落ち込む
兄と入れ替わりで黒竜の里を出て、一年近くを過ごした懐かしいセロ村から少し外れた森へと降り立ちアリウムは大きく息を吸い込んだ。
エリスたちが住む町とは違いこの村は緑が深く、木々も生い茂っていて空気が美味しい。
水も豊かな上に大地がもたらす恵みも豊富で村ながらそこそこ良い暮らしをしていると思えるのは、成体になって里へと戻り伴侶を探してグリュライト中を旅して回っているからだ。
いつもならば母の住む山小屋のある森の近くへと降りるのだが、今日用があるのは母であるルテアにではない。
「都合よく、畑にいてくれればいいけど……」
セロ村の薬草師であるグリッドは村外れの森の中に作っている薬草畑で過ごすことが多い。
もっともそれだけが仕事では無いので、同じく薬草師である父クラップと薬を調合するのに忙しい時は畑に顔出す暇が無い場合もあった。
ここで会えなかったら村長のバダムに滞在の申請をして許可が出てからになるので少々面倒臭い。
それでも母が住むこの村を訪れる際には便宜が図られることが多く、大概は直ぐに許可を出してくれるので他の竜族のように二、三日も待たされることは無いのでまだ良い方だ。
兄の親友でもあるグリッドは村にやってきたアリウムを喜んで迎え、まるで昔から知っていた友人のように接してくれた。
そのせいか悩みや相談がしやすく、グリッドがいるこの薬草畑へとしょっちゅうやって来ていたことを懐かしく思い出す。
「グリッド!」
記憶に違わぬ姿を見えてきた畑の中で見つけて思わず声を弾ませる。
名を呼ばれた男は長く伸びた栗色の前髪を左手で払いながら顔を上げるとアリウムを見て相好を崩す。
水色の瞳を細めて眉尻を下げる笑い方は彼の優しさを表していて、まるで包み込むような穏やかさに満ち満ちている。
相手を安心させる雰囲気と物腰の柔らかさ、そして言葉づかいに至るまで細かい気遣いのできる男。
「アム、久しぶり。伴侶探しは上手く行っているの?」
「上手く行っているならわざわざグリッドの所に泣きつきに来たりしないよ」
「そう?なにか問題でも発生した?」
傍目から見るとただの野草にしか見えない植物の間からよっこらしょと立ち上がり、グリッドは腰に手を当てて上体を反らす。
森を切り開いて作られた結構な広さの畑には様々な種類の薬草が植えられ育てられている。
それは村人のどんな症状にも対応したいと苦心して開墾し、集めてきた薬草の数が彼らの思いを代弁していた。
ここに来ればきっとなにか答えを得られに違いないと初めに縋ったのは、なにもアリウムの安易な思い付きではないのだ。
グリッドやその父親のクラップが治療師のいないこの村で唯一の頼みの綱であるという自負と誇りを胸に、努力を怠らず働いていることを知っているからだった。
本来治療を施すのは治療師の仕事で薬草師の仕事では無いが、人材の少ない小さな村では治療師に変わって治療や診断をして薬を出す。
病に関しての知識や治療方法に詳しく、より専門的なのは治療師の方だが、薬に関しては薬草師の足元には遠く及ばない。
エリスたちの町には治療師はいるが、薬草を育て採取し調合することのできる薬草師はいなかった。
だから。
そこにゼルの病が治る可能性がある気がしてアリウムは友人を頼ろうと思ったのだ。
「問題ありありだよー……」
首尾よくグリッドに出会えたことに安堵して身体から力が抜けて行く。
こうしている間にもエリスに治療師が言い寄ってはいないかと思うと気が気じゃない。
木の柵で囲まれた畑から出てくるとその場にしゃがみ込んでしまったアリウムの傍まで近づき、若い薬草師の男は優しく見下ろしてくる。
「話してごらんよ。なにが問題なのか」
「実は、今すごく気になる子がいるんだけど……その子の弟が珍しい病を抱えていてさ。二年前に両親を流行り病で亡くして姉弟二人きりの生活だから、俺がその仲を引き裂けなくて」
ゼルは自分のことは自分でなんとかするので気にせずに連れ去って欲しいと言っていたが、寝台から起き上がれないのでは働くことはおろか食べるための野菜を育てることすら難しい。
それどころか調理も洗濯も、水汲みもできないのならば日々の生活を送ることもままならないと解っていて、ゼルから姉を奪い去ることなどできるわけがなかった。
「薬を得るための見返りとして治療師に自分の身を差し出すしか無くて」
自分の好きな女性の苦しい境遇を友人と言えども話すことが心苦しくてアリウムは喉を詰まらせる。
エリスがその行為を恥じずに堂々としているのならば問題は無いが、己の身を捧げることしか弟の薬を得られないことを酷く嫌悪し自尊心を傷つけられているのが解るから辛い。
