ブレイキング・ニュース
作成日時:2009年8月23日
更新日時:2009年9月30日
(以下本文)
父が部屋を出る音がした。俺はひとりベランダに出ていたので、それを背後に聴いた。リビングに煙草の匂いがこもるのを妹は嫌う。だからすでに風の肌寒いこの時期にも、俺は部屋の外で煙草を吸う。火を消して、入れ違いに部屋に戻ると、ご丁寧にテレビは主電源ごとオフになっていた。ソファをまたいでテレビ本体のところまでいき、背面にあるスイッチをオンにする。映し出された画面では、地方局のアナウンサーが今日は一日よく晴れるでしょうと請け合っていた。俺はキッチンへ行きサーバーに残るコーヒーをコンロの火で温めなおす。その間にフライパンでベーコンを焼き、それを下敷きに目玉焼きを焼いた。食パンをトーストし、朝食の用意を整えた。
妹の部屋のドアをノックする。おどけた感じで声をかけようか迷ったが、下手に妹の機嫌を損ねるのを恐れて、結局いつも通りの口調で訊ねる。「朝ごはんを作ったから、食べたかったら食卓まで来いよ。コーヒーも温めてある。どうだ?」
妹はすぐには返事をしない。飾り気のないドアは、いつまでも黙りこくっている。でも妹は、眠り込んでいるわけではない。物音が聞こえるわけではないが、妹が目を覚ましている気配はドア越しに確かに伝わる。妹が返事をするまでの長い間が、返答を考えるためなのかは俺には分からない。ひとつだけ確かなことは、妹は朝食の呼びかけに対し、三回に一回くらいしか応じないということだ。食の細い妹は、もともと朝食をあまり必要としない。それは以前から変わらない、この一ヶ月で特にその傾向が強くなった、というほどのことでもない。
「いらない」と声が聞こえた。弱々しい声音で、他に一切の修飾のないその言葉はドアの向こうから何かに押しつぶされるような印象をもって俺の耳に届いた。そしてそれ以上の情報はもたらされなかった。「分かった」と俺は強いて落胆を感じさせなく努める声で言った。「コーヒーだけは残しておくから、飲みたくなったら出て来いよ」
それに対する返事はないし、俺自身それを期待してもいない。俺は妹の部屋の前を去り、食卓に戻ってテレビのローカルニュースを聴きながらふたり分のベーコンエッグを食べた。温めたコーヒーを、ひとり分だけ飲んだ。
妹が学校に行かなくなって、一ヶ月になる。妹はある日突然、何の前触れもなく、今日から学校には行かないからと宣言し、そして自分の部屋に閉じこもってしまった。内側からカギをかけ、トイレや食事を別にすればほとんど外へは出てこなくなった。そして誰も自分の部屋に入れようとしない。その意志は徹底されている。一度、妹が入浴しているときにこっそりと部屋を覗こうとドアノブをまわしたが、どういう仕組みになっているのかドアはロックされていて中には入れなかった。ドアは外側からはロックできないはずなのに。
妹は自分の部屋に閉じこもる理由をけして言おうとはしなかった。もう二度と学校へは戻らないから、中退の手続きをして欲しい、と繰り返すだけだった。もちろん中退の手続きなどしていない。ここ一ヶ月は病欠扱いとなっているだけで、籍は残っている。いつでもすぐに学校へは戻れるようになっている。そのように妹に伝えると、いかにもわずらわしそうな声で妹は言った、何があっても絶対に、もう学校へは行かないんだから、そんなことをしても学費の無駄遣いにしかならないよ。そんなことしても、結局お兄ちゃんの自己満足でしかないってことだけは頭に入れておいて。
父は一貫して娘の引きこもりに無関心だった。「どうせいつかは出てくるはずさ」という楽観視からのそれではなく、「娘が部屋を出ようが出まいがそんなことはどっちでもいい」という根本的に無関心な態度だった。母が亡くなってから、父の家族に対する接し方はいつもそんな具合だった。息子と娘に対する興味がほとんどないかのようだった。市役所の勤務環境について詳しくは知らないが、父が家に帰る時間はいつも不可解なほど遅い。大抵の場合、夜の十時を過ぎたころだ。晩ご飯は食べず、少しだけ酒を飲み、すぐに寝室へ行く。そして朝の七時ごろには仕事へ出て行く。朝食も取らず、ただインスタントのコーヒーだけを一杯飲んで。驚くべきことに休日も大体こんな感じだ。特に行き先も告げず、朝早くからどこかへ出かけ、そして夜遅く帰ってくる。自宅で食事を取ることはほとんどない。父にとって自宅とは、睡眠と入浴と、アルコールとインスタントコーヒーを摂取するための場所に過ぎない。肉親と共生する場所という認識は欠片ほどしか持ち合わせていないのだろう。
