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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第2部  第7章   ── 逆襲の始まり ──
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18   「シュレディンガーのゾンビねこ」

 昼前に女の子が帰った後で部屋の片づけをした。割れたマグカップは要らなくなった大学のレポート用紙に包んで燃えないごみの袋に詰めた。散らばった紙は同じ大きさのものをまとめてテーブルの上に戻した。本は折れてしまった部分を直して本棚の隙間にはさんだ。レゴのおもちゃは全部ほぐしてひとまとめにした。シンガポール人作家のコミックはパラパラとページを繰ってからマガジンラックに差し込んだ。ノートパソコンは正しく動作するのを確認してもとの位置に戻した。でも最後に、叩き落されたゲーム機を起動させてみるとテレビにゲーム画面が表示されることはなく、スピーカーも本来のものでないややくぐもった音声を伝えるだけになっていた。中に容れたままのゲームディスクは、イジェクト操作が機能しなくて取り出すことさえできない。燃えないごみの袋にそのまま放り込んでしまおうかとも思ったけれど、そこまでの強攻策は採れずカルディの紙袋にしまって押入れの隙間に置いた。販売元へ修理に出すという考えも浮かんだけれど、それなら新品を買い直したほうが早い、と結論した。結局のところ態度を保留にして、クローゼットの戸を閉めてしまうことしかできなかった。ともかく、これで片付けは終った、時刻は一時を過ぎようとしていた。

 いつもよりもお腹が減っていたので、昼食は少し多めにチーズリゾットとサラダを作って食べた。その後で久しぶりに数学の参考書を開く。後期から始まるグループ学習で、読み合わせる教科書として選んだ本。真新しいレポート用紙に計算式を書き写し、うまく飲み込めない部分や少し論理が飛躍している部分をその都度自分で補っていく。その作業を通して、ずいぶん久しぶりに数学という枠組みへ自分の思考を馴染ませている実感がわく。その都度用意したお茶やコーヒーを片手に、集中して机に向かう。冷房を利かせるため窓を全部締め切っているので、外部からはごくわずかな物音しか届かない。それでもときどき、窓ガラスを叩くようなコツコツという音がくっきりと聞こえる。その度窓のほうに視線を向けるけれど、何も見つからない、窓の向こうは特に何も見当たらない。小さな鳥がくちばしでガラスを叩いて、すぐに飛び去ってしまう光景を、僕はぼんやりと思い浮かべた。

 夕方ごろ買い物に出かける。近所のスーパーマーケットで、野菜やら牛乳やら卵やらを買う。レジは混んでいる。列に並んで、僕は買い物かごを提げた客たちの姿をひとりひとり確かめてみる。そこにねこキラーがいるのではないかとふと思ったから。でも、そもそも若い女性の数は少なかったし、その中で取り立てて美人と言えるような人もいなかった。少なくともひと目でねこキラーと直感させるような女性はいない。自分の番が来て、レジカウンターに買い物かごを載せる。対応した店員はアルバイトの女子大生といった感じの人だった。でも彼女にも、やはりねこキラーだと感じさせる要素はなかった、丸顔の、可愛らしい女性ではあったけれど。

 アパートのエントランスに黒白ねこはいない。重くなったトートバッグをぶら提げてオートロックの解除をしながら、僕はもう一度あたりを見渡す。扉をくぐって階段を上りながら、手すりの下に見える駐輪場を覗いてみる。でもやはり、そこにねこの姿はない。部屋に戻って食材を冷蔵庫にしまい、それから昼食のときに使ったままにしていた食器を洗う。全部片付けてから紅茶をいれてミルクティーにする。先ほど買ったチョコレートクッキーを齧りながら、ノートパソコンを開く。午前中確かめたときは通常通り起動したので安心していたのだけれど、どういうわけかパソコンがネットに接続できなくなっていることに気づく。モデムや配線の異常は見当たらないのに、ウェブサイトもメッセンジャーもアクセスできないようになっている。一時間近くあれこれと試してみたけれど、結局原因が分からず諦める。心配になって、他にも異常が現れていないかチェックをしてみた。でも幸いなことにインターネット接続の問題以外は全て正常に作動するようだった。テキストエディタもきちんと動くので、小説を書くのに支障はない。ネット接続の問題はとりあえず放置して、僕は「文章」フォルダの中の「ねこキラーの逆襲」を開きしばらくそれを書き進めた。

