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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第6章   ── 正しい「アイスパレスの王女さま」 ──
22/45

17   「   」

 読み終えてぼんやりと考え事をしていると、メッセンジャーのメンバーがログインしたことを知らせるアラート音が鳴り響く。時刻はまだ午前四時前。予期せぬ音にどきりとする。表示されるメンバー名は空欄になっている。「   さんがサインインしました」IDを確認するまでもなく、それはあの女の子に間違いなかった。僕はしばらく、オンラインのメンバーの欄に表示された空白を見つめていた。ずっと待ち望んでいたはずなのに、何故かすぐに話しかけるということはしなかった。できなかった。ただひたすら、空白のメンバー名を見つめ続けるだけだった。静かな時間が流れた。どれほど時間が経ったのか分からないけれど、ふいにオンラインのメンバーの欄からアイコンが消えた。去ってしまったのかと落胆していると、間を開けず再びアラーム音とともに通知のメッセージが表示された。「   さんがサインインしました」合図なのだと思い、僕は決心して話しかける。「おはよう、久しぶり。ずいぶん早起きだね」

 すぐに返事は来ない。冷淡な沈黙がしばらく居座り続ける。残り少ないコーヒーをすすって、僕は画面を凝視する。女の子とメッセで会話をするとき特有の、張り詰めた空気がすでに漂い始めているのがひどく懐かしい。もう一度、追加のメッセージを送ろうかと検討をしていると、ようやく向こうから返事が届いた。「今日、キシのとこに遊びに行ってもいい?」

「学校は?」と打ちかけた文章を消して、「いいよ」とだけ送る。それに対して返事もなく、女の子はオフラインになった。通信状況が悪いのかと思ってしばらく待ってみたけれど、結局再びログインのアラームが鳴ることもなかったのでノートパソコンの電源を落とした。マグカップに残っているコーヒーを、全て飲み干して流しに持っていく。何故か大きなため息が漏れる。

 昨日部屋に帰ってきてから放りっぱなしになっていたカバンを引き寄せて、中身を取り出す。行き帰りのバスで読もうと思っていた「悪霊」下巻は、結局一ページも読み進めていない。他に入っているものは携帯電話と、幕張の会場で買ってきたシンガポール人作家のコミック数冊のみ。日本語訳のコミックとは別に、アメリカで出版された二百ページほどの単行本もある。もちろん中身は全て英語。本棚からオクスフォードの英英事典を取り出して、分からない単語を調べながら読み始める。やはり文字量が多いので、それは遅々としてはかどらない、一ページを読み解くのに、長い時間がかかる。でも細部まで綿密に書き込まれた作品の世界は、そのようにじっくりと関わることでよりその真価を味わえるという気がする。コマの使い方が静的に感じられるのも、そういう効果を狙っているのではないかとさえ感じられる。分からない単語や表現に足止めされるからこそ、コマの中の描写に目を留める機会が増える、描写の中に引き込まれる。

 六時ごろに眠くなる。単行本に収められた最後の短編に入っていたので、どうせなら全て読みきってしまってからと願ったけれど、あいにく強制終了のようにその前に眠りに落ちてしまう。まどろみの中でチャイムが聴こえる。女の子が訪ねてきたのだと頭では考えているけれど、体が動かない。起きなくちゃ、と思っても眠りの世界の白いもやが体をつかんで離さない。しばらくして玄関のベルが鳴る音がして、その後に鍵を回してドアを開ける音が聴こえた。起きてる? とドアの隙間から訊ねる女の子のあのハスキーな声が聴こえた。

 起きてるよ。僕は何とか声に出した。でもおそらくは寝起きの不明瞭でしかも不機嫌にさえ聞こえる声音になっていたと思う。女の子の返事はなかなか来なかった。ベッドの上でどうにか上体を起こしたとき、ちょうど女の子がリビングに入ってきたのが足音で分かった。おはよう、とうなだれた姿勢のまま僕は言った。おはよう、と女の子がぎこちなくそれに返した。何だ、寝てたの?

