射抜かれる
「おはよう」
清々しい朝靄の中声をかけるアリウムの姿を見て明らかに不機嫌そうに顔を顰めるエリスは、昨日抱き寄せられたことを警戒してか距離を取るように移動する。
彼女を送り届けると言う口実を使って住所を特定しようと思っていた下心を見抜かれ、全力で拒否されたアリウムには町に建ち並ぶ沢山の家の中からエリスの住む家を探し出すことはできない。
だが水場で待っていれば必ず目当ての女性は現れると知っていたので、太陽が昇る前からそこで待ち伏せていたのだ。
町にある水場は全部で三つあるが、昨日別れたエリスが向かった西の方向から一番近い水場は中央にある多くの住民が使う場所しかない。
わざわざ遠い水場まで行くはずも無いので一日ここにいればいつかは彼女と会える。
そう思えばアリウムの心は浮き立ち、無為な時間ともいえる待ち時間も楽しいものと変わるのだが、どうやら随分と嫌われてしまったらしい。
「よかった。町から歩いて一刻の場所にある川に行かれたらどうしようかと思ってたけど」
意外と再会は早く訪れてくれたと喜べば、苦々しい顔で「明日からはそうしようかしら」と返される。
人が多く集まっている場所は獣も幽鬼も近づかないが、人里外れた道を女性がひとりで一刻も歩くなど襲ってくださいと言っているようなものだ。
実行するはずはないだろうがあまりしつこく付きまとえば、生活用水を汲みに行くために相当の距離を歩いて別の水場に場所を変えてしまう可能性は高い。
弟の看病や世話に加えて、染色の仕事を持っているエリスにはそんな暇はないはずだ。
そもそも彼女を困らせたいわけじゃない。
「ただ仲良くなりたいなと思っているだけなんだけどなー……」
どうしたら解ってもらえるのか。
人族の暮らすこのグリュライトで成体になるまで一年間兄の住んでいたセロ村で生活していたが、女性と親密になる難しさは未だに克服できていない事柄のひとつだ。
雄ばかりの里での生活では強い者が絶対であり、己の技量を磨くことや相手を威嚇しながら力量の差を見極める感覚などばかりを身を持って学ぶばかりで、一番大切な女性の扱い方など教えてはくれない。
未知な部分が多いせいで過度な期待と憧れを抱き、現実との違いに戸惑いながら繊細で自尊心の高い竜族は非力なはずの人族の女性の前で無様に狼狽える。
兄はアリウムが伴侶探しへの不安を口にすると必ず「アムは素直で可愛いから女に好かれる。だから大丈夫だ」と励ましてくれていたが、実際はこうして仲良くなりたいと思っているエリスからいい顔されないのだから気休めにしかならない。
「私はなりたくないから。迷惑」
手桶を両手にひとつずつ持ったエリスは冷たく言い放ちながら水が流れている水路へと近づく。
この町は北西に一刻ほど離れた場所に流れている大きな川から町の中へと水路を引いている。
昔は川の傍に町があったが、二十年ほど前に大雨の影響で氾濫し多くの被害を出したことから今の場所へと移動したらしい。
その際に生活に必要な水の確保のために整備されたのが水路。
ここの土地が東の方へと緩く傾斜している形状だったのでそれを利用して築かれた。
川まで歩いて水を汲みに行く必要がなく、水害の被害も無いことで安心して暮らせる。
いいことづくめの方法だ。
その水路の上には板が乗せられ、深く掘られた水場に満たされた川の水は清らかなせせらぎを響かせて東側にある次の水場まで流れていく。
「んー……そんなに怒らないでよ。エリスが嫌なら昨日みたいに不用意に触れたりしないから」
だからお願い。
少し警戒心を解いて欲しい。
「いや」
「どうして?」
今日も金茶の髪を覆うようにして青いスカーフを巻いているエリスは不機嫌そうに短く答えると手桶を水の中へと潜らせて汲み上げる。
