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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第6章   ── 正しい「アイスパレスの王女さま」 ──
23/45

ねこキラーの逆襲 第3章

作成日時:2009年1月24日

更新日時:2009年2月16日

(以下本文)


   1


 佐伯ちひろにねこキラーについての小説をいつか書いてみたいと申し出たとき、佐伯ちひろはあまり大きな反応を見せず積極的ではないにしろともかくそれについて許可はくれた。拒否か、あるいは熱烈な歓迎かのどちらかを予期していた僕には、そのつれない反応は少し寂しかったのを憶えている。それでも僕が、小説のためと言ってねこキラーという女性についての話を聞き出すとき、佐伯ちひろは奇妙な熱をこめて話を始めるのが常だった。そうして少しずつ、断片的にねこキラーについての話が集められていくと、次第にこのねこキラーというキャラクターは僕の中で単なる馬鹿げた空想の産物とは思えなくなっていった。

 佐伯ちひろの口から語られる、ねこキラーと自らを名乗る女性の話。その内容はそもそも現実離れをしていたし、ところどころにあいまいさや致命的な矛盾さえ含んでいた。だから僕はもちろん今でもそれをそのままの形で、つまり佐伯ちひろの語った通りには受け取らない。けれどもいっぽうで、僕がそれを全くの虚構だとみなすこともできなくなっているのは、ひとつにはそれを伝えようとする佐伯ちひろの純粋で熱心な態度に拠る部分もあった。でも本当の意味でその核になっていたのは、逆説的ではあるけれど、彼女の話それ自体に含まれるあいまいさや矛盾の質感にあったのだと思う。

 ねこキラーにまつわる話の、全てが佐伯ちひろの頭の中だけで生み出された空想に過ぎないと処理することは僕にはできない。確かに佐伯ちひろは十分に理知的で、物事を見通したり概念を構成する能力に秀でていたけれど、それは彼女の話の中のあいまいさや矛盾を研ぎ澄まして強調しこそすれ、けしてそれ自体を生み出すものではなかった。

 ともかく僕は佐伯ちひろの話を聞くごとに、ねこキラーという得体の知れないものの存在を信じるようになっていった。その存在の仕方については、留保する部分があったにしても。

 佐伯ちひろがいなくなってから、僕はねこキラーについての小説を書くことをようやく真剣に考え始めることになる。その手始めに、僕は「雪と雪ねことねこキラー」という短篇小説を書き上げた。佐伯ちひろから聞き出したたくさんの話を整理して、僕なりにねこキラー的な存在というものをまとめ上げることを目的としていた。しかしそれを書き終ったとき、僕はむしろ自分がねこキラーという存在から離れてしまったのを感じた。その作品は馴染みの小説投稿サイトにアップロードしたけれど、その評価も散々なものだった。読んでいて疲れるだけなんですとある人は言った。全部読み終っても、この文章はどこにもたどり着けていないんじゃないですか? そんな作品にどんな意味があるんでしょうか?

 僕には反論する術がなかった。それでも僕の心がすんなりとその意見を受け入れることをしなかったのは、彼のコメントがひと言も雪ねこについて触れられていない点にあるからだと、しばらくして考えるようになった。そしてようやく気づいたのだ、僕があの作品で本当に書きたかったものは、実はねこキラーではなくて雪ねこのほうだったのだと。それこそがあの作品の主題だったのだ。

 第1章で書いたとおり、雪ねこという言葉は佐伯ちひろがねこキラーと初めて出会ったとき、ねこキラーの口から出たものだ。殺されたねこはちゃんと埋めてあげないと、雪ねこになって街をうろつくことになる。謎かけのようなその言葉をつぶやいてから、ねこキラーは佐伯ちひろと一緒に殺されたねこの死骸を土に埋める。しかし僕が佐伯ちひろから雪ねこという言葉を聞いたのはこのシーンの話のときのみで、結局それ以外に雪ねこという言葉を佐伯ちひろが持ち出すことはなかった。それにも関わらず、僕はこの雪ねこという言葉を重要なものと受け止めた。街をうろつく雪ねこというイメージを、僕は発展させて「雪と雪ねことねこキラー」という短篇小説を書き上げた。

 それはある意味で僕の内部で取られた防御姿勢のひとつだったのかもしれない。佐伯ちひろはねこキラーと出会った初期の段階こそ純粋にねこを殺す行為に対する拒否反応を示していたのに、それはすぐにねこキラーへの恋愛感情によって忘れ去られてしまう。佐伯ちひろの物語る話の中にねこを殺す行為への非難の目つきは消えてなくなり、その残虐性は不自然なほど話の主題から消え失せてしまう。だからこそ僕は、たぶん雪ねこというキャラクターを強調することによってバランスを取っていたのだ、ねこキラーによる暴力を正当に評価できる存在として。

 だから見方を変えれば「雪と雪ねことねこキラー」という作品は、僕なりに形作ったねこキラーへ向けての非難のひとつだったと言えるかもしれない。物語最後に登場した喫茶店の老店主の態度は、そのまま僕自身のねこキラーへの態度に重なるのだろうと思う。それが彼女にとって、どのような意味も為さないという点まで含めたとしても。

 実際には僕は一度も佐伯ちひろに対して非難めいたことを言わなかった。それが佐伯ちひろの態度を助長した、ということは言えるかもしれない。

 もちろんそれは僕の保守的な、臆病な性格による部分も大きいのだとは思う。しかしささやかではあるけれどもうひとつその理由に加えたいと思う事柄がある。そのせいで僕は、ねこを殺すという行為に対して真っ向から非難の矛先を向けることが躊躇われてしまった。佐伯ちひろの口から出た幼少期の僕によるその行為自体に、僕はまるで憶えはなかったのだけど。

