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ねこキラーの逆襲  作者: AK
第5章   ── 日付が変わる ──
18/45

14   「みんなどうせ」

 アパートの入り口のところに、黒白ねこはいない。垣根のところにも電信柱の裏にも生き物の気配はなく、ただ滑らかな闇がいるだけだ。闇は空白というよりもむしろ独自の存在感を持つ物体として感じられた。あの黒白ねこの代わりに、やや鋭い目つきでこちらを睨んでいる、そんな気さえする。でも、もちろんそんなものにいちいち構うわけにもいかない。僕はカギを取り出してロックを解除し、アパートのエントランスをくぐる。軋む音を立ててゆっくりとドアが閉まる、その後で機械が自動的に施錠をするモーターの音が、鈍く響く。アパートの内部と外部が明確に区分けされる。僕は振り返って、ガラスのドアの向こうの闇を見つめる。そこにある気配を感じ取ろうとする。でもそこにはもう、当たり前の闇があるだけだった。何かはすでに去ってしまっていた。

 階段を上ると、乾いた靴音が無遠慮に空間に反響する。頭上では、小さな羽虫の群れが何かを求めて蛍光灯のまわりをせわしく飛び回っている。その埃っぽい光に照らされて、踊り場の観葉植物は茶色く枯れて死んでいる。階段の隅に溜まる土ぼこりや、壁の傷、クモの巣。見慣れた光景であるはずなのに、不思議とそれらはよそよそしかった。まるで精巧なレプリカを見ているように落ち着かない。何となく、間違った場所に紛れ込んでしまったような不安を覚える。そして、それは自分の部屋のドアに対しても同じだった。前に立つと、まるで他人の部屋のドアのようにそれは僕に対して冷淡だった、あるいは僕を拒んでいた。表札はないけれど、その部屋の番号に間違いはない。そのドアは確かに僕の部屋のドアのはずだ、それなのに僕は、そのドアに鍵を差し込むのが躊躇われた。まるで他人の靴に足を突っ込むように、それは馴染みがたい感覚をともなう。奇妙な焦燥感に取り囲まれる。ともかく、僕は違和感を押し切って差し込んだキーを回す。でも、期待していた鍵の開く手ごたえはなかった。鍵は奇妙な空回りをする。ドアはすでに開いていた、昨日と同じように。

 静かにドアを開ける。部屋の中は真っ暗だ。キッチンも、浴室も、トイレも、そしてリビングも、部屋の明かりはひとつも点いていない。ドアを閉めると、廊下からの明かりがなくなり部屋はいっそう闇を濃くする。僕は暗闇の中で靴を脱ぎ、できるだけ静かに息をする。闇の中に親密さは微塵もない。それは僕の世界に属していない、どこか別の世界の闇のように感じられる。闇には嗅ぎなれない匂いがあり、息苦しい。何かにつまづかないようにゆっくりと、僕はすり足のようにして部屋の奥に進む。リビングのドアに指をかけ、ゆっくりとスライドさせる。暗いリビングルーム。「クロ」はベッドの上に膝を抱えて座っていた。闇のせいでその表情は分からない。じっと、自分の膝を見つめているように見える。でもそれも確かじゃない。僕は壁にある照明のスイッチに指を這わせた。でも結局、灯りを点けることはせず、指を離して、暗いままの部屋に入った。そして、「クロ」の隣に腰を降ろした。ベッドの軋む音が、慎みを欠いて部屋に響く。何かしゃべらなくちゃと強く思う。何か声をかけなくては。でもそのための正しい言葉は、いつだって僕の前にはあらわれない。ぎこちない沈黙を破り、「クロ」が短く鼻を鳴らす。そして口を開く。お酒の匂いがする。その声はいつにも増して低く重い。

 外でお酒を飲んできたから。僕は真っ直ぐ前を見つめて短く答える。

 お酒を飲むなんて馬鹿のすることだと、「クロ」は素早く直線的に言う。そんなことをしたって、結局脳みそを萎ますだけでしかないのに。一時的な幸福感のために、そんな怖いことができるなんて、信じられない。頭が悪くなることが怖くないの? 自分が自分でなくなることが怖くないの? そんな想像力もない? 救えない。お酒を飲む人間は、本当に救いようがない。

