19 「キシの人生の中でキシが本気で向かい合った唯一のもの」
今、新しく曲を作ってるんだ。短い沈黙の後、運ばれてきたシシトウを齧りながらユサは唐突にそう言った。僕もシシトウの皿に手を伸ばしながらぎこちなく相槌を打った。ユサは続けた。ちーちゃんのゴタゴタがあった頃からひとりで曲だけは作り始めてたんだけど、これでようやくみんなが集まれるようになって、音合わせもできるようになって。ユサは希薄な印象の声で淡々とそう言いながらカバンの中を探った。取り出した白いCDのケースを僕に手渡す。文字は何も書かれていない。とりあえず音源のデモを録ったんだ、とユサがつぶやくのとタイトルは? と僕が訊ねる声がかぶさった。ユサはワインをひと口飲んでから、それなんだけど、と声を落として言った。キシに決めて欲しいんだ。
僕が? なんで? 純粋にびっくりして、思わず上ずった声で訊ねる僕に、ユサは顔をしかめ不機嫌な声で言った。前に約束したじゃん。覚えてないの? 僕は、何も憶えていなかった。素直にそう伝えると、ユサは痛みに耐えるみたいに顔を歪め、ゆっくりとピンクの縁の眼鏡を外し、そして相当怖い顔で上目遣いに僕を睨みつけながらつぶやいた。あたしの曲にキシが歌詞を書いてくれるって、前に約束したんだよ。え? キシ、忘れちゃったの? それじゃ、歌詞は書いてくれないの?
書かないってわけじゃないけど、と僕は視線をはずして答える。でも、どうして僕なんだろう? だって僕は曲の歌詞なんて書いたこともないし、書けるかどうかも分からないのに。理系学生に頼むのはお門違いって気がするけど。そんな約束をしたってことがそもそも信じられない。どういういきさつでそういう話になったの?
ユサの話によれば、以前あの行きつけのバーでふたりお酒を飲んでいるときにそういう話になった、そうだ。いつもそれいゆの曲の歌詞はちーちゃんの飼い主、つまりヴォーカルの女の子が書いているのだけれど、ユサに言わせればそれは「山盛りの生クリームみたい」に単調な歌詞で、メンバーのみんなもそろそろ別の方向性の歌詞の曲を用意したいと考えていた。今までのそれいゆにはない、ややダークな世界観の歌詞。それであたしに話が回ってきたんだけど、とやや自虐的に笑いながらユサは言った。でもユサ自身曲の歌詞を書いた経験はほとんどなくて、頑張って取り掛かってみてもなかなかひとまとまりに書き上げることができない。それで困っているとき、ふと思いつきで僕に話を振ったら、面白そうだと返事をもらった。また新しく曲ができたら挑戦してもらう、ということで話が決まった。そういう流れなのだそうだ。たぶん程よくアルコールが回っていて安請け合いしてしまったのだろう、そのときの状況を思い出せないのも、そのせいかもしれない。どうして僕に話を振ったのかと訊ねると、僕が小学生の時に国語の授業で書いた気持ち悪い詩を思い出したから、といたって真面目にユサは答えた。僕自身はよく憶えていないけれど、日本の近代詩の学習に関連して生徒に詩を作らせる、という授業の時に書いた詩のことらしい。具体的な内容まではユサも記憶していないということだけど、その「気持ち悪くて独創的な」印象だけは強く残っているということだった。
当時はちょっとした話題になってたよ、キシと別のクラスのあたしでさえ知ってたくらいだし。椎茸に生姜を乗せながらユサは言った。悪い意味で? と僕は訊ねた。悪い意味で、とその椎茸を頬張りながらユサは答えた。
僕はため息をついてから、自分の意見を言った。普通の文章ならまだしも、今の自分に詩が書けるかは分からない。小学生の時に書いた詩のような雰囲気を再現できるかだって怪しい。正直に言って、ユサの期待に添える自信は全然ない、と。でもユサは軽く肩をそびやかして、それは前にも聞いたから、と短く答えた。とりあえず書いてみてよ、話はそれから。そして冗談めかして僕をけしかけた。大丈夫大丈夫、キシなら書けるよ!