 それは他のほぼ全ての事柄と同様に、佐伯ちひろとねこキラーに関するエピソードのひとつとして僕に伝えられた。時系列でいえば、佐伯ちひろとねこキラーが「旅」に出ようと相談し始める、少し前。つまりそのすぐ後で佐伯ちひろは僕の住むアパートを訪ねることに決めたのだ。これを符合と見ることも可能だろう。つまり佐伯ちひろはねこキラーとのやり取りを通して幼い僕が同じく幼い彼女に植え付けた恐怖を思い出し、はっきりとは分からないがそれがきっかけとなって、遠く離れた都市に住むあまり交流のない親戚の大学生のもとを訪問する気になったのだ、と。

 それは一応はもっともらしい手順に見える。しかし僕には、その仮定が無視できない異物感をともなっているように思えてならない。間違っているとまでは言わないが、何か重要なものを見落としているという気がする。

 もちろん僕には、佐伯ちひろがわざわざ僕を訪ねる理由なんて、他にひとつも思いつけない。数年に一度親戚同士の集まりで顔を合わせるくらいで、お互いの両親がやり取りをしている年賀状くらいにしか通信もない、そのような相手を遠い距離を経て会いに行くような理由など僕たちは何ひとつ持ち合わせていないはずだった。少なくとも僕はそう思っていた、あの日佐伯ちひろが何の前触れもなく僕のアパートのインターフォンを押すまでは。

 ときどきこうも思うのだ。佐伯ちひろは今まさに僕がしているように、自分とねこキラーの物語をひとつの小説として書かせるために僕に会いにきたのだ、と。だからこそあの三日間、佐伯ちひろはねこキラーと名乗るねこを殺す女性との関わりを求められるまま延々と話し続けた、その全てを僕に伝えるために。もちろんこのアイディアは明確なアナクロニズムを含んでいる。ろくに連絡も取り合っていない僕が、密かに小説を書いて楽しんでいるという事実を出発前の佐伯ちひろが知るはずもない。それは僕との会話を通して佐伯ちひろが新たに知った事柄のはずだ。

 それにも関わらず僕はこの考え方に固執する。それはこの「ねこキラーの逆襲」という小説を完成させるための自分自身への甘言として捉えるべきかもしれない。複雑さに満ちた物語をうまく書き上げるための、ささやかな理由付けのひとつとして。だがいっぽうで、僕はそこに含まれるアナクロニズムにこそ意味を見出しているという思いもある。それは多くのあいまいさや致命的な矛盾を含んだ、ねこキラーという女性の存在の仕方とリンクしているのだろう。

 佐伯ちひろがねこキラーとの会話の中で思い出した幼少期の法要の集まりでのひとコマ。確かにその手の親戚同士の集まりは何度かあったことを記憶しているし、幼い頃の佐伯ちひろの姿も印象として残っている。しかし繰り返しになるが佐伯ちひろに恐怖を植え付けたというその行為を僕は断片的にも思い出すことができない。僕がどこからか調達してきたという一斗缶にもまるで覚えがないし、それを沈められるくらいの深さがある池を備えた親戚の家というのも、まるで心当たりがない。しかし佐伯ちひろの口から語られるそのシーンの話を聞くとき、その光景は不思議なほどはっきりと映像化されて僕の頭に浮かぶ。まだ小学生に上がるか上がらないかといった年齢の佐伯ちひろの、それでもすでに怜悧さを感じさせる冴えた光を放つ瞳。小さくしゃがみ込んで黙ったまま、一途に佐伯ちひろが一斗缶を見つめている姿を、僕は思い出すというのでもないのに古い写真を眺めるみたいにはっきりとイメージすることができる。

 ねこキラーは佐伯ちひろの話を最後まで聞くと不吉な予言めいたことを言った。それに対して佐伯ちひろがあなたはどうなの? と訊ねたとき、ねこキラーが答えたことは重要な暗示になっていたのだろう。そしてその暗示から、佐伯ちひろとねこキラー、さらには殺されるねこという三者を同じ連続体として繋ぐ、佐伯ちひろの身勝手な世界観を垣間見ることができる。

 まだ日も昇らず肌寒い早朝に魔法瓶のコーヒーを分け合って、佐伯ちひろとねこキラーは海を眺めていた。それが本当にありうるためには、ねこキラーという女性がきちんと存在してレンタカーを借りる必要があるし、また佐伯ちひろも小うるさい家族を説得して夜明けのずっと前に家を出なければならない。だからそれがどのような形で実現されたかは留保するとしても、ともかく佐伯ちひろは次のようなシーンを僕に語ったのだ。



   2


 カバンの中に佐伯ちひろはいくつかの参考書とコーヒーの入った魔法瓶を入れる。そして家を出て、ねこキラーと待ち合わせをしている公園に向かう。道路を走る車は一台もないのに、信号機はこんな時間にも律儀に通行を規制していることに佐伯ちひろはある種の感銘を受ける。