 二度寝しちゃった。顔を上げて女の子を見ると、そこには見慣れぬ少女が立ってこちらを見つめていた。寝起きの目をこすってみても、もちろん彼女の姿は変わらない。それでもその顔を見続けていると、少しずつその中にあの女の子の面影が探り当てられる。黒目がちのやや吊りあがった眼、自然な細さの色の薄い眉、いつも不平そうにとがって見える唇、滑らかな質感の頬と鼻翼、そして何より顎を引いて上目遣いにこちらを見つめる、表情の仕方。怪訝そうに眉をしかめるのも同じ。少しして、ようやく気づく。髪形が違う。重苦しく伸ばし放題だった長い髪が、肩に届かない長さに丁寧に切りそろえられている。ボサボサした質感が艶やかに変わり、梳いてあるせいか重すぎたヴォリュームも減って軽やかに感じられる。光の加減かもしれないけれど、軽く色を染めているようにさえ見える。そして、着ている服装もいつもと違う。ネックラインが大きく開いたビーズ飾りのあるシャツの上に、桃色のカーディガン、そしてデニムのショートパンツという格好。いつもの、無造作に選んだと言わないばかりの無地のシャツにぶかぶかのジーンズという組み合わせとは、まるで対称的だ。

 髪、切ったんだね。一瞬誰かと思ったよ。背負っているリュックを床に置く動作を見つめながら、僕は言った。そのカバンだけが女の子の以前と変わらない持ち物で、でも今の女の子の姿にはその古くさいリュックは似つかわしくなかった。女の子はベッドに腰掛けると唐突に頭を垂れて膝の上におでこを載せた。髪が重力方向に流れる、その姿勢のまま、うめくような低い声で女の子はつぶやいた。この前ここに来たときには、もう切ってたんだけどね。勝手にシャワーを借りた日。何か気恥ずかしくて、こっち見ないでって言ったのに、キシは一度振り返った。まあ気づいてなかったみたいだけど。僕が謝ると女の子は上体を上げて、まあどうでもいいんだけどね、と少しかすれた声で言った。それからふいにコーヒーが飲みたいと要求した。僕は立ち上がってキッチンへ行き、準備を始めた。

 ドリッパーに湯を注いでいると、隣のリビングから女の子が話しかけてきた。昨日の集まりはどうだったの? 湯を吸って膨らむコーヒー豆の粉を見つめながら、まあ楽しかったよ、とあいまいに答える。「夜鷹」にも会えたし、他にも「ぬー」に小説を投稿してた人に会えた。イベント自体もそれなりに面白かったよ。欲しかった本も買えたし、コスプレ姿の人もたくさん見れた。ちょっとした異世界って感じだね。使い終ったコーヒーミルを簡単に掃除して、豆が十分に蒸れるのを待っていると、そうなんだ、という小さいつぶやきが聴こえた。新たに湯を注ぎ始めると、女の子が意外なことを言った、コスプレって楽しそうだよね。

 興味あるの? と笑いながら訊ねる。別にあたしがやりたいってわけじゃないんだけど。そう答える女の子の口調に、少しムキになったニュアンスが混じる。ただ、やってる人たちは楽しいんじゃないかなって、そう思うだけ。別の誰かになりきること、それも現実の世界じゃあまりにも荒唐無稽で子供じみたものに、馬鹿みたいになりきることは、外から見ればすごく間抜けで痛々しいかもしれないけど、その分だけ本人にとっては楽しいと思う。サーバーに滴下するコーヒーを見つめながら、別の誰かになりきりたい気持ちがあるの? と訊ねたけれど、それに対する返事はなかった。できあがったコーヒーを持ってリビングに戻ると、女の子はテレビの前で四つん這いになってゲーム機を取り出していた。配線コードを引っ張りながら、ねえキシ、ゲームやろうと提案する。

 女の子が選んだのはカーレーシングのゲームだった。ゲーム画面が浮かび始めたテレビの前で、女の子は横座りの姿勢で僕にコントローラーを差し出し、勝負しようと言った。ガラス製のローテーブルの上にふたり分のマグカップを置き、僕はそれを受け取る。女の子はベッドに腰を降ろし、しっかりと両手でコントローラーを握る。テレビ画面をじっと見つめる。コースを選択し、操作する車種を選ぶ。どれにするかあらかじめ決めていたことを感じさせる素早さで、それだけの操作を済ませると、のろのろと自分の車を選んでいる僕を待ちながら、テーブルの上のコーヒーをすすった。でもその視線は、テレビの画面から逸らさない。ようやく僕の車が決定し、レースが開始される。ゲームスタート。

 以前にも女の子とこのゲームで対戦をしたことがあったけれど、そのときと比べると女の子の操作は別人のように上達している。ライン取りやドリフトの仕方も巧みで、それぞれのコースの特性さえ理解しているようだった。補助アイテムの使い方もずる賢い。そして何より、レース中に全然別の話をする余裕さえ持ち合わせていた。知ってると思うけど、「アイスパレスの王女さま」を読んだよ、キシ先生(・・・・)。加速装置を利用して僕の車に体当たりを食らわせ、コース外に吹き飛ばす。

