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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第10章   ── 同時にたくさん存在する別々の顔 ──
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27   「迷宮同盟」

 ユサに何度電話をかけても繋がることはなかったし、送ったメールの返事も来なかった。眠りから目覚めて枕許の携帯電話に手を伸ばしても、何かを受信している知らせはなかった。僕はもう一度メールを送った。そしてノートパソコンを起動させた。本当は、小説なんて書いている場合じゃなかったのだと思う。でも僕は小説を書いた。しかもそれは捗りさえした。午前中の時間は、ユサへのコールと「ねこキラーの逆襲」を書くことを交互に繰り返すことで流れていった。その連鎖を断ち切ったのは携帯電話のコールだった。ユサからのものだと思い慌てて取ると、それは佐伯ちひろだった。

 ずいぶん慌ててますね、お忙しいんですね? 佐伯ちひろはどこかのんびりした口調で言った。またかけ直します。そう言って通話を切ろうとする佐伯ちひろに、別にそうでもないと僕は急いで答えた。友達から返事が来なくて、ずっと待ってるんだ。それだけだよ。忙しいわけじゃない。佐伯ちひろは無言でそれについて考えてから、口を開くと要件だけを的確に僕に伝えた。お昼を食べながらお話をしません? ねこの目の女の子のことについて、少し。

 僕は、承諾した。時計を見るとすでに正午近かった。すぐにノートパソコンのデータを保存し、戸締まりを確認して部屋を出た。歩きながら僕は何度も携帯電話を確認した。でもユサからの連絡はなかった。地下鉄に揺られ、待ち合わせの駅まで来ると、何故か佐伯ちひろは学校の制服姿で僕を待っていた。昨日ぶりです、と佐伯ちひろは不思議と生真面目な顔で言った。土曜日なのにどうして学校の制服を着ているのか訊ねると、今日は学校で補習があったんです、という答えが返ってきた。まあ、サボったんですけどね。こともなげに打ち明ける佐伯ちひろに、僕はこれまでの印象をまた少しだけ塗り替えさせられた。

 来年には大学入試ですからね。行き先も言わず先を歩き始めた佐伯ちひろは、どことなく何かを責めるような口ぶりで話し始めた。補習は多いです。行っても無駄だけど、行かないと家族がうるさいんです。キシさんは大学生ですよね? どこの大学に行ってるんです? やや唇を尖らせて訊ねる佐伯ちひろに、僕は自分の通う大学を教えた。そこ、わたしの第一志望なんです! 急に立ち止まって振り返る佐伯ちひろに、僕はぶつかりそうになるのを必死でこらえた。そんな僕の努力は全く無視して、佐伯ちひろは顔をほころばせたまま僕に言った。今度、一緒に大学を見学させてください。ひとりで行くと、ちょっと気が引けて建物の中までは入れないですもんね。でも一度、ちゃんと教室とかを見たかったんです。良かったあ! 僕が返事をするまでもなく、約束が決まったような口ぶりで話す佐伯ちひろに、僕はあえて何も言わなかった。

 再び歩きだした佐伯ちひろは、唐突に道沿いのハンバーガーショップに入っていった。僕もそれに続く。店内には制服姿の高校生や家族連れで溢れていてやかましかった。テイクアウトにしましょう、と耳打ちするみたいに佐伯ちひろは言った。そして軽い足取りでレジカウンターまで歩いていき、特に迷うこともなくすらすらと注文を伝えた。お次の方、どうぞ。隣の空いているレジの女の子が僕を呼ぶ。僕は頭上の案内板をちらっと見つめ、特に考えもまとめずレジまで行った。笑顔の店員はおすすめのメニューを教えたけれど、それは無視して別のセットメニューを注文する。こちらでお召し上がりですか? という問いに、外で食べます、と僕は答えた。お金を払ってレシートをもらい、レジをどいた。少し離れた位置に佐伯ちひろはいて、僕に笑顔で手を振った。