 公園にはハザードランプを点けた車がすでに横付けされている。近くまで行くとドアが開き、コートを着込んだねこキラーが現れて佐伯ちひろに手を降る。佐伯ちひろはほっとして、駆け足で彼女のもとへ向かう。そんな薄着で大丈夫? 佐伯ちひろの体を抱きしめてから、冷たくなった頬に手を触れて少し咎めるような口調でねこキラーは言う。大丈夫だよ、と答える佐伯ちひろにキスをする。それは佐伯ちひろが思っていたよりも、長く続く。

 助手席に乗り込む。暖房をつけていないため車内は思っていたよりも冷えている。ねこキラーが乗り込んでキーを回しエンジンを起動させても、それが再開されるという気配はない。佐伯ちひろが無意識に襟元を合わせるのを、ねこキラーは見逃さずすぐに空調の設定を操作する。生暖かく少しだけ埃っぽい風が、佐伯ちひろの冷たくなった鼻先をくすぐる。

 車が動き出してしばらくの間は、佐伯ちひろもねこキラーも口を開かない。静かで暗いだけの住宅街を抜けて幹線道路に入ると、たくさんの数の大型トラックが毒々しいライトと地響きのような音を放ちながら速度超過気味に走行している。それに合わせるようにねこキラーもアクセルを強めて速度を上げる。佐伯ちひろはシートに体を深く沈めて、ぼんやりと、トラックの荷台に書かれた文字に目を向ける。さまざまな光の反射が佐伯ちひろの目に映る。こういう時刻に、自宅からそれほど離れていない場所でこのような光景が繰り返されていることに、佐伯ちひろはまたある種の感銘を受ける。それは佐伯ちひろが想像もしなかったものだ。佐伯ちひろの思い描く世界の中に、確かにこれまで存在しなかったもの。

 信号に捕まることもなく、車は少しの減速もしないで走り続けた。それは他のトラックたちも同じで、確かな質量を感じさせるそれらの鉄の塊に囲まれて走るには、佐伯ちひろたちの乗る小型車はあまりにも心細く頼りない。隣を走るタンクローリーが少しでもハンドル操作を誤れば、いともたやすく弾き飛ばされて粉々にされてしまうだろう。

 ねこキラーはそんなトラックの列の隙間を巧みに車線変更を繰り返してすり抜けていく。ふたつ向こうのレーンを走っていたトラックが急に間近に迫り、そしてまた離れていく。危険運転というほどではないにしろ、それは佐伯ちひろにしっかりとした手触りを測ることのできるスリルを与えた。自分の乗る車がぺしゃんこに押しつぶされてしまう光景を、これほど具体的に想像したことはない。そして佐伯ちひろは、むしろそれを心踊る体験として受け入れた。これもまた、今までの佐伯ちひろの世界の中にはなかったもの。隣にいるねこキラーという女性の存在が、その感じ方に関わるかどうかを佐伯ちひろ自身は測りかねていたけれど。

 トラックのキャラバンの先頭にいつの間にか抜き出していた。前方に長く続く国道の先のほうまで別の車の姿は見えず、限られた街路灯が見えるだけの暗黒に満ちた道路が続いている。ねこキラーはさらに速度を上げた。誰にも遮られることなく、ふたりを乗せた車は思うままのスピードで幅の広い道路の真ん中を疾駆する。背後のトラック群から放たれるヘッドライトはすでにはるか後方まで退いて、個性のない闇にあたりを取り囲まれている。

 家族のこと、嫌いなの?

 ふいにねこキラーの口からつぶやかれたその問いかけに、佐伯ちひろは繋がりを見出せずすぐに返事できなかった。窓の外に向けていた視線を、隣のねこキラーに移すと闇の中にその横顔が一瞬だけ街路灯の光に照らされた。先日のねこキラーとの話が、ふいに思い出される。佐伯ちひろは座席に座り直して正面を見つめ、嫌いというほどのことでもないよ、と正直かつあいまいに答える。確かに価値観が合わないことはたくさんあって、この前みたいに愚痴っぽいことも言っちゃうけど、でも嫌いだって言い切れるわけじゃない。普通だよ、普通。他の同じ年頃の人間なら、だいたいの人が思ってることとそんなに違わない。だからそんなに深刻に取らなくてもいいよ。

 じゃあ、家族の中で一番好きなのは誰? 親戚を含めてもいいよ。

 再度繰り出されたねこキラーの質問に、佐伯ちひろはやはりすぐには返事ができなかった。浮かんだ答えは、誰も好きじゃない。でもその答えでは先ほどの立場と対立してしまうように思えたので、佐伯ちひろは口をつぐんだ。佐伯ちひろが記憶を探っているのを、ねこキラーは黙って待ち続ける。幹線道路はいつの間にか海沿いに迫っていて、左手に広がる均一な闇が果てしなく先まで拡がる海面であることに佐伯ちひろは気づく。日差しがあれば見えるであろう瑠璃色に輝く水面を想像しながら佐伯ちひろが思い浮かべたものは、それを背景に海沿いの崖に立つ喫茶店のイメージだった。その喫茶店が、具体的に佐伯ちひろの記憶にあるわけでもなければ続いて連想したその喫茶店と直接の連関を持つわけでもないのに、佐伯ちひろはごく自然にそれらを繋ぎ合わせて、ねこキラーへの返事とした。遠い親戚に、ちょっと変わったおじいさんがいるんだけど、その人のことがわたしはもしかしたら一番好きなのかもしれない。交流は限られていたから、その人のことについて詳しく知ってるわけじゃないけどね。むしろ親戚一同からは、絶縁に近いポジションにいた人だから。

