表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ねこキラーの逆襲  作者: AK
第5章   ── 日付が変わる ──
19/45

アイスパレスの王女さま

作成日時:2009年8月21日  

更新日時:2009年8月31日}  

(以下本文)



 女の子の目はねこの目に似ていた。じっと見つめられると、心の奥底まで見透かされているような気がして、ひどく落ち着かない気分になる、そういう目だ。たぶん彼女のあまり感情を表に出さない性格も、ねこを思わせるのに一役買っているのだろう。大きくて、心もちつりあがった彼女の目は、いつも冷ややかで氷のように感情を秘めない。だから誰も彼女と目を合わせようとはしない、そんなことをしても、ただ自分の不利になるだけだから。

 ねこの目の女の子が部屋にやってきたとき、すでに風は強かった。時折、風は思い出したようにうなり声を上げてベランダの窓ガラスをガタガタと鳴らした。この地方には台風の直撃が予報されていた。日の出ごろからすでに空は動きの速い雲に覆われ、不吉な薄暗さに閉ざされていた。それでも雨自体はまだ一滴も降ってはいなかった、ベルを鳴らしてドアの前に立つ、女の子のレインコートはちっとも濡れていなかった。

 不機嫌そうにレインコートを脱ぎ捨てると、ねこの目の女の子は窓のすぐそばまで歩いていき、無造作にカーテンを開けてガラスにおでこをくっつけ外の様子を眺めていた。僕が何か声をかけても、何も聴こえていないかのように全て無視した。だいたいいつもそんな感じだった。予告もなく僕の部屋に遊びに来て、特に何かをするでもなくひとりで退屈そうに過ごしている。話しかけてもほとんど反応しない。棚の本を取り出してページをめくったり、ベッドに寝転んだり、冷蔵庫を点検したり、マガジンラックの雑誌を読んだりしている。差し出されたお菓子は必ず食べる。紅茶はたまに残す。僕が机に向かって仕事をしていると、ときどき覗きに来るけれど、これは見せちゃダメな資料だからと拒めば素直に従う。夕方になると「帰るね」とだけつぶやいてドアを開ける。去り際に、特に何かを言うでもなく短い時間こちらを見つめる。目を逸らさないで「さようなら」と言うのにひどく骨が折れる。さようなら。それに対してねこの目の女の子は特に何も応えない。

 窓の向こうを眺めるのに飽きると(だいたい十分くらいはそうしていたと思う)テーブルの上に置いてあった僕のノートパソコンを開いて、電源をつけた。僕は沸いたお湯でコーヒーをつくりにキッチンへ行った。マグカップを手にリビングへ戻ると、背を向けて座っていたねこの目の女の子が上体をひねって僕を見つめる。「ユーザー名がふたつあるんだけど?」とこの日初めて口を開いた。

「私用と仕事用と分けてるから」と僕は答える。「 kishiya22 が仕事用で、 kisha22 がプライヴェート用。まあ、プライヴェート用のほうはほとんど使ってないんだけどね。ネットを使ったりするくらいかな」

「パスワード」とねこの目の女の子はつぶやいた。パスワードは? という疑問でもなく、パスワードを教えて、という依頼でもなかった。命令口調ですらない。僕は私用のほうのパスワードを伝えた。「全部小文字ね」ねこの目の女の子はキーボードを鳴らして、ログインに成功した。感謝の言葉を言うわけでもなく、黙ってマウスを動かしたりキーボードを叩いたりしていた。

 僕はベッドサイドテーブルに置いていた読みさしの文庫本を手に取った。そのままベッドに腰を降ろして、マグカップのコーヒーをすすりながら続きを読み始める。ドストエフスキーの「悪霊」上巻。でも実際のところ、ほとんど本の内容に意識を集中することはできなかった。ときどき手の動きを止め、パソコンの画面にじっと見入るねこの目の女の子が、一体何を見ているのか、気になってしまう。

