26 「悲しい顔」
金曜日までの数日間、女の子が訪ねてくることもなかったし「夜鷹」からの連絡もなかった。僕は必要最低限の家事をこなして、残りの時間を全て小説に費やした。小説を書く効率でいえば、過去最高の水準で僕はこの数日間を過ごした。小説世界と現実世界の境がいくぶんあいまいになって、ときどき僕は小説の中で描写した風景と現実の光景を取り違えた。小説の中で誰かに言われたことを、現実の誰かに言われたことと取り違えた。でも少なくともこの数日間は、それで困ることは何ひとつなかった。取り違えたとしてもそれは瑣末なことだった。取り違えたまま生活をできたし、取り違えたまま小説を書けた。金曜日の昼過ぎまで、ほとんど時間の感覚はなかったのかもしれない。
冷蔵庫にマグネットで留めたチケットを取って、夕方前に僕は家を出た。大須までは近い。目的地のライブハウスは地下鉄の最寄駅から多少歩くけれど、迷わなければ五分もかからない。それでも僕は余裕をもって家を出た。地下鉄の乗車もスムーズにいき、道も迷わずに歩けたから、僕は予想していたよりもずっと早くそのライブハウスに着いた。大通りに面した古びた建物に入りいきなり続く地階への階段を降りていくと、粗末な折りたたみ式の机を並べた受付があって、鼻にピアスを着けて金髪を逆立てた柔和な顔の男が変な発音でいらっしゃいませと言った。男が何か言うので僕はカバンからチケットを取り出して差し出した。男は柔和な顔でお礼らしき言葉を行ってさらに地下に下る階段を指さした。そちらへ降りていく僕の背中に、男はまた何事か分からない言葉をかけた。辛うじて聞き取れた単語の断片を繋ぎ合わせると、おそらくそれは現在バンドが演奏中なので入室するときはお静かに、という意味合いなのだろう。そう断定してうなずいてみせると、男は顔をほころばせてまた礼を言った。僕は階段を降りていき、より闇の深い場所へと潜っていった。
階段を降りた先の右手に扉があった。夥しい数のステッカーが貼られている。把手をつかんで静かに押すと、かすかに開いた隙間から質感のある重低音が漏れる。はしゃいだ様子の人影がたくさん見える、そのほとんどは中高生と思しき年齢の少年少女だった。みんな学校の制服を、何かの決まり事みたいに遠慮がちに着崩している。ステージに目を向けると、演奏しているのは制服姿の女子高生らしい四人組だった。まわりの盛り上がりに似合わず、ステージ上の彼女たちは彫像のように固まって黙々と演奏をしている。ひとりだけ観客をアジるように歩き回るヴォーカルを除けば、弦を爪弾く自分の指先を凝視しているか険しい顔でリズムに集中しているかのどちらかだった。僕は人ごみに紛れない後方の壁に背をあずけて、その様子を静かに見守っていた。楽器を演奏する静かな三人と、馬鹿騒ぎをする観客に合わせてぴょこぴょこと動き回るヴォーカルの温度差を眺めながら、その曲の終りまで僕は静かに眺めていた。ベースの余韻が消えると同時に拍手と歓声が沸き上がった。ヴォーカルの女の子がひとりはにかみながらぺこぺことおじぎをしている。僕は携帯電話を取り出して時刻を確かめた。午後五時二十分。ユサたち「それいゆ」の演奏予定時刻までは後四十分ある。ガールズバンドの女の子たちは交代でお礼を言って退場していった。照明が落とされ、観客席側の中高生たちはがやがやとおしゃべりを始めた。粗野な男子高生の吠え立てるような声が耳に障る。座れそうな場所を探したけれど、どこにもなかった。僕はまた壁に背をあずけてぼんやりとステージの方向を眺めながら小説のことを考えていた。そうやって時間をつぶしていると、いつの間にか舞台の上では男子高校生のバンドが演奏を始めていた。ヴォーカルは歌っているというよりは叫んでいるといったほうが近いし、ドラムスはあまりにも単調すぎるし、ギターは下品な響き方だし、ベースは若干曲のペースに合っていなかった。それでも観客は盛り上がっていた。