だから大体において家の中の事は俺が取り持っていた。炊事も、洗濯も、掃除も、買い物も、以前母のこなしていた家事のおおよそは俺が引き継いだ。母が亡くなったとき、妹はまだ中学に上がったばかりだったから、簡単な仕事を手伝ってくれることを別にすれば妹は家事に携わらなかった。父はもともとその手の実際的な仕事に関してほぼ無能力だったしそれを覆すのは不可能に近かったから、消去法的にその役回りは俺のものとなった。そのとき俺自身まだ高校二年生に過ぎなかったから、もちろん初めのうちからスムーズに全てをこなせていたわけではない。それでももともとの几帳面な性質のためか、最初に自分の生活のルーチンの中にその作業をうまく組み込めば、後は水車が水の力で勝手に回るようにそれは大した抵抗を与えなくなった。そしてその仕事がいったん肌に馴染んでしまうと、返って他の人間の手を借りることのほうが煩わしくもなったから、時間を経ても家の中の仕事は俺の手から離れることはなかった。そのようにして、俺は家の中の仕事のおおよそを担っている。
妹の通う学校とのやり取りに関しても俺が表に立っていた。何度か妹の担任教師にも会っている。まだ若い痩せた男だ。彼にとっても教え子の不登校は初めてのケースのようで、ともかく戸惑っていた。「原因が分からないんです」と会うたびに言っていた。「特に交友関係でトラブルがあったわけでもないし、成績だって悪くないです。いや、むしろとてもいいですね。優秀です。普段の様子からも、悩みを抱えているようにも見えませんでした。問題の出所がさっぱり分からないんです。お兄さん、何か少しでも心当たりはないですか?」そしてずる賢そうな眼つきで上目遣いに俺を見つめる。要するに家庭内でのトラブルではないのか、と言っているのだ。俺は静かに首を振って、「分かりません」とだけ答える。
それは本当に分からないのだ。妹が部屋へ引きこもるようになった前日の夜も、妹の様子に特にいつもと違う点はなかった。いつも通り同じ食卓で夕食を取り、テレビのバラエティ番組を見ながら下らない冗談なんかも言い合っていた。十二時近くになり、「おやすみ」と言って妹は自分の部屋に戻った。夜が明けて、父が出かけた後、いつもなら朝食を取りにリビングに出てくる時間になっても、妹は姿を見せなかった。体調が悪いのかと心配して部屋のドアをノックすると、妹は俺には聞き覚えのない硬質な響きを含んだ声で宣言した。「もう学校には行かない」
妹を真似るわけではないが、今日は大学をサボることにする。受講しているふたつの講義はどちらもあまり重要ではないし、加えてどちらの教授も出席を重視していないから数回休んだ程度で単位を落とすことはない。その代わりに溜まっていた家事、洗濯や掃除や買い物を、まとめて片付けることにする。そちらのほうがはるかに重要だ。
コーヒーを飲み終えてからテレビを消し、まずは洗濯に取り掛かった。ここのところ雨の日が続いたが昨日から雨雲の一団が去り、今日は薄い雲の欠片さえ探すのが難しいくらいに晴れている。洗濯日和だ。カゴに放り込まれた衣服やタオルをそれぞれ仕分けて洗濯機に入れた。でもそれは大した量ではない。妹は自分の衣類をこのカゴへ入れず、おそらく自分で洗濯をするようになっていたから、それは俺と父のふたり分に過ぎない。妹が一体いつ自分の服を洗っているのかは俺にはよく分からない。家に誰もいない日中に済ませているのだとは思うが、それを目にしたことは一度もない。
洗濯機が勢いよくモーターを回転させている間に、キッチンの洗物を片付けてリビングの掃除をした。もっとも、リビングはほとんど汚れていない。父も妹もほとんどリビングを利用しないから、簡単に掃除機をかければもうそれで十分だ。掃除が終るとちょうど洗濯の完了を知らせるブザーが鳴った。脱水の済んだ衣類をカゴに入れ、ベランダまで持って行き順番に干した。カゴの中が空になったとき、時刻はちょうど十時に差し掛かるところだった。スーパーの開店時間になったので、買い物に出かけることにする。
妹の部屋をノックして、昼に何か食べたいものはあるかと訊ねてみる。かなり長い時間の後で返ってきた妹の返事は「何でもいい」だった。「スパゲティでもいいか?」と提案すると、ひどく弱々しい声で「それでいい」と妹は言った。そしてそれ以上は何も言わなかった。