 午前中はそんな感じで時間が流れた。

 お昼近くになると風はますます勢いを増したけれど、それでもまだ雨は降らなかった。僕は昼食の用意をしようと冷蔵庫を開けた。でも、何かを作るには材料が少なすぎた。リビングに戻り、何か外に食べに行こうとねこの目の女の子を誘う。女の子はノートパソコンをテーブルから降ろしていて、床にじかに寝そべって画面を見つめていた。僕の呼びかけに顔を上げると、妙に張り付くような印象の視線でこちらを見上げ、そして何も言わずにパソコンの電源を落とした。のっそりとした動作で起き上がり、ハンガーにかけていたレインコートを手にとって、さっさとひとりで玄関を出てしまう。僕は慌てて戸締りを確認し、車の鍵を持って外に出た。ノートパソコンの電源がちゃんと切れているか気になったけれど、ドアの前にすでにねこの目の女の子はいなかったので、諦めて玄関の鍵をかける。アパートの駐車場に、女の子はレインコートを着て立っていた。小走りに近づく僕を、値踏みするみたいに目を細めて静かに見つめる。フードの隙間からこぼれた長い髪が、湿り気を含んだ風に遊ばれて暴れまわっていた。

 車に乗り込んでドアを閉めると、風の音が別の世界のように遠くなる。急に自分の世界とは関係のない出来事のように感じてしまう。キーを回してエンジンをかけると、その気分はより強くなる。電力が供給され、車内にラジオの音声が流れ始める。馴れ馴れしい口調のディスクジョッキーが、電話越しに視聴者とクイズをしている。

「それ、切って」

 唐突にねこの目の女の子が命じる。感情のない声だったけれど、よく研がれたギロチンの刃のような断固とした冷たさと重さをそこに感じる。僕は黙ってオーディオを操作する、ディスクジョッキーの笑い声が消え、無骨な風の音がやや勢力を取り戻す。ねこの目の女の子は窓枠のところに器用に肘を載せ、頬杖をついて窓の向こうを見つめた。ギアを替え、ハンドブレーキを解除し、僕はゆっくりとアクセルを踏み込んだ。

 駐車場を出て、とりあえず大きな幹線道路に入ろうと車を走らせる。「何か食べたいものはある?」とねこの目の女の子に訊ねても、ぼやけた印象の声で「別に」とつぶやくだけだった。片側三車線の幹線道路に出て、スピードを上げ始めたとき、急に質感のある声でねこの目の女の子は僕に言った。「できるだけ、遠くに行きたい」そして言い終ると、すぐにまた窓の外に視線を戻して景色に意識を向けたようだった。僕の返事など聞くまでもない、とでも言うかのように。僕は頭の中で素早く計算する。候補を決め、ねこの目の女の子に訊ねる、「まだそんなにお腹は減ってない? ここから一時間くらいのところにイタリアンのお店があるんだけど、そこでいいかな?」ねこの目の女の子は口の中で「ん」とだけ答えた。たぶん賛同の返事なのだろう、僕はアクセルをさらに踏み込んで、スピードを上げた。

 しばらくは幹線道路の単調な道を走り続けるだけだった。信号で足止めされることも少ない。ねこの目の女の子は飽きもせず窓の向こうの風景を見つめ続けていた。車内に会話はない。ときどき風の塊が声を上げながら車に襲いかかり、ハンドルを捕られそうになる。街はさまざまなものが揺れていた。街路樹、電線、看板、信号機、丈の高い雑草。新聞紙やビニール袋が舞い上がっていたりもする。雲は相変わらず厚く、正午近くと思えないほど暗い。ライトを点けている車もある。そのうち降り出すだろうな、と考えているとまさに大粒の雨がフロントガラスを叩き始めた。雨は見る見るうちに烈しさを増して、すぐに視界を妨げるほどの大雨になった。遠くで雷鳴さえ聴こえた。ワイパーを起動させ、ついでにライトも点けた。風の音よりもエンジンの音よりも、天井を叩く雨の音のほうが強くなった。

 視界が悪くなったせいだろうか、ねこの目の女の子は窓の向こうを眺めるのをやめ、ふいにCDボックスの中を漁り始めた。でも目ぼしいものはなかったようだ。シートに体を沈めて正面を向くと、今度は僕に向かって話し始めた。「趣味で小説を書いてるって、前に聞いたけど」少しだけ間をあけて、ねこの目の女の子は続ける。「今日始めて読んだよ」

「そう」とだけ答えた後、咳払いをする。ねこの目の女の子が何も言わないので、しばらく沈黙が続いた。仕方がないので僕が会話を引き継ぐ。「それで、読んでみてどうだった? まあつまらなかったとは思うけど」ねこの目の女の子はそれに対して何も答えなかった。そんなの当たり前でしょ、と言われているような気がした。じっと前方を見つめたまま、ねこの目の女の子は押し黙って、ぴくりとも動かなくなってしまった。