 ねこキラーは興味を示したことを表す一瞥を佐伯ちひろに向けた。明言こそされなかったけれど、もう少しそれについて話して欲しい、というねこキラーのメッセージと読み取って、佐伯ちひろは語り続ける。

 そのおじいさんは四十も半ばというときに仕事を辞めて、というより辞めざるを得ない状況になっちゃって、思い立って喫茶店を始めたの。ふたりの娘さんはまだ大学生と高校生という大変な時期に。わたしは、一度だけそのお店に行ったことがある。親戚の誰かが亡くなって、その遺産分配について話し合いをしなくちゃならないんだけど、おじいさんは頑なに話し合いに参加しようとしない。詳しくは分からないけど、おじいさんは親戚一同を嫌っていたから。それで、比較的おじいさんに嫌われてなかったわたしたち家族が、無理やりおじいさんの家を訪問して決着をつけようとした。でもおじいさんはやっぱりけんもほろろで、わたしたちの顔を見るなりお店のほうに引っ込んで出てこなくなっちゃった。さすがに仕事場まで顔を出して迷惑をかけるわけにもいかないし、それにおじいさんの奥さんは同情的でわたしたちの話を聞いてくれたから、ともかくわたしの両親はそのおばあさんに遺産分配についてのややこしい書類の話をし始めた。それで退屈そうにしているわたしに、おばあさんはお店に行ってみたら? と声をかけた。

 直前につっけんどんなおじいさんの態度を見ていたから、わたしは怖気づいちゃって首を横に振ったんだけど、メロンソーダを作ってくれるからって、おばあさんはしきりに勧めるの。メロンソーダ? そんなもの別に要らなかったんだけど、わたしの両親がせっかくだからもらってきなさいって、妙に真剣な顔で言うから、それに従う形でわたしはお店のほうに行った。両親を怒らせたくない一心でね。今思えば、きっと遺産分配に関わるえぐい話をわたしに聞かせたくなかったんだろうけど。ともかくわたしは、びくびくしながら喫茶店の扉を開けた。店内に客はいなくて、おじいさんはスツールに座って煙草をふかしながら怖い顔で新聞を読んでた。でもわたしの姿を見るとすぐに新聞を畳んで、メロンソーダでも飲むか、って声をかけるのが、何だかおかしかった。

 そこで話を切る佐伯ちひろに、しばらくしてねこキラーは訊ねる。それで、何があったの? 佐伯ちひろは苦笑というのでもなく少し笑って、別に何も、とあっさり答える。わたしは背の高いスツールによじ登るみたいにして腰かけて、おじいさんはメロンソーダを作って差し出して、わたしはそれをストローですすって、おじいさんはまた新聞に戻って。何か意味のある会話があったわけでもないし、心の通う瞬間だってなかったんだけど、不思議とその光景がわたしの心に残ってるの。ずっとそのことがわたしの中に残り続けているの。

 それを一番感じたのは、おじいさんが亡くなったって報せを聞いたとき。不思議なほどショックで、もうあのお店が閉められてしまうということに、取り返しがつかないという思いを味わった。もう一度あのお店に行けばよかったのにって、すごく後悔した。どうしてだろう、あのおじいさんと顔を合わせたことはたぶん数回くらいしかないし、そのお店だってその一度しか行ったことはなかったのに。わたしは、親戚の集まりのときに誰かがあのおじいさんのことを悪く言うのを何度か聞いたことがある。身勝手だとか、恩知らずだとか。そのたびに本当にわたしは我慢できないくらい怒りが込み上げてきた。あんたなんかにあのおじいさんを悪く言う資格があるのかって、食ってかかりたい気分だった。親戚の間では変わり者って評判だったおじいさんを味方する人はいなかった。一族の爪弾き、という感じにしか扱われてなかった。

 だからわたしは余計にあのおじいさんの味方をしたのかもしれない、という言葉を、佐伯ちひろは飲み込んだ。いつの間にか街路灯の間隔が大きくなっていて、ヘッドライトが照らす近い距離以外は先に続く道もほとんど闇に飲まれてしまっている。道がカーブしていることも直前になるまで分からない。それでもねこキラーは速度を落とすこともなく、そして的確にハンドルを切る。単調な走行音に混じってかすかに潮騒が聴こえるような気がするのは佐伯ちひろの錯覚に過ぎないだろう。広大に続く闇の中にただ自分とねこキラーだけが存在しているような思いに佐伯ちひろは捉われる。このまま朝が来ないことを佐伯ちひろは空想した。太陽は昇らず世界は永遠に夜であり続け、そして佐伯ちひろとねこキラーは永遠にドライブをし続ける。それが自分にとって甘美なものなのかは分からない、それを想像するとき、佐伯ちひろは少しだけ息苦しくなるのを感じた。それを察したように、ねこキラーは口を開く。ちひろの、親戚についての話は面白いね。他にももっと聞かせてよ?

