なんだこれ
フラウ山は標高が高く、山頂は夏でも雪に覆われている。
闇の月の寒さは厳しいが、火の月や風の月は涼しく過ごしやすい。
セティが住む場所は比較的人里に近く、木々も多い所で獣たちもたくさん生息していて日々の暮らしに不便は無さそうだ。
今は雪に埋もれて見えないが、人が通るための道がしっかりと踏み固められているぐらいなのでこの道を通って山の向こうへと行く者も多いはず。
「フラウは頂へと至る道は険しいけど、比較的抜けやすい山だからな」
雪の中で山道を見分けるのは難しく注意深く歩かねばならないが、湯の沸く泉は途中から葉を落とした木の幹や枝に掴まりながら斜面を上るという少々厄介な場所にあった。
それでもセティやテスの足運びに迷いは無く、更に危なげも無いことから頻繁にそこへと訪れていることは解る。
紺色の空は澄み渡り、月が瞬く銀色の光りが雪の上をキラキラと輝かせて幻想的な景色を見せていた。
「それでも道を見失えば遭難はする。絶対に遅れずについて来いよ」
「あれ~?俺は邪魔者なんじゃなかったの?」
見捨てて放置すればいいのに、テスは少し遅れてついてくるクレマを振り返り警告する。
「うるせえな。怪我してる奴を雪山に放置すりゃ、死が待ってる。そんな寝覚めの悪いことしたくないだけだ。俺も、セティも」
「それは、それは。たいした偽善者だね」
自然界の中で暮らす者にとって怪我は命取りだ。
敵は捕食者だけに非ずで、厳しい自然の驚異によってその身を滅ぼす羽目に陥ることもままあった。
今回セティに発見され保護されたことはクレマにとって僥倖であり、本来ならば感謝をしなければならないくらいだったが素直にそれができるほど中身ができていない。
どんなに強靭な肉体を持っていたとしても、三日三晩激しい雪嵐の中で無事に済むわけがないことは百も承知だ。
さすがに死にはしないが、弱り切った肉体が回復するには相当の時間と栄養が必要だっただろう。
今でさえも栄養不足による治癒力の低下が顕著に表れているのだから推して知るべし。
それでもクレマ自身が助けて欲しいと乞うたわけでもないのに、それを恩着せがましく言われることに我慢がならない。
自分の捻くれた性格は自覚しているが、人族の目覚めの悪さなど知ったことでないとせせら笑う己の醜悪さには反吐が出る。
「おまえなっ!」
語気を荒げたテスの声に被せるように「もう、着く」と報せたセティは手袋に包まれた指先で前方を指し示す。
その先に白い煙が空に昇り、北から吹く風に靡いているのが見えた。
「湯気?本当にあるのか。湯の沸く泉」
こんな山の中腹にと驚き目を丸くすると何故か得意げな顔でテスが「怪我をした野生の獣や獣人族も入りに来る、ありがたい泉なんだぜ」と説明する。
「また獣人か」
テスもセティもことあるごとに獣人族の話をするが、普通それほどお目にかかる種族では無い。
人族は彼らを嫌悪し、恐れている。
互いの接触は最低限だと聞いているが、どうやらこの二人は違うらしい。
「結構気の好い奴らばっかりだ。下品な竜よりは尊敬できるし、頼りになる」
「竜より獣人の方がいいなんて、あんたらよっぽどの変人なんじゃない?」
むっとしたのはテスだけでは無く、クレマを拾った責任を感じて若干は庇おうという気持ちのあるセティですら冷たい視線で睨んでくる。
「それはあなたが知らないからよ」
獣人族のことを。
怒気の含まれた声音に獣人への賞賛を感じ、それが逆にクレマへの不遜な態度や横暴な物言いに対する抗議にも聞こえた。
セティの揺るぎ無い信頼を得ている獣人族に燃え上がる怒りを覚え、それが嫉妬なのだと理解した時には軽く脱力しクレマは「知らないさ」と不貞腐れて呟くしかない。
「俺が知っているのはあいつらが人族の世界であるグリュライトを侵略し、大地に多くの血を流し屍の山を築いたことだけだ」
そのせいでどれだけの穢れを大地に刻みつけたか。
木々が病み、風が淀み、水が濁り、山という山が火を噴いて、空を噴煙が覆って光も闇もグリュライトから奪われたというのに。
「随分昔のことよ。何千年も前の」