とりあえず、家に帰ってから音源は聴いてみると僕は約束した。頑張って挑戦してみるよ。まあ、楽しそうだし。ユサはまだ空になっていないふたりのグラスにワインを注ぎ足して、乾杯を促した。僕は困った顔を作ってグラスを持ち上げた。そしてその中身に口を付けた。
結局ふたりでワインボトルを一本空けたので、店を出たときには程よく酔いが回っていた。この後いつものバーに行こうかとユサが提案したけれど、ユサの態度はどこか消極的だった。今日はやめておこうと僕が言うと、その代わりに少しこのあたりを散歩しないかとユサが素早くもちかけた。深く考えずその話に乗ると、ユサはまず大通り沿いのコンビニに入って買い物をした。自動ドアから出てくるなり、白いビニール袋の中からウィスキーの小瓶を取り出してキャップを開け、そのまま口を付けてひと口飲んだ。その瓶を僕にも勧めるので、受け取ってひと口飲んで返した。ユサはもうひと口飲むとビニール袋に戻して、何も言わずすたすたと前を歩いていった。しばらくすると大通り沿いから中に入って、狭く暗い住宅街へと入っていった。このあたりなんだ、と先ほどよりも心なしか酔いを感じさせる声音でユサは言った。あたしがこの前、屋上から飛び降りる人影を見たのは。ユサは振り返りもせず、いつもよりもずっと速い歩度で僕の前を行った。僕は無言でその後を従った。まばらにあった居酒屋やスナックの看板の明かりが先に進むたびに少なくなり、やがて完全な住宅地の中に足を踏み入れた。そこは奇妙に静かで、でも誰もが聞き耳を立てているような湿った気配に満ちていた。僕たちの足音だけが、不自然に拡張されて響いていた。
ユサは街灯の下で立ち止まった。僕も少し離れた位置で足を止めた。ユサはしばらくあたりをきょろきょろと見回していたけれど、ふいにこちらに体を向けて苦笑いした。街頭の光が直接ユサを照らして、ユサの表情にくっきりと明暗を作るのがユサの顔を怖くした。例の建物、確かこの辺だと思ったんだけど。ユサはアルコールの巡りのせいか若干語尾を伸ばす口調で言った。どこか分かんなくなっちゃった。この近くってのは間違いないんだけど。
少し先に、区画の空き地を手際よく活用した、という感じの公園があったのでそこに入った。申し訳程度に置かれたベンチに腰を降ろすと、ユサはまたウィスキーを飲んだ。同様に僕にも勧める。受け取った瓶の中身をほんの少し口に含むと、隣のユサはコンビニの袋からポテトチップスを取り出して食べ始めた。それも僕に勧めるので、ウィスキーの小瓶を返す代わりに一枚もらう。ユサはさらにひと口ウィスキーを飲んだ。
キシはさ。ポテトチップを齧って、指先についた塩をなめながらユサはつぶやいた。五年後の自分について、考えてみたりする? 具体的なことじゃなくても、こういう自分になりたいんだとか、そういう方向性みたいな。ピンクの縁の眼鏡越しに、ユサは外灯に群がる羽虫の群れを見つめているようだった。全然、と僕は首を振って答える。何も考えない。今の自分より、下らない人間になってなければいいかな、というくらい。ユサは何故か大きな音を立てて息をついた。ウィスキーの小瓶を持ち上げて、でも結局それを口には運ばずベンチに置き、立ち上がった。何をするんだろうと思って見ていると、無言で街灯のところまで歩いていき、支柱をつかんでそれを揺らそうと試みた。でも街灯は少しも揺れず、光にたかっている羽虫たちも特に動じる様子は見せなかった。ユサはすぐに疲れてしまったようで、こちらを振り向くと柱に背中を預けて、荒く息をついた。ちくしょう! と高い声で小さく空に向かって叫んだ。ずるずると体を下へ滑らせて、地面に座り込んでしまう。そのまま眠ってしまうんじゃないかと心配したけれど、急にケタケタと笑い声をあげて、あたしがお相撲さんみたいにでぶちんだったら揺らせたのにね、とにわかに酔いをあらわにした声で言った。
それじゃ魅力が半減するね。僕は立ち上がってユサを助け起こそうとした。でもユサは、座った姿勢のままベンチの上の小瓶を指差して、それを持ってくるように促した。もうアルコールは足りてると思うよ、と主張すると、ユサは勢いよく立ち上がってふらつく足でベンチまで行き、ウィスキーをあおった。そしてあてのない方向を見つめたまま、あたし中学高校のころ太ってたんだよね、と突然つぶやいた。
信じられないな、と答えて、僕はユサからウィスキーの小瓶を取り上げようとした。でもユサは、もうあげないもんとあどけない少女みたいな似合わない仕草でそれを拒んだ。そして眉間にしわを寄せて僕を見つめながら訊ねた。本当にそう思う?