十一時ごろに自宅に戻り、すぐに調理を始めた。湯を沸かしてスパゲティを茹で、別の鍋に沸かした湯でレトルトのスパゲティソースを温めた。器に麺を盛りソースをかけ、二本のフォークと、別に妹のためにスプーンを食卓に置いた。用意を済ませてから妹の部屋のドアを叩き、食べに来るよう促す。妹の返事はなかったが、部屋の中で動き出す気配を感じたので、俺は先に食卓に戻り席に着いた。妹の部屋のドアが開く音が聞こえ、そしてそれが閉じられる音が聞こえた。
リビングに顔を見せた妹は、よれよれのパジャマ姿でいることを除けば一ヶ月前までの彼女とあまり変わらない。どこかしら勝気な印象の表情はそのまま保存され、切られないままやや長くなった髪だけが一ヶ月間の時間の経過を感じさせる。妹は席に着くと俺には視線を向けず目の前の皿を疑わしげに見つめ、そして「いただきます」と小さな声で言ってからフォークとスプーンを使ってスパゲティを巻きつけ始めた。それを口に運んで咀嚼すると、妹はわずかに眉をしかめ、口の動きを止めた。「どうかしたか?」と訊ねると、妹は口の中のものをゆっくりと飲み込んでから強い視線で俺を見つめ、「ちょっと固い」とクレームをつけた。「パスタの茹で加減、少し固くない? もうすこし軟らかめに茹でてくれたほうが、わたしは好きだな」
「そうか?」と肩をすくめて、俺は自分の皿のスパゲティを口に運んだ。それは固すぎもせず、軟らかすぎもしなかった。中心にわずかに芯が残り、小気味よい歯応えが感じられた。「分からないかな、これくらいがちょうどいいんだよ。アルデンテって言うだろう? これくらい歯応えがあったほうが、一番麺が美味しく食べられるんだ」
「わたしには固すぎる」妹は瞳にわずかに憎悪の光を宿して俺を見た。「アルデンテだろうがなんだろうが、これはわたしには固すぎるの。わたし以外の世界中の人たちがこれでいいと言ったとしても、わたしには固すぎるの。分かる? わたしは前にも言ったんだよ、わたしはパスタは少し柔らかめに茹でたほうが好きだって。でもきっとお兄ちゃんは憶えていないだろうね、そのときもお兄ちゃんはわたしの言うことをまともに受け取ろうとはしなかった。お兄ちゃんは他人の意見に耳を貸さない、自分の意見が一番正しいと思ってる。そしてそれをまわりに強いる。それってすごく問題のあることだと思わない?」
「一般的に言って、不登校のほうがより問題のあることだと思うけどな」と俺は皮肉を言った。
「不登校じゃない」と妹は素早く反駁した。「わたしは退学するの。もう学校には行かないと決めたの。学校に籍が残っているのは、わたしの責任じゃない。お兄ちゃんに任せたはずの手続きが、ただ滞っているというだけ。ねえ、いい加減退学の手続きを取ってよ。これ以上学費を払い続けるのは純粋な浪費にすぎないし、余るほどのお金がうちにあるわけでもないでしょ? だったら優柔不断にずるずる先延ばしにしないで、早く退学の処理を済ませてよ」
まくし立てるように言う妹に、俺はことさらゆっくりとした口調で訊ねた。「どうして学校をやめたいんだ? 何か具体的な理由があるのか?」
妹はしかめた顔でスパゲティをフォークに小さく巻きつけ、それを口に運んだ。いかにも不快そうな表情でそれを咀嚼し、ゆっくりと嚥下した。そして鋭い視線を俺に向け、静かな声で言った。「学校には意味がない」
「学校には意味がない」と俺は冷淡に復唱した。「そして、自分の部屋に引きこもることには意味がある? ずいぶん勝手な言い分のように俺には聞こえるな。じゃあ聞くけど、一体お前は部屋に引きこもって一日中何をして過ごしてるんだ? それは学校へ行くこと以上に意味があることなのか?」
「窓の向こうを見てる」と妹はリビングの窓の向こうをどこか夢見るように見つめながら言った。「窓の向こうに見える街と、空を見てる。雲を見てる。トラックを見てる。鳥の群れを見てる。雨を見てる。団地を見てる。いろいろなものを見てる。それでね、昔のことを思い出してる。昔の、とても楽しかったころのことを思い出してる。お母さんがまだ生きていて、みんながとてもうまくやっていたころのこと。幸せだった時代。無邪気だった時代」妹は目を閉じて言った。「そしてそれが終ってしまったことを考える。もう戻ってこないことを考える。でもね、そのことについてゆっくりと、じっくりと考えていると、それが失われてしまったタイミングはお母さんの死とは無関係だったってことに気付かされる。お母さんが死んだ時は、それはもう失われつつあった。もちろんお母さんがいなくなって、それが決定的な形になった、と言うことはある。でもね、それは遅かれ早かれ、避けられないことだったんだよ。お母さんが生きていたとしても、それはやっぱりいつかは終っていたんだ。静かに窓の向こうを見つめていて、わたしは初めてそれに気付いた。ああ、違うんだ。何もかもがうまくいなかくなったのは、お母さんがいなくなったせいじゃなかったんだって。分かる? お兄ちゃんは必死になってお母さんの代わりになろうとしていたみたいだけど、それは無意味だったんだよ、そんなことは全く必要なかった。お兄ちゃんはお兄ちゃんでいるべきだったし、本当はそれ以外にできることなんてなかった」