たぶん同じ学校の生徒なのだろう、先ほどの粗野な声が演奏の途中無意味に個人名を絶叫して、ステージ上の誰かを苦笑いさせていた。演奏が終り、短めの髪を整髪剤で逆立てているヴォーカルの男が盛り上がってるか? と古典的に絶叫した。先程からたびたび野次る声を上げている粗野な声の高校生が、盛り上がってねーぞ! とヴォーカルを真似て怒鳴り声を上げると、げらげらと品のない笑い声が沸き上がった。すかさずギターの男が、田中は黙ってろよ! と笑いながら指さした。そういう調子でしばらくやり取りが続いた後で、ようやく次の曲が始まった。携帯電話で時刻を確かめると、五時四十分。後二十分。
そのころから徐々に僕と同年代らしい客の姿が増えているようだった。入口の扉がわずかに開き、やかましい中高生の盛り上がるステージ前のスペースを避けるようにして、僕と同じように後方の壁際のところまで来る。大須に似合いの派手なメイクと格好の女性もいたけれど、それよりは普通の大学生といった感じの男女の方が多かった。興味深そうにステージ周辺ではしゃぐ中高生の姿を眺めているか、全く関心を寄せず携帯電話をいじっているかのどちらかだ。「それいゆ」か、それ以降に出演するバンド目当ての客なのだろう。そういう客の数が次第に多くなってきて、壁際のスペースも段々と狭くなってきた。ステージに目を向けると、どこから持ち出したのかヴォーカルの男が学校の教室にあるタイプの椅子を両手で持ち上げて騒いでいた。舞台間際の中高生たちがそれに合わせてはしゃぐのと対比して、会場後方に固まる客たちはどことなく冷めた目でそれを見ていた。田中君が頑張って持ってきてくれたんですよ! とギターの男が水を向けると、田中君は俺のせいにすんなよ! と上機嫌そうに大声で答えていた。周りに乗せられて、何故か最後には田中君もステージに上がっていた。がっしりとした体格、大きな口、不自然に細く整えられた眉。田中君はギターの男の肩をバシバシ叩き、そしてわざとらしく抱擁して賑やかな拍手を浴びていた。五時五十五分。
彼らが退場するとはしゃいでいた中高生のほとんどは帰り支度を始めた。後ろの方で待機していた客たちは入れ違いでステージ前方へと移っていった。田中君を中心にした騒がしい集団が去ると、会場は意外なほど静かになった。舞台のすぐ近くに立った大学生風の男女ふたり組が、肩を寄せ合ってヒソヒソと話をしている。制服姿の女子高生が何人か残っていた。新たに入ってくる客はみな前へ詰めた。僕は後方の壁際に残り続けた。高校生バンドの演奏が終った直後は一気に少くなった観客数も、その後入ってきた新たな客によって元の数に近くなった。年齢層は目に見えて上がった。彼らは大きな声ではしゃいだりはせず、静かに開演を待っていた。
予定の六時を過ぎても「それいゆ」は姿を現さなかった。ステージは空席のまま、スポットライトの光を無表情に浴びていた。観客たちは特に動じるわけでもなく、小声でおしゃべりをして過ごしていた。ようやく数分後にユサがひとりで現れた。ユサは短いスカートを穿いていた。フード付きの袖の短いジャケットを着て、指先にはドクロの指輪をはめていた。手にしたベースの弦を見つめてチューニングしながらマイクスタンドのところまで来ると、ふいに視線を上げて観客を見渡した。もうちょい待ってね、とマイクを通してささやく。もう少しでみんな来るから。そしてマイクスタンドの前を離れ、自分の所定の位置で観客からは背を向けてチューニングを続ける。スポットライトの強い光がユサの背中を照らす、その後ろ姿はとても華奢なものに見える。少しすると、ユサの言葉通り他のメンバーも舞台に現れた。写真で見たことは何度かあったけれど、実際に目にするのはこれが初めてだった。ヴォーカルの女の子が観客に向けて小さく手を振って愛嬌を振りまく。でもギターの女の子もドラムスの女の子も無表情のまま自分の位置につき、黙って楽器の調整を始める。