんなものはもう、無意味だから。
無意味? と僕は考えもなしに繰り返した。少女は先程と同質の金切り声に怒りを混ぜて叫んで、僕をひるませた。ダメなの! わたしの顔は、もうぐちゃぐちゃなの! まず僕はその声の響きに震撼された。そして次にはその内容に。少女は声を上げて泣き始めた。滅入るような響きが部屋を満たした。僕はかける言葉を見つけられず、しばらくは呆然と立ち尽くして、少女の丸まった後姿を見つめていた。断続的に続いていたカラスの鳴き声は、段々と小さくなりやがて聴こえなくなった。エアコンの唸り声と、打ちのめされたような少女の泣き声だけが残った。僕は結局キッチンへ行き蛇口をひねってハンドタオルを濡らした。おそらくは、他にすることもなかったから。余分な水を絞ってから部屋に戻ると、少女の泣き声は少しだけ弱まっていた。そのことに力づけられて近づく僕に、少女はまたヒステリックな金切り声でそれを制した。来ないで! 近くに来ないで!
怪我をしてるなら、放っておけない。僕は大人げなくムキになって少女に言った。大丈夫、きっとちょっと切っただけだよ。問題ない。血を拭いて、傷口を消毒すればすぐ良くなる。傷が治るまでは、ここで休んでいけばいい。ここならあいつは来ないだろう? そう語りかけながら近づこうとする僕に、少女は拒否の態度を繰り返した。その代わり彼女は、十分に怯えきってはいるけれど幾分落ち着きを取り戻した声で僕に訊ねた。あれはあなたの書いたキャラクターじゃないでしょ? あいつはどこから来たの? わたしはあいつに攻撃された、硬い嘴で顔をぐちゃぐちゃに突っつき回された! 血がたくさん流れて、わたしは逃げ回るしかなかった。あいつは笑いながらわたしを追っかけてきた。本当はいつでも追いつけたのに、わたしをいたぶって楽しんでたんだ! あいつはわたしの顔だけを狙った。わたしの顔が傷つくのを喜んだ。どうしてあんなことができるの? ねえキシ、あいつはあなたの生み出したキャラクターじゃない。それなのになんで、どうして、あいつの笑い声はねこキラーと同じなの!?
僕は湿ったハンドタオルを手にしたまま、何も言わずスイッチを押して部屋の明かりを消した。蛍光灯から光の代わりに闇が放たれたように、それは素早く部屋の隅々にまで行き渡って角にうずくまる少女を包んだ。闇の中で少女はツバメになった。僕は近づき、ハンドタオルを差し出した。こちらに顔を向けないのにそれを察知して、ツバメはうつむいたまま左手を伸ばして手探りで受け取った。折り畳んだままのタオルに顔をうずめ、そのままじっと動かなくなる。僕は暗闇の中で棚を探し当て、引き出しの中から消毒薬とガーゼを取り出した。ガラス製のローテーブルの上にそれを置き、ベッドに腰掛けて闇の中で影に見えるツバメのうずくまる後姿を見つめる。闇のせいか先程までの痙攣的な動きが見えなくなり、じっと静止したツバメの姿は本当に何かの影のように見える。生物的な存在感も消え、僕は先程までの話さえ忘れかけていた。ときどき鼻をすする音だけが思い出したように繰り返されたけれど、それが目の前のツバメの姿と関連を持って認識されない。以前この部屋に現れた時と同じ、姿とは別の印象としての声で、ツバメはまた話し始めた。ねこキラーは自分の姿を欲しがってた。本当に切実にそれを求めてた。だからあの女の子に狙いをつけて、じっと機会をうかがってた。そういう意味で、わたしはねこキラーの敵だったと思う。それでもわたしは、自分がねこキラーに攻撃されるなんて考えてもみなかった。キシは確かにねこキラーを暴力的な存在として書いたけれど、でもそれは、そういうことじゃなかったでしょ? あのカラスが何者なのか、わたしには分からない。どういう形か分からないけど、ねこキラーはあいつと手を組んだ。より直接的なことをするために。あいつはきっとこれからもいろいろなものを攻撃するよ。そして、あいつは空を飛べる。きっと暗号の電光掲示板も、あいつはあいつなりに捉えてる。顔を覆うタオルが口に被さっていないからなのだろうけれど、その声がくぐもったりはせずクリアに聞こえることに、別の存在としての声という認識を僕は強めた。落ち着きを取り戻したしゃべり方も、きっとそれに加担していたと思う。
顔をハンドタオルで押さえたまま、ツバメはふいに立ち上がって似つかわしくない心細げな声で僕の名を呼んだ。ねえ、どこにいるの? 僕はベッドに腰掛けた体勢のまま、ここにいるよ、と低い声でつぶやいた。右手は顔を押さえたまま、突き出した左手で障害物を探りつつ、ツバメはこちらに向けてゆっくりと足を進めた。ガラス製のローテーブルに足をぶつけ、消毒薬のビンが音を立てて揺れる。ツバメは僕の目の前で立ち止まると、また不安げな声でどこにいるのと訊ねた。ここだよ、という僕の声を間近に聞いて、ツバメはそのまま僕の方へ倒れかかってきた。僕の体に寄りかかって、ツバメはまた静かに泣き始める。発熱して高まる体温が伝わり、とぎれとぎれにしゃくり上げるのど元の動きを、ダイレクトに肩に感じる。僕は十分に戸惑いながらもツバメの背中を支え、慰めるつもりで何度もさすった。背中は、何故かある一部分にじんわりと熱を持っていた。闇の中でツバメの重みだけが誇張されて感じられた。まさに目の前にある黒い影としての姿よりも、その重さによって、僕はツバメの存在を感じていた。耳許で聞こえる声は、やはりそれとは切り離された存在として僕には認識された。
