阿る
「いつまでこの町に滞在するおつもりですかな?」
そう言って好々爺の顔で尋ねてきた町長との会話を終わらせるのに手間取り、エリスの家へと向かうのがいつもより遅れてしまったアリウムは足早に道を歩いていた。
人族は総じて働き者が多いが、若い女たちはアリウムの姿を見ると忙しい家事や仕事の手を止めてうっとりとした眼差しを向けてくる。
町に伴侶を探しに来ている黒竜が両親の仕事を継いで染め師として働いているエリスに執心しているという噂を聞いてはいても声や誘いをかけてくる女性はいる。
親しくなるのは恐いが、容姿だけは整っている竜族をただ遠くから眺めていたいと思っている娘は更に多かった。
アリウムを見ているのはなにも女性たちだけでは無い。
町の若い男性は恋心を抱いている女性が取られはしないかと危機感を募らせギラギラとした視線を向けてくるし、大切な町の娘たちが忌々しい竜族の毒牙にかからないかと厳しい住民の監視の目が至る所から感じられる。
居心地などいいわけが無いが、これしきの視線に怯んでいては伴侶探しなどできない。
無心を心がけて進むことに精神を集中させるのがコツだと学んでいるアリウムは角を曲がった時にぶつかった柔らかな肢体が体勢を崩すのを感じて、支えるべく慌てて腕を伸ばし細い腰を抱き寄せた。
ふわりと香る花の匂いには既視感がある。
そしてこの抱き心地も。
「…………メリッサ?」
「あら嬉しい。名前、エリスから聞いたの?なかなか落ちない彼女を諦めて、私に乗り変えてくれる気になったのかしら?」
くすくすと笑うたびにメリッサの腰に回した腕に微かな振動が伝わる。
鳩尾辺りに当たっている弾力のある胸の感触に血が騒いで落ち着かない。
「諦めてないから」
動揺を打ち消すように強く言い切り、メリッサから身体を離してふいっと顔を背ける。
「えらい、えらい。意外と根性あるのね」
子供に使うような言葉で誉められてもちっとも嬉しくは無い。
からかわれているのが解っているので「急いでるから」と長居は無用だと逃げかけるとメリッサはアリウムの肘を掴んで引き止めた。
「エリスなら家にいないわ。治療師の所に行ったと思う。今朝ゼルの診療に来ていたのを見たから間違いないわ」
「治療師の――――」
あっという間に全身が総毛立ち、頭の中が真っ白になった。
病に苦しむゼルの症状を抑えるためには必要な診療と薬だったが、引き換えに差し出されるものを思えば冷静になることなどできない。
何故かメリッサが泣きそうな顔をしてアリウムを見つめているのに気付いたが、そんなことに心を動かされている場合ではなかった。
「あの野郎――――!」
治療師が正当な見返りを受け取っているのだとは解ってはいても、エリスの白い肌に自分以外の男が触れることを許せるほど心は広く無い。
なんの約束も告白もしていないのだから互いに自由で、エリスが治療師と寝たとしてもアリウムが文句を言うことも彼女を不実だと責めることもできないことが辛かった。
「ちょっと、落ち着いて」
駆け出そうとしていたアリウムの腕を強く引いて止めたメリッサを睨みつけると再度鋭く「落ち着きなさい」と繰り返される。
人族の女の力など高が知れているので、軽く振り払うだけでその拘束から逃げることはできたがそれをさせないだけの強い気持ちと気迫がメリッサにはあった。
エリスの友人であるということも邪険にできない理由となっている。
「シランさんは本気みたいなの」
「……誰?そのシランさんって」
初めて耳にする名前に眉根を寄せるとメリッサは一瞬ためらった後で「治療師」と応えた。
憎い男の名前を呼ぶのに“さん”とつけてしまった自分の軽率さを呪い舌打ちする。
自分にされたのだと誤解したメリッサがびくりと肩を跳ね上げて顔色を失ったが、取り繕う余裕も無かったので「それで?」と話の続きを促す。
「シランさんがエリスを、その……嫁にもらおうと思ってるって。自分ならゼルのことも面倒見られるから心配はいらないって言われたってエリスが」
メリッサにそう言ったのだろう。
相談したのか、それとも友人にだけ治療師と婚姻を結ぶかもしれないと打ち明けたのか。