「昔のことっていうけど、あの時に力尽き命を失った竜族がどれくらいいたか知ってる?知らないよね?人族は竜族の世界のことになんて興味ないからさ」
歩みを止めてその場に縫い付けられたかのように動けずにいるセティは口を噤んで目を伏せる。
そしてテスも言い返すことができずに唇を噛んだ。
「昔の竜はね、長命なんだ。古竜っていってその当時の竜が里にまだ生きているよ。人族には過ぎ去った昔の話かもしれないけど、竜族の中ではまだ現実の語り部が存在するくらい身近なものなんだけどね」
今の竜族にはそれほど長く生きる力は無い。
だが格段に人族よりは寿命は長かった。
「竜族の住む世界とグリュライトは無関係じゃない。俺たち竜の力が高まれば高まる程、その力は人族の世界へと還元される。逆もまた然りだ。グリュライトが穢れれば、その浄化のために竜族はその力を搾り取られる」
獣人族によって蹂躙されたグリュライトは豊かな自然も、大地の恵みも、風の涼やかさも、光の温かさも、水の清さも、火の便利さも、闇の安らかさも失われていた。
抗う力の無かった人族はその数を減らし、滅びようとしていたのだ。
そのぎりぎりの世界を支えるために古竜たちは力を振り絞り、物言わぬ巨大な躯となってあちこちに転がっていた。
無残な姿で。
「人族は竜の力で護られていることを知っているはずなのに、ちっとも感謝しない。年頃の娘を攫って行く冷酷非道な生き物だと決めつけてさ」
知っているからこそ、暦に竜の色やその力を使ってきた。
それなのに。
「獣人族の方がいいっていうんだから、全く気分悪いよ」
「………………けた」
風に飛ばされながらセティの言葉の最期だけクレマの耳に届いた。
悔しそうに眉を寄せて、口角を下げている彼女は怒っているような、悲しんでいるような微妙な表情をしている。
「ん?なに?」
「彼らはちゃんと報いを受けた」
尚も肩を持つ発言にクレマは唇を歪めた。
「当然だろうね」
セティは頬を強張らせて息を飲んだ。
まるでクレマが同意して獣人族に同情すると思っていたかのように傷ついた顔をしていた。
「こんなとこでお喋りなんかするのよそうぜ?寒くて縮まっちまう」
外套の中で腕を擦りながら催促してテスが歩き出す。
クレマもこれ以上不毛な会話を続ける気もなかったので彼にならって足を動かして前に進む。
セティだけが浮かない顔でその場で佇んでいたから直ぐに追いついてその前を素通りする。
なにか言いたげに唇を動かすが、結局はなにも言わずに溜め息だけを吐き出してクレマの後ろをゆっくりとついてきた。
力強い雪を踏む音が聞こえてきて、儚げな容姿とは真逆の逞しさが妙に気になる。
「俺は大人しくて、刃向わない女が好みなんだけどな~?」
どうしたことか。
見た目はクレマの趣味とぴたりと嵌るのに、セティはその枠に収まりきれない。
聞かせるつもりは無かった独白だが、端から声を抑えようとは思っていないため背後にいる彼女にも前方を歩くテスにも聞こえている。
それでもなんの反応も示さずにただ先を急ぐテスと、探るような視線を後ろから感じて淡く笑う。
「なんだこれ?」
先頭にテス、殿にセティ、そして間に挟まれてクレマと一列に並んで歩く姿は滑稽にしか見えない。
まるでクレマが護られているような立ち位置に感じられ不可解なおかしさを醸し出していた。
俺は竜で。
人族の力など借りなくても自分の身は自分で護れるのに。
雪山での危険といえば滑落や崩落、遭難そして雪崩。あとは寒さくらいで、人に襲撃されたくらいでは切り抜けられる自信は勿論ある。
竜族は護られるという環境になれていない。
幼体の頃から強く在れと放任されて、母に愛情を注がれはするが父からの嫉妬や嫌悪の視線に晒されてはそうそう甘えることもできず。
そもそも人族である母に護ってもらおうという意識は備わっていない。
どんなに幼かろうとも父の不在時に母になんらかの危険が及ぼうものならば、己が身を張って護り抜くという自負と本能があった。
父たる竜が護るのは子であるクレマでは無く、愛すべき伴侶の母のみ。
そのことにさしたる不満はなく、それが当然の理として理解していたから。
