透明少女と空の青
信号機が黒から白に変わって、止まっていた人の波が一斉に流れ始めた。その流れに置いて行かれないように身を任せ…僕はふと、横断歩道の真ん中で立ち止まった。せき止められた人の波が、背中にぶつかりながら左右に分かれていく。その勢いに押し流されないよう軽く足を踏ん張りながら、僕は空を見上げた。
目の前に広がる、どんよりと曇った灰色の空。相変わらず僕の住むこの世界には、色がない。
黒い木々が揺れるモノクロの公園を、宛てもなくぶらぶら歩いて行く。すれ違う人々の楽しそうな白い笑顔を、暗い無表情で見送った。僕はちゃんと、平気な振りは出来てるだろうか。もしかしたら彼らを羨む気持ちが、顔に出ていなかっただろうか。そんなことを気にしながら、僕は公園の真ん中にある真っ白な噴水にたどり着いた。
そこで僕は見た。
初めての「色」を。
生まれてこの方、僕には色が見えなかった。
実はそれは僕の中だけで、周りはみんな「青」だとか「赤」だとか、鮮やかな「色」を見ているのだと知ったのは物心ついてからだった。それからというもの僕は、周りのみんなが羨ましくてしょうがなかった。秀ちゃんがお気に入りの「灰色」のパーカーを着て走り回り、美希ちゃんが「灰色」のリボンで嬉しそうに髪を結うのを、僕は教室の片隅でじっと見ていた。
本当は何色なんだろう?
僕の目には全部白か黒、あるいはそれを混ぜ合わせた「灰色」しか映らない。どこを見渡してもなんだか味気ない、霧がかかったようなぼんやりとした世界だ。きっと僕が普段から伏し目がちで、みんなのように楽しそうじゃないのは、色がない所為なんだ。そう思っていた。
そんな僕が初めて出会った「色」は、今だって瞳を閉じればすぐ瞼の裏に現れてくれる。
真っ白な噴水の前のベンチで、淡い藍色のワンピースを羽織って本を読んでいる同い年くらいの女の子。柔らかな微笑みを浮かべる彼女のことを、僕は一生、忘れられることはないだろう。白黒だった僕の世界に飛び込んできた初めての「色」に、一目で胸を鷲掴みにされた。頭をバットで殴られたかのようにフラフラになりながら、何も考えられないまま僕は彼女に歩みよった。
「あの…」
顔面「黒白」の僕が声を振り絞ると、彼女は目を丸くして本から顔を上げた。その柔らかな肌色に、思わず目を奪われる。風に流される長い髪は、太陽を反射して白く光って見えた。透き通るような瞳の中の黒でさえ、今まで僕が見てきたどんな黒より美しかった。僕は息を飲んだ。
それから、しどろもどろになった僕の説明を、彼女は根気よく最後まで聞いてくれた。僕の世界は今まで、白黒だったこと。その世界で初めて、君の「色」を見つけることができたこと。
「君、名前は…?」
「…沙彩」
何だか気恥ずかしそうな表情を浮かべ、彼女は僕に名前を告げた。それ以来僕は毎日モノクロの公園の、真っ白なベンチの前へと通い始めた。毎日のように変わる彼女の服を見るのが、僕の楽しみになっていた。白と黒が覆う僕の世界で、彼女だけが淡い光のような色を灯して見えた。
「ねえ、空の色は本当は何色なの?」
「空は…あなたは何色に見えてるの?」
「灰色」
「そう…」
数ヶ月も経つと、僕らは自然と手を繋ぐようになっていた。真っ白な噴水の前で温かな体に寄り添いながら、僕は毎日しつこく彼女を質問攻めにした。単純に、知らない色を知るのが楽しかった。公園に広がる草原の緑、掃除中のおばさんの頭の上の紫、クマの黄色、モップの赤…自分の着ている服や、持っている本を指差しながら、彼女は一つ一つ丁寧に僕に色を説明してくれた。
僕が驚いて目を丸くするたび、嬉しそうに微笑む彼女の横顔が大好きだった。教えてもらった色で、僕の世界は想像の中でどんどん鮮やかに輝いていった。
「蒼太くんはなんだか、空みたい」
時々彼女は、僕のことをそう表現した。真っ白なベンチから、僕は彼女の横で空を見上げた。いいお天気だ。空が一体何色で、何処らへんが僕みたいなのか、灰色に映る僕の目には分からなかった。
「いつか離ればなれになっても、私のこと忘れないでね」
「離ればなれになんかならないよ」
僕は笑ったけれど、彼女は笑っていなかった。今思えばその時から、彼女は自分の最期を悟っていたのかもしれない。やがて、会うたびに沙彩の色が薄くなっていくことを、だんだんと僕も認めざるをえなかった。
そして、その日は突然やってきた。
空が黒く染まり、色のない雨が降る日の午後、彼女は唐突に僕の前から姿を消した。
ぽっかりと空いたベンチを見つめ、僕は思わず傘を取り落とした。
「ここでいつも本を読んでいる、女の子を見ませんでしたか?」
噴水の前で、僕は近くで掃除していた紫のおばさんに訊ねた。
「女の子?ああ、そこにあった銅像なら、古くなったから昨日撤去されたよ」
おばさんは眉をひそめた。僕は逃げるようにモノクロの公園を抜けだした。
彼女の色がもう一度見たい。
色のない世界に逆戻りした僕は、それから何日も街を走り回って彼女の色を探した。世界中何処にいたって、探し出せる自信があった。白と黒だけのこの世界で、彼女だけが色づいて見えるのだ。街の何処かに、色が落ちていないか。何日も何日も、僕は灰色の靴をすり減らした。
だけど結局、何処を眺めても街は白黒だった。彼女の姿は、光輝く彩りと一緒に僕の世界から消えてしまった。ある日街の端の白い丘の上で、疲れ果てた僕はとうとうその場で大の字になってへたり込んだ。
その時だった。
僕の目の前に、初めて見上げる空の「色」が待っていた。
僕は目を丸くした。
息も絶え絶えになっていたけれど、それでも目だけはずっと空から離せなかった。そうか、これが空の「色」だったんだ。しばらく僕は、食い入るように空を見上げ続けた。あのベンチで彼女を初めて見た時のように、白黒の僕の世界に大きな色が広がっている。やがて僕の目の前で、空は色を変えていった。僕は息を飲んだ。空は、色を変えるんだと知った。さっきのは彼女がよく着ていた水色で、今は橙色になっている。
彼女はきっと、空に昇っていったのだ。初めて色のついた空を見上げていると、不思議とそう思えてならなかった。僕の目に映る白黒以外の色は、ずっと彼女だけだった。…道理で見つからないはずだ。
やがて空が深い蒼に染まり、また東の方から白に彩られていく頃、ようやく僕は立ち上がった。白と黒と、空の色だけになった…彼女のいない世界に戻っていく。気がつくと、僕は泣いていた。零れる涙が一体何色なのか、僕には分からずじまいだった。
…向こう側で歩行者信号が白と黒に点滅し始めて、僕は慌てて横断歩道を渡り終えた。
彼女がいなくなってから、相変わらずこの世界には色がない。
だからこんな天気の日には、僕はふと黒と白の間に立ち止まっては空を見上げる。ひょっとしたら、雲の切れ間から「洋服の青」が顔を見せたりしないだろうか…そんなことを想いながら。