 そうかもしれない、僕がそうつぶやくと、強く壁を叩く音がした。「クロ」は強い口調で言った、どうしてそんなこと言うの? キシはあたしよりもずっと大人で、あたしよりもずっと、自分の意見をもってるはずでしょ? それなのになんで、いつもあたしの意見に従ってばかりなの? どうしてそんな頼りないことばかり言うの? あたしが間違ってたらどうするの? キシはあたしの間違いを修正してはくれないの? あたしは間違ってばかりだよ、いつだって間違ってばかりのはずだよ? キシはそんなことも分からないほど、馬鹿じゃないはずでしょ? 一気にそれだけ言い終ると、「クロ」は壁に押し当てたままのこぶしを戻して、再び膝を抱えた。自分の体を、ぎゅっと内部に押し縮めた。そして小さく鼻を鳴らす。「クロ」の感情的な言葉に、僕は適切な返事を見出せなかった。ただじっと、目の前の濃淡のある闇を見つめるだけだった。闇は再び息遣いを取り戻し僕を見つめ返していた。咎めるようにも、嘲弄するようにも感じられる視線だ。それに対して反駁する気も僕には起こらない。ふいに、ポケットの中の携帯電話がメールを受信した。くぐもったバイブ音が暗い部屋に響く。おそらくユサからだろうと直感する。僕がそれを無視していると、「クロ」は自分の隣に置いてあるリュックサックに手を伸ばし、その中から携帯電話を取り出した。「クロ」が携帯電話を持っていることは意外だった。今まで「クロ」が携帯電話を扱っているところなんて見たこともなかったし、「クロ」自身それを持っているとも言わなかった。何となく、「クロ」に携帯電話は似つかわしくなかった。ともかく「クロ」は携帯電話の画面を開き、自分の携帯電話は何も受信していないことを確かめてから、すぐに閉じた。その一瞬、携帯電話の画面の光が「クロ」の顔を照らすのを見て、僕はショックを受けた。携帯の画面を見つめる「クロ」の瞳は、色づいた果実のように充血して赤らんで見えた。

 暗闇の中で「クロ」がまた鼻を鳴らした。そのとき初めて、それが泣き終えた余韻であることを僕は悟った。

 昨日、と「クロ」は口を開いた。普段よりさらにハスキーなその声が、泣き疲れによるものだと改めて理解しながら、僕は注意深くその言葉に耳を傾ける。あたしはキシに馬鹿みたいなこと言ったよね、このねこ缶は、あたしが食べるんだって。もちろんそんなのウソだよ。そんなわけない。キシの言ってたとおり、あたしはあの黒白ねこに餌をやってた。それを誤魔化すために、あんな馬鹿みたいなこと言ったんだ。全然誤魔化せてないけどね。くだらないでしょ? あたしはいつだってくだらないんだよ。昨日ここに来てたのも、あのねこに餌をやるためだった。でも、昨日はあのねこに会えなかった。どうしても会いたかったのに、会えなかった。「クロ」はそこで言葉を区切って、手許に引き寄せていたティッシュペーパーを使って洟をかんだ。そして丸めた紙くずを手のひらに包んだまま、話を続けた。あたしはあのねこが好きだった。あたしの姿を見つけると、あのねこは餌をもらえると思って、近づいてくるんだけど、絶対に一度威嚇をするんだ。あたしを睨んで、牙を剥き出して、はーっ! って鳴く。でもそれはタテマエなんだ。それで、あたしが餌を盛ってやると、そんなに警戒もしないでこっちに来て、ガツガツ食べ始める。その時だけは、あたしが背中をなでても何も言わない。食べ終るとお礼も言わずにさっさと離れていっちゃって、少し距離を取ったところで腰を降ろして、毛繕いなんかを始める。あたしが近づこうとすると、また歯を剥き出して威嚇する、ゲンキンなやつだよね。