「親父が悪いんだ」と俺は言った。「母さんが死んで、親父は俺たちに関心を示さなくなった。ろくに家に居着かないで、外で何をしているかも分からない。そりゃ、家族もバラバラになるだろうよ。家族をまとめる立場の人間がそんな様子じゃ、バラバラにならないほうがおかしいんだ。親父は自分の責任というものについて全く考えもしていない。自分勝手なんだ。あいつが全て悪いんだ」
「仕方ないんだよ」と妹は今まで見たこともないような哀調を示して、そしてやや涙声でさえある声で言った。「お父さんは、本当にお母さんを愛していたんだ。お母さんが死んだのが悲しすぎて、わたしたちのことまで考えが回らないんだよ」
「愛していた」と俺は冷笑的に乾いた声で繰り返した。「どうだかな、俺はそんなふうには思えない。母さんが生きている時も、あいつはそんなふうに接してはいなかった。ここのところあいつが家に居着かないのだって、どうせ外にろくでもない女でもいるからだろうと思ってるよ。あいつの心に愛なんてものが存在するなんて、俺にはとても信じられないね」
「可哀想なお兄ちゃん」妹は、皮肉な調子の全くない声で言った。「それはきっと、お兄ちゃん自身が愛ということを知らないからだよ。だからお兄ちゃんは、お父さんがお母さんをどのくらい愛していたのか、そして今でもどんなに愛しているか、こんなに近くにいるのに感じ取ることができないんだ」そして言い終ると、妹は手にしていたフォークを皿に置いて、「ごちそうさま」と小さく言った。「お昼ご飯作ってくれてありがとう、でももうこれ以上は食べられない。残しちゃってゴメンね、もう部屋に戻る」
半分以上スパゲティが残った皿を後にして、妹は立ち上がりリビングを出た。
妹の残したスパゲティを生ゴミの袋に捨て、食器を洗い終えてから俺はベランダに出て煙草を吸った。そして柵にもたれてベランダの向こうの風景を見つめた。それは妹の部屋から見える風景とほぼ同じはずだ。離れた場所にある市街地がよく見渡せるが、その風景は静止しているように物静かで、眠たげだった。注意深く細部を見つめると、例えば道を行くトラックの動きなどが目に入る。しかし全体として大まかにその光景を眺めていると、風景画のようにそれは静止しているように見える。空に雲はなく、風もなく、鳥の鳴き声もなかった。都市そのものがシエスタを敢行しているようだ。
そんな風景を見ていると、確かに妹の言うように死んだ母親のことが思い出された。奇妙な疼きとともに、俺は母親の顔を頭に浮かべていた。不思議なことにそれは他人の顔のようによそよそしく思われた。例えば、友人の母親の顔というように。その感覚は俺にある種の焦燥感を与えた。思い出の中で母は父親と妹に対してとても睦まじかった。そしてその輪の中に俺の姿がなかった。仲の良い親子という印象の中に、俺の姿は見つからない。いがらっぽい煙のようなその考えを、俺は首を横に振って払おうとした。
母が死んだ日のことを、代わりに思い出した。なんの代わり映えもなく穏やかに晴れた日、高校で数学Bの授業を受けていると馴染みのない教師が唐突に教室にやってきて俺を呼び、生徒指導室という馴染みのない部屋で母が交通事故に遭い大怪我をした、という話を聞かせた。すぐにタクシーが呼ばれ、その教師とともに病院へ向かった。すでに妹も父親も到着しており、そして泣いていた。母はすでに死んでいた。同行した教師がお悔やみの言葉を言うのを、父はただ泣いているだけで全く無視していた。
通夜があり、葬式があった。父親は二日通して泣き続けていた。式の挨拶もろくにできず、嗚咽に紛れた不明瞭な言葉は参列者の悲しみをそそりはした。だが一方で、意気地なく泣き崩れているだけの父の姿を確かに冷笑的に眺めている人たちもいた。それを感じていたからこそ、俺自身は悲しみを心の奥底に押しやって、気丈に振舞うよう意識した。父に無視された参列者に代わりに礼を言い、目を腫らす妹を慰めた。母方の親戚に手伝ってもらいながらではいるが、葬儀屋とのやり取りもした。住職とも話し合った。金銭に関わる話さえした。供養の作法や今後の予定など、現実的な問題に関して俺はかなりの労力を割いた。そうすることで、母を失った悲しみを一時的にでも麻痺させられるから、という思いもあった。そしてそれは成功していたのかもしれない、火葬場で焼かれる直前の母親との最後の対面の場で狂ったように泣き喚く父親の姿を、俺は心底軽蔑した気持ちで眺めていた。