 佐伯ちひろのところまで歩きながら、僕は携帯電話を取り出して受信を確認した。でも何も残っていなかった。小さくため息をついて携帯電話をしまうと、佐伯ちひろは静かな声で僕に訊ねた。お友達からまだ連絡がないんですか? 僕は小さく笑って、気にしなくていいよ、と不明瞭に言った。それは、と佐伯ちひろは何故か少し怒ったように訊ねた。昨日何かあったんですか? あのときわたしが連れ回しちゃって、それでご迷惑をおかけしたんじゃないですか? 僕はあいまいに笑ってそれを否定した。佐伯ちひろは、納得いかない顔で黙ってしまった。しばらくは店内の喧騒に飲み込まれるように、僕たちは無言で佇んでいた。でもそのうち、最初に佐伯ちひろのオーダーが呼び出され、そして僕の分が呼び出された。佐伯ちひろは僕の袋も受け取っていて、どうぞ、とまた笑顔を回復させて僕に渡した。ありがとう、と礼を言って袋をもらった。どういたしまして。佐伯ちひろは律儀にそう返事して、出口から外に出た。僕も後を追う。

 駅のある方へ戻ると、佐伯ちひろはその裏手にある大きな公園に入っていき、木陰のベンチに腰を下ろした。ここで食べましょう、と笑顔で言う。僕はひとり分座席をずらして座り、開けた場所にハンバーガーセットの入った紙袋を置いた。佐伯ちひろもそこに袋を置き、いただきますと小声で言ってから紙コップのコーラを飲んだ。しばらくは無言で、僕たちはそれぞれに買ってきたものを食べた。目の前をサングラスをかけた女性がジョギングして通りかかり、餌を期待するのか鳩が何羽か近くへ来た。三人組の女子高生が笑い声を響かせておしゃべりをしながら横切っていった。風が吹き、影をつくる大きな広葉樹がざわめく音を立てて葉を揺らす。いつの間にか、僕よりも早く佐伯ちひろは食べ終って、ペーパーナプキンで口許をぬぐっていた。生真面目に何度も、何度も、佐伯ちひろは自分の唇をこすっている。じっと見入ってしまうのを避けるため、僕はまた携帯電話を取り出して表示を確認した。でもやはり、そこには何の知らせもなかった。佐伯ちひろからは見えない位置で、こっそりと確認したつもりだったのに、目ざとく見つけられて質問が飛んできた。やっぱり連絡来ないんですか? 僕は今度は笑わないで、来ないね、と陰鬱に響くのを恐れないで答えた。佐伯ちひろは、今度はその話に乗らないで最初に設けたテーマを取り出した。この前、ねこの目の女の子に会ったんです。ペーパーナプキンを手のひらの中でくしゃくしゃに丸めて、佐伯ちひろはじっと前を見つめていた。メールをして、返事をもらって、待ち合わせをして。とてもキレイな子でした。少しだけ、わたしの予想している感じと違いましたけど、でも向こうもわたしのことを探していて、わたしと目が合う、そのときの視線の強さで分かりました。女の子の目はねこの目に似ている、ってやつです。ああ、ほんとだなって思いました。わたしが女の子に向かって小さく手を振って合図すると、ぺこっとおじぎしてこっちに歩いてくるんです。でもその目つきはわたしのこと睨んでるみたいに見えて! 面白い、独特な子です。本当に、どことなくねこに似た女の子ですね。

 どんな話をしたの、と僕は訊ねた。佐伯ちひろは空を見上げてちょっとだけ時間を置くと、ふいに笑いながら僕の問いに答えた。キシさんの悪口とか、いろいろです。詳しく聞きたいですか? 僕は乾いた笑い声を上げて、あいまいにそれを遠慮した。佐伯ちひろは立ち上がると僕の分のゴミも受け取って、紙袋の中にまとめて近くのゴミ箱へ捨てに行った。氷の溶けて薄くなったオレンジジュースだけを手に持って、僕はその様子を眺めていた。その視線に気づくと、佐伯ちひろはにっこりと笑った。ベンチに戻ってくるまで、その笑顔は持続した。でもその笑顔のまま口に出された僕への問いかけは、やわらかく僕を非難するようなニュアンスが混じっているように思えて、僕を焦らせた。キシさんはまだあの子の新しい呼び名を決めてあげられてないんですか? こうして話をするときも、「あの子」とか「ねこの目の女の子」とかじゃ可哀想です。キシさんが新しく付けてあげる名前に、あの子はすごく執着していますよ、まだ何も決めていないんですか?