 携帯電話が振動したとき、部屋の中はだいぶ暗くなっていた。夕日が沈み、夕闇が刻々と部屋を侵食していたのに、明かりも点けず僕はノートパソコンの画面に齧りついていた。携帯電話に手を伸ばすと、ユサからの着信だった、通話ボタンを押す。もしもし。ユサに似合わない上機嫌な声が返る。キシどうせ暇なんでしょ、飯でも食べに行かない?

 ユサの提案で串焼きとワインを楽しめる洋風居酒屋で食事ということになる。最近雑誌で見つけたんだ、とユサは楽しげに電話の向こうで説明した。お店から最寄りの地下鉄駅で一時間後に待ち合わせということに決まる。ギリギリの時間まで小説を書いてから、戸締まりを確認して部屋を出る。そのころにはもう、外ははっきりと夜の闇に覆われていた。上空には月が出ている。でもそれ以外に星は見えない。ときどきそれらしい光が目に入るけれど、すぐにそれは低空を飛ぶ飛行機のライトだと気づく。それはぼんやりと黒い夜空に無理のない線を描き飛行する。一定の速度で微分可能な軌跡をたどる、当たり障りのない航路を行き、誰の気を留めるわけでもない。

 改札を出たところで待っていたユサは、視力に問題はないはずなのにピンク色の縁の眼鏡をしていた。柄付のキャンディをくわえている。僕の姿を見つけると敬礼みたいに右手を上げた。この前はゴメン、と改札を抜けて近づく僕へ眉間にしわを寄せて言う。でもその表情をすぐに反転させて先ほどの上機嫌な声音になる。ボトルを一本奢らせてよ。今日はちょっとしたお祝いなんだ。腹減ったからガツガツ食うよ。がっつり食べたい気分なんだ。

 串焼屋は二階建てになっていて、一階は調理場に面したカウンター席のみの構成。ユサは事前に二階のテーブル席を予約していたので、僕らは案内されてそれを横目に階段を上がった。カウンターだと串を焼いてるのを目の前に見られたんだね。僕が少し残念そうに言うと、次回の参考にしておこうとユサはこだわらない口調で答えた。席に着くとメニューの中から気の向くままにいくつか串を選び、挟み込まれたワインメニューをじっくりと点検した。いろいろと悩んでいるようだったけれど、結局ユサはイタリアの赤ワインを選んだ。これ、前に飲んだ時に美味しかった。店員が離れた後メニューの中のそのワインを指してユサは言った。わりと濃い味で、渋みもあって、串に合うと思う。僕はワインメニューを引き取って、そのワインの記述に簡単に目を通した。よく分からないままそれを戻して、ユサに訊ねる。ワインをよく飲むの? ユサは冗談めかして、どっかの誰かさんみたいにアホみたいな量を飲むわけじゃないけどと前置きをしてから、それと対称的な印象の声で答える。確かに最近、寝る前によくお酒を飲むようにはなった。ワインもよく買う。スーパーに並んでるやつを適当に選んでるだけなんだけどね。ワインは当たり外れが大きいから、美味しかったやつはちゃんと覚えておこうとしてるんだ。

 しばらくして、先にワインが届く。店員が空のグラスを二脚置き、ワインボトルのコルクを抜く。串はもう少しでお持ちします。コルクの匂いを確かめてから、店員が訊ねる。今お注ぎしましょうか、それとも串をお持ちしてからにしましょうか?

