励まし
畑にしゃがみ込んで小さな雑草を引き抜きながら日差しに照らされていると玄関の方から呼ぶ声がしたので顔を上げてアリウムは瞳を細めた。
「アム、そろそろ休憩してご飯にしたらどう?」
長い栗色の髪を後ろで三つ編みにして下ろしている母ルテアは白いスカーフを巻いている。
刺繍や縫い物が好きなルテアが身に着けているのは全て自作のもので、白いスカーフにも紫色や緑の糸で丁寧に草花が縫い取られていた。
その特技を生かして兄と義姉の間に生まれた子供の誕生日ごとに、その小さな身体にあうようにと手作りされた洋服や小物を贈っているが未だにその顔を見たことがないのだから内心は複雑だろう。
だが母はそれでも丁寧に思いを籠めて彼女の健やかな成長を願って針を動かすのだ。
いつか会わせてあげられる時が来ればいいなと姪っ子のお転婆ぶりを思い出しながら頷いて立ち上がる。
「あなたが来てくれて助かるわ。畑仕事に薪割り、水汲みや家畜の世話を全部ひとりでするにはもう若くないから」
ルテアは年齢のことを口にするがアリウムの目から見てもまだ悲観するような年では無いことは明らかだった。
微笑むと目尻に皺が寄るが肌の肌理は細かく染みも少ない。
小さな顔に配置されている目や鼻や口は女性らしく、愛らしさを残している。
ただ身体つきは華奢で男好きのする肉体ではないが、どこか庇護欲をそそられるようなところがあった。
おとなしく受け身の性格で少々陰気な雰囲気に見られがちだが、思い込んだら突っ走ってしまう危うさも持ち合わせていた。
だからひとりの女性しか愛せない竜族である父を振り回し、妻帯者であるにもかかわらず道を踏み外させてしまった――。
父とその妻である女性に心底申し訳ないと思いながら育ち、母違いの兄や周りの竜族に嫌われまいと明るく振る舞うことで本当の自分を隠して過ごした日々を辛かったと口にすることはできない。
過ちの中で生まれてしまったアリウムは竜族であることに誇りを持ちながらも自信がなく、元凶となった母を憎めずにいた。
「そんなに大変なら、生活を共に暮らしてくれるような好い人を見つけたら?」
「いやなことをいう子ね……。私みたいな面倒な女と一緒に暮らしてくれるような奇特な人がいるわけがないでしょ。冗談いってないで早くこっちいらっしゃい」
アリウムと同じ色をした瞳を半眼にして睨むと雑に手招きをしてさっさと角を曲がって小屋の向こうへと消えていく。
「いてて……腰固まっちゃってるなー……」
ゆっくりと立ち上がり同じ姿勢のまま長時間いたせいで痛む腰を撫でて和らげると、アリウムは母の姿を追って畑から出る。
額の汗を拭いながら小屋の正面に回ると薪を割るための切り株と、その上に置かれた小型の斧があった。
午前中はエリスに会えない不安や焦りを薪に向けていたので、小屋の右壁にある薪置き場には大量の成果が積み上げられている。
暫くはルテアが薪割りをしなくてもいいくらいだ。
開けっ放しになったままの扉から野菜の煮込まれる良い匂いが漂って来て腹が音を立てて空腹を訴えた。
見上げれば枝葉が覆い、見渡せば木々の幹がどこまでも続いている。
人気も人通りも無い森の中に女がたったひとりで住むには不用心すぎた。
獣の中には人を襲うものがいるし、村から外れた場所にある小屋を野盗が見逃してくれるとも思えない。
幽鬼や急な病、怪我や災害などでなにかあった時に独り暮らしでは対処ができないことも解っている。
一緒に暮らしてくれる、支えてくれるような人を求めることはなにも悪いことでは無いのだが、ルテアはそれを承諾できないのだろう。
他人の男を寝取ったことがある女だという自覚があるから。
幸せになることを許せないのだ。
ではその子供であるアリウムには罪は無いのか?
