13 「連絡をして」
バーには八時少し前に着いた。店内にひとり先客がいたけれど、ユサではなく小柄な中年の男性だった。カウンターの隅に背中を丸めて座り、熱心にピスタチオの実を齧っている。僕は彼から離れた位置のカウンター席に腰を降ろし、注文を訊くバーテンダーに待ち合わせをしているからと伝えた。小さくうなずき、バーテンダーは慣れた手つきでグラスに水を注いで僕に差し出した。礼を言って、僕はひと口飲む。それから携帯電話を取り出して、その画面を確認する。表示されている時刻は、八時五分前。メールの受信も、着信履歴もなかった。カバンからドストエフスキーの小説を取り出して、ページを繰る。照明の抑えられた店内はやや薄暗かったけれど、活字を読めないほどでもない。しばらくの間、僕は本の内容に集中する。
十分経ってもユサは来なかった。八時五分。僕はバーテンダーを呼び、ビールを注文した。それを飲みながらなおしばらく本を読む。何度か入り口のドアが開いて新しい客が入ってきたけれど、全てユサではなかった。携帯電話にも何の連絡も来なかった。八時十五分ごろに僕は一度ユサの携帯に電話をかけてみた。でも繋がらなかった。十秒ほどコールした後に、留守番電話に切り替わるだけだ。メッセージは残さず電話を切る。ユサからコールがあったらすぐに気づけるように、テーブルの上に携帯電話を置いた、そしてまた本を読んだ。ビールを乾した後に、ウィスキーを頼んだ。ショットグラスのスコッチとともに、皿に盛られたピスタチオが差し出された。ときどき本を伏せて、両手を使ってピスタチオの殻をむき、その実を食べる。おしぼりで指についた塩と油をふき取り、本に戻る。
ウィスキーがなくなりかけるころに携帯電話がメールの受信を知らせた。ユサのメッセージだった。画面を開いて内容を読むと、急な用事ができてバーには行けなくなったとだけ、簡潔に書いてあった。僕はグラスに残っていたウィスキーを乾し、バーテンダーに別のウィスキーを注文した。その後で、僕はユサのメールに返信をする。「もう少しだけバーに残ってるから、もし遅れて来られそうだったら、連絡をして」そしてまた携帯電話をテーブルに戻し、バーテンダーの差し出す新しいウィスキーを飲みながら本の続きを読んだ。でもいくら待ってもユサからの返事は来なかった。そのうちに酔いがまわり、文章に意識を集中するのが困難になる。二杯目のウィスキーを飲み乾してから、僕は諦めて店を出ることにする。バーテンダーを呼び、会計を済ませる。そして立ち上がり、頑丈なつくりの店のドアを押し開ける。カウンターの隅の中年の男は、相変わらず熱心にピスタチオを齧っていた。時刻は九時少し前。外に出ると、空には雲が出ていた。どうせ見えない星を、雲は徹底的に隠していた。
次回更新は6/29(水)を予定




