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その8


 そのことを、知っていた。





 真夏の夕暮れ時。橙と紫の混ざった陰影が周囲を覆っている。長い日が、ゆっくりと落ちようとしていた。

 その中に落ちる、見慣れた影。

 最初は幻だと思った、だから。

 夏の残影と。

 蝉の鳴き声。

 その中にひっそりとまぎれるように、かき消されるように呟いた名前だったのに。

 小さく小さく、ほんのわずかなその声を、そっと拾い上げるように。

「ああ」

 短くも。ヒグラシは相変わらずうるさいのに、なんでその音だけこんなにもはっきり聞き取れるんだろう。

 どうして。

「久しぶり」

 それだけで、幻などではない本物だと瞬時にわかってしまうんだろう。

「……学くん」


 黒色のシャツにジーンズ。それらをさらりと着こなす、細身の身体。髪は少し長くなっていた。形の良い鼻と、ノンフレームの眼鏡。

 衝撃が過ぎ去ったのち、脳内に溢れたのはなんともいえない感覚だった。逢えたこと、姿を見れたこと。高揚感が押し寄せて、頭の中がごちゃ混ぜになる。加えてはっとした、なんともいえない羞恥が襲う。久しぶりに逢う彼の前、自分はどう映っているのだろうか。考えればさっきまで、正面の学くんに気づくことなくだらしなくにやけながら歩き電話をしていたのだ。今更だけどみっともなく見えていたのではないかとか。全てが怒涛のように押し寄せ、私は軽くパニックになっていた。

 しかし、その全てに言えることは。結局のところただひとつなのだと、その瞬間悟ってもいた。

 嬉しい。

 ただ、会えたことが嬉しい。

(ほんとに、久しぶりだ―――)


 真夏の夕暮れ時。突如私の前に現れた、およそ一年半ぶりの姿。

 気になることは、記憶にある最後の姿よりも随分と痩せて頬がこけて、身体つきもシャープになっているような気がする。顔色も、あまり良くないように―――見えた。私の思い違いなのかもしれないけど。

 それでも、間違えるはずも無い声と雰囲気、そして彼という存在。

 紛れもなく、私の幼馴染である桐原学そのひとだった。


(まなぶくん)

 学くん。

 彼は。




私の、すきなひと。




 奔流。

 私は思い出していた。まるで映画のコマ送りの逆転のように。今から一年と少し前、中学生の初夏。どこぞのファミリーレストランで親友相手に喋ったこと。『彼と距離を置いてみるのもいいかもよ』そして溯ること三年前、とある部屋の扉をノックも無しに開けたとき、見た光景。『学、誰この子?』『隣に住んでる幼馴染』更に遡って小学生時代、ふらふらと歩く低血圧な学くんの隣を上機嫌で歩く私、算数を教えてもらって喜ぶ私。『学くんに褒めてもらいたいの!』……そして保育園の頃、まだ小さな幼児だったころの記憶。

 転んでひりひりする膝と鼻の頭、けど泣き出す前に助け起こして土を拭ってくれた優しい手の持ち主は。


「……これ」

「え」

 目の前ににゅっと突き出されたシルバーの物体。私は思考を中断されて一瞬戸惑い、それをぽかんと見つめる。

 さっき落とした私の携帯電話。

 あ。

「ちょ、ちょっと待って」

 あわあわと両腕に抱えた複数の包みの位置を入れ替える。携帯と違って死守はしたけれど、若干不安定な状態になっていたから。

 よいしょ、と抱えなおして。

「ありがと」

 やや遅れた反応を返しながら、受け取ろうと手を伸ばした。その時、刹那のことだったけれど。

 指先が、触れた。

 温かい、大きな手。


『どじ』


「―――ッ」

 驚いたことに。

 びくりと大きく反応し、咄嗟に手を引っ込めたのは、私ではなく学くんだった。

(……え?)

 きょとんとして、受け取った携帯を片手に、彼を見つめる。

「あ……」

 学くんは何やら戸惑ったように、自分の指とこちらの指を見比べているようだった。どうしたのだろう。

「どう、したの」

「いや」

 理由を断定することなく、口ごもる。らしくもない。こんな学くんを見るのは、もしかしたら初めてなのかもしれない。

「学くん?」

「………」

 背が違うせいもあり学くんの顔色は夕日で若干逆光になっていて、よく見えない。ただ、顔を僅かに背けて口元がぎゅっと引き締められたことだけはわかった。同じく握り締められる手も。そして、わずかに緊張する空気。

 黒シャツの広い肩が、刹那小さく震えたように思えて。


「―――えっと、いつ帰ってきてたの?」

 瞬時に、私は話題を持ちかけた。なぜか、学くんが困っていると感じたから。どうしてかはわからないけれど。

「………」

「あの、わたしは先月の二十三日から夏休みなの。学くんとこはいつから?」

 やや強引な振りだったけれど、暫くしてぽつりと低く答えてくれた。

「……二十四日から」

「へえ、そんなに変わらないんだね。もうどっか行った? 帰省は今日が初めて?」

「……特に、どこにも。今帰ってきたところ」

「そ、そっかあ」

 例え、夏休み中に今の彼女とどこかお泊りデートにでも行って帰ってきた後だったとしてもわたしはもう嘆かない。だって学くんはそういうひとだっていう傾向が頭の中に入ってるから。つきんと痛むだろう胸には気づかない振りをして、軽口混じりに「彼女さんとはどっか行った?」とか、そう言う準備だってしてた。