常に胸の中にある疑問であり、伴侶を探す旅をしながらそんな自分が幸せになっても良いのかと自問自答を繰り返している。
それでも己の中に流れる血や魂が子孫を残せと叫び、本能に抗えずに人族の女性を乞い求めるのだから矛盾していると思う。
幸せになりたいと誰もが思い、そしてこの女性を幸せにしたいと願うのは竜族だけではないはずだ。
それだけではだめなのだろうか?
思い出すのはたった一度見たきりの笑顔では無く、思いつめたような表情をした横顔ばかり。
きゅっと引き結ばれた唇、緊張した頬、悲観しながらも諦めを知らない茶色の瞳。
無駄を嫌うかのようにきびきびと動くしなやか肢体や、染め物の作業で痛み着色した掌や指先がちらちらとアリウムの目の裏に揺らめく。
怪しく、誘うように。
「アリウム?冷めちゃうわよ?」
入口で立ち竦んでいる息子を怪訝そうに眺めながら母は食器を並べ終える。
四人がけのテーブルいっぱいに用意された食事は温かな湯気をあげて見るからに旨そうだ。
「……うん」
肉体労働で腹が減った胃が早く食べ物をよこせと訴えるが、アリウムが心の底から欲しているのは食欲を満たすことでは無く、遠く離れた町にいるエリスの笑顔や想いだった。
それでも食べることで愛しい女性への渇望がほんの少しは和らぐことを知っているので足を動かして小屋へと入る。
ジリジリと焦がしていた太陽の陽射しが無い部屋はカラリとしていて涼しかった。
「いいから早く食べなさい。沢山食べて体に力をつけないと争奪戦に負けちゃうわよ」
「……相手が人族じゃ、力をつけても意味ないけど。でも、いただきます」
命を頂くことに感謝してからアリウムは木匙を持ち上げて野菜がゴロゴロ入ったスープを口に運ぶ。
テーブルには他にシフの粉を捏ねて作られた硬めのパン、二日前にアリウムが狩ったイノシシの肉を香草で蒸し焼きにしたものや川魚の塩焼き、今朝採った縁がレース状になった柔らかな葉のカランを清水に晒して赤い実のトミュと和えたサラダ、ジャリングと卵を炒めトミュのソースをかけた料理の他に、淡いピンクの皮に包まれた拳大の丸いキュウの果実が乗っていた。
これだけの料理が食卓に上がるのは特別な日ぐらいなのに、ルテアはアリウムが来た日からずっと手を抜かず大盤振る舞いをしてくれる。
久しぶりの息子の帰省を喜んでくれているのだろうが、きっと誰かと共に食事をできることがなによりもルテアの心を奮起させているのだと思う。
たったひとりで囲む食卓の寂しさは口にするのも虚しくなる。
里ではアリウムも小さいながら一軒の家を与えられ独り暮らしをしているから母の気持ちはよく解った。
伴侶探しを空振りで終えて家へと戻った時にそれは一番顕著に表れる。
黒竜は闇を見通す目を持つので暗闇など今までなんとも思わなかったが、誰もいない家の扉を開けて暗く沈んでいる部屋に入ると理由も無く恐怖に襲われるのだ。
しんとした静けさが身も心も凍りつかせガタガタと震え上がる。
それを鎮めようと必死で寝台に潜り込み膝を抱えて丸まっても、時が経つほどに強まるばかりで安息が訪れることなどないのだと絶望に打ちひしがれるばかり。
こんな孤独に耐えられるとは到底思えず、次の旅で運命の女性を見つけようと心に決めて里から逃げるようにグリュライトへ向かうのだ。
きっと多くの竜族がそうなのだろう。
恐怖と危機感と孤独が背を押して連れ添ってくれる伴侶を探し求めるのだ。
「珍しく弱気ね」
苦笑いを浮かべて正面に座るルテアが息子を気遣うように見つめてくる。