 急に言われても、そんなにすぐには出てこないよ。佐伯ちひろははにかんだように笑って、それまで熱を持ってしゃべり続けていた態度を転換するように窓の外へ視線を向けた。それでも期待し続けるねこキラーの気配を察して、小さな声でつぶやく。ちょっと、考えてみるけど。

 それからまた無言の時間がしばらく続く。途中で幹線道路から海岸線沿いのいくぶん細い道に入ると、次々と展開されるカーブの連続に佐伯ちひろの視線はぐるぐるとかき回された。二車線の道路に対向車線を走る車とは一度もめぐり合わず、街路灯さえ消えて闇はいよいよその勢力を増していた。ふいに進行方向に現れた案内標識は、目指す地点がまだ三十キロメートル以上先にあることを示している。それについての感想も、特にふたりの口からは出されない。ねこキラーは予告もなく出現するカーブに備えて前方にたゆまない視線を送り続けていたし、佐伯ちひろは闇の中に何か見出せるものはないかと常に目を走らせていた。ねこキラーの依頼に合わせて、親戚にまつわるエピソードを探していたかは分からない。ともかくそれは、佐伯ちひろが自発的に取り出したというよりは、それを待ちかねたようにつぶやかれたねこキラーの問いかけから触発されて思い出された。

 ちひろには、歳の近い親戚はいるのかな?

 ねこキラーが前方を注視しながらそう訊ねたとき、佐伯ちひろは初めて僕のことを思い浮かべた。それまでは、その存在すら忘れていた。ともかく、年上の男の子がひとりだけいるよと佐伯ちひろはねこキラーに伝えた。その人も、そんなに交流はないんだけどね、たまに親戚の集まりのときに顔を見かけるくらいで。もっとちっちゃいころは、一緒に遊んだような気もするけど、最近じゃ本当に簡単に挨拶するくらいかな。確かわたしよりもふたつかみっつ年上のはずだから、今は大学生のはず。

 遠くに住んでるの? というねこキラーの問いに、佐伯ちひろは少し考え込む。毎年そこの一家とは年賀状のやり取りがあるんだけど。しばらくして、佐伯ちひろは記憶を探りながら答え始める。確か去年か一昨年の年賀状で、その人が親許を離れて下宿を始めた、とか書いてあった気がする。詳しい場所は思い出せないんだけど、そんなに遠くじゃなかった気がするな。ちゃんと調べれば、下宿先の住所も分かるよ。

 その人って、どんな人?

 佐伯ちひろはまた、少し考え込んでから口を開いた。さっきも言ったけど、最近じゃ親戚の集まりのときも全然話とかしないから、どんな人って訊かれても困っちゃうんだけど。それにその人は、いつも隅っこのほうにいる印象だな。つまりね、親戚の人たちが集まってる席でも、ひとり離れて隅のほうにいて、黙って本を読んでるの。話しかけられれば顔を上げて、一応は愛想よく返事をしたりもするんだけど、自分から積極的には関わろうとしない。だからわたしも、挨拶する以外に話しかけようとはしない。当然向こうも、こちらに話しかけてくることもない。そういう感じ。

 でも、子どものときは一緒に遊ぶこともあったんでしょう?

 佐伯ちひろはそれについて思い出してみる。本当にちっちゃいころだよ、と佐伯ちひろは静かに答える。わたしがまだ小学生に上がるか上がらないかのころ、親戚の集まりなんかで一緒になったときは、ふたりで探検ごっこをしてみたりとか、そういうことはあったけど。お互い段々大きくなるにつれて、気安さみたいなものが薄れていって、気づいたら赤の他人とそんなに違わなくなってた。接し方をどんどん忘れていったみたいに、ちょっとずつぎこちなくなっていったよ。そして今に至るというわけで。

 探検ごっこを聞きたいな、とねこキラーは悪戯っぽく言った。



   3


 岬には当然人の姿はなかった。駐車場には他に二台ほど乗用車が停まっていたけれど、車中にもその付近にも人の気配はなかった。ふたりは車を降りて階段を下り、海岸に近づく。巨大な蠢く闇として、眼前に存在する広大な海面からは威嚇的にも聞こえる潮騒がふたりの耳に届く。潮の匂いを運ぶ湿り気を帯びた風がねこキラーの長い髪をもてあそび、ときどきそれが佐伯ちひろの顔に触れる。くすぐったい感触が、佐伯ちひろの心を高揚させる。

 海辺に近づくにつれて足場が悪くなり、ふたりは支えあいながら先へ進む。間近になったねこキラーからときどき嗅ぎ取れる甘い香りと、ますます濃密になる潮の匂いがコントラストを描く。ねこキラーのかすかな息遣いと、ますます圧倒的になる波の音も同様の印象。遠くからでは蠢く闇としか見えなかった海面が、今ではほの白い波頭を確かめられるまでに迫っている。砂浜はなく、目の前には夥しい数の消波ブロックの堆積が拡がるだけであることに、しばらくしてふたりは気づく。闇の中でその不規則な足場を伝って先に進むわけにもいかず、手近なブロックのひとつに腰かけて海を眺めることにする。

 佐伯ちひろはカバンの中から魔法瓶を取り出す。備え付けのカップに熱いコーヒーを注いで、それがひとつしかないことに気づく。ふたりで回して飲めばいいよ、とねこキラーはこだわりなく言って、受け取ったカップのコーヒーをすする。そしてそれを佐伯ちひろに手渡す。同じカップから、佐伯ちひろもひと口コーヒーを飲む。

 しばらくは熱いコーヒーを回し飲みしながら海を眺め、何も言わずに時間を過ごす。遠くに見える貿易船らしい巨大な船の明かりや、頭上に広がるちりばめられたような星。そういうものにときどき目をやりながら、しかしだいたいにおいて佐伯ちひろは不気味に浮かんでは消える波頭のほの白さを眺めていた。それは不安を掻き立てるようでもあり、物悲しいようでもあった。ねこキラーに夜の海を見に行きたいと言い出したとき、実は心の奥底ではこの波頭を見たかったんだ、と佐伯ちひろは発見する思いだった。遠い昔に同じように夜の海を眺めた記憶が、その欲求を呼び覚ましたのかもしれない、具体的なシーンを思い出すわけではないけれど、そんな気がする。