俺は父親のようには泣き崩れなかった。父親のようにはみっともなく泣き喚かなかった。でもそれは、そうしなかったのではなく、そうできなかったからなのだ。俺は父の代わりに現実的な問題に対処しなければならなかった。父の代わりに、気丈に振舞わねばならなかった。本心では父のように泣き崩れたかったかもしれない。あたり構わず泣き喚きたかったかもしれない。でもそれはできなかった。それは堪えなければならなかった。
母が火葬場で焼かれている間、待合室で静かに窓の向こうの風景を眺めている俺に、妹のつぶやいたひと言は俺の心に深く突き刺さった。「お兄ちゃんは、お母さんが死んでもあんまり悲しくなさそうだよね」机に突っ伏す妹は泣き疲れてひどくぐったりしていたから、俺はそれについて強く反駁することができなかった。そんなことないよ、と静かに笑ってつぶやくだけだった。
母が死んではっきりしたことがひとつある。父では家族を護れない、ということだ。
もともと父のことはあまり好きではなかった。あいまいでぐずぐずしたところがあり、そのくせ思い込みが烈しい父の性格は、俺にとって肌が合わなかった。実際的な問題に対する能力も欠如しているように思われた。そしてそれは母の死ではっきりと示された。父は困難な状況に立ち向かう意志がない。強大な悲しみに対して尻込みしてめそめそと泣くことしかこの男はできなかった。それでは家族を護れない。
では、誰がこの家族を護るというのだ? その問いに対して、俺は俺なりに答えてきたつもりだった。少なくとも父にできないことをやってきたはずだと思っている。そしてそれは成功しているように見えていた。一ヶ月前までは。
妹が学校へ行かなくなって、その思いは根本から覆された。俺自身の態度に何か間違いがあったのだろうか? どこかで致命的なミスを犯したのだろうか? この一ヶ月間何度もその問いを繰り返してきたが、答えは出ない。妹は何故、自分の部屋に閉じこもらなければならないのだろうか? 妹はその理由を仄めかしさえしない。手がかりもなく、俺は途方に暮れている。
そんなことを考えながら、俺は意識の片隅で目の前の風景の中にあるものの姿を認めていた。それは空に浮かぶ海老茶色の何かだった。それがどのくらいの距離にあって、どのくらいの大きさのものなのか、判断はつかない。とても遠い場所に浮かぶとても大きなものにも見えるし、ごく近くに浮かぶそれほど大きくないものにも見える。それは空中の一点に静止して動かない。そして時折それは薄くなる。夜の月が流れ行く雲にその姿をかすかに淡くさせられるように、それは背景の青い空に吸い込まれるようにときどき姿を薄くした。そしてすぐにまた、カメラのピントを合わせるようにそれは自分の姿を確かにさせた。空には雲ひとつ浮かんではいなかったが。
それは概ね球状と言って良かったが、複雑な模様あるいは突起に覆われているようにも見える。陽光の反射のせいでそう見えるだけなのかもしれないし、実際に表面が込み入った構造をしているのかもしれない。もしかしたら、全然球状ではないのかもしれない。いずれにせよ、それは全く見慣れぬ形をしていた。複数の昆虫を無理やりひとつの団子状に丸めたらあんな形になるかもしれない。あるいは、巨大な電磁石で都市のさまざまな建築物を無差別に引き寄せて合体させた形に近いのかもしれない。ともかくそんな正体不明の何かがこの地方都市の上空にひっそりと浮かんでいるのを、俺は何の感慨もなくぼんやりと見つめていた。頭の中では死んだ母親に関する思い出だけがひたすらオーバーラップしていたから、他の事について真剣に考える余地は残されていなかった。ただ視界に映るものを捉えていたに過ぎない。気付いていたが、気にしなかった。自分の関心のはるか埒外にそれはあった。
煙草の火を消し、その空に浮かぶ物体を見つめながら俺は何かについて思い出そうとしていた。遠い昔の記憶の中から何かがこちらに呼びかけているような気配を感じていた。でもそれが何なのかは全く分からない。つい先ほど、何かに喚起されてそれは蘇ろうとしていた。でも一体何が喚起したのかさえ分からない。舌の上にわずかに残る煙草の苦い余韻を感じながら、そんな捉えどころのない物思いに沈んでいた。時間が経つのも忘れて、俺は考え続けていた。