“珍しく”というがアリウムの中には卑屈な部分が少なからずあるのを自分では解っているのでその言葉は正しくは無いが、それを面に出さないようにと努めて生きてきたので母であるルテアでも気付いていないのかもしれない。
「俺はいつだって、自信なんかないよ」
そう返すとルテアは眉を下げて笑い「そんな所は似なくてもよかったのに」と呟いた。
「きっと私に似たのね。肝心な所で自信が持てなくなるなんて……でも、あなたのお父さんもタバサさんのことに関しては不安そうだったり、彼女の愛を失うことを恐れていたから竜族ってそういう性質なのかもしれない」
だ
タバサとは父の伴侶の名だ。
父と母は婚姻を結んでいないので、夫婦では無い。
元々父はタバサ以外を妻とするつもりは全く無く、別れることなど微塵も考えてもいなかったが、彼女はアリウムを産むために里へとやってきたルテアにその座を勝手に渡し他の黒竜の力を借りて故郷のセロ村へと兄共々出て行った。
別居生活は十三年にも及び、父の苦悩や孤独を知らない程アリウムは愚かでは無い。
一時の寂しさを紛らせるために懇願して一夜の関係を持った竜族との間に子ができるとは思っていなかったルテアは胎に宿った子供をどうするか相当迷ったという。
その頃には当然父は竜族の国へと戻り黒竜の里で愛するタバサや兄と平穏に暮らしていたし、父もまた子ができているなどと想像もしていなかった。
堕胎するにも産むにも人族の身体には負担が大きすぎる。
悩んでいる内に胎にいたアリウムは成長し、産むしか方法が無くなってしまったルテアは村長に頼み込み竜族を呼ぶ儀式を執り行ってもらい父との再会を果たしたのだ。
母には父とタバサの間を裂こうなどという思考はこれっぽっちもなく、竜族の子を人族の世界で産むための知識が無かったから仕方がなく安全に子を産むための方策として里へと行っただけ。
その後もただひたすらアリウムの成長を見届けるためにルテアは傍らにいてくれた。
そんな日々を過ごす中僅か五歳で里を出なければならなかったタバサの子に対する罪悪感に苛まれ、己の罪の重さに後悔して苦しんでいる姿を何度も見てきたアリウムにはやはり母を憎むことも責めることもできない。
竜族と伴侶の尊厳と愛を踏み躙り、妻であるタバサが出て行かざるを得なくなった状況を作り上げたルテアを黒竜たちは冷たい態度で接し決して赦そうとはしなかったし、竜族の伴侶として一大決心をして嫁いできた女たちはあからさまに母を嫌悪し仲間として受け入れようとしなかった。
ルテアはずっと孤独だったのだ。
十三年間。
それでもじっと耐え、アリウムに惜しみない愛情を与えてくれた強い母であることは自慢に思っても良いだろう。
「どうして自信が持てないのかしら……。私がいうのもあれだけどアムはどの竜族よりも素敵だし、笑顔も可愛いのに。誰とでもすぐに仲良くなれるのがあなたの自慢でしょ?」
何故と問われても得意の愛想の良さを用いてもエリスには通用しないからだ。
勿論今までの伴侶探しの中で通いつめ仲を縮めていい所まで行ったこともあるが、殆どが「あなたのことは好きだけど、育った町や両親や友達と離れて暮らすなんて考えられない」と断られてきた。
全てを捨てて竜族の国へと共に来てくれる女性など本当に少ないのだ。
それこそ真実の愛でなければ無理だろう。
「……それだけ俺に魅力がないってことだと思う」
アリウムの他にはなにもいらないなんて思わせられるほど懐は大きくない。
まだ。
それでも思いは募る。
エリスは今頃どうしているだろうか?
