雪と雪ねことねこキラー
その特徴のない密集した住宅街に、車二台がやっとすれ違える程度の幅の道が、不思議なほど真っ直ぐに伸びている。その道の終りがどのくらい先にあるのか分からないし、その道の始まりがどのくらい先にあるのかも分からない。幅は広まりもしないし狭まりもしない、一定の間隔のまま、世界の果てまで続いているようにも見える。
その道を、ひとりの女性が歩いている。ずっと遠くのほうから、こちらに向けて、彼女は静かに歩いている。他に人影はないし、道を走る車もない。ひっそりと静かで、まるで彼女以外の時間が止まってしまったかのように見える。それは降りしきる雪のせいかもしれない、この地方には珍しいしっかりとした雪が、この閑静な住宅街をさらに無音の世界にしていた。こんな日は誰も外に出たくはないし、車だって走る意志を失う。
雪は手のひら二枚分くらいの厚さに積もっている。雪たちはそれをさらに厚くさせようと必死だった。道を行く女性は、足跡という形でささやかにそれを妨害していた。彼女の足跡以外にこの雪の道を埋めるものはなかった。そして、もちろんその足跡もすぐに雪に覆われてしまうだろう、そういう降り方を雪たちはしている。
彼女は植物的なみずみずしさの黒髪を長く伸ばした、美しい女性だった。灰色のコートのポケットに両手を突っ込んで歩いている。その肩と頭には、薄く雪が積もっている。それでも彼女はまるで寒さを感じていないかのような、穏やかな表情を浮かべていた。これから何か楽しいことでも始まるような、やや幼ささえ感じられる表情だった。彼女の背丈は女性にしてはやや高く、体のラインは細い。でもそのよどみのない歩き方から、彼女のしなやかな筋肉を容易に想像することができる。彼女の体のどこにも、そしてその身のこなしにも、無駄と呼べるものは何ひとつ見出せそうになかった。
* *
彼女の名前はねこキラーという。もちろん、彼女はねこを殺す。
* *
雪に閉ざされた住宅街に存在感を持っているのはねこキラーと降りしきる雪たちだけだった。でも、もちろんそれ以外にもたくさんのものが存在している。目に見えないたくさんの存在が、じっと息を潜めて見つめている。もうずっと前から、ねこキラーは気づいていた、自分の後をつけているもののことを。その足音を感じ取ることができた。ねこキラーは、だから楽しそうな顔をしていた。自分の後をつけているものの正体を、彼女ははっきりとは分からない。でも、こうしてついてくるのだから、きっと何かをしてくれるのだろう。彼女はそれを期待していた。
それなのに、どれだけ待っても一向に何かが起きる気配はなかった。ねこキラーの安定した歩みに、その何かはただついてくるだけだった。それ以外に何もしない。ねこキラーはときどき、頭と肩に積もった雪を払うために立ち止まった。きっかけを与えるために。でも何も起こらない。後をつける何かは、それに合わせて足をとめる。そしてねこキラーが歩き出すと、同じ間隔を保って再び後についてくる。ねこキラーとの距離は狭まることも広がることもけしてない。
* *
しばらくして、ねこキラーは小さな公園を見つけた。住宅の海の中に打ち込まれた楔のようにそれは孤独な空間だった。葉を落とした樹が二本だけ植わり、ブランコが一台とベンチが一脚、そして今は雪に埋もれた小さな砂場があるだけの、みすぼらしい公園だった。
金網のフェンス越しに、ねこキラーは足をとめてその公園を見つめる。もちろん誰もいない。ひたすらに積もり続ける雪以外に、動いているものは何ひとつない。彼女は中に入る。真っ白な雪を踏みしめて、ねこキラーはベンチのところまで歩く。そしてやわらかく積もった雪を払ってから、そのベンチに腰を降ろす。あどけなささえ感じられる微笑を浮かべながら、彼女はじっと、目の前の雪に覆われた砂場を見つめる。何かが起きることを期待するように。何かが起きることを知っているように。
公園には何の音もしない、まるで空気の震えをひとつ残らず雪が吸い取ってしまっているみたいに。静寂がまるで液体のように空間を満たしている。静寂の肌触りさえ感じ取ることができる。ねこキラーはその静けさに加担するようにじっと動かなかった。マフラーにあごをうずめて、真っ白な砂場を、いつまでも見つめ続けている。