ユサは相変わらずこちらに背を向けたままで、他のメンバーと目を合わせることもない。その沈黙を埋め合わせるように、ヴォーカルの女の子がマイクを通して明るい声でしゃべり始める。みんな遅くなってゴメンね! 柄にもなく緊張しちゃったよ、悔いは残したくないからね。今日はわたしたちのできる一番いい演奏をしなくちゃって、今までやってきた中で一番いい「それいゆ」を聴いてもらわなくちゃって、ただそれだけ。できるかな、できるかな? みんなも応援してよね、できますように! はい、手を合わせて! いやいや、ほんとにやらなくていいから! あーもうやっちゃってるね。まったくもう、みんなほんとに大好きだよ。うん、今日はね、四曲やります。みんなとても大切な曲。だから後ろの三人もメチャ真剣だよね? もうすごいよね! やる気オーラずんずん来るね! みんなもう準備はオーケー? まだ? もうちょっとかかる? しょうがないなあ、じゃあもうちょっとしゃべるか! あのね、ここのライブハウスは、わたしたちが一番最初に演奏したところなんですよ。二年くらい前かな? その時は一曲しかやらなかったんだけどね、それも急に空いた時間でやることになって、ほんとに演奏できるのかってすごく不安だったけど、でもなんとかやれたね。あれで生半可な自信がついたんですよ! こりゃいけるぜーって。あのライブ聴いてた人いるかな? 手をあげてみる? はい、どうぞ! あ、すごいすごい、いますね! あの時から聴いてくれてるんですね、あーなんかメチャ嬉しいです! うーん、こりゃますます手を抜くわけにはいかんですね。気を引き締めていくよ! 最初の曲は「ラピスラズリ・ラビリンス」。これはね、もうほんとに完璧語感だけのタイトルだよね! 未だに噛みそうになるんだけど、でもこの馬鹿さ加減も「それいゆ」らしさなんじゃないかなと最近思うんです。わたしが「ラピスラズリ・ラブリンス」ってタイトルの曲を作ろうってみんなに言って、それでみんなで協力して曲を作って詞を作って。そういうのがとても楽しかった。ちゃんとしたテーマも面白いエピソードもない曲なんだけど、わたしたちを一番良く表してる曲だと思う。背伸びもしてないしね。さてさて、もういい加減準備終ったよね? ユサちゃんどう? オーケー? よし! じゃあ始めたいと思います。一曲目は「ラピスラズリ・ラビリンス」!
シンバルの連打から演奏が始まった。終始アップテンポでドライブ感の強い曲。ユサがくれた音源と若干アレンジによる違いこそあるけれど、iPodを通してよく聴く耳に馴染んだ曲のひとつだ。ユサのベースが心地よく響く。疾走感のあるメロディを先導するように、その低音はうねりをもって前に進む。観客の女子高生は人一倍体を揺らして曲に入り込んでいる。中腰になって演奏するユサの、指の動きに合わせてドクロの指輪が踊る。笑いながら、とても楽しそうにヴォーカルは歌う。ギターの子は余裕をもって、ときどきコケティッシュに体を回転させてみる。ドラムスの女の子は大袈裟な身振りをしようとせず、あくまで最短距離で的確に音を刻む。一体感があったし楽しげだった。観客たちの心を、しっかりとつかむ演奏だった。僕が思っていたよりも、ずっと素晴らしい演奏を彼女たちはこなした。驚きをもって僕はそれを感じた。
演奏が終り、拍手が起こった。ヴォーカルの子は額の汗を拭って荒く息をついていた。ドラムスの子は手許のペットボトルで水を飲んでいた。ユサは拗ねた子供みたいにそっぽを向いて弦をいじっていた。ギターの子はすぐ近くにいた知り合いらしい女性と軽く言葉を交わしていた。いやー、今日は予想以上にいいね! ようやく呼吸を整えたヴォーカルがマイクを取った。ほんとに、今日がわたしたちの今までで一番いい演奏になるかもしれないね、みんながほんとに応援してくれたからだね! これで最高のスタートを切れたから、ここからはわたしたちの頑張りが大切だよね。よし、気合入れて次の曲に行ってみようか!