「……セロ村は豊かだから村人全てが手仕事や畑を持っていて、交換するものに困ったりすることはないから女性が代わりに身体を預けることはないけどね。大きな町や実りの少ない村なんかではよくあることだって聞いたことがある」
グリッドは憂いに満ちた嘆息を吐きアリウムの横に腰を下ろす。
「弟の命のためにその身を捧げているというのなら尊いことだと思うけど、……彼女はそう思っていないんだね?」
「……うん」
「まあ、アムが好きになる子だからきっと真っ直ぐで融通が利かない子なんだろうから当然かな」
隣からクスリと笑う声が聞こえてアリウムは頬を膨らませて膝を抱える。
伴侶探しの旅の中で「いいな」と思ったことのある子はみんな少し気が強くて一本芯の通った子ばかりだった。
そしてその気質のせいで頑なな部分があったから。
勝算のない駆け引きに敗れるたびにこうしてグリッドの元で愚痴を零してから里へと帰っていたので、アリウムの好みを熟知している彼の前では下手な言い訳はできない。
「エリスは……染め師なんだ。両親の仕事を引き継いでやってるけど自分には才能がないから上手く染められないって思い悩んで。苦しんで、でも一生懸命で」
努力が足りないから思うように染まらないのだと、それこそ身を削るような思いで染め物に向き合っている。
それが痛々しくて。
「染め師としての技術があれば治療師に身を委ねなくても弟の薬を手に入れられるのにって」
悔やんで、必死に腕を上げようと頑張っている姿が狂おしいほど健気にアリウムの目に映る。
泣き寝入りするでもなく、開き直るでもなく、抗おうとする姿勢に心惹かれて。
「……その治療師がエリスに婚姻を申し込んだんだ。自分なら病気の弟も面倒見ることができるからって。でも、そんなの俺嫌だから」
「うん、それで?アムはどうしたの?」
「ゼルの、弟の病を治す方法を探す時間が欲しいって。それまでは返事をしないで待っていて欲しいって」
グリッドが小さく「なるほどね」と呟き、その声に誘われるように顔を上げればにこりと微笑まれる。
「おれが力になれることは協力するつもりだけど、随分と大きく出たね」
珍しいといわれる病気を治す方法を探し出すと約束するなんて、と続けられアリウムは少々自棄になって笑顔を浮かべた。
「グリッドとクラップさんならどんな病も直せるって俺信じてるからさ」
「……全く、調子がいいなぁ。で、その病はどんなものなのか詳しく聞かせてくれる?」
「もちろん」
アリウムはゼル本人から聞いた病状と経緯を話し、最後にエリスから預かってきた一回分の薬を手渡した。
処方されていたのは熱冷まし、胃腸薬、下痢止め、発疹用の軟膏だった。
「へえ……熱冷ましを粉末状にして飲ませてるんだね。一体どんな薬草を使ってるんだろう。興味ある」
アリウムも飲んだことがあるがセロ村で一般的に使用されている熱冷ましは臭いは無いがかなり苦みがある。
そのため直ぐに水で流し込めるように丸薬にしているのだが、エリスたちの町では粉末にして飲むらしい。
興味津々のグリッドはやはり熱心な仕事人だ。
所変われば育つ薬草も使われる薬も違うのだから、勤勉な彼にしてみれば瞳を輝かせるのも当たり前の反応だった。
「……嘔吐と発疹は飲み続けた薬に対する拒絶反応の可能性もあるから少し熱冷ましを調べてみるよ」
「さすがグリッドは頼りになる」
「その代わり、今すぐその町に戻って熱冷ましの原料になった薬草を採取して来てくれる?」
「え!?今から戻っても直ぐには町に入れてもらえないよ!」
町長に滞在の申請の一時解消を伝えていたので、その日のうちに戻ったとしても滞在許可が出るのに数日かかる可能性がある。
しかも嫌味のように今朝方「いつまでいらっしゃるおつもりですか?」と尋ねられた経緯がある上に、町を一旦出ると伝えた時の喜びようも記憶に新しい。
きっと焦らされて一週間ほど町の外で待たされるに違いなかった。
「恋に障害はつきものだよ。四、五日入れないくらいで文句言わない。おれなんかどうなるの?もうずっと待ってるのに未だに進展がないんだから」
自嘲気味な不満を口にされたが、グリッドは待つばかりで行動しないからいけないのだと思っていても言葉にはできない。
長年一途に想っているグリッドの想い人は村長の娘で、幼馴染であるという関係が近すぎるせいと彼女の性格もあって中々上手く行かないようだ。
周りで見ている方も気が気では無く、さっさと纏まってしまえと呆れており、最近ではお手上げだとばかりに放置されている。