 立ったままの佐伯ちひろを見上げながら、ツバメと答えられたら楽なのにな、とドライな気持ちで考える僕の中の一方的な声を聞いた気がした。候補はあるんだけど。手許の紙コップに視線を落として、僕は姑息に答えた。それで本当にいいのか、決めかねているんだ。それが本当にあの子にふさわしいのか、正しい名前なのか、まだ判断ができていない。佐伯ちひろはしゃがみこんで、僕の顔をのぞき込むように見上げて言った。それは違いますよ、キシさん。ふいに視界に現れた佐伯ちひろの顔に狼狽える僕に、佐伯ちひろは容赦なく視線をそそいで続けた。大事なのは、どんな名前かじゃなく、誰が付けたかなんです。キシさんが付けたら、それは正しい名前になるんです。あの子がどういう気持ちでキシさんに名前を求めているのか、考えてあげてください。そこまで言うと佐伯ちひろは視線をはずし、下唇を噛んで少しの間黙り込んだ。それから立ち上がると、思い詰めたような表情を崩して、また微笑の仮面をかぶった。すみません、偉そうなことを言いました。あくまでも一般論、ということです。でもできるだけ早く決めてあげてくださいね。僕は、小さくうなずくしかなかった。

 僕がオレンジジュースを飲み終ったのを見計らって、佐伯ちひろは紙コップを受け取ろうとした。僕は断って、残った氷を地面に捨てた。再び紙コップを受け取ろうと手を差し出す佐伯ちひろに、自分で捨てるよ、と僕は伝えた。すみません、と小さくこわばって佐伯ちひろは答えた。それが何となく気まずくなり、ゴミ箱に捨ててベンチに戻ってきても、居心地の悪い沈黙が続いた。耐え切れなくなって、僕はまた携帯電話を確認した。メールを受信していたので開いてみると、それは以前買い物をしたジーンズショップのダイレクトメールだった。返事がありましたか? と佐伯ちひろは恐る恐る訊ねた。僕は携帯電話を閉じ、首を横に振った。それじゃあ、と少しだけ声を張り上げて、佐伯ちひろは提案した。電話をかけてみましょうよ。電話だったら、もしかしたら出られるかもしれないじゃないですか。僕は乗り気じゃなかったけれど、期待を込めた佐伯ちひろの眼差しに抗えず、ともかくユサにコールしてみることにした。繋がることなんて期待していなかったのに、数度のコール音の後で一瞬だけその音が途切れた。でもすぐに通話終了の電子音に切り替わった。携帯電話の画面には、通話時間00:01と表示されていた。どうでした? 佐伯ちひろは身を乗り出して訊ねた。一瞬繋がったんだけど、すぐに切れちゃった。僕はまた、あいまいな笑みを浮かべて答えた。お前とは話したくないってことなのかな。でも、少なくとも生きてるみたいで良かった。そう口にしながら、自分でもそれがどこまで冗談のつもりなのか分からなかった。佐伯ちひろはそれほど深刻には受け止めなかったようで、仲直りできるといいですね、とため息のようなささやき声で言った。念のため、折り返しのコールが来てもいいようにしばらく携帯電話を見つめていた。でもそれはどれだけ待っても来なかった。諦めてカバンの中に携帯電話を戻していると、それを見極めたように佐伯ちひろが話題を替えた。キシさん、あの女の子の作ったゲームはもうクリアしました?