ヴォーカルとドラムスが目を見合わせて演奏が始まった。二曲目は「落ちる星」というタイトルの、物悲しい曲。これもiPodに入れてたびたび聴いている曲のひとつ。確か珍しくドラムスの女の子が作詞をした曲だとユサから聞いた覚えがある。「星の王子さま」みたいに小さな星で暮らしている少女に焦点を当てている。少女の手許には望遠鏡があって、それを使ってたびたび地球の様子を眺めていた。そしてレンズを通して目にした地球の少年に恋をする。少女は地球へ行きたいと願う。その願いは叶う。少女の住む小さな星は、ゆっくりと地球に近づいていく。でも少女を待ち受けているのは墜落というカタストロフィーだった。地球との距離は日に日に短くなり、墜落の日は近づく。でも地球に近づけば近づくほど、望遠鏡を通してよりはっきりと恋する少年の姿を見られるようになる。それが少女には嬉しい。墜落の様子は描かれないけれど、少女の死ははっきりと暗示される。長い喘ぎ声のようなヴォーカルの歌声の余韻とともに、演奏は終る。沸き起こる拍手は、先ほどのそれとその質が違う。女子高生のひとりはハンカチを取り出して顔を抑えていた。
遠くから見つめるしかない恋って、あるよね。ヴォーカルの女の子は拍手が鳴りやんでから静かに言った。物理的な距離じゃなくても、やっぱりどうにも近づけないことって、確かにある。みんなもあるでしょ? わたしだってあるよ。例えばまわりの人はそんな距離は錯覚に過ぎないって言うかもしれない。気の持ちようで、簡単に飛び越えられるものなんだって、言うかもしれない。でも嘘だよね、そんなの。そういうことを言う人は、何も分かってない。その人たちには初めから距離なんてないんだ。わたしたちがほんとに欲しいもののことについて、これっぽっちも分かってない。みんなもさ、自分がほんとに欲しいもののことについて、じっくり考えたほうがいいと思うよ。わたしたちもこの曲みたいに、墜落上等の気分で生きていきたいよね。そういうのはイヤ?