砂場を覆う雪の一部がわずかに蠢いたとき、ねこキラーの頭と肩には再びうっすらと雪が積もり始めていた。彼女は雪を払い、そして動きのあった辺りを見つめる。何事もなかったかのように、砂場の雪は平らだった。でもそれが見間違いではなかったことをねこキラーは知っている。彼女が見つめ続けると、雪は再び蠢いた。もくり、もくりと脈打つように盛り上がり、そしてその中から白い雪の塊が姿を現した。
雪ねこだ。
* *
雪ねこは表情のない顔をねこキラーに向けて、音もなく彼女のほうに歩み寄る。立ち上る煙のように、真っ直ぐに尻尾を立てている。そしてわずかに離れた位置に立ち止まり、腰を降ろす。長い尻尾を自分の体に巻きつけて、シルエットだけの顔でねこキラーを見つめる。ねこキラーも雪ねこを見つめる。
雪ねこは雪そのものの質感で、淡く白い。ねこの形をしているが、そのシルエットしか捉えることはできない。表情もなければ模様もない。雪ねこの体は、うっすらと向こう側が透けて見える。雪を踏みしめて歩いても、足跡も残らないし足音もしない。目を閉じれば本当にそこにいるのか覚束なくなることだろう。それでも雪ねこが向ける視線には、不思議なほど具体的な実感がこめられている。手に触れてその温度を確かめることさえできそうなほど、視線は肉感的で純粋だった。人間の向ける視線のように、さまざまな種類の不純物は混合していなかった。
ねこキラーが振り向くとそこにも別の雪ねこがいた。一匹は枯れた木の陰から顔だけを出してこちらをうかがい、もう一匹は慎重な足取りでこちらに近づいている。あたりを見回すと、他にも数匹の雪ねこの姿が目にとまった。ブランコのそばに二匹、金網のフェンスのところに一匹、隣の住宅の塀の上に三匹。雪ねこたちは思い思いのペースで静かにねこキラーとの距離を詰めた。足音も立てず足跡も残さず、ねこキラーの座るベンチを目指して雪ねこたちは静かに歩いた。
ねこキラーは脚を組んで、雪ねこたちに微笑みかける。雪ねこたちはそれに対して何の反応も見せない。一番初めに現れた雪ねこと同じように、ある距離まで近づくとそこに腰を降ろしてじっとねこキラーの顔を見つめた。雪ねこたちはねこキラーを囲う。そして何もせず、静かに彼女を見つめる。ねこキラーは雪ねこの数を数えてみた。十一、というのがその正確な数だった。十一匹の雪ねこたちが、黙ってねこキラーを見つめている。そこに二十二の瞳が存在するかどうかは分からないけれど。
ねこキラーは一番初めに現れた、体に尻尾を巻きつけている雪ねこに視線を向ける。そして薄く冷たい微笑を唇の隅に残したまま、ささやくように訊ねる。「仕返しをしたいの?」声をかけられた雪ねこは微動だにせず、打ちつけられた鋲のようにその視線を固定していた。ねこキラーは軽く唇を触り、そしてもう一度訊ねる。「わたしを止めたいの?」雪ねこたちは無言でねこキラーを見つめ続けるだけだった。ねこキラーは苦笑して、あどけない子供がイヤイヤするように頭を左右に振る。頭にわずかに積もっていた雪が落ちる。
「あなたたちに何ができるの?」とねこキラーは言う。「そんな体で、何かができるつもりでいるの? それとも何かをしたいわけじゃないの? こうして、ただわたしの前に姿を現して、じっとわたしを見つめていればそれで満足? でもそれって何か意味があるの? そんなことをされたって、わたしは何も感じないし何も思わない。ねえ、それよりももっと面白いことをしようよ。なんだったらもう一度殺してあげてもいいよ。どんな死に方が好み? 前と同じ方法がいい? 別の方法がいい? それとも今度は、あなたたちがわたしを殺す? いいよ、それでも。もちろんわたしは抵抗するよ。殺せるものなら殺してごらん。別にそれでもいいんだよ、少なくともそちらのほうが、動きがある」ねこキラーは最後にやや翳りのある微笑を浮かべながらつぶやく、「今の世界には動きがない」
