通う
エリスとその弟が住む家は横長で木戸は左側にしかない。
右側には窓が二つほど並んでいて開け放たれたそこから涼やかな風を招き入れている。
そこから覗けば食事をとるための小さめのテーブルと調理台の他に、壁で囲われた部屋への入り口とその横の空間に衝立が置かれ奥に寝台があるのが見えた。
それはエリスのもので、目隠しのための衝立があるとはいえ窓から容易に見える位置に年頃の娘の寝台があるのは正直心配でならない。
そう言ったら鼻で笑われ暗い瞳で「誰も病人のいる家には寄りつかない」と呟かれては二の句が告げなかった。
作業中は開けっ放しになっている左側の木戸を潜りアリウムは土間へと脚を踏み入れる。
いつもなら湯を沸かしたり、草花等の材料を煮出したりして蒸し暑い工房は、入口から入ってきた風が小さな庭へと出るための勝手口へと抜けて行き今日は過ごしやすい。
エリスは土間に茣蓙を敷き座り込んで山盛りになっている朱色の花を茎と萼から取り外す作業に没頭している。
背中と耳元で金茶の髪が風に揺れ、勝手口側に座っているエリスの頬を白く浮き上がらせていた。
真剣そのものの表情にアリウムは声をかけるのも憚られて口を噤んで暫し見惚れた。
染色の仕事をするエリスの手は荒れていて、爪や指先は茶色く染まっている。
それでも節の無い細く長い指が器用に動くのを見ていることは全然退屈では無く、寧ろアリウムに至福の時を与えてくれるのだ。
年相応の若々しさや美しさとは無縁の素朴な容姿は、きびきびと家事を手際よくこなしたり、真摯な姿勢で仕事をしている時が一番光り輝く。
傍にいて落ち着くと思う反面、不意に漂う女の色香にアリウムは欲望を持て余して苛立つことも多かった。
エリスが誘惑しているつもりがないから質が悪い。
自分のような平凡で手仕事すらまだ一人前になっていない女を見初める男などいないと思っている。
しかも病気の弟がいては婚姻へとこぎつけることも難しいだろう。
だから自分は求められないと思い込んでおり、幸せになることも放棄している。
「…………こんなに魅力的なのに」
思わず洩れた本音が聞こえたのか、エリスが長い睫毛を持ち上げてこちらを見た。
陽光を背に立っているアリウムを温かな茶色の瞳を眩しそうに眇めて見つめ、呆れたように「また来たの?」と問う。
「そりゃ勿論、毎日来るよ。エリスに会うためなら」
「……暇人」
「暇ではないけどね。ここに来るまでに沢山の女の子の誘いを断ってきたし」
「別に断る必要ないと思うけど?私のことなんか放っておいて、可愛い女の子と抱き合って楽しめばいいじゃない」
「えー?俺が他の女の子と仲良くしてもエリスは平気なの?」
「平気って……他の子と仲良くするのは貴方の勝手でしょ」
私たちは互いに自由なんだから、と言い捨てて視線を下げるとエリスは作業に戻る。
淡々と繰り返される動作を眺めているのも良いが、あまり傍にいると邪魔になるので引き際が肝心だ。
好意を抱かれていないのだからこれ以上嫌われないように努めるのは、アリウムにできる最大の抵抗と信頼回復になる。
「弟は起きてる?」
訪問するたびにゼルの体調が良ければ部屋を訪ねるようにしていた。
エリスに会うことを拒否された時の口実として、ゼルと仲良くなっていれば見舞いにかこつけて家を訪れることができるというもくろみだ。
だがゼルは姉にしつこく言い寄っている虫であるアリウムを笑顔で迎え、好意的に受け入れてくれた。
病を得ているゼルの身体は細く顔色が悪かったが、明るい性格のためか表情は柔らかい。
十五歳だと聞いているが、落ち着いた雰囲気と話し方で年齢よりも上に見える。
「悔しいけど、貴方が来るのを楽しみにしてるから」
「それは光栄だね。できればエリスにもそう思ってもらいたいけど、」
まだ無理そうだと判断して苦笑いすると、エリスは唇を引き結んで黙った。
頑なになった彼女はどんなに言葉を連ねてもこちらの思うような反応を返さない。
エリスは鈍感な女ではないから、聡く相手が望んでいるものを見抜く。
だからこそ口を閉ざし、相手が諦めてくれるまで必死に待つのだ。
「……ゼルに会って来るね」
そっとため息と共に囁いて、今日もエリスの本心を聞き出せないままゼルの部屋へと向かう。
暗い表情でゼルの部屋へと入ると、寝台の上からくすくすと笑い声が聞こえた。
「また姉さんに冷たくあしらわれた?ごめんね。姉さんは慣れてないんだ。アムみたいな素敵な人に好きだと言われても信じられなくて困っちゃうんだと思う」