 迷宮のゲームのことだよね、と意外に思いつつ僕が確認すると、そうです、「名前探しの迷宮」、と佐伯ちひろは力を込めて言った。僕はまだ途中で行き詰まっていることを伝えた。地下三階で、暗号を聞かれるところで止まってる。全く見当もつかないし、ヒントも見当たらなくて。佐伯ちひろはアーモンド型の瞳をもう少しだけ大きくさせて、それは、電子掲示板の先ですか? と勢い込んで訊ねた。わたしも地下三階のところまでは行けたんですけど、あの電子掲示板の分かれ道のところからどうしたらいいか分からなくて、困ってるんです。キシさんは、あの場所の攻略法を見つけて、その先まで行ったんですか? 僕はうなずいて、あの分岐ルートの越え方を説明した。そうなんですか! 佐伯ちひろは手のひらを合わせて歓声を上げた。途中に出てくるねこちゃんが、ヒントを出してることは分かったんですけど、そうやって操作すれば良かったんですね。これでわたしも先に進めます! 嬉しそうにはしゃぐ佐伯ちひろに、でもその先の暗号が分からないんだ、と僕はもう一度繰り返した。その暗号というのは。以前見せた人差し指を立てる仕草を僕に示して佐伯ちひろは訊ねた。電光掲示板の暗号、というやつですか? それならわたし、ヒントを知ってるかもしれません。驚く僕に、教えちゃっても大丈夫ですか、と断りを入れてから、佐伯ちひろはこともなげに言った。地下一階の最初の分岐点で、ねこを殺したかどうかの質問がありますよね? あそこでねこを殺したルートを選ぶと、コーヒーをいれてるおじいさんに会えるんですが、そのおじいさんがこんなことを言うんです。あなたが、つまり主人公の女の子がということですけど、初めて名前を変えたのは「クリスタルパレス発」での失態がきっかけだった。あなたはそこで分裂してしまった。その最初の名前に、あなたは暗号を仕組んでいた。しかし名前を変えたことで、その暗号も消失してしまった。ここから先もいろいろとお話はあるんですけど、ともかくそのお話の最後に、おじいさんはこう言います。あなたがもし本当の自分の名前にたどり着きたいのなら、電光掲示板の暗号に、あなた自らがその名前を入力しなければならない。その名前というのは、つまり最初の名前、ということですね。これはつまり、あの女の子の一番最初についていたハンドルネーム、という理解でいいんでしょうね?

 佐伯ちひろの賛同を促す呼びかけに、僕はすぐに答えられなかった。それはもちろん佐伯ちひろの考えに同意しないためではなかった。佐伯ちひろの口から出た、あなたは分裂してしま(・・・・・・・・・・)った(・・)、というゲーム中の文章を、先日僕の部屋に現れたねこの目の女の子とリンクさせて、僕は深刻に受け止めていたから。キシさんは違うと思いますか、と焦れたよう言う佐伯ちひろの問いかけにようやく僕は反応して、いや、そのとおりだと思うよ、と鈍く返事をした。佐伯ちひろは軽く握った拳を唇に触れさせて、考え込むポーズを取りながら言った。問題は、その最初のハンドルネームがわたしには分からないということです。「ぬー」はもう消えちゃいましたし、わたしも憶えてないです。キシさんは思い出せますか? 僕は首を振って、難しそうだな、と答えた。先程の話によれば、そのハンドルネームで女の子が僕と関わったのは「クリスタルパレス発」のコメントだけで、そこから先のやりとりではすでに名前は変わってしまっている。おそらく僕の記憶に残っている数々のハンドルネームはそれ以後のものだろう。自分の記憶を漁って見つけ出してくるのは困難に違いない。そうですよね、と佐伯ちひろも低い声でつぶやいた。上体をそらせて空を仰ぐと、ふいに勢い良く姿勢を戻して、わたしもわたしでいろいろと当たってみます、と決意を込めた声で言った。キシさんも、何か分かったら教えてくださいね。僕がうなずくと、佐伯ちひろは小さく笑った。同盟ですね、迷宮同盟! タッグを組んでクリアを目指しましょう。あの子は手強いですからね。