UFOの下部に小さなオレンジ色の光の球が生じた。それは少しずつ大きくなり、光を強めた。そしてそれが十分な大きさになったとき、線香花火の球が重みに耐え切れず落下するように、オレンジ色の光の球はUFOから離れ、ひどくゆっくりと落ちていった。そして高層ビルの林立する市街地の地表まで後わずかという瞬間に、それは楕円形の拡がりをもって凄まじい強さの光を放出した。そして、巨大な爆発が起こった。
何が起こっているのか、すぐに理解することはできなかった。
強烈なオレンジ色の光は俺の目を眩ませ、反射的にその場にかがみこんだ瞬間、くぐもっているのに巨大な爆発音が遠く聴こえた。次に光の放たれた方向から細かな砂礫の混じったひと塊の強風が押し寄せ、俺と背後の窓ガラスを烈しく叩いた。きつく目を閉じ、それに耐えた。風がやむと、続いて小さな揺れが建物を襲った。地震は小さかったが長く続いた。それがようやく収まっても、俺はすぐには立ち上がることができなかった。立ち上がろうとしても、膝が震えて思うようにはならなかった。ベランダの柵にしがみついて、腕の力を借りて何とか立ち上がり、眩んだ目を俺はゆっくりと見開いた。
黒く靄のかかったような不明瞭な視界の向こうに、空を飛ぶ何かの姿はすでになく、市街地のあたりからは黒煙が静かに立ち上がっていた。高層ビルのひとつが、ゆっくりと瓦解していくのが見えた。
膝が一層震えだすのを、俺は何とか押さえつけてリビングに戻った。転げ込むようにソファの上に身を預け、ゆっくりと深呼吸をしようと試みた。だが荒い呼吸を鎮めることは簡単にはできなかった。先ほど目にした崩落するビルの姿を思い浮かべると、湧き水のように新鮮な恐怖が湧いた。それは留まることを知らなかった。いつからか自分の奥歯が音を立てていることに、俺はようやく気付いた。恐怖が自分を支配していることを、俺は初めて意識した。
空に浮かんでいたものの奇妙さを、俺ははっきりと意識し始めていた。それがあの巨大な爆発を生んだことも理解できた。そしてそれが、あえて陳腐さと滑稽さのこもるお馴染みの言葉で呼ぶとすれば、いわゆるUFOであるということも理解できた。つまり、と俺は頭の中で今起こった出来事をできる限りシンプルに表現しようと試みた。つまり、UFOが俺たちの住む街を爆撃したのだ。
落ち着こう、と俺は繰り返し自分自身に言い聞かせた。そうしないことには、一歩も前へ進むことができない。落ち着こう。落ち着こう。落ち着こう。まだいくらか震える膝を押さえつけ、俺はキッチンへ行きミネラル・ウォーターのペットボトルを一気に喉に流し込んだ。それは冷たく、甘かった。麻痺の感覚に縛られた頭に心地よく染み込んで、少しだけ恐怖を取り除いた。飲み切ってから大きく息をつき、もう一度グラスに水を注いで、今度はゆっくりと喉を鳴らせて飲んだ。その後で、ゆっくりと深呼吸をする。後ろを振り向いて窓の向こうの景色を確認した。黒煙はますます勢いを増して立ち昇っていた。先ほどまでUFOが浮かんでいたあたりを越えている。耳を澄ませば、夥しい数の救急車や消防車のサイレンの音が遠くから聴こえる。
俺はテーブルの上のリモコンを手にとって、テレビをつけた。そしてソファに腰をおろした。ゆっくりと浮かび上がるテレビの画面は、窓の向こうの非現実的な光景に関わらず、気だるい昼のニュース・ショーを映し出している。若手俳優と人気の女性ミュージシャンが都内のイタリアン・レストランで睦まじく食事をし、手を繋いで店を出たところが目撃されたと、アナウンサーはいかにも重要で興味深い出来事であるかのように精力的に話している。カメラはそれに対しいかにも分別ありげに反応してみせるコメンテーターの列を映す。その中のひとりが二言三言コメントを挟む、それに対しても、残りのコメンテーターたちは鶏のように分別ありげな様子でうなずいてみせるのだ。
チャンネルを次々に替えてみる。サスペンスドラマ、韓国ドラマ、料理番組、トーク・ショー、サスペンスドラマ……。そこに期待する情報は何ひとつなく、惰性的な日常生活が展開されていた。この未曾有の爆撃を伝える報道局はまだなかった。それを伝えるにはまだ時間が短すぎるのだと理解はしていたが、このズレに対する腹立たしさは紛らすことができなかった。今は一刻も早く情報が欲しかった。自分が目にしたあまりにも奇異な出来事は、果たしてどこまでが事実でいるのかを知りたかった。「爆発」という疑いの余地のない事実に対し、「UFOによる」という俺自身の主観的な認識が本当に正しいのか、どこまで修正されうるかを、何としても知りたかった。