 ふいに隣に座るねこキラーが体を寄せてきたと思ったら、そのまま顔を近づけてキスをした。目を閉じると潮騒が具体的な質感を持つもののように聴こえた。今度は思っていたよりも短い時間で終った。

 勉強は楽しい? ねこキラーは海に視線を向けて、何か含みを持たせるように訊いた。楽しくはないけど、と佐伯ちひろはそれにあえて乗りかかるように答えた。やらなくちゃいけないことだから、サボるわけにもいかないし。

 でも、先週までは本当に大変そうだった。演技的に聴こえるくらいに悲しみをこめた声でしゃべるねこキラーを、佐伯ちひろは初めて目にする気がする。慰めるというほどではないにしろ、佐伯ちひろは大したことではないと強調するような口調を用意して、それに答える。先週は試験があったから、その付近はどうしてもね。要領よく詰め込むことができないから、どうしてもその分時間を使わなくちゃならなくなる。頭が悪いんだよ。だからそれを補わなくちゃならないの。でも別に大変だなんて思わないよ、慣れたものだから。ずっと、そうしてきた。だからそれがあたりまえだし、辛いとも思わない。だってそれは必要なことなんだから。時間を使えばいいだけなんだから、簡単でしょ?

 ねこキラーは相変わらず悲しみをこめた語調を変えず、やはり海の向こうの何か一点を見つめたまま静かに言った。時間だけじゃない、ちひろの打ち込み方それ自体が、見ていて辛くなるんだよ。頑張り過ぎというだけなら、別にわたしも何とも思わないんだけど、ちひろはそれこそ身を削るようにして机に齧りついているという気がする。ねえ、ちひろは何をそんなに怖れているの? ちひろをあんなにまで駆り立てるのは、恐怖のせいだとわたしは思う。でも、一体に何に対する恐怖? それを教えてよ、ちひろ。

 真剣な様子のねこキラーに、むしろ佐伯ちひろは初めは面食らう思いだった。それほど深刻に受け取るべき話題でもないような気がする、というのが正直なところだった。それでも、自分が恐怖に駆られて打ち込んでいるという想定は、確かにどこか納得できるようにも思えた。佐伯ちひろは自分を動かす恐怖について考えてみた。何を怖れているのだろう?

 もちろん、テストの点数や順位を落とすということが怖いから、わたしはせっせと勉強するんだけど。自分の口に出した答えがあまりに平凡なことに、ねこキラーは呆れてしまうのではないかと佐伯ちひろは危惧する。当のねこキラーはその視線を佐伯ちひろに向けて、静かにうなずいてみせたけれど。佐伯ちひろは自分の答えに満足せず、それについてなおもしばらく考え続けていた。

 ちひろは昔から勉強ができたの? とねこキラーはそれを妨害するように質問を重ねる。今も勉強ができるというほどのものでもないと思うけど、と留保しつつ、佐伯ちひろはそれに答える。小学生の頃から、クラス内で成績はいつも上位のほうだった。小学校高学年のころまでには、周りからの評価もそういうふうに固まっていたね。

 じゃあちひろは、ずっとそれを維持し続けてきたんだ。ねこキラーが慈しむような声で言うその言葉を、佐伯ちひろは不思議なほど実感をともなって聞いた。そう、確かにわたしは、それを維持するために頑張ってきたのかもしれない。佐伯ちひろは浮かんでは消えるほの白い波頭を眺めながら、過去を振り返るようにしてつぶやく。小学生のころまでは、別に大した努力をしなくてもその状態をキープできてた。でも中学校に上がったころから、それこそ頑張らなくちゃそれをキープできないようになっていった。そのために必要な頑張りの量はどんどん多くなっていって、まあ、大変になっていった。そういうことなのかもしれない。

 どうして維持しなくちゃならなかったんだろう、とねこキラーは不思議そうに訊ねた。まわりの人を失望させたくなかったんだよ。佐伯ちひろは自分でも気にかかる他人事のような口調で、素早く言った。まわりの人、とねこキラーは繰り返した。そして訊ねた、誰?

 少しだけ間をおいて、佐伯ちひろはつぶやく。両親に。ねこキラーが何か言い出しそうなのを遮るように、佐伯ちひろは急き込んで言葉を足した。でも、別に親から勉強しなさいとか、テストの成績を落とすなとか、強制されてるわけじゃないんだよ。スパルタチックな親だとか、そんなふうに思うとしたら、それは誤解だから。成績についてだとか進学先についてだとか、特にこだわるわけでもないし。

 でもちひろは、成績を落とすことで彼らを失望させると思ったんでしょ?