だって、今はとても痩せてるから。そう答えて、もう一度ユサの小瓶を奪おうとしたけれど、再度拒絶されるだけだった。ユサは再び訊ねた。本当にそう見える? 僕は少しだけ苛立って、そう見えるからそう言ってる、とやや突き放した口調で言ってからベンチに腰を降ろした。視界から消えたユサは、後方の草むらのほうへと歩いていったようだった。少し離れた位置から声が聴こえる。小学校六年生のころも少し丸い体型にはなり始めてたんだけど、中学に入って急に太りだして、そのまま高校に入るまで体重は増える一方で。高校二年のときに決心して、ダイエットを始めた。無駄な食事を減らして運動する時間を増やした。半年くらいかけて、今の体型まで体重を落とした。少し筋肉質になった。まわりのみんなはびっくりしてたよ、ああいうときって結構失礼なことを平気で言われるんだよね。そのときは気にならなかったけど、ときどき思い出して、今頃ムカついたりする。
努力したんだね、と僕はつぶやいた。ユサは暗い声で、あたしは自分のことが嫌いだから、と言った。自分の嫌な部分ばっか目に付くんだ。それがどんどん蓄積されて我慢しきれないくらい嫌になると、頑張って克服しようとする。でも克服できても今度はまた別の嫌な部分が少しずつ気になるようになる。あたしは自分が嫌いだから。いつまで経っても終らない、どれだけ頑張っても満足するってことがない。だからあたしはキシを見てるとときどきどうしようもなくムカつくんだ。別にキシが自信過剰だって言うわけじゃないよ。でももしかしたらそれよりももっと悪いことなのかもしれない。キシはあたしと反対で、自己肯定が強いんだ。今の自分に満足してる。不十分なところや欠けている部分があることはちゃんと知っていて、それを全部含んで、その上で自分自身を肯定してる。キシのそういうオーラが、ときどきうっとうしい。イライラする。ねえキシ、キシは最近何か死に物狂いで取り組んだ事柄ってある? もしかしたら生まれてこの方一度もそういうことはなかったんじゃない? いや、もしかしたら、小学生のときに書いたあの気持ち悪い詩、あれだけがキシの人生の中でキシが本気で向かい合った唯一のものだったのかもしれない。そんな気がするな。
振り向くと、ユサは公園の敷居のフェンスにもたれかかっていた。僕もそちらに移動する。ユサが小さな声で言いすぎだったかな、とつぶやいたので、そんなこともないと僕は首を横に振る。怖いんだ、とユサは言った。両手で顔を覆い、指の隙間から遠くを見つめている。五年後の自分のことなんて、あたしは考えたくもない。何をしてるんだろう? 何者にもなれないことは十分分かってる。世界にとってはあたしの人生なんて誤差みたいなもんだ。別にそれが嫌なわけじゃないんだけど、その事実に対抗するだけの価値観を、あたしは多分持ってないんだ。きっとだから怖いんだ。ねえキシ、これは呪いなんだよ。最近それを冗談じゃなしにリアルに感じるようになってきた。嫌だな。でも仕方のないことなんだ。呪いの種を蒔いたのは、自分なんだから。
どんな呪い? と僕は訊ねた。ユサは顔から両手をどけて、ポケットに突っ込んでいたウィスキーの小瓶を取り出すと僕に差し出した。後はキシに全部あげる、と妙に幼く聴こえる声で言った。残り半分ほどになったその小瓶を受け取ると、悪戯っぽくユサは笑った。交換条件な、とユサは短くつぶやいた。どういうこと? と問いただすと、ユサは僕の肩に手を置いて急に呂律の回らない口調で何かを言った。何を言ってるのか分からない、と素直に僕は伝えた。ユサの体がぐらついた。仕方なく、重心の定まらないユサの体を支えてベンチのところまで連れて行った。そこに座らせてから近くの自動販売機まで行きペットボトルの水を買った。交換条件、とつぶやいて渡そうとしたけれど、ちあうとユサはそれを拒んだ。でも蓋を開けて再度差し出すと、今度は素直に受け取って口を付けた。それで少し落ち着いたのか、かろうじて聞き取れる口調でユサは言った。キシには、ねこ殺しについての歌詞を書いて欲しいんだ。それが、交換条件。いいだろ?