「キシの作品は」もう先ほどの会話は終ったのだと思い始めたころ、ねこの目の女の子は再び口を開いた。「下手に完成している作品よりも、完成できなくてほったらかしにされてる中途半端な作品のほうが、読んでて面白いね」

「どうだろう」苦笑交じりに僕は答える。「単なる幻想なんじゃないかな。ほら、うしろ姿だけならみんな美人に見えるってのと同じでさ」

「そうかもしれない」ねこの目の女の子はあっさりその可能性を認める。そしてまた、口を開かなくなってしまう。沈黙はしばらく続いた。雨はその勢いを少しも弱めることなく、でたらめな横風に煽られていろいろな方向から窓ガラスを叩いた。目的の店まで、短く見積もってもまだ三十分以上はかかるだろう。赤信号に捕まって、強めにブレーキを踏んで停車した。目の前の横断歩道を渡る女性を、ぼんやりと見つめる。こんな嵐ではほとんど役に立っていないように見えるのに、柄をしっかりと握り締めて傘を差している。彼女以外に横断歩道を渡る人間はいなかった。というか、彼女以外に歩行者の姿も見えなかった。歩行者用信号の青が点滅をし始める。横断歩道を渡りきる直前に、ふいに強風に巻き込まれて彼女が差していた傘は骨組みごとめくれあがってしまった。

「幻想か」ねこの目の女の子がふいにつぶやいたので、僕は反射的に視線を向けた。女の子は真っ直ぐ前を見つめたまま、静かに言った、「信号、青になったよ」

 あわててアクセルを踏む僕に、ねこの目の女の子は静かな声で続ける。「キシの小説は、真ん中にひとつの幻想があって、それを骨組みに、肉付けをする形で作品に仕上げる。そういうパターンじゃない? 高層マンションの屋上から空を飛んだり、UFOが街を襲ったり。まずそういうひとつの幻想があって、それを表現するためにストーリーを作る。全ての要素はその幻想を表すために用意されている。だから幻想のスケールが大きすぎたり、複雑すぎたりすると、キシはそれを作品にしきれなくなる。キャパシティを超えてね。だから逆に言えば、キシがかろうじて作品にまとめあげられる作品っていうのは、結局はその程度だってこと。幻想のスケールが小さかったり、あるいは構造が単純だったり。キシが完成できなかった作品は、キシの手に負えない幻想を核にしていて、つまりその分スケールが大きかったり構造が複雑だったりする。だから下手に完成した作品よりも、ずっと面白い要素を秘めている。どう、この考え当たってるかな?」

「ねえ、いつもそんな小難しいこと考えてるの?」僕は思わずそう訊ねた。

「他にすることもないから」とねこの目の女の子は答える。いつもよりわずかに低いその声音は、自虐の翳りを帯びているようにも感じられた。それが僕には意外だったし、自分の口走ったことのまずさを気づかせもした。

 ともかく、気を取り直して僕は口を開いた。「その考えはかなり正しいと思うよ。まあ趣味でちょこちょこ書いてる小説なんだけど、僕自身の技術的な壁をそろそろ自覚するようになってきた。大きすぎる幻想を小説にできないっていうのはその通りで、僕が本当に書きたいと思っているものは、みんな完成できなかった作品のほうに詰まってる。もちろん完成できた、つまり幻想のスケールの小さい作品っていうのも、僕としてはとても大事なものなんだけどね、ひとつの作品として形にすることでしか、小説上の登場人物は命を持たないと僕は思ってる。これってけっこう大切なんだ。骨格としての幻想はもちろん大事なんだけど、そこに登場する個々の人物も、同じくらい大切なんだ」

「確かに未完成の作品は、何て言うか、登場人物たちもまだ確定していないという感じがして、命を持っていないっていう印象は受けるかもしれない。でもキシの完成させた作品の中だって、登場人物は本当に命を持っていると言えるの? あたしには、彼らはまだ自由に羽ばたけていないと感じられる」