青白い顔に人好きのする笑みを浮かべて、ゼルはゆっくりと身を起こして枕を背当てにし身体を落ち着ける。
「この顔のせいでエリスに受け入れてもらえないのなら素敵じゃなくていいのに。本当にどうしたら俺に夢中になってくれるのか……誰か教えて欲しいくらいだよ」
「贅沢だね、アムは。みんなが羨むほどの容姿を持っているのに」
「どうでもいいよー……顔なんて。要は中身の問題なんだと思う。それと」
種族の問題だ。
アリウムが竜族でなければきっと伴侶を見つけることは簡単にできただろう。
大切にする自信はあるし、他の誰にも目移りしないと誓える。
危険なことからは護るし、死が訪れるその瞬間まで深く愛すると断言もできた。
それでも人族の女性は竜族と一生を共にすることに難色を示す。
竜族の気持ちは変わらないが、人族の方は違うらしい。
だから信じられないのだ。
“竜族を”でなはなく人族である“自分自身”の気持ちを。
「なんで俺、竜族なんだろう」
ゼルの足元に腰を下ろしてアリウムは嘆く。
里にいた頃は幼体である銀竜から成体である黒竜に早くなりたいと思っていた。
強く誇り高い生物の頂点ともいえる竜に生を受けたことに感謝すらしていたのに。
でも一歩里を出れば恐れられるどころか忌み嫌われている。
年頃の娘を持つ親から嫌悪の眼差しを向けられ、町や村を治める長からは厄介者だと思われる。
肝心要の娘たちからは体の良い遊び相手としか見做されない。
人族が自分たちの娘を連れ去られることに怯えながら、伴侶を探しに来た竜族を拒めないのはグリュライトに満ちている自然的な力が竜の存在なくして与えられないと解っているからだ。
竜族が滅べば太陽も月も昇らず、風が止み、水は枯れ、緑は色を無くし、荒ぶる火により大地は乾く。
そんな世界にはどんな生き物も住めない。
だから仕方なく竜族が訪れれば滞在を許可し「どうかここに忌まわしき竜の目に留まる可哀相な娘がいませんように」と心の中で祈っているのだ。
「竜族かどうかなんて関係ないと思うけれど。姉さんは恋に臆病になってるだけなんだ。恐いんだよ。傷つくのが」
「それって……昔、男に酷い目にあったってこと?」
もしそうならば探し出してもっと酷い目に合せてやろうかと考えていると、ゼルが慌てて「違う!違う!」と首を振った。
「ただ小さい頃好きだった男の子が姉さんの友達のメリッサを好きだって解って、暫く落ち込んでいたんだよ。結局自分みたいな地味な子よりも、可愛くて積極的な子の方が好かれるんだって思ったみたいで」
そんなことないのに、とゼルは深く重いため息を吐く。
ぎゅっと布団を握り締めて姉の不憫な境遇を嘆いている。
「僕が元気ならもう少し姉さんも気楽に生きられるんだろうけど」
「ゼルが病気じゃなかったらエリスは俺に会う前に誰か別の男と一緒になってたかもしれない。それじゃ困るよ」
「どうかな?僕が元気だったとしても姉さんはアムに会うまでは独身だったと思うけどね」
何故か自信ありげに言い切ってゼルが柔らかく微笑む。
エリスによく似た面差しが笑うとまだ見たことのない彼女の笑顔を見られたような気がしてアリウムの胸はほっこりと温かくなる。
「姉さんの運命の相手はアムだから。僕から見たら二人はお似合いなんだけど、姉さんはそう思えないんだろうな……きっと」
物憂げに呟いた言葉にアリウムは唖然とするが、ゼルは心から姉の幸せを願っているようで「ねえ」と思いつめたような顔でこちらを見つめてくる。
「自分のことは自分でなんとかするから、姉さんを竜族の里に連れて行ってくれないかな?」
あろうことか無理にでも攫って行けと唆され、その提案には頷けずにゆっくりと左右に頭を振った。
「どうして?そこまでは姉さんのことを思ってくれてはいないってことなのかな?」
「……違うよ。できないんだ。同意の無い状態で連れ去ることは禁忌に触れる」
嫌がる女性を無理矢理里へと連れ帰ることは竜族にも人族にとっても良いことはなにひとつ無い。
人族は二度と竜族を集落近くに寄せ付けないようにするだろうし、竜族はグリュライトとの接点を失い赦しが出るまで人族の世界へと行くことができなくなる。
そうなればグリュライトは荒れ、そして赦されるまでの長い年月の中で竜族は繁殖の機会を失って数が減り力を衰退させてしまうことになるのだ。
竜族が力を失えば人族の住むこの世界へと注がれる自然の力も自ずと斜陽となっていく。