「貴方がどう思っているかは解らないけど、シランさんは誠実な人よ。弟のために身を捧げるしかないエリスを不憫に思っているから病気のゼルごと引き受けようと――」
「関係ない!」
治療師がどんな男であろうと、エリスやゼルのためを思って嫁に貰おうとしているのだとしてもアリウムにはどうでもよかった。
重要なのはアリウムの好きなエリスが永遠に失われてしまうかもしれないということだけ。
「エリスは、エリスが」
治療師の提案を受け入れるつもりなのかどうかが知りたい。
「待って!貴方がエリスを連れて行ってしまったらゼルはどうなるか考えてみたの!?」
逸る気持ちを抑えきれずに地を蹴り空へと飛びあがろうとしていたアリウムをその場に留めたのはメリッサが必死に紡いだ病気のゼルを心配した言葉だった。
病が癒えてゼルが元気になればアリウムにも可能性が残され、そしてエリスも治療師との望まぬ婚姻を結ばなくてもよくなる。
だがそれは難しい。
二年も患っている病気が突然治るなど有り得ないことだ。
エリスは治療師の申し出を受けて彼の妻になり、ゼルは姉の未来を奪ったことを悔いながら生きて行かねばならない。
「そんなこと……」
病気の弟を見捨てるような女性ならばアリウムは惹かれなかったはずだ。
結果の解りきった仮定など虚しすぎる。
でもそれではエリスやゼルは幸せにはなれない。
一生心に暗い影を抱いて生きねばならないなど想像するだけで胸が苦しくなる。
「じゃあ、どうすれば」
「竜族の力でゼルの病気を治すことはできないの?」
期待に満ちたメリッサの瞳から逃れるように俯きアリウムは弱々しく首を振った。
そんな都合のいい力があるのならばさっさと使ってゼルの身体から病魔を追い出していただろう。
強靭な身体を持ち、体力は有り余るほどあるのにアリウムには人族の害悪にはなっても助けにはなれないのだ。
それがとても苦しくて、辛い。
好きな女性を振り向かせることも、彼女の幸せや笑顔すら守れないなんて。
耐え難い苦痛と絶望感が襲い、湧き上がってくる怒りの対象は治療師では無く自分自身で。
憤って拳を震わせても現実は変えられないという事実が酷く虚しい。
「なにも……できない」
アリウムができることなどエリスにこれ以上迷惑をかけないように身を引くだけのような気がしてきて胸が重く痛み始める。
芽生えてしまった好きだという感情を抑えることがこんなにも難しいなんて知らなかった。
諦めなければならないのだと考えるだけで身を引き裂かれそうな思いをするのなら、こんな気持ちを知らなければ良かったのに――――。
「ちょっと、しっかりしなさい」
メリッサが手を伸ばしてアリウムの左頬を軽く叩く。
一度だけでは無く目覚めを促すように何度も。
それは折れそうなアリウムを優しく鼓舞して、強く励ましてくれる。
「貴方ができることは本当になにもないの?竜族はどんな生き物よりも速く空を駆けることができるって聞いたわ。その力でグリュライト中を巡ってゼルの病気を治す方法を探すとか、薬を見つけてくるとか、色々あるでしょ!?」
グリュライトがどれくらい広いか知っているのは貴方の方じゃないのか、と問われてアリウムは目を瞬いた。メリッサの苛立った瞳が自分に向けられており、それを馬鹿みたいに呆けて見下ろしている顔がそこに映っていて「ああ……そうだ」と、ぼんやり呟く。
「でも、見つけて戻って来るまでにエリスが治療師と婚姻を結んだら」
どうすればいい。
これでエリスの気持ちを引き寄せられると喜び勇んで帰ってきた時既に遅く、治療師の妻になってしまった彼女との再会を果たしたらアリウムは正気を保っていられるか自信は無い。
恋の成就の可能性と、それを失う可能性を同時に手にして頭を支配するのは奮起する思いよりも不安や恐怖の方が強く大きかった。
「もう……本当に世話が焼ける。いい?」
ぐいっと困惑しているアリウムの耳たぶを引っ張って聞き逃したら許さないとばかりにメリッサが睨み上げてくる。
「ちゃんと自分の気持ちを伝えて、戻って来るまで待っていて欲しいと頼みなさい。他の男なんかと一緒になっちゃいやだってはっきり言うのよ」
「そんなことして、」
迷惑じゃないだろうか?
嫌われたりしないだろうか?