それは、ユサの呪いに関係があるの? 僕の問いに、ユサは答えなかった。もう一度、同じことを繰り返すだけだった。ねこ殺しについての歌詞を書いて欲しいんだよ。そしてがくっと頭を垂れて、うめくような声で気持ち悪いとつぶやいた。飲みすぎたよ、ちくしょう。
家まで送るよと伝えたけれど、家がバレるから嫌だと断られた。そして悪戯っぽく笑って、家はここからすぐ近くだから大丈夫、とも言った。ペットボトルの水をごくごくと飲み込む。少ししてから同じことをもう一度提案したけれど、やはり同じことを言って拒否されただけだった。そしてまたぐびぐびとボトルの水を飲む。もう一本買ってこようかと申し出たけれど、もう十分とそれも断られた。二日酔い対策には、とにかく寝る前にたくさん水を飲むことが大切だよと伝えると、二日酔いになりたい気分なんだと冗談とも本気ともつかない口調でユサは答えた。結局ユサはやや覚束ない足取りではあったけれどしっかりと自分の足で帰っていった。水をたくさん飲みなよ、ともう一度その背中に声をかけると、右手を掲げて小さく振った。こっそり後ろをついていこうかとも思ったけれど、それを知ったらユサはきっとすごく怒るだろうと思ってやめた。ユサが去ると、公園はまた聞き耳を立てているような陰湿な静寂が存在感を強くした。帰ろう、と僕は思った。カバンの中にユサから渡された音源のCDが収まっていることを確認して、僕はベンチから腰を上げた。
そのマンションはすぐに見つかった。僕はそれがユサの言っていたマンションだとひと目で直感した。
公園を出て、ユサが消えていった方角とは反対の方向へ歩き出してすぐ、白く燻った闇を背景にそれは建っていた。閉ざされたカーテンからわずかに漏れる光だけに飾られて、それはそ知らぬ顔で黙り込んでいた。僕の心臓は静かに音を立て始めた。足を止めて、しばらくの間僕はそれを見つめ続ける。他に背の高い建物はいくつもあるし、それが特別抜きん出て高い建物というわけじゃない。でもそれは、何故か他の建物とはまるで異質に僕の目に映った。それは気配を帯びていた、それは意思を持って僕を見つめ返しているような気さえした。僕はユサからもらったウィスキーの小瓶を取り出して、一口飲んだ。その間も、そのマンションの影から目を逸らさないようにした。少しでも目を離せば、その隙に闇に消えてしまうように思えた。まあ、ともかく、それは消えることなく視線の向こうに建っていた。
近づいてみようと決意するのには、時間が必要だった。どのくらいの単位の時間を要したのか把握できないけれど、その間に僕の右手の中にあったウィスキーの小瓶はずいぶんその容量を減らした。でもちっとも酔えなかった。五感は妙に冴えてきたのに、意識のエッジはその分鈍くなった。何とか一歩足を踏み出したとき、靴底がアスファルトを踏む音が妙に湿っぽく感じられた。音はそれしかなかった。そしてそれは聞き耳を立てて聞かれた。僕はマンションから目を逸らすことなく歩き続けた。湿った音を立て続けて。そんな僕の姿を、たくさんの何かが闇の向こうからじっと見つめている。その視線をほとんど皮膚の感覚として僕は感じた。もちろんそれは好意的な視線じゃない。それらはみんな、あのマンションを味方しているようだった。