「諦めて別の子にしたらどうなの?」
適齢期である頃を過ぎてしまった彼らの仲はなにか特別なことがなければきっと動かないだろう。
人々の命や健康を守る仕事を持つグリッドならば他の女性と婚姻することは簡単だ。
容姿も性格も申し分ないのに勿体無いと思うが、早々に割り切り諦められるのならばここまでこじれはしなかったはず。
「待つって言ったのはおれのほうだしね」
弱々しいどこか覇気がない顔で微笑んだグリッドは、やはり諦める気はないようだ。
「じゃあ死ぬまで待つ気なの?」
「まさか。彼女が別の誰かと連れ添うことになったらその時は潔く祝福して諦めるよ」
「……そこまで待つの?」
「そのつもりだけど?」
グリッドは平然と返答するが、その強さも気の長さもアリウムには持ち合わせていない。
羨ましいような、情けないような心持がしてなんとも言い難いが本人がそれでいいと言うのならばそれでいいのだろう。
これ以上この話を蒸し返しても虚しいだけなので切り上げて「急いで調べてくれないと困るからね」と念押しするとグリッドが小さく頷く。
「じゃあまた、数日後に」
約束をしてアリウムはそそくさと立ち上がる。
空を駆ければ数刻ほどで町に辿り着けるが、中に入ることは叶わないと解っていて戻るのは辛い。
それでも。
会えなくても少しでも近くにいられるのならば、と心が叫んでいるから。
友人と別れて、来た距離を飛んで帰る。
気が急いていたからか行きよりも早く辿り着き、町の一番外側にあたる入口に設置されている訪いを告げる鐘を鳴らすと近くに建てられている小屋から当番の男が飛び出してきてあからさまに嫌な顔をされた。
やっと出て行った厄介者が一日も経たずにまた戻って来たのだからしょうがないが、少しは取り繕って欲しい。
「なんの用だ?」
硬い声にアリウムは町に入るための許可を求めるが、出て行ったその日に申請を受けつけるのは前例がないから駄目だと渋られる。
「明日なら受け付けてくれるの?だったら明日の朝一番に出直してくるけど」
「町長はついさっきまで滞在していた竜族の対応のせいで滞っていた仕事を片づけるのに忙しいから、受け付けたとしても許可が出るのは随分先になるだろうな」
「なら、別に今受け付けてくれても変わらないんじゃない?」
「とにかく今日は無理だ」
「なんで?」
理不尽な問答の合間に挟まれた嫌味にも深く傷つきながら、アリウムはもどかしくて男に詰め寄る。
「気の無い男に言い寄られる方の身にもなれ。エリスがお前を受け入れているのならばこちらもこんなに拒みはしないんだ。しつこい男は嫌われるぞ」
「……もしかしてエリスから俺の訪問を断って欲しいって言われてるの?」
ゼルの治療法を探しに出ているアリウムの訪れを拒むはずはないと思いたい気持ちと、漸く面倒な竜族から解放されたと安堵しているかもしれないエリスの心情を慮って酷く心が焦り不安に駆られる。
「とにかく無理なものは無理だ!出直してこい」
「そんな――」
掌を振って追い払うような仕草をされ愕然としながらも、ここで引き下がってはなんの解決にもならないと折れそうになる気持ちを奮い立たせた。
自分のためだけでは無くエリスのためにも、そしてゼルのためにも時間を無駄にはできない。
「それじゃあ熱冷ましの原料になる薬草を譲ってよ。加工されたものじゃなくて、土つきのままで」
「熱冷ましの薬草?なんだってそんなもの」
「いいから。それをもらったら今日は引き下がるよ」
薬草を手に入れグリッドの元に取って返せば、それだけゼルの病を早く治すことに繋がるだろう。
そしてエリスの心労が減ればアリウムに対する心の余裕が出てくるはず。
「…………今日だけか?」
「うー……。二、三日は戻らないって約束するから」
「二、三日?短いな」
必死さに押されたか、それとも引き下がるという言葉に絆されたか。
男が考え込むような様子を見せたのでこちらも交換条件を譲歩した。
それでも足りないと言われれば「じゃあ一週間」と嫌々ながらも譲らねばならない。
「一週間……まあ、いいだろう。それぐらいあれば――いや、うん。そこで待っていろ」
「ちょっ、今なんか気になる言い方したよね!?」
「気にするな。おとなしく待ってろ」
妙な言い回しを追求しようとすれば、今までとは打って変わって愛想よく笑って手を振ると男は全速力で町の奥へと続く道を走って行く。
その変わり身の早さに嫌な予感がするが、今はなにもできない。
臍を噛みながら待っていると陽射しが弱まり急速に夜を連れてくる。