ヴォーカルはふいに微笑んで、観客席を見渡した。ゆっくりと、端から端まで視線を向ける。気づいている人もいると思うけど、ちゃんと発表します、とつぶやく。今日のライブがわたしたちが「それいゆ」としておこなう最後の演奏になります。解散という言葉はあんまり使いたくないけど、わたしたちがこうして集まることも、もうありません。わたしたちは先日、個人的な理由でライブを直前になってキャンセルしました。みなさんには迷惑をかけました。その理由はとても個人的なものなので、ここで具体的にお話はしないけど、それが今回のことの直接の原因になったわけじゃないんです。ただ、ライブをキャンセルしたことで、わたしたちは一度立ち止まった。「それいゆ」として動き続けてきたこれまでの軌跡を、わたしたちはそれぞれ、振り返りました。わたしたちは「それいゆ」という小さな星の上にいる四人の女の子でした。そして望遠鏡で見える遠くの星の男の子に恋をしました。何とかそこへ近づきたいと願って、四人で力を合わせて頑張ってきたつもりです。そして、ほんとに少しずつだとは思うけど、その距離が縮まっていることを、何よりも喜ばしいことだと考えてきました。でも一度その動きを止めてしまったとき、わたしたちは何となく気づいてしまったんです、わたしたちはその男の子のところまでたどり着くことはできない。「それいゆ」という星は、その男の子の住むもっと巨大な惑星に吸い込まれて、衝突して、粉々に砕け散る運命だって。それに気づいたのは全員でした。でもそれについて出した答えは、全員一緒というわけじゃなかった。わたしは墜落してでも男の子に近づきたかった。会えなくても、自分自身を好きになってもらえなくても、最後には墜落してしまうだけだとしても、近づくだけでよかった。でもそう思わない人もいた。その人は「それいゆ」を乗り捨てて別の誰かに恋することを選んだ。それが間違っているとは言わないけれど、わたしたちはいつでも四人で頑張ってきたつもりだったから、すごくショックだった。それで、みんなで話し合ったんだけど、残念ながら四人全員が同じ星に乗り続けるのは無理だと分かった。でも誤解しないで欲しいんだけど、これって別にケンカしてるわけじゃないからね! ただ、もう一緒に音楽をすることができなくなったから、「それいゆ」という集まり方をもうしないだけだから。
他のメンバーが厳粛な表情でじっと固まってヴォーカルの話に耳を傾けている中で、ユサだけは彼女たちから背を向けてひとりベースのチューニングをおこなっていた。表情はまるで、叱られて拗ねている少年みたいだった。観客席は静まり返っている。しんみりしたってしょうがないから、次の演奏に入るね! と無理に明るくさせたような声でヴォーカルの女の子が言う。次に演奏された曲は「スクリュゥゥゥ!」。ヴォーカルの説明によれば「それいゆ」の一番のキラーチューンで、自身の一番好きな曲でもある。ほんとに、今でも奇跡みたいだって、奇跡だとしか言いようがないって思うんだよね。自分たちの言いたいことや出したい音がパズルみたいにキレイにはまっていって、しかもライブで演奏するたびにどんどん磨かれていく曲だった。だった? 過去形で言うのは何だかさみしいよね。でも今日は最高の「スクリュゥゥゥ!」を演奏するから、みんなも楽しんでよ!
ヴォーカルのMCはどことなくぼやけた印象に聴こえ、それを聴く観客たちもまたぼんやりとその場に佇んでいるような印象だった。演奏も同じようにぼやけた、霧のかかったふうだった。演奏自体は良かったのだけれど、ゲル状の膜に覆われているようでシャープさを感じ取ることができなかった。ひとりユサのベースだけが、くっきりとした輪郭を持ち一歩前へ身を乗り出していた。観客席からはそっぽを向いたユサの顔は、短い髪で隠れて表情を見定めることはできなかったけれど、その視線は一途にベースの弦へと注がれているようだった。他のぼやけた音からは浮き出てエッジの感じられるユサのベースは、ときどき悲鳴のように聴こえた、一瞬だけ見えたユサの表情は、痛みに耐えるみたいに歪んでいた。