 帰り際に佐伯ちひろは訊ねた。「名前探しの迷宮」は、「ぬー」に投稿したキシさんの作品と深く関わっていますよね。でも「ぬー」は消えちゃってるから、わたしにはその作品を読むすべがないんです。キシさん、面倒かとは思いますけど、「ぬー」に投稿した作品のデータをわたしのアドレスに送ってくれませんか? 僕と佐伯ちひろは地下鉄駅に向けて公園の道を並んで歩いていた。後ろから来た自転車がベルを鳴らしたので、佐伯ちひろは足を止めて僕からは離れた方へどいて道を開けた。僕と佐伯ちひろの間を、中年女性の運転する自転車がすり抜けていく。それを見送ってから、木漏れ日がまだらに変色させる佐伯ちひろの顔を見て、僕は言った。去年の冬にパソコンを買い替えたんだけど、その時に小説のデータを移し替えなかったから、今の新しいパソコンには昔書いた小説のデータが残ってないんだ。それで、古い方のパソコンももう動かなくなって処分しちゃった。僕の手許にはあれらの短編小説のデータは消え去っているんだ。残念だけど、小説のデータを送って欲しいのは、むしろ僕の方なんだ。

 別々の路線を使って帰るので、地下鉄に揺られる時はひとりだった。また連絡しますね、と佐伯ちひろは言って自分の電車に乗った。それを見送ってから、僕は今日何十回も繰り返しているように、携帯電話を取り出して受信の痕跡を確かめた。でもそれは何もなかった。地下鉄の中で、僕はユサに長めのメールを書いた。駅で停車し、電波状況が回復しているのを見計らって送信した。やや時間をおいて送信完了のメッセージが表示されると、急に僕は不安になった。今書いたメールが、却ってユサを怒らせはしないだろうか、と根拠のない思いに捕らわれたから。僕は送信済みフォルダの中から、ついさっき僕が送ったメールを取り出して、その文章に目を通した。その限りにおいて、メールには何の瑕疵もないように僕には思えた。でもそのことは僕を安心させない。僕はまさにそうやって、何度も間違いを繰り返してきたのだから。

 家に帰り着いたときも、ユサからの返事は来ていなかった。僕はノートパソコンを起動させ、ドキュメントフォルダの中身を点検してみた。もしかしたらひとつくらい、過去に書いた文章のデータが残されているかもしれないと思ったから。でもそれは、どこにも見つからなかった。パソコンを買い替えた当時、まだ「ノベルワーク」は健在だった。そこにアクセスすれば、自分のデータはいつでも取り出せると思っていた。だからこそ僕は、自分の書いた小説のデータを移し替えることをせず、古いパソコンを処分してしまった。そしてある日唐突に、「ノベルワーク」が消えていることを知った。僕の手許に自分の書いてきた小説のデータがなくなった状況を、でも僕はむしろ安堵に近いものを感じて受け入れていたかもしれない。僕がロストしてしまったデータの中には、行き詰まっていた方の、つまり前「ねこキラーの逆襲」が含まれていたから。

 僕はキッチンへ行きコーヒーを作った。湯気を立てるマグカップを片手に部屋に戻ると、フォルダの中から新しい「ねこキラーの逆襲」のファイルを開いた。今朝書いた部分にざっと目を通し、新たなシーンを書き始める。手許のコーヒーがなくなってもそれは止まらなかった。僕は日が暮れるまで書き続けた、部屋の暗さに我慢ができなくなる限界まで僕はパソコンに向かい、そして部屋の明かりをつけてから簡単に夕食を作って食べた。普段ならそれをきっかけにしてお酒を飲み、酔いのせいでそれ以上小説を書く事もできなくなる。でも今日は、決意してというわけでもなく自然に、アルコールに手を付けなかった。食べ終って食器を片付けてから、僕は再び小説を書いた。キーボードを叩く音と、冷房の風の音だけが部屋を占めた。その中で僕は静かに、静かに小説を書き続けた。

 だからコンコンと窓ガラスを叩く音を聞いたのは、酔いのせいじゃない。

次回更新は8/11(木)を予定

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