雪ねこたちは動かなかった。雪ねこたちは微動だにせず、十一の視線をねこキラーに押し当てているだけだった。雪たちでさえ、雪ねこの体を通り過ぎて舞い落ちる。ねこキラーはため息をつき、肩に積もった雪を手で払う。そして感情のない微笑を顔に宿して雪ねこたちを見渡すと、静かに立ち上がってマフラーの位置を整えた。雪ねこたちは彼女の動作を見上げる。
「どうせこの後もついてくるんでしょ、何もできないくせに? ついてきたいんなら、勝手についてくればいい。わたしがすることを見ていたいんなら、勝手に見ていればいい。そんなことでわたしは止まらない。楽しいことを、続けるから」
その言葉にも雪ねこたちは動きを見せない。それを見定めてから、ねこキラーは雪を踏みしめ公園の外に向かって歩き出す。雪ねこたちは体を起こし、静かに、というよりは無音でその後に従う。尻尾を立てて歩く雪ねこを先頭に、十一匹の雪ねこたちは空気ほどの重さも感じさせずねこキラーを追いかける。近づきすぎもせず、離れすぎもせず、飽くまでも一定の距離を保ち、彼女の行方を追う。生命の息遣いはない。あるいは意志さえも、そこにはなかったのかもしれない。雪ねこには存在感さえない、不思議なほど真っ直ぐに伸びる静かな道に、存在感をもっているのはねこキラーと、雪たちだけだった。
* *
雪は強さを増す。
ねこキラーは真っ直ぐ前を見据えたまま、歩調を緩めることも早めることもせず、同じペースで歩く。どこまでも伸びる道を、どこまでも進み続けるつもりなのかもしれない。立ち止まることも、角を曲がることもしないまま、彼女はただ黙々と前を歩く。彼女の目に留まるものは何もない。何も彼女の興味を引かない。何も彼女の邪魔をしない。気の遠くなるほどに長い足跡だけが後に残る。でもそれも、きっとすぐに新しい雪が覆い尽くしてしまうだろう。
雪ねこたちも同じように、乱れぬ歩度でその後を追っている。
住宅街の多くの家は内側に灯りを湛え、鍵をかけている。まるでその光をわずかでも外に漏らしたくないかのように、それは徹底されている。日が沈むのはまだ先だが、厚い雲が空一面を閉ざし、あたりを薄暗くさせている。蠢く雲は巨大な生物の腸の内壁を思わせる。世界はまるで何者かによって閉じ込められてしまったように静かで、迷いがなかった。時間は均一に流れることでその存在を不確かにしている。
どこにも出口はないのかもしれない。
* *
雪が、平坦なアスファルトの道に手のひら三枚分の厚さに積もろうとするころ、ねこキラーは足を止めた。距離を置いて、雪ねこたちも歩くのをやめた。
細い用水路が道路の下をくぐっている。用水路は道に直行する形で、住宅の隙間を縫うように左右に続いている。水の流れはなく、底は雪に白く覆われている。すぐそばの路上には黒い乗用車が無人で停まっている。
ねこキラーはその車を見つめている。じっと、目を凝らすように見つめ続けている。雪ねこたちは無音でその様子を見守る。突然、ねこキラーはしゃがみこんで車の下の隙間に視線を向ける。膝を突き、長い髪は地面に積もる雪に触れた。車の下には何もいない。それでも彼女は、注意深くその隙間をうかがう。車体に遮られ、その四角いスペースに雪は積もっていない。湿った鼠色のアスファルトが、雪の肌に穿たれた傷口のように醜い。その傷口から、ねこキラーは匂いを嗅いだ。甘い獣の匂い。ねこキラーは立ち上がると、回り込んで反対側の車とブロック塀の間のスペースを確かめた。そこには雪に湿りくたくたになった段ボール箱があった。その内側は褪せたタオルが敷かれている。中身は空で、雪が容赦なく積もっている。甘い獣の匂いはそこから発している。
ねこキラーは息を吸い込む。そして、目を細めて舞い落ちる雪の粒を眺める。落下する雪片に混じって、逆に空に舞い上がる雪片がある。それはどこまでも上昇していき、そして見えなくなった。ねこキラーは道路を逸れて右に伸びる用水路の縁に足を進める。今まで歩いてきた道路と違い、それは曲がりくねって家と家の間を進んでいる。その先に何があるのか見えないし、どこまで続いているのか見当もつかない。それでもねこキラーは躊躇うことなく前を進む。その先に何があるか、知悉しているように。彼女は先ほどよりも速い足取りで歩いている。それを追う雪ねこたちも同様に急ぎ足だった。いや、よく見るとそれは違う。雪ねこたちはねこキラーよりもむしろ速いスピードで歩いている。小走りといってもいい。用水路の底を走るもの、縁の反対側を走るものもいる。雪ねこたちはねこキラーとの距離を徐々に詰め、追いつき、そして追い越した。