簡単に引き下がっては誠意がないと見做されると思ったアリウムが必死で理由を問えば、更に侮蔑を籠めた茶色の瞳がひたりと据えられた。
「興味ないからに決まってるでしょ」
「……それは俺に?それとも竜族?まさか、恋愛すること……じゃないよね?」
恐る恐る質問するとエリスの目は半眼になり、胡乱な気配が漂い始める。
身構えたアリウムに「全部」と叩きつけて二つ目の手桶もいっぱいにすると再び両手に下げて歩き出す。
「あ、俺持つよ」
慌てて手を伸ばした指がエリスの手の甲に触れた途端「あんたねっ!」と勢いよく腕を振られて手桶から零れた水が地面と彼女の浅黄色のスカートの裾を濡らした。
しかもほんの少し触れた指先から微かな痺れるような感覚を覚えて呆然とする。
「舌の根も乾かないうちに私に触れるってどういうつもりなの!?口では調子の良いこと言って、約束なんて最初から守るつもりないんでしょ?見てくれがいいからってどの女も喜んで身を委ねると思ってるのなら大きな間違いよ!」
言い切った後で大きく息を継いだエリスは昨日と同様鋭い視線で睨みつけてきた。
その真っ直ぐな瞳に射抜かれ身動きができなくなる。
気を回したつもりが逆鱗に触れてしまい、言訳も取り繕うことも無意味で、こうして立ち尽くすしかない自分はなんと無力なのか。
「ちょっと!なんか言いなさいよ!こうやって一方的に罵ってたら私が悪者みたいに見えるじゃないのっ」
「…………ごめん」
できたのは掠れた声で謝罪することだけだった。
なんとも思っていない相手にするように笑うことも、屈託なく喋りかけることもできない。
揺れた視界の先でエリスが酷く狼狽して面を伏せる。その顔に後悔の色を乗せ、唇をきゅっと引き結んで。
微妙な雰囲気が流れ、互いに息をするのすら躊躇われるほどの狂おしい時間が永遠に続くかのような気さえした。
それならそれでもいい。
このまま時が止まってしまえばエリスを失うことは無い。
ずっと向かい合っていられる。
例え心が通わずに一方的に想っているままでも構わないとさえ思えるくらいにはエリスを好きになっていた。
ちっとも微笑んでくれないし、優しい言葉ではなくその可愛い唇から紡がれるのは激しい拒絶ばかりなのに。
何故だろう?
惹かれるのは。
きっと理由など無いのだ。
「…………なに?」
先に動いたのはエリスの方だった。
きっと八分目まで入った桶を持つ手の限界が近づいたのだろう。左手に持っていた分を辛そうに持ち替えて差し出してきた。
アリウムの方に。
「なにって、持ってくれるんでしょ?」
照れくさそうな顔を反らしているが全く隠せていない。
横向けられたせいで頬骨しか見えないが、耳だけでなく色の白い首筋まで薄らと桃色に染めている。
無防備な色香を匂わせるその喉元に顔を埋めたくなる自分を押え込むのにどれほど苦労したか。
「――――喜んで」
諸々の感情や動悸を必死で我慢してエリスの手に触れないよう慎重に手桶を掴む。
空いた左手を右手の横に添えて抱え直すと彼女は淀みない歩みで進み始める。
その背中を見ながら三歩離れて歩く。
背中で遊ぶ緩く巻いている金茶の髪を眺めているだけで沸々と幸福感が浮き上がってくる不思議な心地がした。
風下にいるはずのアリウムの鼻に、やはりエリスの匂いは届かず金属に似た匂いと青臭い匂いがするばかり。
治療師の悪臭がしないだけましだと思わなければならない。
安易に身体に触れないことを約束してしまったことを後悔しながら生成りの長袖のシャツが覆う細い肩の線や、真っ白な胸当てのついたエプロンの紐が結ばれている腰から浅黄色のスカートの下にあるだろう形の良い尻や脚線を想像してため息を吐く。