 感想も書いてくれたよね? 先生と呼ぶ女の子の当てこすりは、とりあえず無視する。「夜鷹」もいい感想だって感心してたよ。コースに復帰し、先に行ってしまった女の子の車を追う。

「感想掲示板」でも書いたけど。圧倒的な差を維持したまま、女の子は一位通過で最終ラップに突入する。ややこしい二重構造だらけの展開で、正直短篇小説としての完成度は高くないと思う。傷が多い。「悪い見本」に分類されるべき作品とも思う。多分キシが言いたいことの半分も、あの作品を読んだ人には伝わらない。要するに自分勝手な作品なんだ、音痴が好き勝手大声を出しているのとあんまり変わらない。「整える」ということが圧倒的に足りない作品なんだ。

 このあたりの表現は、「感想掲示板」からの流用だな、と女の子の車を猛追しながら僕は思う。立て続けに効果の高い補助アイテムを引き当てたおかげで、その差はかなり詰まっている。ショートパンツから伸びる細い脚の小刻みな揺れから、女の子の焦りが伝わる。

 ねこの目の女の子は。きわどいコーナリングを攻めながら、でも口調自体は穏やかに、女の子は続ける。アイスパレスの王女と自分をなぞらえてる。それは、ラストシーンで明かされる不登校児という彼女の設定にリンクする。そのへんの仕掛けは、あたしには鼻につく。まあ、ともかく、最初にアイスパレスが話題になった時点でねこの目の女の子は「閉じ込められた女の子」というキーワードを出して、自分と王女を重ねていることをアピールしてるよね。それなのに作中のキシはそのことに気づいていないのか、王女について「自由に羽ばたけていないのかな?」とか「よく理解できていない」とか、無神経な言葉を繰り返す。挙句の果てには王女=台風というアイディアを面白がったり、不用意に「和解」なんて言葉を取り出したりする。ねこの目の女の子が怒るのも当然だと思う。読んでるわたしもイライラした。ラストシーンでさらに不用意なことを言って、ねこの目の女の子は感情を爆発させる。ダッシュボードを蹴りつけるなんて、生ぬるい。もっと派手に暴れてもいいくらい。それでもねこの目の女の子は、けなげにも最後までキシを頼ろうとする。「アイスパレスの続きを書いてよ」って。そしてキシは、それさえ拒否する。

 ゴール目前まで来て一位通過が間違いないはずだった女の子の車が、コンピューター操作の別のキャラクターが使用した補助アイテムによって派手にコースアウトする。それを横目に、僕は予想外の一位通過を果たしてしまう。このレースの結果が確定して手が開いたはずなのに、女の子は口を開かなかった。ただじっと、レース結果の表示された画面を見つめている。僕はコーヒーをすする。居心地の悪い沈黙が続く。テレビの画面は、次のレースに移っている。おおまかなコースの概要を映した後、スタートを告げるシグナルが灯る。エンジン音が響く。3、2、1、スタート。

 肖像権なんて持ち出さないから安心して。レース開始と同時に再び口を開く女の子の口調は、意外にも落ち着いたものだった。鮮やかなコーナリングと補助アイテムの活用で、あっさりとトップに抜け出す。もちろんあたしは、あの作品を読みながらねこの目の女の子と自分を重ね合わせた。というか、それをするなと言うほうが無理でしょ? だからこそ、作中のキシの態度に対して、必要以上にイライラしたんだと思う。ねこの目の女の子に対する冷淡さに、怒りを感じたんだと思う。でもその一方で、あたしは恐怖も感じていた。読み進めて、キシの冷淡な態度が鮮明になればなるほど、同時に怖い想像もした。読み進めるのをやめようかと思うくらい、怖かった。