ただでさえ毎日通って疎ましがられているのに――。
「それぐらいしなきゃ貴方の本気はエリスに伝わらない。いっそのこと見苦しいぐらいに泣いて、縋って、拝み倒すくらいしないと疑り深いあの子には響かないかもね」
遠慮なんかしてたら盗られちゃうわよと釘を刺されてアリウムはごくりと喉を鳴らす。
「このまま宙ぶらりんでいるよりはいいと思うけどね?竜族は繁殖のためにこっちへ来てるんでしょ?人族の女はエリスだけじゃない。それこそこの広いグリュライトにどれほどいると思っているの。貴方が探し求めている本当の女が他の町や村にいるかもしれないのにこんな所でぐずぐずしているのも時間が勿体無いわ」
「…………そうかもしれない」
今更エリス以外の女性を求める気にはなれないが、それでも長い年月を経て彼女への思いを断ち切ることはできるかもしれない。
他の女性と知り合いその彼女がアリウムと共に里へと来てくれると約束してくれればその時全てを思い出として昇華することができる日は来るだろう。
それでも。
今切実に恋焦がれているのはエリスただひとり。
彼女がアリウムの運命の相手だと思うから。
信じたいから。
「当たって砕ける覚悟でやってみる」
どうせ好かれていないのならば、相手の迷惑など考えずに素直な気持ちを伝えてみようと心を決めた。
その上で決めるのはエリスだ。
治療師の妻になるか、アリウムが弟の病を治す方法を探して戻ってくるのを待つか。
「ありがとう、メリッサ」
「どういたしまして」
礼を言うと女は美しい顔に明るい微笑を乗せてアリウムの耳を手放した。
その指でそっと頬から顎への輪郭を辿られて身震いすると、誘うような視線を残してメリッサは横を擦り抜けて行った。
初めて会った時の別れ際の言葉がまた追いかけてきて「上手く行くといいわね」と励ましてくれる。
思っていた以上に良い女だったのだと認識を改めて感謝しながらメリッサの声に後押しされてアリウムはゆっくりと治療師の家では無くエリスの家へと足を運んだ。
通い慣れたその道はなにを考えなくとも自然と愛しい人の住む場所へとアリウムを誘う。
エリスを待ち伏せした水場から一緒に水の入った桶を下げて歩いた記憶は今でも心を騒がせて落ち着かなくさせる。
夜が明け始めたばかりの中を水汲みに来たのはあの日だけでは無いことも今ではもう知っていた。
染め物をする時には沢山の水を使うから何度も水場へと足を運ばなければならず、人気のいない時間帯の方が水を汲んで家路につきやすいからだ。
それは幼い頃からの習慣であり、両親の仕事に誇りを持っていた彼女が手助けできる唯一のことだったのだと聞いた。
病で寝台から出られないゼルを残して外出する時でも施錠がされることがないのはこの町の治安が良いことと、突然容体が急変することもあるかもしれない弟のためでもある。
出かける時は隣人に声をかけて気掛けてもらっているのだと言っていたから。
それでも引き戸は閉められておりアリウムが軽い力で開けると蒸し暑い空気が充満していた。奥の壁に置かれた大きな幾つもの甕と煮出すための大きな鍋のかかった窯がエリスの帰りをじっと待っていた。
その中で立ち尽くしながらエリスが忙しく働く姿を思い描いて胸の奥がきゅっと締め付けられているアリウムはもう引き返せない場所まで来ている。
この恋を失えば暫くは誰も好きになれない予感に震えて、喪失のための準備を心の中で始めている自分が情けなくて嫌になった。
カタン――――。
どれほどぼうっとしていたのか。
戸口が開く音がしてアリウムは顔をそちらへと向ける。
いつもの青いスカーフがまず目に入り、耳元で揺れている後れ毛と白く眩しい首筋が劣情を煽った。
乱れてもいない襟元を直しながらエリスは「来てたの」と素っ気無く言い放つ。
「言ったはずだよ。君の顔を見るためなら毎日来るって」
「今日は……いつもより遅かったから、もう来ないかと思ってた」
「なに?待っててくれたの?」
違うと解っていても期待してしまうのは雄の性か。
アリウムの真っ直ぐな視線に戸惑って茶色の瞳を伏せると、エリスは「そんなんじゃ」と口籠る。
