第十一話 ペルヘルバス
耳元で風がうなっている。肌を打つ空気は少し湿っぽい。
(この感じ、重力から解き放たれたような感覚。気持ちいいかも……)
ソフィーはそんな些細なことを考えている。落下の恐怖など微塵も感じず、うず巻く気流を突き破って流星のように降下していく。
少女が接近してくるのを確認したのだろう。イシュリーンは樹木から降りて森の中へと姿を消した。
ソフィーはイシュリーンが頭を出した場所より少し手前から森の中へと入っていく。彼女は地面に降り立つとすぐにロープの剣を作成した。前の戦闘と変わらず、今度の刃渡りも50センチほどだ。
「ソフィー。怪我しないでくださいね」
(心配してくれるの? ありがとう、ベル。でも大丈夫よ。今回の狩りはそこまで時間かからないと思うから)
しばらく前進すると、相変わらず草だらけの森の中にイシュリーンが待っていた。背中に脂肪をたくわえ、四肢を含む身体の前面が筋肉で覆われた独自の戦闘体型にかわっている。
「不思議なこともある。私のもとにウサギが戻ってきました。自分からしっぽを巻いて逃げたくせに、これはどういう風の吹き回しなのでしょうか」
ソフィーは剣を構えることを彼に対する返事とした。剣は左手のみで構え、右手は例のごとく力を抜きだらりと下げている。
イシュリーンが構えをとった。ソフィーをするどく睨みつけている。
先の戦闘とはかわって、先に飛び出したのはソフィーだった。
(先手必勝!)
ソフィーは一瞬のうちに間を詰めると、無謀にも剣を大きく振りかぶり大上段で斬りかかった。
イシュリーンは身体を反らして回避したのち、剣を振るった体勢のままの少女に殴りかかる。
(よしよし予定通りっ)
ソフィーは右手で印を結びお馴染みの蒼い防護壁を出現させる。
それを見たイシュリーンの拳がぴたりと止まる。
「っ……」
(さあ、これはどちらでしょうか。連動型? それとも空間固定型?)
空間に固定される仕様の防御壁をなぐり苦渋をなめた経験がイシュリーンを一歩踏みとどまらせてしまう。一瞬動けず、彼はその場に立ち止まる。
ソフィーはそのすきに右手を振ってある魔法を発動させた。
(決定打その一よ)
ソフィーは防御壁を消し去る。すぐに身体を低く前傾させながら剣を後ろに引いて、イシュリーンの膝を切断しにかかる。
イシュリーンは既視感を覚えながらも、跳躍して斬撃をやり過ごそうとして――――
「へっ?」
跳べない。何かに押さえつけられている。
慌てて足下を見る。
彼の靴に草が巻き付いていた。草はみっちり絡み合い、力を入れてもびくともしない。
少女の剣が迫ってくる。
イシュリーンは大急ぎで足に脂肪を集めた。少女が切りつけるだろう場所に見当をつけ、膝周りの脂肪を重点的に厚くする。
ソフィーはニヤリと笑う。
少女は右足に力を込めて思いっきり踏み込んだ。
前に進むためではない。
上に跳び上がるために。
膝を狙うとばかり思っていた剣の軌道が変わり、切っ先がイシュリーンの胸の中央に突き立てられようとする。イシュリーンは突然のことに混乱したが、なんとか胸の周辺に脂肪を集結させてロープの剣をむかえ撃った。
甲高い音が響く。
剣の切っ先は弾かれるわけではなく、イシュリーンの胸の表面を上に向かってすべり始める。切っ先はすぐにのど元を過ぎてあごの真下に到達する。
その間、イシュリーンは何も出来なかった。
いや、させてもらえなかった。
少女のブーツの裏が、彼の二の腕を両方押さえつけていた。彼は腕を動かすことが出来ない。
「うおっ」
(お願い倒れて、ウドの大木!)