追い越した雪ねこたちは足を止め、振り向く。十一匹の雪ねこたちはねこキラーの行く手に立ちふさがり、表情のない顔で彼女を見つめる。ねこキラーも足を止め、自分を見つめる雪ねこたちを見返す。思い出したように艶のない微笑を口許に浮かべ、そして冷笑するようにくすりと笑った。
「ムダだよ」とねこキラーは言う。「通せんぼしてもダメ。そんなことをしてもわたしは止まらない。だって、あなたたちには実体がないんだよ? いくらそんなところで頑張ってみたって、わたしが遠慮なく前へ進めば簡単にすり抜けちゃう。煙みたいにね。それにあなたたちのその行動が決定的なんだよ。この先にねこがいるんだよね? だからあなたたちは通せんぼするんだよね?」
雪ねこたちはぴくりとも動かず、ただ静かにねこキラーを見つめ続ける。ねこキラーが再び歩き出しても、微動だにしない。ねこキラーはまるでそこに何も存在しないみたいに、容赦なく雪ねこを踏みつけて進む。踏まれた雪ねこはゼリー状に変形して横に延びる。そして足を除けられるとゆっくりと自分の形を取り戻し、踏みつけたねこキラーを振り返る。ねこキラーは先へ進む、踏みつけられた順に、くるりくるりと雪ねこたちは向きを替える。それ以上ねこキラーを追おうとはしない。
朽ちかけた物置の隣でねこキラーは立ち止まる。四囲を巡る木の壁は雨に濡れて腐り、薄いトタン屋根は錆びきっている。長いこと誰にも使われていないことは明らかだ。用水路の縁のぎりぎりのところに、四隅に置かれたコンクリートブロックの上に乗りかかる形で建っている。そのため物置の下には隙間がいる。ねこキラーは目を閉じ、耳を澄ます。降りしきる雪たちの囁き声の向こうに、鳴き声が聴こえる。その場にしゃがみこむが物置の下の隙間は狭すぎて中の様子をうかがうことができない。
ねこキラーはポケットから右手を抜き出して、その暗い隙間に指を入れる。ひび割れた陶器のように物悲しい鳴き声があり、そして指先を舐める湿った感触がある。隙間から指を抜き、おいで、とねこキラーは言う。ほら、おいで、こっちのほうが暖かいよ。
物置の隙間の闇の中から、闇そのもののように真っ黒な仔ねこが姿を見せる。オリーヴ色の大きな瞳でねこキラーを見つめ、か細い声で精一杯に鳴く。ねこキラーは優しく微笑みながらその体をゆっくりとなでる。お前は賢い子だね、とねこキラーは言う。車の下よりも、こっちのほうがずっと安全だもんね。自分をなでるその指を黒い仔ねこは必死に舐める。
十一匹の雪ねこたちはその様子を離れた位置から無言で見つめる。
雪が舞う。
ねこキラーは脇の下に手を差し入れて、仔ねこを抱き上げる。仔ねこは特に抵抗することもなく、四肢をぶら下げて鳴き続ける。ねこキラーはぎゅっと仔ねこを抱きしめてから、左手だけで器用に子ねこを抱え、空いた右手をコートの内ポケットに忍ばせる。指先で選び、ゆっくりとカッターナイフを取り出す。お前はまだ小さいから、とねこキラーは諭すように言う。きっとこの刃でも大丈夫。わたしも、丁寧にやるから安心して。そして親指をスライドさせて刃を短く出す。ちちち、という音に反応し、仔ねこは不思議そうにカッターナイフの刃を見つめる。雪が舞う。耳が痛くなるくらいの静寂が辺りを覆う。ねこキラーは左手だけで物置の壁に仔ねこを優しく磔にする。左手の親指で、子ねこの喉元をゆっくりとなでる。仔ねこは顎を上げ、気持ちよさそうに目を細める。雪が舞う。時間が均一さを失い、重力が均一さを失う。舞い落ちる雪と、舞い上がる雪が交錯する。カッターナイフの細い刃が何の予告もなく仔ねこの柔らかな喉元に突き刺さる。仔ねこは目を見開き、声にならない声を上げる。力の限りにもがこうとするが、押さえつける左手は強引にそれを押しとどめる。