 僕は手を差し出してちり紙を受け取り、卓上用の小型のゴミ箱にそれを捨てた。そして何か言葉を探した。でもやっぱり、適切な言葉なんてどこにもなかった。沈黙の帳が下りてきて、そしてそれは簡単には払い除けられないほどの重量があった。暗闇と沈黙が結合し、息苦しいほどの存在感を示した。僕は可能性の中で身動きが取れなくなった。目の前に散らばるパズルのピースを、ひとつひとつ検証する余裕もなかった。ウィスキーの酔いがぶり返したかのように、眩暈の感覚に優しく包まれた。いつの間にか、「クロ」は隣で泣き始めていた。夜中に人知れず降り出す小雨のように、ひっそりと。僕は「アイスパレスの王女さま」の作中で泣く、「ねこの目の女の子」のことを考えた。彼女は狭い車の中で、声をあげて泣いていた、そして主人公であるキシは、その小刻みに震える肩を抱くわけでもなく、ただ冷めた言葉を彼女に投げかけるだけだった。「僕はもう、小説なんて書けないんだ」そのラストシーンを思い返しながら、僕は無性に腹立たしい気分になった。どうしてそんな態度を取るんだろう? 何故彼女を慰めようとしないのだろう? 僕は右手を伸ばして、小さな「クロ」の肩を抱こうとした。でもどういうわけか、僕は結局その手を引っ込めてしまう。そしてつぶやいてしまう、その後でようやく、小説の中のキシが、結局は現実の僕自身と同じ行動を取ったに過ぎないことを知る。あのねこに何かあったの? 僕の言葉に、「クロ」は明確な涙声で答えた。殺された。そして先ほどから握り締め続けていた携帯電話を震える指遣いで操作して、僕に手渡した。画面を見ると、そこには白い腹を切り裂かれて死んでいる黒白ねこの画像が表示されていた。

 頭の中に巡るいくつもの仮説を整理しようと試みたけれど、うまくいくはずもなかった。僕はただ嫌悪感を感じるだけだった。ねこの死体の画像データという不謹慎なほどにも即物的なものに対する、純粋な嫌悪感を。そんなものはこの世界に存在してはいけない。でもそれは、「クロ」の携帯電話の記録媒体にしっかりと根を下ろしていた。僕は不吉なもののようにその携帯電話をつき返した。そして、慎重に訊ねた。どこで撮ったの?

 あたしじゃない、と「クロ」は否定した。僕は「クロ」に向き直り、誰も君がねこを殺したなんて言っていない、と首を振りながら言う。それを聞き、「クロ」は驚愕して見開いた目で僕を見つめた。やっぱりそうなんだ、と「クロ」は張り詰めた小さな声でつぶやく。どうせみんな、心の底ではあたしがねこを殺したって思うんだ?

 僕は自分のミスに気づき、慌てて訂正しようとする。でももう遅かった。「クロ」は僕の目の前で新たにこみ上げる嗚咽と必死で戦っていた。それは自分の内側での戦いであり、外側からはどうにもすることのできない種類のものだ。「クロ」は細い指で顔を覆い、小刻みに震えている。何かが壊れてしまいそうなのを、必死で抑えるように。画像を撮ったのは自分(・・・・・・・・・・)じゃない(・・・・)、と「クロ」は答えたのだった。それを僕はミスリードした。そしてそのミスリードの背景に「クロ」=ねこ殺しの仮定があることを、「クロ」に悟られた。言い繕いようもない。

 「クロ」はベッドの上に倒れこんで、声が漏れないように泣いた。しばらくの間、泣き続けた。君がねこを殺したなんて思っていない。僕はそう伝えることができなかった。そんな上辺だけの言葉はきっと、「クロ」に見透かされるだけだと思ったから。僕は静かに、この波が引くのを待った。それは長い時間を要した。このまま夜が明けてしまうんじゃないかと思うくらい、それは長く感じられた。その間ずっと、闇は僕をなじるように見つめていた。幾種類もの闇がそれぞれに侮蔑的な視線で僕を見定めた。僕は身じろぎせず、それを受け入れた。気の遠くなるような時間を経て、いつの間にか嗚咽の震えも収まり、「クロ」は静かになっていた。疲れて眠りに落ちたんだろうと考え、ベッドから立ち上がり「クロ」の体にブランケットをかけた。キッチンへ行き、暗いままでコンロの火をつけ湯を沸かし、コーヒーをいれた。暗闇に浮かぶコンロの青い炎は非現実的な世界を思わせた。湯気を立てるマグカップを手に、僕はリビングに戻りソファに座った。それをすすりながら、僕は「クロ」の寝息を聞き取ろうとした。でもそれは聴こえなかった。ねえ、と「クロ」が声を出した、「クロ」は寝ていなかった。何? と僕は自分にできる一番穏やかな声音で相槌をした。