演奏が終ったとき、ヴォーカルの子はちょっとだけ悔しそうに唇を噛んでいた。でもすぐに微笑を作って、わたしたちの最後の「スクリュゥゥゥ!」でした、とささやくような低声で言った。通り雨のような音の慎み深い拍手が起こった。ふたり組みの女子高生が肩を寄せて泣いていた。ヴォーカルの女の子はマイクスタンドを両手で支えて、うっすら目に涙を浮かべて立ち尽くしていた。ギターの子も、ドラムスの子も、肩を落として静かに拍手の音の中に身を沈めていた。ユサだけがひとりベースの弦を熱心にいじっていた。その実務的な動作は会場の湿っぽい一体感からは浮き上がっていた、先ほどの演奏のベースのように。最後の曲を演奏します。ヴォーカルは拍手が鳴りやむのを待ってから潤んだ声で告げた。本当はこの曲はわたしたち「それいゆ」の新しい段階への一歩として、始まりの曲として作られたものでした。楽しさと勢いだけで作るんじゃなくて、偶然に頼るんじゃなくて、しっかりと地に足をつけて本当に自分たちの演奏したい曲を絞り込もうって、そう思って作られた曲でした。それはきっと、恋する男の子の住む惑星にたどり着くために、必要だったんだと思う。でももしかしたらそれがいけなかったのかもしれない、わたしたちはそんなことをしないで、ずっと気楽に気ままに、遊びみたいにして音楽をやっていれば良かったのかもしれない。きっとそうすれば、もっと続いたんだと思う。でもたぶん、それじゃこんな曲を作ることもできなかったと思う。どっちがいいんだろうね? ともかく、「それいゆ」がたどり着いたのはここでした。作曲はわたしで、作詞はユサちゃんです。タイトルは、「ねこキラーの逆襲」。
曲の始まりがどのようだったかを、僕は憶えていない。ただその瞬間に僕は場違いなカラスの鳴き声を聴いた。それは嘲るように僕の耳に響いた。何か楽器の音の聴き違いなのか、それとも全くの空耳なのか、あるいは本当にカラスが鳴いたのか、僕には分からない。僕の耳は演奏を聞き取ろうと努力をした。でも僕の脳はその情報をきちんと処理できなかった。僕の目は会場にいる観客たちの間を目まぐるしく走っていた。ねこキラーの存在を探していたのだと思う。僕は急に喉の渇きを感じた。どうしようもない渇きだった。ほとんど呼吸も覚束なくなるくらいの暴力的な渇きだった。こんなところまで来るなよ、と僕は思った。観客たちの中にねこキラーの姿は見当たらなかった。舞台では、ヴォーカルの女の子とユサが向かい合って激しく演奏していた。近い距離でお互いを見つめ合いながら、ユサは歯を食いしばって弦を弾き、ヴォーカルは叫ぶように歌っていた。何を言っているのかは僕には分からなかった。とにかく喉が渇いていた。カバンの中には飲み物は何も入っていなかった。観客たちは体を揺すったりしながら演奏に入り込んでいた。歓声と曲が交じり合ってひとつの質感のある音の塊になっていた。何もかもが遠近感を失って、そしてひどく遠く感じた。僕は会場を出た。廊下に自販機はなかった。長い階段を上ると受付は無人だった。僕は通り抜けて外に出た。夕暮れの日差しが僕の目を射った。会場の熱気とは別の、ねっとりとした暑さが体にまとわりついた。大須の通りは人間で溢れかえっていた。ずいぶん奇抜な服装の人もいる。サラリーマン風の男もいる。子供もいる。老夫婦もいる。高校の制服を着た女の子もいる。彼女は僕の顔を心配そうに見つめて、声をかけた。大丈夫ですか、何だか顔が真っ白みたいですけど? 僕は初めそれを無視して通り過ぎようとした。でも服の端をつかまれて、反射的に振り返った。どうしたんですか、本当に? 佐伯ちひろが心配そうな顔で僕を見つめていた。強ばった表情を無理に崩して、僕は言った。喉が渇いて。
それまで死んでいた聴覚が急に生き返ったみたいに、音が戻った。大須の雑踏が当たり前のように耳に入ってきて、僕はそれまでそれがうまく聴こえていなかったことを知った。佐伯ちひろは黙って僕に飲みかけのペットボトルの水をくれた。断ることもできずに、僕は素直にそれを飲んだ。大丈夫ですか? ともう一度佐伯ちひろは訊ねた。僕は自然にうなずいた。そして笑いながら言った。ありがとう、もう大丈夫。佐伯ちひろも嬉しそうに笑った。