テレビのチャンネルをNHK総合に合わせ、何らかの情報がもたらされるのを待つことにした。NHKは各地の温泉地のレポートを放送していた。画面上部にテロップが現れるのを、俺は静かに待っていた。
別の部屋のドアが開く音が聞こえ、閉じられる音は聞こえなかった。振り向くと妹が立っていた。白くこわばった顔をしていた。薄く開いた唇が、かすかに震えている。妹の部屋は南向きの窓がある。だから爆撃の主はともかく、市街地の壊滅的な様子は目にしているはずだ。「大丈夫だ」と俺は何の根拠もなく、しかし自信ありげなふうを装って言った。妹の表情は変わらなかった。「大丈夫だ」と俺はもう一度つぶやいた。その瞬間、ニュース速報を伝えるおなじみのアラームが鳴り、俺は素早く視線をテレビ画面上部に戻した。
「NHKニュース速報
××市市街地で爆発、けが人が出ている模様。爆発の原因は不明」
民法のニュース・ショーにチャンネルを戻したが、テロップ以上の情報は得られなかった。画面上部に同じ内容のテロップが現れ、ニュース・キャスターが「××市の市街地で爆発騒ぎがあり、けが人が出ているとの情報がありました。詳しい状況はまだ分かっておりません。新しい情報が入り次第、お伝えします」と簡潔に言葉を挟んでから、番組自体は芸能ニュースを続けた。
俺はキッチンへ行き紅茶を淹れ、妹にも勧めた。妹はソファに深く腰を沈め、静かにテレビを見つめていた。差し出されたカップを、黙って受け取った。その指先は震えていた。妹はリビングに来てからひと言も口を開かない。それに俺も、妹にかけるべき言葉を見つけられないでいた。
俺たちはソファに座り、同じテレビ画面を見つめ、静かに紅茶を飲んでいた。もちろん団欒と呼べるものであるはずもないが、しかしこうして妹と並んで同じ時間を共有することに、懐かしい穏やかさを感じないわけにはいかなかった。窓の向こうに立ち昇る黒煙は、今や上空に拡がり始め太陽の光を覆い隠そうとしていた。部屋の外は怯えた、叫び声にも似た話し声やサイレンの音でひしめいていた。ヘリコプターが何機も飛行していた。そのような外の世界からは隔絶されて、この部屋は静謐さに満ち目の前のテレビも気ままな日常を続けていた。妹がテレビに向かっているのも、そんな何気ない芸能ニュースを見るためではないか、とさえ感じてしまう。この部屋だけは日常生活を取り戻したのだ、と。もちろんそれは無邪気な錯覚でしかない。妹はそんな幻想を消し去るように初めて口を開いた。
「爆発があって少ししてから、お父さんの携帯に電話したんだけど、繋がらなかった。何度かけても繋がらなかったんだ」
「回線が込み合っているんだろう」震える声で話す妹の不安を打ち消すように俺は即座に言った。「きっとみんなが一斉に電話をかけたから、回線がパンクしたんだ」
「あの爆発は、市役所のあたりだった」妹は俺の言葉にはまるで耳を貸さず、慄然とした調子を一層強めて言った。「お父さんは、あの爆発に巻き込まれているかもしれない。もう死んじゃってるのかもしれない」そして言い終えると顔を覆って泣いた。俺は妹の隣に席を移し、小刻みに揺れるその肩を抱いた。何か言葉をかけたかったが、何を言えばいいのか分からなかった。何をしたらいいのか分からなかった。
窓の向こうにそれがあるのを俺は認めた。そのとき妹の嗚咽はもうやんでいたが、妹は顔を覆ったままで、俺はその肩をまだ抱いていた。俺はその力をわずかに強めた。窓の向こうに浮かぶ海老茶色の物体は先ほどのように静止してはおらず、緩やかな速度で旋回していた。そしてそれは一台だけではなかった。まったく同じ形をした物体が、他にも目に付いた。それは全部で四台あった。それらはそれぞれに気ままな旋回をしていた。統率性はなく、速度もコースもバラバラだった。その存在に対し、上空を飛行している何機ものヘリコプターたちは半ば当惑したような動きをしていた。明らかにその存在に気づいていた、そして近づくべきか、離れるべきか、その判断を下せずあいまいな飛行を続けていた。
思い思いの動きをしていた海老茶色のUFOたちが、同時にぴたりと静止した。そしてその五秒後、UFOたちは先ほどまでの緩慢な動きではない、等しく驚異的なスピードで飛んだ。そしてその針路にはヘリコプターがあった。UFOたちは次々にヘリコプターに体当たりをし、それらを粉々に破壊した。ほとんど残骸も残さないくらいの細かさでヘリコプターの破片は四散した。その音を聞き顔を上げようとする妹を、俺は力ずくで押さえつけた。「見なくていい」抵抗する妹に俺は言った。「見なくていいんだ」