「………………見ているだけって、辛いなぁ」
「ちょ、なによっ。どこ見てるっていうの!?」
呟きを耳ざとく聞きつけてエリスがぎょっとした顔で振り返るので、幼い頃から愛らしいと褒められる笑顔を披露して「内緒」と応える。
普通の女性はそれだけで落ちるが、エリスは一瞬怯んだ後渋面で顔を前へと戻す。
不愉快そうな様子を見せられて即座に笑みを引っ込めて戸惑う。
「えっと……今どうして不機嫌になったのか、よければ理由を教えてもらえる?」
そうしないと次にまた同じ失敗を犯してしまう。
できればこれ以上嫌われるようなことにはなりたくないという焦りがアリウムの口と舌を動かしていた。
「……そうやって無害そうな顔して、あちこちの女に愛想振りまいてるんだと思っただけ」
「無害そうに、見えた?」
そんな風に見えているのだと驚いて目を丸くし首を傾げると、ちらりとエリスが視線を向けて来て頬を歪ませる。
「ほら、また」
再び指摘されたが自分の顔などアリウムには見えない。自覚の無い振る舞いに対しての謂れ無い非難をされても困る。
無意識ならば改めることも難しい。
途方に暮れて天を見上げるが、白々とした早朝の空は薄い雲が流れていくばかりで眺めていると虚しくなってしまう。
飛んでいる時は太陽が昇っていない朝早くの方が空気が澄んでいて気持ちよく、そして夕刻から宵闇に変わる時刻の方が色の変化があって美しい。
そしてグリュライトの大地から見上げるのならば昼間の透き通った青い空が好きだった。
「貴方ならそんなことしなくても女の子が放っておかないでしょ……」
「そうかもしれないけど、いいなと思ってる女の子に対して笑顔を向けるのは自然な流れというか」
「――――っ。今、普通に自分が男前だと認めたわね」
「あはは。引っ掛かって欲しいのはそこじゃないんだけど」
どちらかといえば前半より中盤から後ろの方が重要で気にして欲しい箇所だったが、エリスの反応は解っていて敢えてそこを無視しているのだと雄弁に物語っていた。
「顔の作りがいいのは別に俺だけが特別っていうんじゃないから。竜族はみんな容姿が整っていて、女性が好みそうな顔をしてるし」
それは単に伴侶となってくれる人族の女性を惹きつけるために進化した部分であり、竜族が子孫を残し繁栄していくために必要不可欠だっただけだ。
自分たちの顔を見てうっとりと見惚れるためじゃない。
そうでもしなくては個を残せないからだ。
愛する人の気持ちを少しでも引き止めておくためだけに特化した、褒められぬ事情と薄汚い思惑があるだけだから。
「他の竜族もこの町に来たことあるよね?見たこと無い?みんな綺麗で、格好良かったでしょ?」
「――――さっき言った、」
興味ないって、の言葉に再び胸が抉られるような痛みを感じて息を止め少し前屈みになる。
アリウムにも、竜族にも、更に恋にも興味がないのだと言われてしまえば、これ以上なにも言えなくなってしまう。
「だから他の竜族がどんな顔をしてるのか知らない。知ってるのは……貴方だけだから」
「エリス――――」
どんな顔をして、どんな気持ちで口にした言葉なのかは解らない。
それでも竜族の中で知っているのはアリウムだけなのだと告白されてしまえば簡単に心は蕩けさせられてしまう。
黒竜の他にあと五色の竜族があるが、そのどの竜たちにも、もちろん同じ黒竜であってもエリスの存在を知られたくないと強く願う。
できれば人族の男であろうとも彼女の傍に寄って欲しくないとさえ思うのだから強欲すぎる。
「や、なに?そんな変な声で、名前呼ばないでよ!」
肩越しに振り返ったエリスはぎょっとした顔でしげしげとアリウムを見つめてくる。