ソフィーは身体の勢いを利用して剣やブーツにありったけの力を込める。
あごに掌底を受けたような格好でイシュリーンの身体が後ろに反れ始めた。
ここに来てイシュリーンは気づいた。
膝を曲げることが出来ない。防御に使用した脂肪の残りが固まったまま関節の動きを阻害してしまう。
「計算ずくですか……!」
イシュリーンは大の字で大地に転がるのは避けようと思い、膝の脂肪を分解しようとしたのだが――――断念した。
彼を突き飛ばした反力で早々に着地した少女が、にこやかな顔をして彼の膝に剣を突きつけていた。脂肪をどかすのはいつなのかと言わんばかりに彼に笑顔を向けてくる。追い打ちで、彼女の右腕が何か複雑な動きをしていた。
イシュリーンは悪魔を見た気がした。
もともと背中に脂肪を蓄えていたため身体の重心が後ろよりだったことも影響し、イシュリーンはなすすべ無く大地に倒れ込んだ。
ソフィーの魔法が発動し、すぐに大量の草が敵を拘束しにかかる。といってもただの草なのでイシュリーンを完全に拘束するには至らない。
本命は別にある。
ソフィーはイシュリーンの身体に土足で乗り上がると、ロープの剣を押し当ててイシュリーンのシャツを二つに裂いた。続いて、あらかじめバックから取り出しておいた立方体型の拘束具を彼の腹にそえつける。無論イシュリーンがただ見ているはずがなく、即座に脂肪を集めて針を防ごうとする。
イシュリーンは怪訝な表情をして言う。
「それが効かないことはもう知っているだろうに」
言葉が分からなくても、表情から相手の言いたいことを読み取ったのだろう。ソフィーはますますご機嫌な様子でニコニコしている。
彼女は左手の人差し指にはめられた指輪を、同じ手の親指で器用にこづく。
宝石が光ったあとでイシュリーンの腹の上に板が出現した。板にはすでに魔法陣が描かれている。コンプレックスルーンを設定した木の根元でソフィーが描いていたものだ。
(これがきっと決定打その二)
ソフィーが板に触れる。魔法陣にマナの流れが供給され、魔法が発動する。
「あははははっ……あ~あ~参った」
イシュリーンは笑うほかなかった。脱力してさじを投げる。
板の魔法陣が光りだした途端、これまで自在に操れていた脂肪がいっせいに動かせなくなったのだ。もちろん硬化した脂肪もみるみる軟化していく。
ソフィーは足で立方体を押さえつけると晴れ晴れとした表情でイシュリーンを見下ろす。
少女は袖で顔の汗をぬぐった。色白なほほが上気して桃のようになっている。黒い瞳のその奥に、強い意志の灯火が燃えている。
「なんという美しさだ……」
イシュリーンが場違いながらにつぶやいた。
2秒後、拘束具からブスリと音がした。
敵は今度こそ完全に拘束された。
☆ ☆ ☆
この度は気絶をこらえた仮面がソフィーに問いかける。
「脂肪の鎧が溶けていきます。どんな魔法を使ったのですか?」
(逆よベル。まったくの逆。私は魔法を妨害したの)
イシュリーンの腹から降りながら、ソフィーが仮面に説明する。
(実のところ博打だったけど、結果オーライね。私ね、一つ仮説を立てていたの。このデブ男は魔法を使っていないんじゃないかって。きっとどこかここから離れた場所に魔法を発動させる機構が存在するはずだって。大当たりね。きっとその機構はデブ男の音声を察知して自動で魔法を発動させているんだわ。だから前に拘束具を破ることができたってわけ。マナの操作系を奪ってもデブ男が自分で魔法を使わないんじゃ効果もないはずよね)
「はあ~、よく思いつきましたね」
(珍しいものじゃないわ。私たちの世界でも、魔法支援管理局ってところが似たようなことしているじゃない)
「ああ、法支局のことですか。そういえばそうだっけ」
(カラクリが分かればあとは簡単。場所を誤感知するような妨害をしたから、きっと今頃その装置はあのあたりの脂肪を動かそうと躍起になっているはずよ)
ソフィーは自分から10メートルほど離れた森の一角を指さした。
(さて……と。ベル、ちょっと協力してもらうわよ)
ソフィーは仮面を頭から外すと自分に合うように声の設定をした。そのあとでイシュリーンの方を見やる。彼に巻きついていた雑草は役目を終えて、風にふかれ静かにたゆたっている。
少女は男に声をかけた。
「初めましてっ。私ソフィーって言うの。名前を聞いてもいいかしら」
イシュリーンは目を丸くした。少女がイシュリーンに理解できる言葉を話したからだ。
彼は少女に問い返した。
「な、なんで君が私の世界のベーシックルーンを知ってるっ!?」