 女の子の最後の一言は、鋭く僕の胸をえぐった。「いろいろ読んだ中でね」とねこの目の女の子は心なしか少しだけ和らいだ印象の声で言った。「完成できなかった作品で、気になったのがふたつある。ひとつは白い部屋に閉じ込められた女の子の話。白い部屋が快適な環境だっていうのが面白い。きっと外は全然快適なところじゃないんだろうなって、想像させる。でもそこから出なくちゃいけないんだよね。滑らかで、少し明るくて、ほのかに温かい白い壁の描写が良かった。もうひとつはアイスパレスの王女さまって作品。ねえ、今思ったんだけど、アイスパレスの王女も結局はアイスパレスに閉じ込められた女の子だよね? キシの作品には、閉じ込められた女の子がよく出てくるね。なんとかそこを抜け出そうと思って、一生懸命頑張ってるんだけど、結局出られずに終る。あるいは出られたとしても、その代わりに、何かとてつもなく大きなものを失う。ハッピーエンドにはならない。傷ついて、損なわれる。そういう作品ばっかり」

「自由に羽ばたけてないのかな?」と僕は訊ねる。

「どうだろう」遠くを見ながら不思議なほど希薄な印象の声でねこの目の女の子は言う。「よく分からない。おそらく羽ばたけてないんだろうけど、でもそう言われてみると、あの子たちはどう足掻いても絶対に羽ばたけないキャラクターなのかもしれない。キシの小説技術以前に」

「絶対に羽ばたけないキャラクター?」と僕は繰り返す。「それがありえるとして、僕が書いた女の子たちが絶対に羽ばたけない属性をもっているんだとしたら、そもそも僕はあの子達のことを小説に書いちゃいけなかったのかな? 僕の未熟な小説技術以前に。彼女たちは、小説に書くには許されざる存在ってことになるけど」

 いつも無表情でいるねこの目の女の子の顔に、そのときわずかに感情が表れた。それはあまりに小さな、そして一時的な変化にすぎず、見落としかねないほど些細なものだったけれど。表情はすぐにまた、もとの冷たく硬質なものに戻った。でも女の子の表情に変化が現れたという事実は、僕の心に想像以上に深く刻まれた。変化自体がどのようなものであったのか、その肝心の部分はまるで分からなかったけれど。

 ねこの目の女の子が黙ってしまったので、僕は苦笑交じりに口を開く。「ところで『アイスパレス』のほうなんだけど、あれは実は最近まで書き進めてたんだ。まあ結局、先の展開に行き詰って諦めたんだけどね」

「へえ」とねこの目の女の子が興味なさそうに返すので、僕はこれ以上話を広げるのをやめた。でもしばらくして、女の子のほうからこの会話を引き継いだ。「それで、もう完全に諦めちゃったの? 続きを書こうとはもう思わないの?」

「僕にはアイスパレスの王女がよく理解できてないんだ」と僕は答えた。「作品はふたつの世界の展開を交互に並べているよね? どちらも主人公の少年とツバメという名の少女が出てくる、過去に書いた作品の続編。片方のパートでは、主人公がツバメに抱えられて夜空を飛行している。もうひとつのパートが、アイスパレスを舞台にしている。このふたつはリンクしあいながら進んでいく。でも僕には、アイスパレスの王女がもうひとつの世界にどのようにリンクしているのか、そもそもわかっていないんだ。夜空を飛行するパートの結末は頭の中ではできている。ツバメの翼が折れて、もう飛べなくなって、主人公との関係が破局する。でもその展開との対比がアイスパレスでどのように進むのか、それを見究めることができないでいる。だから作品を先に進めることができないんだ」

「見究められれば、続きを書く?」

「どうだろう」女の子の声に何か切実さのようなものを感じて、僕はなぜかはぐらかすように答えを避けた。「分からない。それにもしその答えが見つかったとしても、その幻想の大きさに、僕の小説技術がついていけるか不明だしね」

 ねこの目の女の子は何も言わず、頭ごと視線を窓の外に向けた。それきり何もしゃべろうとせず、結局目的地のイタリアンの店に着くまで、ふたりの間に会話はなかった。


   *   *   *   *


 強すぎる風のせいで、僕は恐怖を忘れてしまうことが全然できない。上空に来てますます強くなった風は僕とツバメを常に揺さぶり、時折ものすごい力で暴力的に体を引っ張り、そして途方もない場所へと僕たちを連れ去ってしまう。巨大な風の渦に巻き込まれて、バランスを失う。足許に見えていたはずの夜景が、急に頭上に見えたりもする。平衡感覚がなくなり、飛んでいるのか落ちているのか分からなくなる。ひとつの風を切り抜けた先に、さらに別の風が待ち受けていて、次々と僕たちを襲う。休まる瞬間が少しもない。