治療師の男が彼女の気を惹こうと必死に行動しているだろう時にアリウムは母の手料理を暢気に食べているのだ。
待っていてくれているのを期待するのは浅はかで愚かなことだろうか。
もし待っていてくれていたらエリスが自分のことを少しは好意を抱いてくれていると思うことができるのに……。
「でも、結局はまた最後の最後で家族や友人を捨てて一緒に行けないっていわれるのかもしれない。それが、堪らなく恐いんだ」
今までの女性たちの拒絶よりもきっとアリウムを打ちのめすだろうエリスからの拒否は想像するだけで息が止まりそうだ。
「アリウム、なにが恐いの?」
「なにがって、だから拒まれるのが――」
「馬鹿じゃないの?」
「ばっ、ばかって」
あんまりな言葉にアリウムは驚き目を丸くして母を眺める。
息子が悶々と悩んでいる内に食事を終えてしまったルテアはデザートであるキュウの皮を向き白く瑞々しい果肉に齧りつく。
途端に甘い匂いが漂いアリウムの食欲を目覚めさせる。
腹がグウッと鳴ったのを合図に必死で止まっていた手を動かして料理を頬張った。
母の暴言は今しばらく忘れて心が満たされないのならばせめて腹を満たそうと努力する。
そもそも竜族の食欲は尋常ではない。
見た目は人族に変わらぬ形状をしているが、本性は竜である。
獣たる部分が絶えず血肉を渇望し、その膨大な力と高く豊富な運動能力を保持するには体外からの栄養の摂取がなによりも必要なのだ。
里にある土地に満ちている力を吸い取るだけでは身体を維持するのは難しいから。
無心で口と手を動かしていたらあっという間にテーブルの上の料理は残らず平らげてしまい、キュウの汁でべとべとになった指を舐めているとルテアが満足そうな顔をして食器を片づけ始めた。
そしてその手を止めぬまま言葉を紡ぐ。
「拒まれることよりも一生誰にも愛されないことの方が遥かに恐いわ。そして誰も愛せないことも」
あなたは違うでしょ?と微笑んでルテアは真っ直ぐに視線を注いでくる。
「私は竜族の国で唯一誰からも愛されない存在だったから解るの。愛される女たちの幸せに満ちた顔、そして竜族が無二の存在である伴侶を深く愛する姿を近くで見てきてつくづく思い知らされたわ。道を間違った余りに私は手に入れることができなかった真の愛がどれほどかけがえのないものだったのか。浅慮だったせいでタバサさんとあなたのお父さんを不幸にした。本当に自分が嫌になる。でもね、私はアリウムを産んだことを後悔してはいない」
「……母さん」
「私の人生の中でたったひとつ誇れることがあるとしたらアリウムを産むことができたことなの。あなたのお父さんはこんな私にも親切にしてくれたし、優しくしてくれたわ。あなたを我が子として慈しんでもくれた。竜族は愛情深い種族よ。だから人族からも竜族からも愛されなかった私の分まであなたの大切な女性を愛して欲しい。アムならできるはず」
アリウムの幸せが私の幸せなのよと重ねた皿を抱えて席を立つ母の顔には悲愴さは全く無い。
ただ穏やかな水色の瞳に息子の姿を映して心から我が子の幸福を望んでくれていた。
「たった一度断られたくらいで諦めることができるならそれだけの気持ちしかないってことよ。本当に好きなら何度でも繰り返し伝えなさい。あなたの気持ちが彼女に届くまで。きっと大丈夫だから」
「――――うん」
思ってもみなかった母からの励ましにアリウムの胸が熱くなる。
愛情に溢れた竜族と伴侶たちの仲睦ましい姿を十三年も間近で見てきたルテアの方がきっと誰よりも愛に飢えているはずだ。
それでも己の罪を理解し孤独を受け入れて生きていくと決めている母を幸せにできるのはアリウムが本当に愛する女性と添い遂げる姿を見せることだけなのだと思うと責任重大な気がした。
誰もが幸せになりたいと願い、独りは寂しいと思うのに。
「母さん、俺頑張るよ」
何度でも諦めずに。
この想いが届くと信じて。