僕たちは近くの小さな喫茶店に入って、ふたりでアイスコーヒーを飲んだ。ライブハウスに戻ることはすぐに諦めた。店内は冷房が強く利いていた。狭い店内に僕たち以外にはカップルがひと組いるだけだった。アイスコーヒーが出てくるまで僕たちは無言だった。佐伯ちひろが口を開くまで、僕は佐伯ちひろが目の前に座っていることさえほとんど忘れかけていた。悲しそうな顔、と佐伯ちひろがつぶやいたので、僕はまじまじと彼女の顔を見た。をしてますね、と佐伯ちひろは困惑げに目を逸らして言った。そうかな、と僕は無感覚に口だけ開いた。そうですよ、と佐伯ちひろはうなずきながら答えた。そしてストローをくわえた。
ねこの目の女の子に会いましたよ、と佐伯ちひろがささやくような声で言った。その言葉はちゃんと耳に入っていたのに、僕は反応しなかった。ただ机の角をぼんやりと見つめ続けるだけだった。しばらくして、佐伯ちひろは僕の目の前でひらひらと手を振った。それに気づいて、僕は佐伯ちひろの目を見た。アーモンド型の瞳は今度はしっかりと僕の目を見据えた。ぼんやりちゃんですね、と佐伯ちひろは言った。今日はこの話はナシにします。キシさんなんだかお疲れみたいですから。呼び止めちゃってごめんなさい。また連絡しますね。そしてストローでアイスコーヒーをすすった。僕も自分のアイスコーヒーに口をつけた。それは舌に冷たい痺れを与えた。僕は自分が何故アイスコーヒーを注文したのか分からなかった。アイスコーヒーは苦手のはずなのに。別れの挨拶を言って、佐伯ちひろは店を出ていった。僕は残って、飲みかけのアイスコーヒーの代わりにビールを注文した。それを飲みながら、先ほどのライブのことを思い出していた。ふいに、先ほどの佐伯ちひろの言葉が頭の中で再生された、悲しい顔。そう言われると、悲しいような気がしないでもない。手許に鏡はなかったので、ビールジョッキで反映させて自分の顔を見ようとした。でもよく分からない。僕は携帯電話を取り出して時刻を見た。七時七分。「それいゆ」のライブはとっくに終っている。それでも僕は、アイスコーヒーとビールを残したまま会計を済ませて喫茶店を出た。ようやく陽が落ちて、空は暗くなる準備を始めていた。来た道を戻り、先ほどのライブハウスへ続く階段を降りた。受付のところには金髪の男が戻っていた。僕は彼に、「それいゆ」のメンバーはまだいるかと訊ねた。あ、もしかして岸谷さんすか? と受付の男は訊ねた。そうですと答えると、彼は僕にケースに入ったCDを手渡した。渡すように頼まれていました、というような意味合いのことを柔和な顔で彼は言った。何か詳しく説明してくれているようだったけれど、彼の話は要領を得なかったので適当なところでお礼を言って切り上げた。「それいゆ」がまだいるかどうかは分からなかったけれど、おそらく今日はメンバー同士で時間を過ごしたいだろうと想像し、連絡を取るのもやめた。駅までの道の途中で見かけた個人店のハンバーガーショップに入り、夕食を取った。ビールも注文して、改めて飲み直した。通りに面した大きなガラス窓を通して、ゆっくりと暗くなる外の様子を眺めながら食事を済ませた。
帰宅してから、受け取ったCDをノートパソコンにインポートした。ファイルには「それいゆ」の楽曲が収められていた。そしてその最後のファイルには、無音のボーナストラックが収録されている。僕はノートパソコンをガラス製のローテーブルに置き、キッチンでグラスにウィスキーを注いだ。それから部屋に戻ると明かりを消し、ベッドに腰掛けてグラスをすすった。ずいぶん長い間、僕は無音の暗闇の中でひとりウィスキーを傾けていた。でもやがて、予期していたとおり、スピーカーを通して酔いを感じさせるユサの声が聞こえてきた。
次回更新は8/7(日)を予定