ごめん、なさい。切れ切れな声でツバメは言った。わたしの、顔は、もう、ぐちゃぐちゃ、で、たぶん、空も、もう飛べない。あなたを、連れて、夜空を、飛ぶことが、もう、もう、できない。一緒に、暗号を、解くことも、もう、でき、ない。役に、立たなくて、ほんとう、に、ごめん、なさい。わたしは、もう、ゴミ。何の、役にも、立たない、ただ、の、ゴミ。役割、を、果たせ、ない。もう、何も、わたしを、幸せに、して、くれない。翼が、ダメに、なるよりも、もっと、ずっと、ひどい。わたし、もう、何も、見えないんだよ。
黒い感情の塊をやり過ごすため、下唇を強く噛む。それはとても強力で、僕は体をバラバラにされそうになる。ほとんど千切れかけていたのかもしれない。でもきっと、ツバメの体の重みが、逆に僕自身を支えてくれたのだと思う。波が収まった後、僕はとりわけ熱を放っているツバメの背中の箇所をぎゅっと押した。それに反応して体を震わせるツバメに、そんなことはないよ、とだけ伝える。本当は、こうも言いたかった。空を飛べなくなったとしても、顔を傷つけられたとしても、ツバメはツバメだ、ゴミのはずがない、と。でもその趣旨を伝えるための適切な言葉を、僕は見つけられなかった。そして、口をつぐんでしまう。僕はふいに気づく。今までも僕はそのようにして失敗を続けてきたんだ、と。伝えたい、伝えるべき何かがあったとしても、それを伝えるべき適切な言葉が見つからなければ、僕は平気で口をつぐんできた。何も言ってこなかった。そして誤解をされたり腹を立てられたりすることを、僕は静かな態度で受け入れてきた。もちろんそれが悪いことだとは十分に分かっていたと思う。でもそれを、問題意識として捉えることはしてこなかった。今こうして、僕にはこういう問題があるとパッケージされてみても、それでも僕は、やはり口を開こうとはしなかった。僕は無言でツバメの背中の熱を持つ部分を押し続けた。それで何かが伝わるとでも、思い込んでいるみたいに。
枕許に置いていた携帯電話が振動を始めた。振動の種類から、それが誰かからのコールだと分かる。手を伸ばせば取れる位置にあったから、僕はツバメを支えた格好のまま、携帯電話を手に取った。それはユサからのコールだった。通話を切るわけにもいかないので、マットレスに携帯電話を押し当てて音が目立たないようにした。出て、あげてよ。それを見透かしてツバメがささやいた。大切な、友達から、でしょ? 邪魔なら、わたし、退くから。そう言って体を離す素振りを見せるツバメに、このままでいいと遮ってから、僕は通話のボタンを押した。電話の向こうで、ユサの声音はこちらの予期に反してやや弾んだ明るいものだった。起きてたんだ、なかなか出ないからもう寝てるのかと思ったよ。
まだ起きてたよ、と僕は慎重に答えた。僕が次の言葉を言う前に、ユサは攻撃的な速さで機先を制した。キシがいっぱい送り付けた気持ち悪いメールはちゃんと読んだよ。同じことを電話でまた繰り返されても困るから、先に結論だけ言うね。もう二度と会わないとは言わないけど、あたしも結構ムカついてるから、しばらくは会いたくないな。それがどれくらい長くなるかは分からないけど。ユサの注文に従って、悪かったよとだけ短く謝ると、何故かユサは吹き出して、楽しげに笑った。ウソウソ、そんなに怒ってないから安心しなよ! そりゃさ、キシが途中で帰っちゃったの見て、ムカっとはきたよ。何だあのやろうって、ステージの上から思ってた。でも出ていくときのキシの真っ白な顔を思い出したら、何か笑えてきた! 何あれ、お腹でも壊したの? ちゃんとしたもの食えよな! 今日ずっと電話に出なかったのも、別に怒ってたからじゃなくて、単純に二日酔いでぐったりと寝てただけ。「それいゆ」のみんなで、朝までお酒飲んだりカラオケ行ったりして遊び回ってたから、お日さまの出てる間はずーっと横になって死んでた。一度だけ、キシからのコールを取ったけど、すぐに切っちゃった。取ったはいいけど、とても会話できる状態じゃなかったしね。ようやく夜になって少しは回復して、改めて携帯を見てみるとずらっとキシからのメールと着信履歴で埋めつくされてるでしょ。で、しかもメールはちょっとずつ深刻になっていくの! あれは笑えたね、夜中にひとりでゲラゲラ笑った! キシ案外と文才あるね、数学なんか勉強してる場合じゃないぞ! 喜劇小説でも書いてみれば?