 写真を撮ったのはあたしじゃないよと「クロ」は泣き明かしてやや幼く感じられる声で言った。あの画像は、インターネット上の掲示板から保存したんだ。市内のねこ好きの人たちのコミュニティサイトなんだけど、そこの画像掲示板に殺されたねこの画像をアップする奴がいるんだ。あたしはそこで、あの画像を見つけた。きっとすぐに削除されると思ったから、自分の携帯に保存しておいた。だからあの写真がどこで撮られたのか、あたしには分からない。あの黒白ねこがどこで殺されたのか、分からない。

 アップされてたのは、この画像だけ? 僕の問いかけに、そうだよ、と「クロ」は答える。僕はマグカップをテーブルの上に置き、「クロ」のいる方向をじっと見つめながら口を開く。だったら、この殺されたねこがあのねこかどうか、はっきりとしないんじゃない? よく似た別のねこなのかもしれない。黒白ねこなんて、僕にはどれも同じに見える。一枚の画像だけじゃ、それが本当にあのねこなのか、判断なんてできないよ。

 同じ黒白ねこでも、模様は全部違う。「クロ」はさび付いた、でも落ち着いた声で反論する。右前足の白い靴下の模様も、お腹の部分で黒い部分がボタンを留めたカーディガンみたいに合わさる模様も、口許のアシンメトリーな黒白の境界も、あのねこと同じ。鼻先の黒い汚れみたいなしみも、ひげの長さも、毛の禿げた部分も、みんな同じ。見間違えようがない。それくらい、あたしはあのねこのことを、よく見てた。

 そっか、と僕はつぶやいた。それは、残念だね。

 キシは悲しくない?

 まだ実感がないから。僕は首を横に振って答える。それに、正直なところ実感が湧いてきたとしても、そんなに悲しく思えるかは分からない。一度だけ餌をあげたことを除けば、僕とあのねこに接点なんてほとんどなかったから。そういえば、そのとき僕はあのねこに名前をあげようとした。もし何か、呼びかけるべき名前を見つけていたなら、もうちょっと悲しくなったかもしれない。でもそれは見つからなかった。頑張ってみたけど、僕はあのねこに名前を与えることができなかった。

 クロだよ、と「クロ」が言った。僕は頭を傾げて「クロ」を見つめた。「クロ」はブランケットの端をあごのところまで引き上げて、目だけを僕のほうに向けていた。クロだよ、と「クロ」はもう一度繰り返す。あのねこの名前は、クロ。

 でもそれは君の名前だ、と僕は反発した。

 もうあげたのと女の子は言った。だからもうあたしは「クロ」じゃない。

 じゃあ、今の君の名前は? 僕は少し苛立った気持ちで訊ねた。

 ないよ。今のあたしには、名前がない。

 僕は視線を戻して、頭を振った。

 ねえキシ、と女の子は心許なげな声で言った。だから今のあたしには名前がないの。新しい名前が必要なんだよ。ねえキシ、あたしに新しい名前をつけて。キシがくれた名前なら、キシに怒られたみたいに、コロコロ変えたりはしないから、ずっとその名前を使うから。だからあたしに、名前をつけて。

 そんなすぐに名前なんて思いつかない。僕は大人気なく突き放すようにそう返した。でも女の子は、それで落胆したというふうでもなかった。静かにうなずいて、待つよ、とつぶやいた。僕は急に自分の態度を恥ずかしく思って、繕うようにやわらげた口調で口を開いた。でもあのねこは、黒白ねこだったよね? どうしてクロなの?