そもそも竜族間の力の差が出ることは望ましくは無い。
六種の竜族がそれぞれ担っている役割は違う。
他の竜族の力が衰えた所で他の竜族がその部分を補うことはできないのだから。
白竜は光を、黒竜は夜を、緑竜は風を、青竜は水を、赤竜は火を、黄竜は地を操る力を人族の世界へと送るのだ。
「そんなものなのか……厄介だね」
説明を受けたゼルは驚いた後で深い嘆息を洩らした。
人族は竜族のことを畏れるばかりで知ろうとしない部分がある。
理解ができないと決めつけて端から拒絶しているのだ。
理解してしまえば大切な娘を喜んで差し出さねばならなくなると思っているのかもしれない。
「厄介なのはそれだけじゃない。竜族は好意を寄せる女性が嫌がることはできないようになっていて。思いの強さに応じた痛みが跳ね返ってくるようにできてるんだ」
だからエリスの気持ちを無視して行動することなどアリウムにはできない。
強い拒絶の言葉や態度を向けられたら死ぬほど苦しむだろう。
なにより嫌われることが恐い。
「竜族は本当に神秘的な生き物なんだね」
「そんないいものじゃないよ。ただの獣だ」
「違うよ。真実の愛を知る神秘の獣だ」
綺麗な言葉で肯定されたとしてもアリウムたち竜族の本質が変わるわけでは無い。
神秘性など人族の女性に比べれば竜族の荒々しい獣の本性など取るに足らない事象のようなものだ。
「お願いだよ。アリウム」
愛称では無く名前を呼んでゼルがその穏やかな茶色の瞳を翳らせる。
「君の愛で姉さんの乾いた心を潤して欲しいんだ。姉さんを幸せにできるのはアリウム、君だけだから」
人族が愛という言葉を使う時は竜族が頻繁に口にするよりも格段に重いものだ。
彼らがその言葉を大切にしているのを知っているし、他者に軽々しく囁くものではないとアリウムも理解している。
ゼルの懇願を重く受け止めながらも、エリスの気持ちを自分へと向けさせることの困難さに正直弱音を吐きたくなった。
それでも毎日彼女の顔を見たいと足を運び、嫌われないようにと気遣いながら接する労力を厭わないのは間違いなくエリスに好意を抱いているからだ。
「…………他の男じゃ僕が嫌なんだ」
指を強く握り込んだせいでゼルの白い拳は震えていた。
俯けられた顔にどんな表情が浮かんでいたのかは解らないが、声には後悔が滲み酷く陰鬱なものが溢れている。
ゼルも自分の薬を手に入れるために姉であるエリスが交換として差し出しているものがなんであるかを知っているのだ。
だから寝台の上から動けず、現状を変えることのできない自分の無力さを呪い、姉を救い町から連れ出してくれそうなアリウムへと期待している。
だからこそ応援してくれているのだ。
自分のために。
そして姉のためにも。
「……俺も、」
他の男や雄がエリスの伴侶となることは認めたくない。
彼女を幸せにするのも、笑顔にするのも自分でありたいと願っている。
「でもエリスがそれを望んでくれないと俺にはなにもできないんだ」
足繁く通い、誠心誠意思いを伝えても受け止める側がそれを望んでいなければ無意味なだけだった。
どんなことをしてでも振り向かせてみせると大口を叩けないのは、自信の無い己の弱さと経験不足のせいだ。
好きだという想いだけではエリスの目をアリウムへと向けさせることができないのだから。
人族はどうやって想い人へその愛を伝えているのだろうか。
どうやって愛を育むのか。
教えて欲しいと乞うてもきっと誰も教えてなどくれない。
彼らもまた悩み苦しみながら経験を積んで行くのだろうから。
「僕の病気さえ良くなれば少しは状況も変わるのだろうけど……」
「そういえば、ゼルの病気って生まれつきなの?」
珍しい病だと聞いたのはメリッサからだった。
エリスはゼルの病状について一切口にせず、またアリウムも聞いてはいけないような気がしてうやむやにしていたのだ。
「違うよ。二年前に町で流行った病が終息した後に小さな風邪を引いたのだけれど中々治らなくて……それがきっと良くなかったんだ」
温かい昼間は体調が良いのに夜になると咳が出始めて熱が上がる。
意識が朦朧とするほどの高熱だが朝方になると不思議なほどに熱は下がり元気になるのだ。
やがて熱冷ましを飲むと激しい嘔吐を繰り返し、体中に赤い発疹が出るようになった。
それだけでなく腹痛と下痢が続き、食事ができなくなるにつれ体力が失われた。
徐々に調子が良かった昼間でさえも倦怠感に襲われるようになり、ゼルは寝台の上から起き上がれなくなったのだ。