「ねえ、ほんとに大丈夫なの?」大声で僕が訊ねても、風のせいで聞こえないのかツバメは返事をしない。僕を抱きかかえるツバメの体温が、何故か少しずつ弱くなっているような気がする。

「だから今日はよそうって言ったのに!」ツバメには聞こえないと思いつつ、僕はそう叫ぶ。案の定ツバメは何も言わない。今日はお昼過ぎから、急に風が強くなったことを思い出す。まるで台風でも近づいているみたいに、風はどんどん強さを増していった。きっと今日は夜間飛行も中止だろう、と思っていた。

「そう言えばさっき、今日は僕に見せたいものがあるって言ったよね」僕は先ほどのツバメの言葉を思い出して、声を出す。もちろんその言葉がツバメに届くことは期待していないけれど、大きな声を出すことで、多少は恐怖を和らげられるかもしれないと思ったから。「ねえ、僕に見せたいものって何なの? いつになったら見せてくれるの?」ひときわ強い風が僕たちに吹きつける。

 突然だった。体がふわりと浮かび上がったような奇妙な感覚に襲われた。風の音が聴こえなくなった。その空白にツバメが短く叫ぶ声が聞こえて、僕に向かって手を伸ばすのが見えた。手を伸ばす? 次の瞬間にはもう、ツバメの姿ははるか後方へとぐんぐん押しやられ、あっという間に豆粒みたいに小さくなってしまった──いや、そうじゃない。ツバメが遠くへ押しやられているんじゃない。僕の体が落下している(・・・・・・・・・・)んだ(・・)


   ☆   ☆


「こんにちは」と声がした。全てのものが氷のレプリカでできている寝室の中で、たったひとつだけ本物として存在している天蓋つきのベッドに、少女が腰を降ろしていた。少女は口許だけ笑みを浮かべて、無機質な印象の声でつぶやいた。「寒いわね」

 僕の予想していた姿とは全然違って、アイスパレスの王女の姿は普通の女の子とまるで違わなかった。肌が特別青白いわけじゃないし、髪の色が真っ白いわけでもない。頬にはうっすら赤みさえさしていたし、髪の色は黒だった。どこにも変わったところはない。着ているものだって、町の人たちが噂していたような氷のドレスなんかじゃなく、明らかに防寒目的の分厚い毛皮のコートだった。そして王女は、寒そうに身を縮こめてさえいた。

 要するに寒い場所に置き去りにされた女の子の姿と少しも違わなかった。少なくとも僕の目にはそう映った。

「そう、すごく寒いよね」とツバメは言った。「でもそれって、この宮殿から冷たい風が流れてるからでしょ? もちろん、それがなくちゃ氷でできたアイスパレスが融けてなくなっちゃうってのは分かるよ。でもあなただって寒い思いをしてここに閉じこもっているよりは、この場所を諦めて、どこか別のところで暮らしたほうがずっといいんじゃないの? どうしてこの場所にこだわるの、そんなの誰も望んでいないのに?」

「ねえ、あなたたち本当に何も分かってないんだね?」アイスパレスの王女は、急に子どもっぽい怒りをあらわにして口を開いた。「わたしがどうしてここにいるのか、村の人間がわたしに何をしたのか、全然分かってないんだね? わたしだって好きでここにいるんじゃない、全部あいつらのせいなんだよ。そうでなくちゃこんな寒いところに居続けるわけがない! ねえ、教えてよ、あなたたちはどうして


   *   *   *   *


 暴風雨は衰える気配も見せない。レストランに入ってからランチセットのサラダが運ばれてくるまでの間、バケツをひっくり返したような、という比喩が実感される強さの雨が途切れることなく続いていた。客の姿はまばらだった。雨の音に押されるように、話し声も小さい。ねこの目の女の子はずっと窓の外の嵐の様子を見ていた。ぼんやり眺めると言うよりは、興味深そうに何かをじっと見つめているような印象だった。横を向いて同じ景色を見ても、特に何か面白い出来事が持ち上がっているわけではなかったけれど。