まさに「なんだこれ?」状態で、戸惑うしかない。
怪我をしているからとの配慮なのだろう。
きっと。
でも。
「余計な御世話だ」
心配も優しさも、思いやりも気遣いも必要ない。
鬱陶しいだけだ。
それなのに不愉快さや苛立ちよりも先に立つのは驚くべきことに、どことなく満たされたような不安定な感情だった。
「あ~あ。腹減った……」
こんなに心が乱されるのは空腹のせいだろうと結論付けてクレマは全てを切り離す。
そうすることが楽だったし、それが正解のような気がしたから。
辿り着いた泉は中央から熱湯を噴き上げており、ぽこぽこと気泡が弾けていた。
寒い中で濛々と立ち込める白い湯気のお陰で一緒に湯を使っても互いの姿ははっきりとは見えないが、テスが共に入ることを許さず先にセティが入浴した。
少し離れた場所にある岩の雪を退けて座るテスの隣に腰かけて星空を見上げるが、どんなに美しく見惚れるような景色も男と眺めるのでは心は弾まないものだ。
「怪我、大丈夫なのか?」
唐突に問われてクレマが驚きつつも問題ないと答えれば、訝しげな表情でテスが「本当か?」と再確認してくる。
「疑り深~い。何度も言わせないでくれる?俺は竜族。こんな怪我、転んで擦りむいたくらいのものだよ」
「……の割には、脚庇って歩いてたじゃねえか。それから腕も」
「歩ければ問題は無いからね。腕だって物が掴めれば人族の頭を握りつぶすことくらい簡単にできるよ」
口にしたことは事実だったが俊敏な動きはできないし、握りつぶした後で暫く腕が使い物にならないことは確かだった。
しかしよく見ている。
感心しながらもテスの横顔を盗み見れば、太く凛々しい眉を寄せて睨むように月を見ていた。
「俺はセティが空を飛ぶ竜を射落としちまったのかと思ってたんだけど、」
違うよな?と真っ直ぐな瞳でこちらを見たのでテスと不本意ながら見つめ合う形になってクレマは渋面を作る。
「竜は鳥よりも遥か上空を飛ぶんだ。それはないね。そもそも人族の女が竜を撃ち抜くなんてそんな腕あるわけない」
鼻で笑うと「そうでもないぞ」とテスが脅しつけてくる。
「セティの弓の腕は百発百中だ。ここ数年外した所を見たことがない。どんなに獲物が遠くにいても、小さくても完璧に射抜くんだぜ。いつだったか、見えない場所にいた鹿を仕留めた時には正直ぞっとしたくらいだからな」
きっとセティは視覚だけでなく持ち得る五感を全て活用して弓を引くのだろう。
だから見えない獲物ですら撃ち抜くことができる。
「山暮らしを続けるには必要な技術だと思うけど、あんたは歓迎してないの?」
「……いや、うん。そうだな」
言葉を右往左往させてテスは嘆息する。
足元の雪を徐に掴んで丸めると腕を振りかぶって雪玉を遠くへと投げ飛ばす。
白い玉は風に飛ばされて小さくなりながら左に逸れて雪原に消えた。
「俺のせいだ」
「そうだろうね」
クレマの適当な相槌に口の端を曲げて感情を顕にするが、テスは「事情も知らない癖に」とは口にしなかった。
ただ時間をかけてテスが発したのは「セティは独りでも生きていける女になっちまった」という苦渋に満ちたものだった。
「確かに可愛げがない」
「お前なっ。本当に性格悪すぎるぞ!?」
「俺は正直だからね」
「世の中言っていいことと悪いことくらいあるだろうが。竜ってのはそれすらないのか」
ぶつぶつと文句を言うテスに笑って「あるさ。それくらいの常識は」と返答する。
それでもクレマは相手に配慮することに意義も意味も見いだせず興味も無い。
「正直なことが正しいとは限らないんだぞ。口には気をつけろよ」
「あはは。なんで?特に人族には最初から嫌われてるんだから、今更って感じ?」
「……初めから努力もせずに諦めるなんて愚か者のすることだ。嫌われてるからって逃げてたらなにも変わらないだろ!」
「そうね」
丸く大きな目をぐりぐりと剥いて怒鳴ったテスの声に答えたのはクレマでは無かった。
湯に浸かりほんのりと朱に染まった肌をしたセティが憂鬱そうに立っている。
洗った髪が冷えないようにとフードを深く被っているのでどんな顔をしているか解らない。