もちろん僕には近づく前からこれが「クリスタルパレス」であることは分かっていた。でもおそらく、最初は遊戯的に、自己欺瞞的にそう捉えていたのだと思う。でも実際に近づくにつれて、それははっきりと「クリスタルパレス」であることを僕に示した。過去に何度か「クリスタルパレス」を作品の中で書いたとき、その具体的な姿をはっきりと想定していたわけじゃない。ぼんやりとおぼろげに頭の中に思い描いていたに過ぎない。でもだんだんと近づくそのマンションのディテールが分かるにつれ、まるで既視感のように失われていたピースが次々に埋まりそのイメージが確かになった。廊下を照らす電灯、ベランダに取り付けられた室外機、規則正しく並んだ窓たちの間隔、備え付けの物干し台の規格。それらを目視するたび、そうだった、という感覚がうるさく付き纏う羽虫のように僕の周りを巡った。そうだった、たしかに「クリスタルパレス」はこの通りだった。そして。僕はマンションの間近まで来たとき、痛くなるくらいに首を上げて、その屋上を見上げた。そしてこの屋上からツバメたちは飛び立ったんだ。でもそこには、少なくとも今は誰の姿も見えなかった。
オートロックのエントランスをくぐる方法は持ち合わせていなかった。あたりは無人で、蛍光灯が乾いた光でその内部を満たしていた。屋上に、ツバメがいないことは分かっていた。でもどうしても屋上に行ってみたかった。そこから見える風景を、この目で見たかった。吹きすさぶ風を、この体に受けてみたかった。
エントランスのガラス扉の向こうには、エレヴェーターのドアが見える。表示板はエレヴェーターが十二階に停まっていることを示している。僕は目を細めて、最上階の階数を確かめようとした。でもオレンジ色に光る12の数字の上に、いくつ数が据えてあるか見定めるのは困難だった。「クリスタルパレス」では、と僕は思った。最上階は何階だっけ? 確か、十六階建ての建物だったはずだけど。そんなことをぼんやりと考えていたせいで、エレヴェーターの動きに気づくのが遅れた。表示されていた12という数字は消滅して、11、10、9と下降していた。エレヴェーターが下りてきているということに頭が回るまで、時間を要した。でも気づくと、反射的にその場を離れた。おそらくエレヴェーターに載った誰かは一階まで下りてきて外へ出かけるのだろう。その誰かがエントランスをくぐるときに入れ違いで中に入れるのではとふと考えたけど、見咎められたときに言い逃れるための切り札を持ち合わせていなかったので諦めた。そしてそれ以上に、エレヴェーターを使って下りてくる誰かと鉢合わせをしたくないという怖れがあった。「クリスタルパレス」の住人のことを、僕は考えたくはなかった。
暗い住宅街の坂道を降りて、地下鉄駅のある賑やかな市道のほうへと戻っていく。街の光は少しずつその力を取り戻して、思っていたよりも早く繁華街然としたネオンに取り囲まれた。片側三車線の道路は回遊魚のように流れる車と、泳ぐのに疲れて路肩で憩うタクシーの群れとに埋め尽くされている。僕は振り返って、建物の影の中から「クリスタルパレス」を見極めようとした。でもそれはできなかった。僕はそのことにむしろ安堵に近いものを感じた。携帯電話を取り出して時間を確認すると、すでに終電間際だった。僕は急いで最寄の地下鉄駅へと足を進めた。
次回更新は7/22(土)を予定