 パスタの皿が運ばれてきた。ねこの目の女の子はサーモンとホワイトソースのパスタを、僕はアラビアータのパスタを食べた。女の子は相変わらず窓の外を見つめながら、あまり関心なさそうにスパゲティの皿に向かっていた。食べ終ってからも、しばらくは外の様子を見つめていた。食後のコーヒーが給仕されたころ、ようやくねこの目の女の子は口を開いた。「台風とアイスパレスって似てるよね」

「どういうこと?」唐突な話題についていけず、僕は訊ねる。

「どちらも中心に人を寄せつけないところ」ねこの目の女の子は自分のコーヒーに角砂糖を入れ、スプーンで砕きながらゆっくりとかき混ぜる。「でも中心は、とても孤独なところ。台風の目にしても、アイスパレスの王女にしても」

「なるほどね」とつぶやいて、僕はコーヒーをすする。

「アイスパレスの王女を、台風の擬人化として捕らえればいいんじゃない?」ねこの目の女の子はさらにクリームをコーヒーの中に入れる。「作品の中で主人公とツバメは強い風に吹かれてバラバラにされる。居心地のいい関係が、外側からの暴力によって壊される。そしてアイスパレスのシーンでは、台風の擬人化としての王女が登場して、その暴力そのものを描写する。なかなか悪くない構造じゃない?」

「面白いと思うよ」僕は感心してそう答えた。でもねこの目の女の子は、不満げな光を湛えた目で上目遣いに僕を見た。何か言い含むところがあるようだけど、とその瞳は物語っていた。僕はグラスの水を口に含んでから、仕方なく言葉を続ける。「でもそれじゃ、アイスパレスの王女がなんだか哀れすぎるような気がする。台風の擬人化として彼女を捉えるとしたら、彼女は永遠に誰とも和解できないんじゃないかな。台風と人間の和解なんてありえないと思う。想像もできない。それじゃあんまりだ」

「和解?」ねこの目の女の子は意外そうに、その言葉を何度も口の中で転がした。そして、どことなく挑むような目つきで訊ねた。「王女と人間たちの間に、本当に和解なんてありうるの?」

「和解がありえないとしたら、王女はひとりぼっちで破壊を続けて、誰らかも疎まれて、台風みたいにゆっくりと力を失って、寂しく死んでいくことになるね」僕は嘲笑的に言った。「君はそれに賛成なの?」

「賛成なんて言葉を使わないで」明らかな嫌悪感をこめて女の子は言う。いつもみたいな不明瞭な声じゃなく、口を大きく開いて作る、くっきりとした発音だった。キレイな歯並びが仄暗い口の中に見えるのを、僕は新鮮に感じた。「確かにわたしは王女と人間の和解なんてありえないと思ってる。でも別に、それがいいと思ってるわけじゃない。ただそうなるのが自然の成り行きだって思ってるだけ。キシの言うとおり、王女はひとりで寂しく死んでいくことになるけど、それはどうしようもないこと。わたしはそう言いたいだけなのに、どうして賛成なんて言葉を使うの? どうしてわたしがそれに加担してるみたいに言うの?」

「謝るよ」と僕は言った。「そんなつもりじゃなかった。でも賛成なんて言葉を使ったのは僕が悪かった。ゴメン」

 ねこの目の女の子はミルクの混じったコーヒーを一口飲んだ。顔をしかめて、すぐにカップを皿の上に戻す。机の上に肘を置いて、両手を組み合わせ、その上におでこを乗せた。その姿勢のまま、うめき声のような低い声で女の子は言った。「キシ自身はどうなの? 王女と人間の和解はありえると思ってるの? ねえ、多分なんだけど、キシも本当は心の中では和解なんてありえないって思ってるんだ。でもそれを認めようとしない。だからあの作品は途中で行き詰ったんだ。もうどうにも、先に進めなくなっちゃったんだ」

 僕は何も答えられなかった。ねこの目の女の子の言いたいことはよく分かっていた。言葉の裏に込めているもののことは十分に伝わっていた。でも、だからこそ、僕にはねこの目の女の子にかけるべき言葉を見つけられなかった。沈黙を埋めるように僕はコーヒーを飲んだ。マグカップの中のそれは少しずつ水位を低くしていき、やがて空になった。「そろそろ出ようか」と僕は言った。ねこの目の女の子は何も言わず席を立った。会計を済ませて外に出ると、雨と風は少しだけ弱まっていた。僕たちは小走りに車に乗り込んだ。