 けど、学くんは。どこにも行ってないって言った。この絶好のシーズンにどこにも行かず、真っ先にここに来てくれた。

 初めて、帰省してくれた。

「……」

「……」

 不思議な沈黙。なんだろかこの空気。相変わらずヒグラシは鳴いていて、その中で学くんとわたしは立ち尽くしている。

 学くんは逆光の中押し黙ってこちらをぼんやり見つめているようだった。両腕に不恰好に荷物を抱えたままのわたしを。目線は合いそうで合わない。わたしの顔じゃなく、手に持っているその荷物の数々に視線をめぐらせているかのように。わたしもぼんやりとした気持ちで学くんを見つめる。その薄い唇がゆっくりと開いた。

「……それ、」

「……!?」

 思わず息を呑む。だって。

「それ、誕生日プレゼントか」

 学くんが。あの学くんが、話を振った。あの学くんが、自分からわたしに!!

「あ、うん! 今日ね、友達に逢いに行ってきたの」

「……ふうん」

「そうなの、そうなの!!」

 興奮してやや勇み気味に答えたわたし。対する学くんの応答は短くとも、弾けた喜色は収まらなかった。

 だって初めてなのだ。初めて、学くんがわたしに!

「あのね、南駅の近くのフィオーレって店知ってる? 新しく出来たばっかりのとこなんだけど、そこ行ってきたの。凄くきれいで料理美味しくて良かった!」

「……その店なら知ってる。開店したのが一ヶ月前のイタ飯屋だろ。美味かったのか」

「うん!」

 初めてだ。学くんから話題を振ってくるのは。これまではいつだって、私が縋り付くようにして会話をしていた。平たく言うなら、話しかけるのはいつも私からだったのだ。けど今、確かに学くんが私に対して初めて話しかけてくれたのだ。場をもたすための、他愛の無い話題だったとしても、私は浮かれた。どうでもいいことも熱心に説明するほどに。

 それほどまでに、私は。

「でね、そのとき貰ったの。こっちが香織のでこっちが瀬乃の。えっちゃんがくれたのがこれで、これが、」

 うふふと笑う。嬉しかった、学くんと話せるのが。小さな頃みたく今日あったことを報告して、嬉しかったことを自慢して。

「恭ちゃんがくれたやつ! すごいでしょう?」

 学くんに『褒めて』ってねだるのだ。

 そうだ。私は。


 いつだって、学くんが、だいすき。それが私。昔から変わることの無い、ひとつの真実。


「ああ、すごいな。楽しかったか」

 相槌を打って、静かに問いかける学くん。この時はまだ、会話を続けられることが嬉しくて、私はまたも喜色満面で答えた。

「とっても」

「そうか。……良かったな」

「うん!」

 しかしさすがに気づく。静かにこちらの怒涛の言葉を受け止めてくれるのは昔から変わらないのに、どこか空気が違うことに。会話のテンポといい声音といい、かつては軽く流されてた感はさすがに自覚していた。けど、今は。

「……さっきは、そいつに電話してたのか」

「そいつ?」

 今は。

「その……キョウってのに」

「あ、うん。お礼にね」

「……そうか」

 学くんはほんの少し俯いたように見えた。

「まだ会ってないけど、おばさんは元気か」

 突然転調した話題に戸惑いつつ答える。なんだろう、この雰囲気。

「え? あ、うん元気だよ。そういえばこの前美容院行って若者カットしてもらったのにかわいく見えないってへこんでた。年なんだから無理しないほうがいいのにね。きっと若い男の子に褒めてもらえば元気も出ると思うから、暇があったらでいいから―――」

「今度、顔見せる」

「あ、ありがとう」

 学くん、何か様子がおかしい。

「あの学くん、」

「……ん」

 見つめてくる切れ長の瞳。そう、「見つめてくれている」。会話も流されてはいない。こちらの言葉を解釈してくれているとしっかりわかる態度、反応、これではまるで―――


「何か、あったの?」


 つい、という感じで零れた疑問だった。あまりに違和感が気になったから。記憶の中にある学くんの態度と、違う気がしたから。

 学くんの表情の読めない顔が、ひくりと震えたような気がした。気まずい空気に立ち戻るのを恐れ、私は慌てて言葉を紡ぐ。

「えっとさ、なんか学くん雰囲気変わったなーと思って。やっぱ高校入るとみんなどっか変わるからそのせいかもなんだけど。気のせいじゃなかったら、ほんのちょっとだけ――」

 余計な詮索だろうか。でも。

「変わった、ように見える」


「――――お前は?」


 投げ返されたのは、複雑な声音での問いだった。



**


「…………」

「…………」「…………」

「…………」

「あのさ有坂」「あのさアリー」

「なんだ」

「その話が本当なら、俺ら今まで勘違いしてたことになるな」「そうだね、まさに根本的な大間違い」

「ようやく気づいたかクソバカ共」

「有坂ぁ、せめてバカはとれよ学じゃあるまいし」「そうだよそうだよ、俺ら頭悪いけどバカじゃないもん桐ちゃんじゃあるまいし」

「言葉としては意味不明だが、言いたいことは理解できる。今度から望みどおりクソ共と呼んでやる」

「うわ、やっぱ却下」「うへ、そいつは勘弁」

「……」

「それにしても意外だったな」「そうだね、予想外だったね」

「……」

「あの学がな」「まさかあの桐ちゃんがね」

「…………」


「「頭良いけどバカだったなんてな(ねー)」」


**



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