切羽詰った声はどうやら甘く聞こえてしまったらしい。
アリウムの感情は声に乗り、エリスの耳へと届けられてしまったのか。
「だってさ。久々に、キタから」
「なにが?」
「なにがって、胸のときめき……かな」
対照的に冷ややかな声音のエリスに向けてふわりと微笑むと、アリウムの溢れてしまった想いに押されたかのように彼女は慄いて蒼白になる。
いっそ絶望的な表情を張り付けて。
「――――男ってみんな一緒ね」
嫌悪感を滲ませて吐き出された台詞は自嘲気味に響いた。
少し早くなった歩みと拒絶を示す後ろ姿は悲愴なほど真っ直ぐで凛としているのに、男の欲望を逆手にとって取引をしている自分の愚かさと穢れに怒りを抱いているのだと匂わせる。
「エリスは弟の病気を治すために治療師と寝ていることを許せないの?」
「やめて!こんな所でそんなこと言うのは、」
「恥ずかしい?それとも秘密の情事の方が燃えるから他の人に知られたくないの?」
我ながら酷いことを言っていると思う。
朝早くの通りは静かで、時折早起きの女性が煮炊きする気配が家々から感じられるが殆どの住民がまだ寝台の中で眠りについている。
そんな道を歩きながら声を押えずに話していたら浅い眠りから覚めて聞いてしまう者もいるだろうし、エリスのように水を汲みに行こうと出てきた者に聞き咎められる危険はあった。
周囲を気にしているエリスの怒りを煽るかのようにアリウムは言を重ねる。
「嫌なら他の方法を探せばいいのに、薬と引き換えに自分の身体を差し出しているのはそういう行為を悦んでいるからじゃないの?違う?」
舐めるように後ろ姿を堪能していると、突然立ち止まりそっと桶を足元に置いてこちらへと向き直ったエリスから鋭い平手打ちを食らった。
同時に打たれたこととは別の痛みがアリウムを苛む。
「他の方法なんてっ」
顔を歪ませて涙を浮かべている彼女は打ち付けた右手を胸に抱き寄せ大きく息を吸う。
肩が上下して円やかな胸が空気で膨らむ。
そんな些細な変化さえ悩ましく映り、アリウムをそわそわさせた。
「なかったわよ!病で苦しむ弟を見捨てれば良かったとでもいうの?そんなことできるわけがないじゃない。せめて私に父さんや母さんみたいな染め物ができる力があれば、こんなことには」
ならなかったのに――という最後の言葉は掻き消えて、小さな嗚咽と共に飲み込まれる。
気丈にも泣くのを堪え切ったエリスは手桶を持ち上げて踵を返し歩き始めた。
その手が震えていることも、掌がじんじんと痛んでいることも解っているのにアリウムには触れることさえ叶わない。
だからそっと己の左頬を撫でて、少しでもエリスの痛みが無くなればいいと切なく思う。
嬉々として自らの身を治療師に差し出しているわけではないことも、快楽に溺れているわけでもないことはエリスの態度や言葉の端々から読み取れているのに、それでも意地悪な責め方をしてしまうのは偏に彼女を他の男に渡したくないという独占欲からだ。
怒らせることは逆効果だと知っていても、アリウムにはどうしようもできないことばかりで苛立ってしまう。
「……ごめん、エリス」
「知らない」
凍えるような重く苦しい声は涙に濡れて湿っている。
アリウムは自分の行為を激しく後悔したが今更反省し謝った所で許してもらえるとは思えない。
「ただ、俺は」
弟の命のためにその身を捧げることを選んだ自分を恥じて貶めるのではなく、気高い行為に胸を張って堂々と誇ってもらいたいと思っただけだ。
そうでないと辛すぎる。
納得できない。
エリスの身体に触れられるのが治療師だけだということを。
「もういい……」
小さく息を吐き出して囁かれた許しの言葉はアリウムの胸をきゅっと掴んだ。
儚い痛みを伴って。