「このまま家まで送るよ」と僕は言った。「お母さんは家にいるかな?」

 ねこの目の女の子は何も答えず窓の向こうを見つめていた。弱まっていた風雨が急に勢いを取り戻し、天井を叩く雨粒の音が大きくなった。エンジンをかけたけれど、何故か出発する気になれなかった。ワイパーすら起動しなかった。そのせいでフロントガラスの向こうの景色が歪んで見える。遠くにある信号機の光が、奇妙にねじれている。それが赤から青に変わったのを合図に発進しようと思っていたのに、実際に変わっても体が言うことを聞かなかった。僕は息を吸い込んだ。

「もうじき夏休みが終るね」言うまいとしていた言葉が、抵抗なく口を出る。「もうじき二学期が始まる。二学期から、また学校に戻ってみない? 今日お母さんがいるなら、一緒に相談してみよう。クラスのみんなも君の事を待っているよ」

「みんな?」わざと感情を殺した声で女の子は言った。

「君を待っている子たちもいる」僕は正直に訂正した。「確かにみんなってわけじゃない。でも君の事を待っている子だってたくさんいるんだ。君が思ってるよりもずっと多い。それは本当だよ。それに僕だって、君が学校に戻ってくれればすごく嬉しい。君は君が思ってるほど、ひとりぼっちじゃないんだ」

「今さら?」再び感情を除去した声でねこの目の女の子は言った。その冷たさに僕は身震いをした。まるで他人事のようにねこの目の女の子は続ける。「本当に助けが欲しかったときには、誰もそばにいてくれなかったのに、今さら友達のような顔をするの? 笑わせないで。もう遅いんだよ。何かをするべきタイミングは、もうとっくに過ぎちゃったんだ。ねえキシ、キシはそんなことも分からないの?」

 僕は唇を噛んだ。タイミングを間違えた。それも致命的に。そのことを嫌というほど痛感した。手詰まりになって、僕は逃げ出すようにギアをいれ車を発進させる。駐車場を抜けて、道路に出る、ねこの目の女の子がひどく小さな声で何かをつぶやいたけれど、聞き取れなかった。青に光っていた交差点の歩行者用信号が点滅を始めたので、アクセルを強めようとした。「停めてったら!」と女の子が叫んだ。

 ハザードランプを点滅させ、車を歩道に寄せる。ねこの目の女の子はうつむいてしばらくは身じろぎしなかったけれど、ふいに両足を宙に上げると、助手席のダッシュボードを強く蹴りつけた。何度も何度も。蹴りつける空虚な音が車内に繰り返される。僕は迷いつつも、女の子の肩の上に手を置いた。振り払われることを覚悟していたけれど、意外にも女の子は抵抗もせず足を下ろした。うつむいていた顔をふいに上げ、僕の顔をまじまじと見つめる。僕の予想に反して、女の子は全然泣いていなかった。ねこのような瞳は乾ききって僕を見つめていた。女の子は何もしゃべらなかった。その表情にはいつもの女の子に似ないあどけなささえ宿っていた。僕は目を逸らすわけにもいかず、ずいぶん長い間無言で見つめ合っていた。

「アイスパレスの続きを書いてよ」表情を変えず、弱々しい声で女の子は言った。「もし本当に、キシが王女と人間の和解がありえると考えているのなら、それを小説の中で実現して見せてよ。わたしをびっくりさせてみせてよ。みんなと仲直りできるんだって、納得させてよ。小説ってそういうものでしょ? 言葉だけ教師ぶってないで、ちゃんと行動で示してよ」

 僕は引き剥がすように女の子から視線をはずして、窓の外を見つめる。苦々しい気分のまま、ゆっくりと、重苦しいため息を吐き出すようにつぶやく。「僕にそれは書けないんだ。きっと幻想が、大きくて複雑すぎるんだ。僕の手に余るんだ」

「じゃあ王女はアイスパレスでひとりっきりで死ぬんだね!?」

 急に甲高くなった女の子の声は震えていた。僕は何か言おうとした。でも暗闇の中をいくら探っても僕の指先は何にも触れることなく、ただ宙をもがくだけだった。女の子は今度こそ泣いていた。小さな両手で顔を覆って、込み上げる嗚咽と必死で戦っていた。でも泣き声は、どうしようもなく指の隙間から漏れていった。

「小説が書けないんだ」と僕は言った。「僕はもう、小説なんて書けないんだ」

次回更新は7/2(土)を予定

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