 だって、背中のほうは黒いでしょ? と当たり前のことのように女の子は言った。そして、それ以上の説明をしなかった。何だか質問した自分が間違っているような気分になって、僕はそれ以上追及しなかった。クロという名前を与えられた、黒白ねこ。差し出したマグロの切り身を夢中になって食べる姿を、僕は思い出した。手のひらを舐められたときの、ザラついた感触も。そうか、と僕は思った。あのねこはもういないんだ。それも、どこかの誰かにお腹を切り裂かれて死んでしまった。僕は女の子があの黒白ねこに餌をやっているところを想像してみた。グーグルマップに印をつけた、あの丘の上の小さな神社の境内。現実的に女の子がそこであの黒白ねこに餌をやったとは考えづらいけれど、頭の中で再生される映像ではそこが舞台となっていた。楕円型のプラスチックの皿に盛られたキャットフードを食べるねこ、その背中を、恐る恐る撫でる女の子。僕はまた、あのねこが殺されるところを想像してみた。舞台は同じ境内だった。そいつ(・・・)はやさしい様子で、手馴れた感じにねこに餌をやっている。ねこは警戒する様子もなく、ただ目の前の餌に意識を向けている。そいつがやさしく喉元を撫でようとすると、少しだけ食べるのを中断して、ねこはそれに身を任せる。でもすぐに邪魔くさそうに振り切って、またガツガツと餌を食べ始める。その様子を見て、そいつは小さく微笑む。

 食べ終って毛繕いを始めるねこを、そいつはあやし始める。背中を撫で、尻尾を触り、人差し指を目の前にちらつかせる。ねこもその気になって、人差し指に飛び掛ってあま噛みをしたりする。体をすり寄せたり、ゴロゴロと喉を鳴らしたり、寝転がってお腹を見せたりする。ああそうか、と僕は発見する。ねこ殺しはねこに好か(・・・・・・・・・・)れる(・・)。やがて遊んでいたねこは、急に動きが鈍くなる。よろよろと倒れこみ、息遣いが奇妙に荒くなり、細かく体を痙攣させ始める。心細そうに、弱々しい鳴き声をあげる。なああああぁぁぁぁぁぁぁぅぅ。そいつはねこを見下ろす。ねこもそいつを見る。そいつはねこの喉元からお腹にかけて、白い体毛を、やさしく撫でる。何度も、何度も。でもあるとき、その線をなぞるのがそいつの指でなく刃物のエッジになっている。顔の筋肉が弛緩しているせいで、ねこの悲鳴は音にならずどこかへ吸い込まれてしまう。血は、そんなに勢いよくは飛び出ない。滲むように白い体毛を赤く染めるだけだ。見開かれる、オリーヴ色のねこの瞳。視線はすでにどこか虚空を向いている。そいつは立ち上がって、水道の水でナイフの血を丁寧に洗う。戻ってきたときには、ねこの震えはかすかになり、体温は失われ、まぶたも落ちてきている。そいつは笑う。もう爪先ひとつ動かせないねこの小さな頭を、指の先でくすぐるように撫でる。

 わたしのこと(・・・・・・)見くびるからいけない(・・・・・・・・・・)んだよ(・・・)

 僕は目を覚ます。体中が汗ばんでいる。動悸が耳の奥までじんじんさせる。喉がカラカラに渇いている。僕の体には女の子にかけたはずのブランケットが被さっていて、そして女の子の姿はすでになかった。カーテンの隙間から、早朝の青白い光が差し込んでいる。いつの間に眠りに落ちてしまったのか、全く分からなかった。テーブルの上にはほとんど手付かずのコーヒーが残されている。それはすっかり冷めていた。僕はゆっくりと立ち上がる。枕もとのデジタル時計が示す時刻は、午前五時少し前。日付が変わり、九月一日になっていた。八月が終り、それとともに多くの小学生、中学生、高校生の夏休みが終り、二学期の始まりを告げる忌まわしい始業式が執り行われる日。日に焼けたクラスメイトたちと久しぶりに顔を合わせ、体育館で退屈な式典が済んだ後、関東大震災にちなんだ防災訓練が行われ、明日からの日常に備えて半日で帰宅をする。夏休みの気分を引きずって、そのまま友達と遊びに出かける子もいるだろう。夏休みの宿題の、最後の追い込みをかける子もいるだろう。何かに耐え切れず、目の眩む高さからその身を投げ出す子もいるかもしれない。

 そしてそんなこととは一切関係なく、「夜鷹」のサイトでは「夏祭り競作企画」のページがアップされている。

次回更新は7/1(金)を予定

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