 先に注いじゃってくださいとユサが答える。店員はうなずいて、ユサと僕のグラスに均等に赤ワインをそそぐ。ユサは軽くワインの香りを嗅いだ後、乾杯しようとグラスを持ち上げる。何に対して? という僕の問いに、それいゆ復活に、とユサは笑う。グラスを触れ合わせる、そしてひと口ワインを飲む。うん、やっぱり美味しい。ユサがつぶやくのに、僕も同意する。

 それいゆのみんなは仲直りできたんだ? ワインの余韻を楽しみ終ってから、ユサが持ち出した話題へと移る。まあね、ユサは傾けたグラスを見つめながらそっけなく答える。それを戻してから、ふいに力を込めて言葉を続ける。あのね、すごく嬉しいニュースが届いたわけ。このあいだ、いなくなってたねこのちーちゃんが見つかったんだ! 僕は素直に驚いて目を丸くした。そうなんだ、とつぶやいた後、もちろん無事にということだよね? と念のため確認する。当たり前だろ、といった感じに細めた目で僕をにらんでから、詳しい話をユサは始めた。一ヶ月近く姿を消していたねこのちーちゃんは、ある日ひょっこりと飼い主の家に戻ってきた。何故か身に付けていた首輪がなくなっていたけれど、特に怪我をしているようでも体重を落としているようでもなかった。毛並みも悪くなかった。まるで昨日家を出て、そして何事もなく帰ってきたように、本人は何食わぬ顔をしていた。いつもの餌置き場に餌がないので、催促する不満げな鳴き声をあげるだけだった。飼い主の女の子はとても喜んで、まっ先にケンカしていたドラムスの女の子に連絡をした。わだかまりは一瞬で溶けて、ふたりとも素直に良かったねと言い合っていた。めでたしめでたし。

 確かにめでたいねと僕は答えた。ちょうど注文していた串が運ばれてきたので、それを食べながら話を続ける。痩せたりしてなかったってことは、少なくともちゃんとご飯にはありついていたわけだ。その間どこか別の家で飼われてたのかな?

 かもね。ユサも串を齧りながら答える。あるいは、放し飼いのねこには世渡りの術がちゃんと備わっているのかもしれない。どこに行けば餌にありつけるとか、どこで眠ればいいのかとか、ちゃんと知っていたのかもね。家に戻る必要はなかった。でも今回のことに懲りて、ちーちゃんは今後家ねことして飼われることになったんだけど。串うまいね。

 ねこ殺しに会わなくて何よりだったね、と僕は何気なくつぶやく。それについてなんだけど。硬質な印象の声で、意外にもユサがその話を引き継いだ。すごくすごく不思議な話があるんだ。

 すごくすごく不思議な話? そう繰り返しながら、空になったユサのグラスにワインを注ぐ。前に、ねこ好きの人たちのコミュニティサイトのことを話したでしょ? そそがれたワインの香りを嗅ぎながら、ユサは答える。画像掲示板に、死んだねこの画像をアップする奴がいるって話。その掲示板に、少し前ちーちゃんにそっくりなねこが殺されてる画像が上げられたんだ。飼い主はそれを見て絶対にちーちゃんに間違いないって、大泣きして。それが先月の終りで、キシとの約束をドタキャンした日だね。そいつが言うには、このねこはちーちゃんに間違いないって、いつもいつも見ていたねこだからってことだったんだけど。でも現実には後日ちーちゃんは無事に帰ってきた。画像掲示板の写真は削除されちゃったから、今となってはもう見れないんだけど。

 じゃあ、やっぱり見間違いだったんだろうね。そう答えながら、僕はもちろんあの黒白ねこのことを考えていた。お腹の部分でひとつだけボタンを留めたカーディガンのような黒の模様、それを解くように切り裂かれた傷口。何も見つめていないオリーヴ色の瞳。わずかに空いた口と、その隙間から垂れる小さな舌。アパートのエントランスで見かけた黒白ねこの姿も思い出した。睨むようにこちらを見つめる姿。マグロの切り身を口にして、まん丸な瞳でこちらを見つめる姿。名前を与えて欲しいとせがむようにこちらを見つめる姿。あのねこと写真の中で死んでいたねこは違うのかもしれない。実は今も元気で、ちょっと遠くに行っているだけなのかもしれない。いつか元気に戻ってくるかもしれない。遠い積乱雲のようにムクムクと膨らむ僕の期待を、ユサは奇妙な仕方でくじいた。でもあたしには、画像掲示板にアップされたねこの死体も、やっぱりちーちゃんなんじゃないかって気がするんだ。

 どういうこと? 不思議と苛立つ気分で僕は訊ねた。そのねこが一度死んで、その後でキリストみたいに蘇ったってこと?