それでもテスが瞬時にやばいという顔をして立ち上がる。
「解ってる。解ってるけれど、私は今の生活が気に入ってる」
「セティ、その話は今度ゆっくりしよう」
「俺に言ってるのかと思ってたら、自分の嫁に言ってたの?あんたも大概質悪いね」
「ちがっ、……わない」
悔しそうに吐き捨てて、テスは認めた。
潔いが反省はしていない。
「弓を頂戴」
差し出されたセティの腕をじっと見つめてからテスはぐっと奥歯を噛み締め、背に負った矢筒を下ろして弓と共に手渡した。
セティは矢筒を担ぎ使い込まれた弓を抱き締めて立ち上がったテスの場所にちょこんと座る。
真っ直ぐに前を向いたまま彼女は独り言のように囁く。
「私もあなたのことを責められない」
「そうみたいだ。幸せな夫婦なのかと思ってたけど色々と問題ありそうだね」
待たずに泉へと向かったテスの背中を追ってクレマも腰を上げた。
温度の無い視線が向けられているのを感じながら角を曲がると、湯気の中で服を脱いでいるテスがいた。
泉の周りの雪は溶けて岩場が剥き出しになっている。
見回してみるとこの辺の地盤は岩盤らしく、あちこちに大きな岩がありテスはその上に防水効果のある外套を広げて脱いだ服を乗せていた。
折角温まっても濡れた衣服を着ては意味がない。
クレマもさっさと脱いで、テスの服の上にシャツとズボンを置くと泉へと向かう。
ばしゃばしゃと両手で湯を掬って身体にかけているテスは、この地方の人族の特徴が色濃く出ている。
背はあまり高くなくがっしりとしており、足腰が丈夫で鋼のような筋肉もついていた。
農耕で生活を立てるのではなく狩猟によって日々を暮らす彼らは器用で敏捷だ。
比較的戦闘に秀でており、粗野だが情に厚い一面もあるという。
「なんだよ……あんまりジロジロ見――――おい!あんた、なんて身体してんだよ!!」
居心地悪そうに抗議しようとこちらを向いたテスが途端にぎょっとした顔になり青くなる。
「そんなに驚くこと無いと思うけどね」
数々の戦いによって傷痕の残る身体を惜しげも無く晒していると、彼の視線がそこでは無い一点を見ていることに気付く。
「あんたこそどこ見てんの?」
「いや、そりゃあんまりだろ。化け物だ」
自信喪失したか、テスはすごすごと泉に身を沈める。
「言うほど無いけど。里にはもっと化け物級がいるよ」
大きさは強さに比例するが、能力の高さは大小に関係ない。
だから自信を失う必要はないのだが、そのことをいって励ましてやる必要性は全く感じられなかったので口を噤む。
「…………竜の伴侶ってのは大変だな。泣くことになる」
顎の先まで浸かっているテスから腕の長さ分離れた場所に入ると、少し熱い湯が手足の先をちりちりと痛痒い感覚が襲う。
「まあ、随分泣かしてきたけどどの女も悦んでたよ?」
「お前さー……ほんとに、むかつく」
「竜の雄も、人の男も結局は一緒だと思うけど」
繁殖のためにだけでなく快楽のために身体を重ねる。
互いに高めあい悦楽に酔いしれ、そして溺れる。
そこに愛や、好意がなくとも一瞬の喜びを得るために寝台を共にするのは罪では無い。
「ただ伴侶との閨は特別だっていうから」
味わってみたいと思うのは雄として当然の欲求だろう。
「俺、加減が解らずに壊しちゃうかも」
不安と恐怖が胸を過るのはクレマだけだろうか。
それとも他の竜たちも同じように恐れ、怯えているのだろうか。
知りたくとも己の悩みを打ち明けることは誇りが許さない。
「俺だって、そうだったよ」
初めて女を抱いた時、とテスが何故か吐露して。
クレマは思わず噴き出してしまい、怒ったように睨んでくるテスの表情がただの照れ隠しだと解って更に眉を下げる。
「なんだこれ」
自由気ままに生きて行くのが信条であるクレマの調子が崩されていく。
それでも。
悪くないかな。
と思う自分の気持ちに整理がつかないまま置いて行かれる。
「そんなもんか」
誰だってきっと怖いのだ。
テスも、そしてセティも。
だからもう少し二人の傍で行く末を見ていたいと、クレマは湯で顔を洗って痛む箇所にじんじんと染みわたる温かな感覚に身を委ねてそっとため息をついた。