終始上機嫌に話すユサに、躁病めいた不安定さを感じないわけにはいかなかった。その一方で、実際に僕が心配していたほど深刻でもなかったのかな、と油断する気分もあった。しばらく会えないなら、と僕はニュートラルな態度で訊いた。次、いつごろ会えるかな?
そうそう、それなんだけど、と変わらず上ずった調子の声でユサは言った。会いたくないってのは冗談としても、実はしばらくは本当に会えないんだよ。「それいゆ」解散に合わせてバイトもやめて、あんまり好きな言い方じゃないんだけどちょっくら自分探しの旅にでも出かけようって考えてるんだ。なけなしの貯金を削って、ぶらぶらとあちこちに行ってみようって。それで、その間は会えなくなる。その期間は携帯も止めておくつもりで、連絡もつかなくなる。このご時世に凄いでしょ? 旅から戻ってきたら、携帯を復活させて連絡しようとは思うけど、まだどのくらい消えてるか、自分でも決めてないんだ。まあ、有り金なくなったら帰るしかないけどね。一週間か二週間か、それとも一ヶ月以上になるのか。どうなるやらね。僕は相槌を打って、いつから出かけるのかと訊ねた。んー、明日? とユサは疑問形で答えた。二日酔いが抜けてれば、もう明日にでも出ていくよ。善は急げと言うでしょ。あ、見送りとかいらないからね、馬鹿臭いから! そう言って笑い出すユサに、出かける前に会おう、と言い出せなかった。そうして黙り込む僕に、ユサは笑い声を止め、冷やかすような声を作って言った。どうせキシ、今日は部屋に女でも連れ込んでるんでしょ? 邪魔しちゃって悪かったね! もう電話切るから、続きを楽しみなよ! ユサに似合わない露骨な冗談を意外に感じながら、そんなことはないよと一応否定の返事をした。ツバメの息遣いを携帯電話が拾っていないか、ギクリともしたけれど。ひひひ、と技巧的な作り笑いをしてから、ユサは思い出したように言った。ああゴメン、もう一個だけいい? この前一緒に見に行こうとして、どこだか分からなくなっちゃったマンション、ほら、あたしが飛び降りる人影を目撃したやつ。あれ、また見つけてさ、今度はちゃんと場所を憶えたから、また機会があってキシが興味あれば連れていくよ。キシ、見たい? まああたしが戻ってきてからになるから、先のことになると思うけど。僕は同意した。そして、ふと気になって訊ねてみた。そのアパートの屋上に、今度は何かいた?
何もいなかったけど、とユサは含みを持たせて答えた。
けど?
夜中なのに、カラスがぎゃーぎゃー叫んでたよ。うるさかった。
カラスが。
ねえキシ? とふいにささやくようにユサは言った。キシと話をしてたら、何か二日酔いがかなり抜けてきたように思うので、これから頑張って眠って、目が覚めたら出発しようと思います。正直あんまり眠たくないんだけど、睡眠薬とかなしで、何かいい方法ないかな? 僕は少し考えて、あまり効果がないかもしれないけど、と予防線を張ってから、お風呂に入って体を温めたり、ホットミルクを飲んでみることを勧めた。じゃあそうしてみる、と素直な声でユサは答えた。旅行楽しんできてね、と僕は伝えた。小さな含み笑いが聴こえ、そして数秒間の沈黙の後に、
バ──────────────────────カ。
という返事が届いて、電話は切れた。
次回更新は8/13(土)を予定