 シュレディンガーのゾンビねこってあるじゃん。多少間違っていつつも意外な教養を見せてユサは話を始めた。毒ガス発生装置の中にいるねこは、蓋を開けて確かめてみるまでは生きてる状態と死んでる状態のふたつが重なり合ってるってやつ。あれとおんなじなんだ。ちーちゃんはねこ殺しに殺された状態と、殺されなかった状態が、ふたつ重なり合ってるんじゃない? 眉間にしわを寄せて訊ねるユサに、僕は首を横に振りながらそれを否定した。「シュレディンガーのねこ」ね。僕も量子論を専門的に勉強していないから聞き齧りレベルの知識しかないけれど、でもその考えは違うと思う。そのねこは無事に飼い主のもとに戻ったって言うんだから、それは殺されなかった状態が正しく観測されたことを意味してるんじゃない? ふたつの状態の重なり合いは、観測されていない状況でのことを表しているはず。観測した後での生きたねこと死んだねこの重なり合いは、このテーマの言わんとすることじゃないよ。

 でもさ、考えてみてよ。ユサは何故か視線をはずして、あてもなくつぶやくような明確な方向性をなくした声で言った。もしもちーちゃんが家に帰ってきたって後日談がなくて、画像掲示板にちーちゃんに間違いないねこの死体がアップされてたってところで話が終っていたら、キシは多分ちーちゃんが殺された状況こそが観測されているって言ったと思うよ。

 それはその観測が間違っていたってことにすぎない、と僕は反駁した。でもユサの言いたいことは何となく伝わっていたから、ユサが続いて次のように主張するのを、ただ黙って聞いていた。じゃあ訊くけど、ちーちゃんが生きて家に帰ってきたって観測が、間違っていない保証がどこかにある? その飼い主は画像掲示板の写真を見て自分のねこに間違いないって確信していた。見間違いかもしれないって言って慰めるあたしの言葉なんか全然耳に入れないで、わんわん大泣きした。それなのに自分の家に戻ってきたねこも、やっぱり確信を込めてちーちゃんだって主張する。結局のところ、人間が本当の意味で正しく何かを観測することなんて不可能なんじゃないの? 人間が見ているのはどこまで行っても重なり合いの中のひとつの状況に過ぎないんじゃないの? ねえキシ、あたしはこの間屋上から飛び降りる人の幻覚を見た。その映像はめちゃくちゃリアルにリアルにあたしの頭の中に焼き付いてる。でも地面にその人の死体は見つからなかった、新聞にもニュースにも取り上げられなかった。だからと言って、本当にあたしが見た人影は存在しなかったなんて言えるの? あれはあれで有り得たんだって、そう考えたほうがあたしには馴染みやすい。誰かが飛び降りた状態と、誰も飛び降りなかった状態が重なり合ってる。誰もそれを否定できないはずでしょ、人間が、実は本当の意味では何も観測できないと仮定するなら。

 不毛な仮定としか思えないけど。そう言ってからグラスのワインを飲み干すと、不器用な手つきでユサがワインを注いでくれた。小さくお礼を言ってから、話を続ける。そんな仮定を厳密に採用したら、人間は何もできなくなるし何もやらなくなるよ。だからこそ、僕たちは大多数の人間が観測したと思う状態を、事実として取り扱うことにしてる。それで特に不都合もないから、ずっとそういうふうにやってきている、それだけのことだよ。

 でもときどき、事実でないと葬られた重なり合いの状態は、あたしたちに逆襲をするんじゃない? ユサが密やかな声でそうつぶやくのを、僕は奇妙なほど深刻な印象と共に受け取った。逆襲(・・)? でもユサはふいに話題を先に進めてしまい、それについて詳しく話すということはなかった。

次回更新は7/21(木)を予定

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