「丈夫なだけが取り柄だったはずなのに、今では姉さんの負担になっているのだから本当に嫌になるよ」
二年も経つのにゼルの病気は良くなることはないようだ。
悪化もしていないということなのでこれ以上の回復は難しいのかもしれない。
「アム、どうか諦めないで欲しい。姉さんのこと」
切実な思いを籠めた瞳には狂気にも似た危うさがある。
アリウムはなんとか微笑んで見せて「諦めないから、ゼルも元気になることを諦めないでよね」と約束させて部屋を辞した。
戸を閉めて顔を左へと向けると先程と同じ体勢でエリスは黙々と朱色の花を毟る作業を続けていた。
結構な時間をゼルと話していたつもりだが、山盛りの草花を煮出せるように下処理をするのは随分と手がかかるようだ。
染め物と真剣に向き合うエリスにはそれを楽しむ余裕も技術を身に着ける幸福感も見えない。
ただ必死さと焦りが彼女の背を押して息が詰まりそうな空気を漂わせていた。
「…………なんだか辛そうだね。染色の仕事好きじゃないの?」
手を止めて顔を上げるエリスの表情は硬く、長い睫毛の奥から注がれる視線はどこか不安そうに揺れている。
「昔は好きだった」
ぽつりと零れた声は寂しげで深く考えずに口にしてしまったのだろう。
自分の言葉を耳に聞いた後で驚いたようにエリスは瞳を瞬かせた。
「じゃあ今は嫌い?」
「嫌いじゃ――無いと思う。ただ、上手に染められなくて悔しいだけ」
エプロンの上に落ちている花びらを指先で摘まんで弄りながら落ち着かない様子で面を伏せた。
勝手口の陽射しを背にしているエリスが俯いてしまうと影になって普通の者には表情が見えなくなる。
だからきっとエリスは油断をしたのだ。
無防備な姿をアリウムの前で見せるなんて。
「エリス――――」
気がつけば戸口から工房へと移動し、茣蓙の上に座るエリスの正面に膝を着いていた。
悔しいと言った癖に覗き込んだアリウムの目に飛び込んできたのは苛立ちも憤りも無い、純粋な悲しみの思いだけで流されている涙の雫だった。
「――っや、お願い。見ないで」
身じろいで顔を背けて逃げようとするエリスの腕を掴もうとして途中で止める。
不用意には触れないと約束したことがあだとなり、泣いている女性を慰めることも抱き締めることもできないなんて。
この両腕はなんのためにあるのか。
呆然とした思いで己の腕を見下ろしていると、憐れと思ったのか腰を浮かせたエリスが再び座り直す。
「ああ、もう」
洟を啜りながら吐き出された声はいつものように力強かった。
恐る恐る顔色を窺えば、目元を赤く染めた少し潤んだ瞳とぶつかる。
そして困ったように頬を緩めて――。
「微笑った!?」
「なによ!私だって泣きもすれば、笑いもするわよ!一体なんだと思ってるわけ?」
羞恥を隠すために大声で怒鳴り、エリスは信じられないと首を振る。
「ね、ね!もう一回!もう一回笑ってよ」
「やだっ。なんでよ」
「だって、可愛かった。だからもう一回」
「やだっていってるでしょ。そんな顔したってダメなんだから!」
「そんな顔って?」
「だから、――――も、いい」
途中で会話を止めてエリスはむっつりと黙り込む。
心地いい風が入って来て花の香りが芳しく立ち昇る。
金茶の髪を守っている美しい青い布はきっと腕が良かったというエリスの父か母が染めたものだろう。
色が白いエリスによく似合っている。
「ゼルの方が上手なの」
唐突に呟かれた弟の話にアリウムは面食らいながらも、聞いているという意思表示で小さく頷く。
「父さんも母さんも、ゼルに染色の仕事を任せるつもりだったから」
好きだったけれど才能がないからと染め物の仕事を一度は諦めたエリスになんの因果かお鉢が回って来てしまった。
皮肉なものだ。
両親を流行り病で喪い、起き上がれない病気のゼルに代わって生活のために染色をするが上手く染めることができない。
毎日毎日今日こそは上手くいきますようにと願って染める作業の中でエリスは一切手を抜かないのに、思い通りに布も糸も染まりはしないのだ。
それでは好きだったものも嫌いになってしまう。
「エリスは頑張り過ぎなんだと思うよ。少し肩の力を抜いてみたら?」
「…………違うわ。まだ頑張りが足りないのよ。だから」
思うように染まらないのだと花を取り、作業に戻ったエリスの背中はこれ以上の干渉を拒んでいた。
だからアリウムは微笑んで「また明日来るよ」と返事をもらえない言葉を残して戸口から外へと出るしかなかった。