 ねこキラーの言葉に、佐伯ちひろは再び不思議なほどの実感を感じる。そしてそれについて考えると、すぐに過去のひとつのシーンが思い出される。中学に上がって最初の試験はね、あまり良くない成績だった。佐伯ちひろは闇の中で自分の指先を見つめながら、話し始める。小学生のときまでと違って、中学の試験は全体の中での順位が出される。その順位が、思っていたよりも良くなかった。もっと上位にいるはずだと思ってたのに、割と平凡な位置だった。そのことにわたしはびっくりした。あれ、わたしは実はこの程度だったの? ってね。

 それを両親に見せたとき、別に怒られたりとかもっと勉強をするようにとか言われたわけじゃなかった。でも、次はもっと頑張りたいってわたしが言っても、あんまり取り合ってはくれなかった。具体的な態度や言葉でそれを伝えられたわけじゃないんだけど、わたしは両親が失望していることを強く感じ取った。もっと頭のいい子だと思っていたのに、と考えていることが、本当に手に取るようによく分かった。それがとても辛かった。いたたまれない思いだった。期待を裏切ってしまった、失望させてしまった。そういうふうに真剣に考えて、この先の両親との関係について悩んだりもした。それがあって、次の試験のときは本当に追い詰められたみたいに勉強した。きっとそこがわたしの原点なんだよ。

 ふいにねこキラーの体が近づいたので、キスをされると佐伯ちひろは思った。しかし佐伯ちひろの顔に近づいたのは、ねこキラーの左手だった。温かく少しだけ湿り気を帯びたねこキラーの左手は、佐伯ちひろのまぶたを覆い隠して視界を奪った。見えすぎちゃうんだよ、と耳元でねこキラーはささやいた。ちひろはいろんなものが見えすぎてる。見なくていいものまで見ちゃうから、辛くなる。だからちひろは、見ない努力をするべきなんだ。勝手に目に映るものは、拒否しよう。大丈夫、そのやり方なら、わたしが教えてあげるから。

 佐伯ちひろもねこキラーのほうに体を寄せた。闇の中で潮騒は生物的な存在感を増し、佐伯ちひろはその想像力の中でほの白く浮かんでは消える波頭を見た。そして、佐伯ちひろはその映像も消した。佐伯ちひろの頭の中には真の闇が出現し、その世界には潮騒とねこキラーのかすかな息遣い、そしてねこキラーのかすかに甘い香りとときどき風に運ばれる潮の匂いしか存在しなくなった。

 懐かしい暗闇だ、と佐伯ちひろは思った。この暗闇のことを、佐伯ちひろは憶えている気がする。どこでいつそれが具体的にあったのかは分からない。しかし自分はそれを知っている。だからこそ、こんなにも深く安堵することができるのだ。ここにいる限り、自分は何もしなくていい。何も恐れなくていい。何も頑張らなくていい。そんな素晴らしい暗闇がこの世界に存在することを、全く忘れ去ってしまっていたことに、とても不思議な思いがする。ここにいれば、何の問題もない。悪いことはひとつも起こらない。これはそういう暗闇なのだ。

 幸福な暗闇の中にいる佐伯ちひろに、それをけして邪魔しない形で、ねこキラーはささやきかける。ねえ、探検ごっこの話を聞かせてよ。

 いいよ、と佐伯ちひろは闇の中で応える。



   4


 僕が佐伯ちひろという親戚の女の子に対して持つ最も古い認識は、他の親戚の結婚式の式場でのシーンだ。窮屈な礼服に辟易してしきりにネクタイをはずそうともがいている僕に、僕の両親はたしなめるように言った。ちひろちゃんはあんなにお行儀良くしているのに、どうして同じようにできないの? あなたのほうがお兄ちゃんなのに、みっともないでしょ。

 佐伯ちひろは子供用のドレスを着飾って、人形のようにきちんと座って前方を見つめていた。その印象の佐伯ちひろは確かに小学生になるかならないかの年齢のものだから、佐伯ちひろが言ったその事件は、この記憶のひとコマからそれほど時系列としては離れていないのかもしれない。ともかく佐伯ちひろはその頃から印象的なアーモンド形の目を利発そうに見開いた、どことなく技巧的な雰囲気を持つ少女だった。可愛らしいというよりは端整なという形容詞のほうがふさわしかったし、子どもらしい好奇心よりもミスをしてしまわないかという恐怖心のほうが先に立っているように思えた。それが僕には気に入らなかったことも確かに憶えているから、佐伯ちひろのいうその事件が、ある意味で挑発的に仕掛けられたという解釈も成り立たないわけではない。けれども、何度も繰り返すように僕自身がその事件のことを全く憶えていないのだから、そのような捉え方も実感としてうまく受け入れるということはない。

 しかし一斗缶を見つめる佐伯ちひろというイメージの中で、佐伯ちひろの表情には恐怖心を打ち破って顔を覗かせる子どもらしい好奇心の暗い炎を垣間見ることができるというのも、確かに事実だ。もちろんそれは、僕自身がおこなった脚色なのかもしれない。佐伯ちひろの話の中では、僕の行為への好奇心については語られていなかった。その好奇心がやがて佐伯ちひろをねこキラーへと導いたというのは、僕の解釈にすぎない。その解釈に都合のいいように、そのイメージの内容を加工した、ということも十分にありうる。これについては結論の出ようがないから、ここで切り上げて話を進める。

 佐伯ちひろの話では、その法要のとき僕たちはふたりとも黒い礼服を着ていたそうだ。結婚式のときの衣装と同一のものかは分からない。ともかく昼過ぎに法要自体は終り、その後夕食を親戚一同で食べる時間まで、長い猶予があった。そこで、しばらくふたりで遊んでいなさいと、僕と佐伯ちひろはそれぞれの両親から指示された。僕はむず痒そうにしていた礼服をすぐに脱いで替えの服に着替えたけれど、佐伯ちひろは着替えがなく礼服のままだったそうだ。だから僕の母親は僕に命じた、ちひろちゃんの服が汚れないように、気をつけて遊びなさい、と。