痛くない、痛くない。ねこキラーはあやすようにそう囁く。そして刃が折れないようにゆっくりと、突き刺したナイフを下に動かす。少量の鮮血が飛び散り、雪の上に模様をえがく。傷口から血が流れ、仔ねこの体を伝いぼたぼたと真下に落ちる。仔ねこはもうほとんど抵抗もせず、ひくひくと痙攣し空を見上げる。肋骨のある胸部は薄く、そしてそれが終る辺りから再び深くナイフを突き立て、静かに腹を割く。その隙間から、温かい内臓がこぼれる、内臓は冷たい大気にもやもやと不確かな湯気を立てる。仔ねこの体から力が抜ける。ねこキラーは血まみれの仔ねこを雪の上に置く。仔ねこの呼吸は、やがて静かに終る。
* *
黒い仔ねこの死体のそばに、雪ねこたちが集まっている。仔ねこの傷口をぺろぺろと舐めているものもいるし、新雪を染める赤黒い血の匂いを嗅いでいるものもいる。離れた場所に立つねこキラーを見つめているものもいる。ねこキラーはぼんやりと天を仰いで、ひとり考え事をしている。舞い落ちる雪の粒は、彼女の顔の上に遠慮なく落ちる。ねこキラーは目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込む。ゆっくりと息を吐く。そして目を開くと、雪ねこたちの姿はどこにも見えなくなっている。黒い仔ねこは、ひとりぼっちで死んでいる。
* *
ねこキラーは用水路の縁を伝い、来た道を引き返して道路に戻る。路上駐車の黒い車と塀の間の湿った段ボール箱をじっと見つめ、そしてまた道を歩き始める。不思議なほど真っ直ぐに伸びた、まるで世界の果てまで続くかのように見える細い道。
* *
変わり映えのしない景色の住宅街の道を、ねこキラーは進み続ける。左右に展開する家々は、どれも内側から鍵をかけて閉じられている。窓は、厚い生地のカーテンに遮られている。誰も声をあげない、誰も動かない。あらゆるものが際限もなく静止し続けている。
その例外を見つけたとき、ねこキラーは迷うことなく中に入ることに決めた。それは道の左手に建つ小さな喫茶店だった。住宅と住宅の隙間にまるで隠れるようにひっそりとその店はある。ドアには「OPEN」と書かれた札がかかっている。窓の向こうにかかるカーテンは薄いレース地で、店の中の人影を透かして見せている。
ドアを開けると、暖房による暖かく重い空気がねこキラーの両頬をやさしくなでる。クラシック音楽の、甘い弦楽器の音色が店内に響いている。客はおらず、カウンターの向こうで老齢の店主が煙草をくわえて新聞を読んでいる。ねこキラーの姿に気づくと煙草を消し、新聞を折りたたみながら「いらっしゃいませ」と声をかける。ねこキラーはカウンター席のスツールに腰をかけ、簡単にメニューを確かめてからブレンドコーヒーを注文する。「かしこまりました」と老店主は応え、すぐにコーヒーをいれる準備を始める。
差し出されたおしぼりで、ねこキラーは手を拭く。おしぼりはすぐに赤黒い汚れに染まる。店主はそんなことには気づかず、クラシックの曲に合わせて鼻歌交じりにコーヒーを入れる。ドリッパーから溢れる蒸気とともに、コーヒーの香りが店内に満ちる。ねこキラーは薄く微笑む、コートを脱ぎ、折りたたんで膝の上に載せる。
「どちらからお見えになりました?」ポットを片手に老店主が訊ねる。「このあたりにお住まいですか?」
「いいえ、遠くから来ました」とねこキラーは答える。老店主を、どこか眩しげに見つめながら、つぶやくように言葉を加える。「ずいぶん遠くまで来ました」
「そうですか」老店主は相槌を打ち、ポットの湯をドリッパーに注ぐ。ねこキラーはその様子を、大切な儀式のように静かに見守る。丁寧にコーヒーをいれ、半分をカップに注ぎ、老店主はカウンター越しにねこキラーに差し出す。「お待ち遠さま」そしてサーバーに残ったコーヒーを別のカップに注ぎ、自分で飲み始める。
ねこキラーはカップから沸き立つ湯気に顔を突っ込んで、その香りを嗅ぐ。甘く、香ばしいコーヒーの蒸気を胸に吸い込む。カップに口をつける。「美味しい」と独り言のようにつぶやく。