 何が怖かったの? 女の子の仕掛けた罠に自分の車が引っかかるのを、他人事のように見つめながら僕は訊ねた。

 作品の中で、ねこの目の女の子がねこ殺しに仕立て上げられるんじゃないかと思ったから。淡々と、感情をこめず女の子は言った。お前が苦しい思いをするのは当たり前だ、お前はねこを殺したじゃないか。作品を通して、キシがあたしにそう言うんじゃないかって、そういうふうに考えて、怖かった。もちろん時系列的にそれはおかしいってことは分かってたよ。でも、だからこそ余計怖かった。ねえキシ、キシが作品で扱ったみたいに、あたしはずっと学校に行ってなかった。それについてはキシに一度も言ってなかった、なのにキシは、見抜いていたみたいにねこの目の女の子を不登校児として登場させた。キシ、想像してみて。九月一日の朝、あたしは学校に行ったんだよ、ものすごい勇気を振り絞って、あたしは何ヶ月かぶりに学校へ行った。もう大丈夫かもしれないと思った。「クロ」という名前を失くしたように、あの名前も消えてくれていると思った。クラスも変わってるし、もう大丈夫だって。結局、そんなのは幻想だったんだって、打ちのめされて帰ることになるんだけど。ねえキシ、あたしが学校で何て呼ばれてると思う?「ねこを殺して食べる中国人の女」。そう呼ばれるんだ。

 トップを独走する女の子の車に、敵の仕掛けた罠が当たってクラッシュする。態勢を立て直したと思ったら、別の敵の仕掛けた罠がぶつかって、再び走行不能に陥る。その横を僕の車がスピードを上げて通過する。やっと走行を再開した女の子の車に、今度は別の車が体当たりをして大きくコースアウトをさせる。女の子の車は最下位になった。それでも女の子はレースを投げ出さず、的確な操作で僕の車を追いかけた。

 あたしにはねこキラーが見えるの。平板な声と対照的にあわただしい操作でコントローラーをカチャカチャ鳴らしながら、女の子は言う。キシの小説に出てきた、あの女性。背が高くて、髪が長くて、細身の美しい人。あの人が街を歩いてる。初めて見た瞬間から、あたしにはあの人がねこキラーなんだってすぐに分かった。キシが書いたのはこの人なんだって。こっそり後をつける。地下鉄に乗って、改札を抜けて、駅を出る。住宅街のほうに抜ける。坂を上る。雑木林に囲まれた小さな神社に着く。ねこキラーがあたしに気づいているかは分からない。でも、とにかく近づきすぎてバレるのは避けたかったから、神社の中までは入らない。雑木林の中に隠れて、ねこキラーが出てくるのを静かに待つ。でもどれだけ待っても、ねこキラーは戻ってこない。入り口はひとつしかないはずなのに。痺れを切らして、なるべく音を立てないように慎重に、神社の中に入る。誰もいない。何の気配もない。中に入ったはずの、ねこキラーは消えている。境内は無人だし、神殿の中は閉じられていて入れない。根が張ってでこぼこした雑木林の中を探してみると、ねこがいる。横になって、ピクリとも動かないでいる。

 立て直してからの健闘もむなしく女の子の車は五位でゴールを通過した。ポイントはもらえない。次のレースが始まるまでの間、女の子は口を開かなかった。

 その後もたびたびねこキラーを見るようになったの。最後のレースが開始され、それと同時に女の子は口を開く。そのたびにあたしはねこキラーを尾行するんだけど、結局いつも見失ってしまう。そして、ねこの死体を見つける。あの神社の境内のときもあるし、全然別の場所のときもある。どっちにしても、ねこキラーを追うと必ずねこの死体がある。大抵みんな、お腹を切り裂かれて死んでる。そんなねこの死体を、あたしはぼんやりと眺める。特別感情が込み上げてきたりはしない。特に何も思わない、悲しいとも、許せないとも。ああ、でも、親近感みたいなものは感じていたと思う。どうしてだろう、あたしには死んだねこのほうが自分にとって身近なような気がした。見ていて悪い気分はしなかった、不思議と。これは仲間だという感覚。でもね、ある日あたしがそうやってねこの死体を見つめているのを、同じ学校の奴に見られた。そいつと直接の面識はなかったから、それから数日間は特に何もなかった。でもある日、同じクラスの女子に言われた、知ってるよ、ねこを殺して食べるんでしょ? 中国人だもんね。その日を境にあたしの呼び名は替わった。それ以前からも、少しずつ仲間はずれにされるような感じはあったんだけどね。ねこを殺したりなんかしないし、食べたりもしない。そう反論しても、効果なんてない。気づけばみんな距離を取った、あたしの居場所はなくなった。学校に行けなくなって、あたしは自分の部屋に引きこもるようになった。キシと直接メールのやり取りをするようになったのは、それからだよ。

 僕と女の子の車は熾烈なトップ争いを繰り広げている。

 こんなことを言ってもさ。女の子は不似合いな笑い声とともに言った。キシにはねこ殺しの告白としか聞こえないよね? これってそのまま、キシのねこキラー長編のアイディアに重なるもんね。主人公の佐伯ちひろとねこキラー。優等生な女子高生の佐伯ちひろはねこキラーと名乗る女性と恋に落ちる、でもねこキラーなんて佐伯ちひろの妄想で、ねこ殺しと自己愛を正当化しているだけのこと。キシがあの長編のために用意した骨組みは、そういうものだった。あたしがねこキラーを見る仕組みも、そういうことだと思うんでしょ?