 それは守られたと佐伯ちひろは言った。僕たちはその広い屋敷のような家を探検することにした。初めは、室内を隈なく回っていた。建物は古くからの武家屋敷のような造りで、探検しがいのあるものだった。たくさんの廊下とたくさんの引き戸があった。こっそり開けると親戚の人たちがくつろいでいたりして、探検は進んでるか? と声をかけられたりした。思わぬところに階段があったり、意外なところから元の場所に戻ったりした。それは確かに面白かったが、やはり室内だけでは限界があって、やがて僕たちはほとんどの場所を回りつくしてしまった。

 外に出て行くとき、僕の母親はまた忠告した。ちひろちゃんの服が汚れないように気をつけなさい。それを守るため、塀をよじ登ったりぬかるんだ場所に踏み入ったりすることは避けようと僕が率先して注意していたと、佐伯ちひろは言った。それが本当にありえたのか僕に自信はないが、ともかく僕らは無茶をしない範囲でいろいろなところを歩き回った。歩き疲れてそのまま地面に座ろうとするのを僕がやめさせたとも、佐伯ちひろは言った。

 もう歩きたくないか、と僕は訊いた。

 大丈夫だよ、と佐伯ちひろはウソをついた。

 そこで待ってろ、面白いものを見せてやるから。僕はそう言って、その場を離れた。佐伯ちひろは壁にもたれて、僕が戻るのを待った。

 少しして、銀色に鈍く光る一斗缶を手に僕が戻った。もう少しだけ歩けるか、と僕は訊いた。佐伯ちひろはうなずいて、もたれかけていた背中を離した。一斗缶を抱えて屋敷とは反対の方向へ進む僕に、佐伯ちひろはついていった。

 雑木林を抜けると大きな池があった。屋敷の所有かどうかは分からないが、ともかくそれはあまり離れていない位置にあった。わあすごい、と佐伯ちひろは感動する振りを装った。

 もうちょっと待ってろ。僕は一斗缶を池の近くに置き、蓋をはずしてから雑木林の中に入っていった。佐伯ちひろは、足許の小石をひとつ手に取って、池に投げた。音と波紋を立てて石は沈んでいった。もう少し大きな石を投げてみようと思いついて探していると、ねこを抱えた僕が戻ってきた。ねこは抵抗もせず不機嫌そうな顔で佐伯ちひろをにらんでいた。お待たせ、と僕は言った。面白いものを見せてやるよ。

 面白いもの? と佐伯ちひろは言った。

 空いた一斗缶の中に、僕はねこを入れた。そして、蓋をした。ねこは不満そうな鳴き声をあげたが特に抵抗はしなかった。

 後ろを向いてろ、と僕は命令した。絶対に振り向くなよ。絶対だぞ。

 佐伯ちひろは後ろを向いた。

 しばらく何か物音が聴こえて、その後で一斗缶が池に落とされる大きな水音がした。走れ! と叫んで佐伯ちひろの手をつかむと、そのまま屋敷のある方向へ走っていった。佐伯ちひろは為すすべなく、つかまれた手を引っ張られる形で走った。後ろを振り向く余裕も、何かを言う余裕もなかった。雑木林を抜けて屋敷のところまで戻ると、今のことは誰にも言うなよ、と僕は言った。佐伯ちひろは荒い呼吸をしながら、小さくうなずいた。オーケー、と僕は言った。



   5


 本当に彼がねこを入れたまま、一斗缶を沈めたのかは分からないけどね。佐伯ちひろはねこキラーの体にしがみつくように手を回して、話を締めくくるようにつぶやいた。わたしが見ていない間にねこを取り出して、一斗缶だけを落としたのかもしれない。ねこが逃げ出せるような仕掛けがあったのかもしれない。でも、ともかくわたしにはショックだった。そんなことが起こるなんて信じられなかった。びっくりして、まるで世界が裏返ったみたいな気分だった。あのねこはどうなっちゃったんだろうって、ずっとそのことを考え続けていた。でも、その親戚の男の子に直接聞き出す勇気がなかった。結局わたしは、一度も訊ねることができなかった。

 彼はきっと、溺れ死ぬことになる。ねこキラーは不思議と厳しさの感じられる声で決め付けるようにそう言った。どんどんと苦しくなって、息を吸いたい、息を吸いたいって切望しながら、でもそれができなくて苦しみながら死んでいく。彼はそういう死に方をすると思うよ。

 全ては返ってくるんだね、と佐伯ちひろはつぶやいた。でも、そうだとしたらあなたは? あなたは一体どういう死に方をするの?

 わたしはちひろに殺されるんだよ、とねこキラーは穏やかに言った。だからわたしは、とても幸せなんだよ。

 わたしがあなたを殺すの? 疑わしそうに佐伯ちひろは訊ねた。わたしはそんなことしないよ、そんなことできないよ。

 そうかもしれない。でも、それは誰にも分からない。ねえちひろ、大切なことは、わたしはちひろに殺されるなら別に構わないってことなんだよ。どうかそれを忘れないで。

 ねこキラーがまぶたを覆う左手を離そうとするのを感じ取って、佐伯ちひろはしがみつく指の力を強めた。待って、もうちょっとだけ手をどかさないで。もうちょっとだけ、何も見えないままでいさせて。

 ねこキラーはそれでも左手を佐伯ちひろの顔から離して、そしてその唇に自分の唇を重ねた。それがいつまでも続けばいいのにと佐伯ちひろは思ったが、もちろんいつか終りが来るということも、佐伯ちひろはしっかりと理解していた。

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