涼やかな風に吹かれ、暮れて行く空をぼんやりと待っていると風上から嗅いだことのある匂いが近づいてきた。
腹の底の方をそわそわさせるその匂いはアリウムの感情を逆撫でして神経を昂ぶらせていく。
ゆっくりと視線を向ければ薄闇の中から少々草臥れた風情の男が姿を現した。
「初めまして」
どこか困ったように微笑む男の目尻には皺が寄り、灰緑色の瞳が興味深そうにアリウムを観察している。
焦げ茶色の髪は丁寧に梳かれているが、顎の下に浮く不精髭や皺の寄ったシャツからは独り身の侘しさが漂ってきた。
メリッサが言っていたように薬と治療の代償として若い女と寝ることを由と思える程ふしだらな男では無いことは一見して解る。
真面目そうな性格が顔つきに出ており、三十を超えた男にしては肌艶も良い。
「貴方が治療師の、」
「シランといいます」
名乗られて渋々アリウムも名を告げる。
大人の余裕か、それともエリスを巡る競争者として認められていないのか、シランに笑顔で「よろしく」と挨拶をされた。
「噂通り竜族とは美しい姿をしている。羨ましいぐらいだ」
手放しで賞賛されても人族との恋愛に容姿など関係ないことは経験上学んでいる。
女性の気を惹くための取掛かりとしては有効でも、それより先に進むためには別の技術が必要になって来るのだから。
「……それを、貴方が言うの?」
人族であるシランの方が余計な障害がない分有利だ。
しかも既にエリスとは身体の結びつきがあるのだから腹が立つ。
「いや、勘違いしないで欲しい。別に深い意味は無くて、単純に個人の感想を述べただけだよ」
慌てて言訳する素振りにも嫌味が無くてアリウムの胸がチリッと痛む。
「これ……熱冷ましの原料であるエタニモンという薬草だよ。土つきでと言われたから慌てて採って来たんだ」
「ああ、どうも」
差し出された布でくるまれた包みを受け取りながら素直に礼を言えない心の狭い自分に嫌気がさす。
それに反してシランの穏やかな雰囲気に既に勝敗が決まっているような気さえして絶望的になった。
「ゼルの病を治す方法を探すって聞いたけど……本気なんだね」
「貴方と違ってそれしか方法がないから」
エリスは今のままではアリウムの方を見てはくれない。
真剣に考えてくれないから。
勿論ゼルにはよくなり元気になって欲しいけれど、純粋な気持ちだけで回復を望んでいるわけでは無い後ろ暗さがアリウムにはあった。
「悪いけれど僕も本気なんだ、」
エリスのこと――と宣告されて青ざめてしまったのは勝ち目がないと思う弱い心のせいだ。
彼女の名前を愛おしそうに大切に呼んだ声音に背筋がぞっとする。
「流行り病に倒れた両親を一生懸命に看病する姿を見ていた頃から良い子だなと思っていて。その時はそんな甘い気持ちでは無かったけれど、ゼルの病が切掛けで深い仲になる少し前から僕は彼女に特別な感情を抱くようになっていたんだ」
だから治療と薬の代わりに我が身を差し出すと言うエリスの申し出を断らずに受け入れたのだと告白されてアリウムはぎゅっと薬草の入った包みを胸に抱き締めた。
戯れにエリスと関係を持ったのだと言われた方がまだましだった気がする。
若い女を抱く快楽に溺れて手放すのが惜しくなり婚姻を申し込んだのだと思えれば、エリスを奪うことも躊躇わずに済んだ。
でも。
シランもまた本気でエリスを想っている。
それが伝わってくるから。
「君がいない一週間を無駄にしないつもりだよ」
仄かに男から匂う香りの中に確かにエリスの気配がして息ができなくなる。
「俺だって――――諦めるつもりはないから」
急速に落ち込んで行く気持ちを抑えてなんとか言えたのはそれだけ。
シランが破顔して「負けないよ」と宣戦布告するが、アリウムには笑って応じることはできなかった。
悔しさに打ち震えながら一歩後退り、一縷の望みを持って視線を町の方へと向けるがそのどこにもエリスの姿も痕跡すら見えずに落胆する。
当たり前だ。
彼女はアリウムに興味など無いのだから。
そのことを痛感しながら諦めの悪い自分はグリッドに望みを託す。
結局は他人の力に頼らねばならない無力さに苛まれながらも、どんなことをしてもエリスを手に入れたいと思う欲望には勝てはしない。
「俺は、エリスを信じてる」
それだけだ。
戸惑いながらも頷いてくれた彼女がアリウムを待っていてくれればいいと願うしか手立てはない。
「信じてる……」
繰り返すアリウムを治療師の男は黙って見つめ、その視線に耐えられなくなり背を向けて飛び上がった自分は完全に負けているのだと落ち込んでセロ村までの飛行中ずっと泣いていたのを月だけが見ていた。