「ありがとうございます」と老店主は笑顔で応え、そして自分のコーヒーを満足そうにひと口すする。
「体が温まります」とねこキラーは言う。「ずっと外を歩いていて、すっかり冷え切ってしまいました」
「雪が降ってますからね」老店主は窓の向こうに目をやる。「こんなにしっかりと雪が降るのは、このあたりじゃ珍しいです。私もここに越してきて二十年くらいになりますが、こんなに降ることは滅多にない」
「二十年」ねこキラーは感心したように言う。「二十年間、ここでお店を?」
「そうです」と老店主は何でもなさそうに答える。「二十年前にここに越して来て、そして喫茶店を始めました。ずいぶんいろいろなことがありましたが、まあ何とかこうして今でもお店を続けられています。近所の方々をお客にしている、小さなお店ですがね」
「二十年、同じ場所で、同じことをしているわけですね」とねこキラーが言う。「そういうのって、わたしにはうまく想像できないな」
「誰だってそうなんじゃないですか?」老店主は煙草を取り出して火を点ける。「この二十年を過ごした私自身でさえ、それはうまく想像できないですから。あるいはそれは、私の人生が間違っていたからかもしれませんがね」
ねこキラーは微笑みながら首を振る。「そんなことはないです。こんなに美味しいコーヒーをいれることができるなら、そこに間違いはないはず」
「ありがとうございます」と老店主はもう一度言う。
* *
コーヒーを飲み終え、ねこキラーは席を立ち代金を支払う。老店主は金を受け取る。店内に響くクラシックの曲は演奏を終えようとしている、暖かい空気に混じった、コーヒーの香りはゆっくりとその余韻を消そうとしている。
ねこキラーは灰色のコートを着込み、マフラーを首に巻く。お釣りを渡した老店主は、そのときねこキラーのコートが黒い染みに覆われていることに気づく。「それは、何かの汚れですか?」老店主は彼女に訊ねる。
「返り血です」とねこキラーは答える。
「返り血?」老店主は自分の耳を疑うように、慎重に問う。「返り血と言われましたか? 一体、一体何の返り血なんです?」
「ねこのですよ」とねこキラーは笑いながら言う。「さっき殺してきたところなんです。真っ黒な、とっても可愛い仔ねこでした。カッターナイフでお腹を裂きました。内臓が出て、血が飛び散りました。それがついたんです。でも、仕方ないですよね。ねこのせいじゃありません。誰だってお腹を裂かれれば、血は出ます」
「何かの冗談のつもりで仰っているんですか?」老店主はまずそうに煙草の煙を吐き出して、灰皿にその火を押し付ける。
「いいえ」ねこキラーは首を横に振る。癖のない黒髪が左右に揺れる。「全て事実です。わたしはねこを殺すんです」
「出て行きなさい」老店主は険しい顔でそう命じる。「私には、あなたをどうこうすることはできそうにない。それでもあなたには、一秒でも長くこの店にいて欲しくない。本当はコーヒーだって飲んで欲しくはなかった。でもそれは、もうどうしようもないことです。だからせめて、早くこの店を出て、そして早くこの町から出て行きなさい」
「分かりました」ねこキラーはマフラーに顎をうずめ、出口に向かう。ドアノブに手をかけ、ドアを開く前に、彼女は振り返り店主に訊ねる。「店の前を通る道は、ずいぶん先のほうまで伸びているみたいですが、一体どこまで続いているんでしょうね?」
「早く出て行かないか!」と老店主は怒鳴った。「分かりました」と、ねこキラーはもう一度つぶやいた。「コーヒー、ご馳走様でした。とても美味しかったです」そしてドアを開け、雪の降りしきる戸外に出た。雪はいっそう強さを増していた。
店を出て少し歩くと、背後で鍵のかかる音がした。ねこキラーは道の先を見つめた。その特徴のない密集した住宅街に、車二台がやっとすれ違える程度の幅の道が、不思議なほど真っ直ぐに伸びている。その道の終りがどのくらい先にあるのか分からないし、その道の始まりがどのくらい先にあるのかも分からない。幅は広まりもしないし狭まりもしない、一定の間隔のまま、世界の果てまで続いているようにも見える。
次回更新は6/27(月)を予定