「離してよ!」と妹は叫んだ。「離してよ、何が起こっているか、私にもちゃんと見せてよ!!」
UFOは目に付く限り全てのヘリコプターを撃墜させ終えた。そしてまた緩やかな速度に戻り、気ままな飛行を始めた。だがしばらくしてUFOたちはそれぞれのポジションを定め、その一点に静止した。そして同じタイミングで、UFOたちの下部に先ほどと同じオレンジ色の球が出現した。それは次第に大きくなり、やがて自重に耐え切れなくなったかのように、落下した。爆発する直前に俺は目を閉じ顔を伏せた。巨大な爆発音が聞こえ、それが巻き起こす風が窓ガラスを鳴らせた。地面が揺れた。爆発地点が四箇所あり、そしておそらく最初の爆発よりも近い位置で爆発があったため、音も風も揺れも全てがより大きく襲い掛かった。窓ガラスにはひびが入り、揺れのせいで本棚が倒れた。送電網が破壊されたらしく、テレビが切れた。気ままな芸能情報はそこでぷっつりと消えた。
恐る恐る顔を上げ、窓の向こうを見る。UFOの姿はすでにない。爆撃のあった地点は、壊滅的なダメージを受け炎に包まれている。中心部分は建物の痕跡すらなく、醜く地面がえぐれている。そこから放射状に建物は倒れ、アスファルトの道路はめくれあがっていた。
妹は再び顔を覆って泣いていた。俺はもう押さえつける腕を離していたが、起き上がる意志は妹にはなかった。どうしたらいいんだ? と俺は思った。俺はいったいどうしたらいいんだ? 遠くから聞こえるサイレンの音は、いつの間にか弱くなっていた。不安げな叫び声も、もうすっかり聞こえなくなっていた。
妹は立ち上がり走り去るようにリビングを出て、自分の部屋に戻った。俺もソファから立ち上がり、どこかにあったはずのラジオを探し始めた。小型のラジオがリビングのどこかにしまってあったのを思い出したのだが、しかし具体的にどこにあるかまでは思い出せず、見つけ出せないでいた。しばらくすると、妹が再びリビングに顔を見せた。
妹はジーンズをはきTシャツを着ていた。髪を後ろで束ね、右の肩でリュックサックを抱えていた。そして部屋に入ると俺には一瞥もくれず棚を開け、薬箱から包帯やら消毒液やらを取り出して無造作にカバンに詰めた。その動作は敢然として揺るぎなかった。
「何をしている?」俺は震える声で妹に問うた。「お前はいったい、何をしている?」
「助けに行くの」
きっぱりと言う妹の声は奇妙なまでに落ち着いていた。そこには不自然なくらい怯えの色が消されていた。
「お父さんを助けに行くの」
「やめろ」と俺は恐怖に駆られてつぶやいた。「馬鹿な真似はやめろ」
妹は静かに俺を見つめた。その視線はドーナツみたいに中心を欠いていた。そしてその表情は、白紙のように内容がなかった。俺はたじろぎながらも、思い留まらせるように妹に言った。「お前があそこに行ったところで、何ができるっていうんだ? そんな家庭用の治療道具で何とかなる事態じゃないだろ。お前が行ったところで、邪魔になるだけだ。それにまた爆撃が繰り返されるかもしれない。そんなところへ行って、何の役に立つって言うんだ?」
「お父さんを助けに行くの」と妹は同じ言葉を繰り返した。「行かなきゃならないの」
「どうして?」
妹は静かにため息をついて、そして中心を取り戻した強い視線で俺を見つめてまるで非難するかのような口調で言った。「私はお兄ちゃんとは違うの。お兄ちゃんにはきっと何を言っても分からない。お兄ちゃんは私たちとは違うんだ。お母さんが死んだときも、お兄ちゃんは一番最後に病院に来た」
「それが何か関係あるのか!?」と俺は怒鳴った。妹はそれに取り合わず、リュックを背負って部屋を出ようとした。「待てよ!」と俺はその背中に叫んだ。「お前は知っているのか? あの爆撃を行った奴らのことを? この街で何が起こっているのか、お前は本当に分かっているのか?」
妹は何も答えず部屋を出た。玄関のドアが開き、そして閉まった。俺はテーブルの上の紅茶のカップを壁にぶつけた。妹のカップも割った。「あいつはもう死んでるよ!」と玄関のドアに向けて怒鳴った。「もう死んじまってるよ!」
俺はソファに腰を沈め、声を張り上げて泣いた。温かい涙が止め処なく流れ落ちた。そして俺は、いつまで経っても立ち上がることができなかった。
次回更新は6/20(月)を予定