 でも、その長編を書き上げることはできなかった。

「キシの作品は、下手に完成している作品よりも、完成できなくてほったらかしにされてる中途半端な作品のほうが、読んでて面白いね」

 そもそも君と佐伯ちひろは違う。重ねて考えることは不可能だ。

「もし本当に、キシがそう考えているのなら、それを小説の中で実現して見せてよ。わたしをびっくりさせてみせてよ。キシが本当に、わたしがねこを殺したりしないと考えているって、納得させてよ。小説ってそういうことでしょ? 言葉だけ教師ぶってないで、ちゃんと行動で示してよ」

 僕は教師じゃない、と僕はつぶやいた。僕と女の子の車は横並びのまま最終コーナーを通過した。ゴールが見える。コーナリングの巧みさで、女の子がわずかに先を行っている。選んだ車の性能から、直線のスピードで僕が女の子を上回ることはない。勝負は決していた。にもかかわらず、コンピューター操作の別キャラクターが放った補助アイテムが、どういうわけか僕をすり抜けて女の子の車にぶつかる。大きくクラッシュし、僕の車に抜かされる、そのまま僕の車はゴールする。結局全てのレースで僕の車が一位通過という結果に終り、当然総合優勝も僕のものとなった。それもことごとく、理不尽な補助アイテムの邪魔によって。女の子は天井を仰ぐと、大きく息を吸って、そしてゆっくりと吐き出した。暗い声で僕につぶやく。ねえキシ、八つ当たりしてもいい?

 いいよ、と答えた瞬間、女の子はコントローラーを床に叩きつけた。ベッドから立ち上がるとゲーム機を持ち上げ、これも下に投げつけた。テーブルの上のものを両手でなぎ払った。空になったマグカップが床に落ち、レポート用紙が散らばった。ベッドの枕許に置いていた悪霊下巻も放り投げた。デジタル時計も、買ったばかりのシンガポール人作家のコミックも、レゴのおもちゃも、卓上扇風機も、そして最後には僕のノートパソコンも。周囲のものを滅茶苦茶にした後で、女の子はうつ伏せにベッドに倒れこみ、ブランケットに噛み付いてくぐもった大声で叫んだ。叫び終ると、小さな肩を小刻みに震わせた。そしてまた息を吸い込んで、叫び声を上げた。声は弱々しくなって嗚咽に変わっていった。

 僕は教師じゃないけれど。僕はベッドに腰かけて、キレイな女の子の髪を撫でた。泣き出して発熱する女の子の体温をその手に感じながら、僕は奇妙な充実感とともに言った。僕は「キシ」でもないんだ。だから僕が「小説なんてもう書けない」とつぶやくこともない。僕は小説を書く。僕は正しい「アイスパレスの王女さま」を書くんだよ。ねえ、聞いて。それは「ねこキラーの逆襲」という長編小説になる。その中で僕は今まであいまいにしてきたものをはっきりとさせる。本当に書きたかったものを全てぶち込むんだ。だからもしかしたら、それを書き終った後ならつぶやくかもしれない、「僕はもう、小説なんて書けないんだ」って。でもそれは今じゃない。その小説の中には君をモデルにした人物が登場する。彼女はそこで、もう少しだけ苦しい目に会うかもしれない。でも最後には、自由に羽ばたけるようになる。そこでは君は「ツバメ」という名を与えられる。君は「閉じ込められた女の子」ではなくなる、そこまで書ききって初めて、正しい「アイスパレスの王女さま」は完成する。そういう小説を書いているんだよ。ねえ、僕はちゃんとそれを書き上げるから、それを読んで感想を書いてよ。どんな辛口でもいいし、どんな批判でもいい、その作品の中で君が感じ取ったことを、君の言葉で書いて欲しい。それがなければ、僕は小説なんて書けないから。

 女の子は返事をしなかったけれど、でも僕の話をしっかりと聞いていることは十分に伝わった。大丈夫、と僕はつぶやく。現実パートが終り(・・・・・・・・)幻想パートが始まる(・・・・・・・・・)

次回更新は7/9(土)を予定

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