はっきりとした拒絶では無いことに安堵しながらも、濁されてしまったことに腹を立てる自分勝手な気持ちに焦りを覚えた。
「残念だけど今日ゼルは調子が悪いから、」
会えないのだと言外に告げて中途半端に開いていた戸をぐいっと掌で圧して全開にする。
そうするとむっとしていた蒸気や熱が和らぎ、息苦しさも解消された。
そのまま工房の真ん中に突っ立っていたアリウムの横を通り過ぎて勝手口の戸も開けると外の風が入り更に居心地が良くなる。
ふわりと匂うエリスのものではない他人の体臭を敏感な鼻が感じ取って頭に血が昇るのを腹に力を入れて必死で抗う。
勝手口を開けたついでとばかりに小さな庭へと出て行こうとするのを慌てて追って陽光の元に足を踏み入れた。
そこには午前中に染められた糸や布が風に晒されていて今日もエリスが朝早くから働いていたのだと教えてくれる。
「やっぱり……ムラがある」
糸束を指先で解して染め具合を見ながら気落ちした表情をするエリスの横顔には治療師との情事のあとは窺えないが、アリウムと視線を合わせない所からもその件に関しては触れて欲しくないのだと解った。
エリスは意地悪だ。
「ゼルに会いに来てるわけじゃないって知ってるくせに」
はぐらかして、アリウムを避けて。
逃げている。
「治療師と婚姻を結ぶつもり?」
直球の問いにぎくりと固まりエリスはきゅっと唇を引き結ぶ。
アリウムや竜族だけでなく、恋にも興味がないと言っていたのに。
「違うよね?」
願いを込めた質問に掠れた声で「解らないけど、多分」そうなるだろうと答えてエリスが顔を深く俯けた。
「いいの?それで」
「そんなこと……」
「俺はいやだよ。エリスが俺以外の男の奥さんになるなんて」
絶対にいやだと繰り返せば、聞きたくないと逃げるように庭の奥へとエリスは移動する。
背中に揺れる柔らかな金茶の髪が光りを弾いてアリウムを強く引きつけた。
手を伸ばして触れたいという衝動を理性で押し殺し彼女の姿を追う。
「逃げないで聞いて欲しいんだ」
ちゃんと。
最後まで。
「俺は自分でもどうしていいか解らないくらいエリスが好きだ。本当に、君以外の女の子のことなんてどうでもよくって」
でも伝え方が解らなくて。
どんなに頭を回転させてもこの想いを伝えられる適切な言葉を探すことはできなかった。
そのことが酷くもどかしい。
「君がどうしたら俺の方を見てくれるのかちっとも解らないから不安で、悔しくて、苦しいんだ。竜族はたったひとりの女性しか愛せないのに、俺の中はエリスのことでいっぱいで」
「そんなの……貴方の都合でしょ」
「そうだね、でも。俺はエリスが運命の女性だと信じてるから」
聞いているエリスの肩が震えて怯えているのが解る。
なにがそんなに怖いのか。
恐いのはエリスに拒絶されるかもしれないアリウムの方なのに。
「だから俺に機会を与えて欲しい」
君の信頼に応えられる時間を。
「治療師に返事をする前に、俺にゼルの病気を治す方法を探すための機会を」
「……ゼルの?」
恐る恐る振り返ったエリスの目には希望と諦念の狭間で揺れ動く複雑な感情があった。
「それとも治療師の男が好きなの?」
条件付きとはいえ添い遂げても良いと思えるほどには好意を持っているのかと問う声に醜い嫉妬が滲んだのは仕方がない。
「違っ。ゼルの治療を一生懸命してくれて感謝はしてるけど、そんなんじゃ」
「ないんだね?じゃあ俺にもまだ可能性はあるわけだ」
ほっと胸を撫で下ろして微笑めば、エリスは顔を顰めて顔を背ける。
「直ぐに見つけて戻って来るから、安易に返事しちゃだめだよ。俺が帰るまでちゃんと待っていて」
「……直ぐって、二年近くもゼルは病に苦しめられているのにそんな簡単に見つかるとは、」
「うん。大丈夫、当てがあるから」
「当て?」
「俺知り合いに薬草師がいるから、まず聞いてみる」
メリッサに叱咤された時に真っ先に思い浮かんだのは柔らかい雰囲気をした男の顔。
だからアリウムは任せておいて欲しいと懇願する。
戸惑ったままのエリスが促されるまま頷くのを確認してひとまず安堵した。