「驚くことないのに。世界間戦争の記憶をなくしてしまったの? 戦争捕虜から敵世界の情報を収集するのは当たり前でしょう? 私はその記録を調べていたことがあるの」
「君はまったく……何者なんだいったい」
イシュリーンはまっすぐ上を見つめたまま、ふうっと息を吐いた。
「一つ質問なんだが、君はその……声が出せないのか? その仮面は……」
「ええその通り。察しがよくて助かるわ。この仮面には発声器の役目を担ってもらっているの。ややこしいかもしれないけど、今話しているのは私、ソフィー。この仮面にも人格があるんだけど、今は引っ込んでてもらってるわ」
「やはりそうか」
イシュリーンはしばらく黙っていた。
(聞き取りづらい。舌足らず? いえ違う。ベーシックルーンの扱いが下手なんだわ。……魔法使いなのに? ……そもそも魔法は得意じゃないのかしら)
ソフィーはイシュリーンを心のうちで評価している。
やがてイシュリーンは自分から話し始めた。
「私の名前はイシュリーンだ。お嬢さん、私をとらえてどうするつもりなんだ」
「あら、それはあなたもよく知っているんじゃなくて」
「私の知る情報などたいした価値はないよ」
「価値って人によってぶれるものだわ。あなたは知っていることを吐き出すだけでいいの。その吟味は私たちの世界が行います」
「……口実が出来るぞ。戦争がしたいのか」
「口実なんていくらでもねつ造するくせに。過去も現在もおそらく未来も、面倒ごとを持ち込むのはいつもそちらの世界だわ。誰のせいでこうなったと思っているの?」
ソフィーは自分ののどを指し示す。
イシュリーンは渋い顔をした。
「とりあえず、あなたに話してもらいたいことがあるの」
「…………」
ソフィーはゆっくりとしゃがみ込むと、イシュリーンの顔を覗き込みながら問いかける。
「イシュリーン。あなた、お仲間はいるのかしら?」
「……答えられないな」
「ええ~。じゃあ、遠隔魔法の装置はどこにあるの? ここから北? 南? 東? 西?」
「もっと答えられない。だいいち私は方角など決めていない」
「そうなんだ。ふふふ、まあいいわ」
ソフィーはイシュリーンの腹の板とは別にもう一つ板を生み出す。
板の上でチョークを走らせる。
「拷問するのですか?」
(大丈夫、そんな野蛮なことはしないわ。だって必要ないもの。今、空間に残された魔法の記録を探っているの。それをたどっていけば遠隔魔法の装置があ……)
「ソフィー? どうかし――」
(しっ!! 静かに!!)
ソフィーはその場にじっとして極限まで耳を澄ませていた。同時に板に描かれた魔法陣を注視している。
ソフィーが弾かれたように前に跳ぶ。そのまま草の中を前転し、起き上がりざま素早く右手を振って防御壁を展開した。
バシィィッ!!
何かをムチで叩いたような音が聞こえた。
ソフィーはそれまで自分が立っていた場所に目を走らせる。
そこら一帯の草がまるでかまいたちにあったかのように切断されている。
「イシュリーン!! 何をしている!!」
ソフィーも仮面もイシュリーンも、その場にいるもの全ての視線が森の一点に集中する。
青年だ。
黒いマントをはおった青年がこめかみに青筋を浮かべながら叫んでいた。
「愚鈍なイシュリーン!! 小娘一匹捕らえられない!! 僕は恥ずかしい!! 貴様も恥を知れ!!」
青年はずんずんと歩きながらイシュリーンの方に近づいていく。
「そこのあなた!! 止まりなさい!!」
ソフィーが仮面ごしに制止をかけた。イシュリーンの理解できるベーシックルーンを用いている。
青年は驚いたようにして立ち止まると、ソフィーの方に向き直って話し始めた。
「ほう。僕の世界のベーシックルーンを使えるのか。小娘からおもしろい小娘に格上げだ。ただしそれより上はない」
「それ以上その男に近づいてみなさい。ただじゃおかないから」
「ただじゃおかない? 何を馬鹿なことを言っている。貴様がこの僕をどうこうできるとでも? 思い上がるなよ雌ガキ!! 猟犬を倒していい気になったか!! 羊が猟師にたてつこうなど笑止千万!!」
青年は倒れたままのイシュリーンを見やる。
「よかった。息も意識もあるようだ。イシュリーンよ、しばらくの辛抱だ。先にやつをたたきのめす。自分が一介の獲物に過ぎないということを、あの矮小な身体に思い知らせてやる」
青年は腰にぶら下がっていた鞘から剣を抜き放つと、ソフィーに切っ先を向ける。
「開戦だ!! かかってこい!!」
青年は大喝した。
その様子を眺めると、少女は眉をひそめてやれやれと嘆息した。