天学へようこそ 4
「美味しいでしょ、おばさんが持たせてくれたリンゴ。うちも何個かもらったんだけどね、甘くてびっくりした」
「……」
「オレンジは切っとく?このまま置いとく? 手でも剥いて食べられるよ」
「……」
「おっけー、置いとくね。早めに食べてね」
「……」
私は学くんの寮室内にて学くんの椅子に座っていた。洗ったばかりのリンゴを果物ナイフで切って剥いて、おろし金ですりおろしたものを学くんに食べてもらってる。学くんはおでこに冷却ジェルを貼り、むすっとした顔ですりおろしリンゴをスプーンで掬ってる。無言だけど頷きは返してくれるし、そこそこ食欲もあるらしい。良かった。
あれから五分くらいドアの外で待たされて、冗談だよーいい加減開けてよーすぐ帰るからーとまたノック連打したところでやっと中に入れてもらえた。五分後の学くんはさっきと違ってちょっと髪が整えられてて、眼鏡もかけてマスクもしていた。むすっとしてたけど。
はじめて足を踏み入れた、天学の寮室。小さな玄関みたいなところで靴を脱いであがると、通路以外は思ったより広々としてる。すぐ右手にある扉は洗面所とトイレ、左手の引き戸は脱衣所付きのシャワー室らしい。寮室ごとにお風呂とお手洗い完備されてるんだ。開いてたのでちらっと見たら、脱衣所に洗濯機もあった。やっぱり、寮というよりアパートかマンションの一室みたいだなと思った。リンゴはここで洗っても良かったかな。
Tシャツにスウェット姿の学くんはやっぱり具合悪そうで、いいよ寝ててと言ったのに聴こえてない風にベッドに腰かけた。今更ながらちょっと申し訳なくなる。「リンゴ食べる?持ってきたからすりおろそうか」と訊いたらゆっくり頷いてくれた。多分何も食べてなかったんだろう。
リビング兼寝室のワンルームは本当に広くて、大きな二段ベッドを仕切りに二つの机が置いてあるというのにあまり狭く感じない。組み立て棚の上には小難しそうな本が並び、その隣には服が入れてあると思われる半透明の簡易箪笥。部屋の隅にはテレビ、学くんの机の上にはパソコンと積みあがった参考書やノート。二段ベッドは今は一人で使っているらしく、上段はベッドマットも何も敷いてないようだった。ベッドの反対側、片方のスペースは荷物置き場になってるけど、それを入れても全体的に物が少なく、少ないから散らかってない辺り、いかにも学くんの部屋って感じ。
(……昔のまぁくんのお部屋思い出すなあ)
密室だったのに空気が爽やかだと思ったら、エアコンが涼風を吹かせていた。これも寮備え付けか。すごいな本当。
「おかゆも作って持ってきたんだ。ちゃんと鮭入ってるよ、ちょっと薄味だけど。タッパーに入ってるから、ちょっとだけ水足してチンしてね。あとエルダーゼリーもコンビニで買ってきた。一緒にして寮の冷蔵庫に入れさせてもらったから、胃が落ち着いて食べれるようになったら後で食べてね。――あんまり怒んないでよ」
二段ベッドの下に腰かけてすりおろしリンゴを啜っていた学くんは、マスクを顎に下げたままギロっとこちらを睨んできた。睨むといっても今は「桐原学」でなく対みー仕様のまぁくんだし、更にいつもより三割程度眼光が弱いのでまったくこわくない。
「アポなしで急に来てごめんね。でも学くんだって風邪ひいてるってこと言ってくれなかったじゃん」
腕に、私が昔プレゼントした腕時計を着けてる。デートの時はいつも着けて来てくれるけど、部屋の中でも着けてくれるなんて、恥ずかしいけど嬉しい。具合悪い時くらい、別に気を遣わないでいいのになあ。
「昨日ラインした時、急にバイトのシフト入って今週末逢えなくなったって嘘までついて。途中まで信じてたよ、でもおばさんと話したら、本当は風邪引いてるって。どうして教えてくれなかったの」
「……別に、教えるまでの、ことじゃなかったから」
「別に隠すようなことでもないでしょ。風邪移したくなかったのわかるし、正直に言ってくれれば、私だって『お大事に』で終わったのに」
「……」
むすっとした顔が決まり悪げになっている。病人をあんまり突っつくのもなんなので、そこでお開きとする。
「はーい、そういうことでみーは意趣返しに来てやりました。びっくりしたでしょ」
「……した」
はあ、とため息をつき、学くんは下を向いた。気持ちしっとりした黒髪が、重たそうに垂れる。
「……美恵子」
「なあに」
「……ほんとに、誰にも、ちょっかい出されてないな? 変な奴とか……まさかと思うけど、ナンパ、とか」
掠れつつ物凄く強張った声で確認してくる。何が心配なんだろうと思いつつ、
「うーん、大丈夫だったよ。ほら、私ちゃんとここに辿り着いてるじゃん」
と答えた。嘘は言ってない。ナンパはされたことはされたけど……害は無かったし、変な人には話しかけられたけど、やっぱり害は無かったし。
「大丈夫、すぐ帰るし。学くんに迷惑かけないようにするから」
「……そういう問題じゃない。美恵子、すぐに寮から出ろよ。……変な意味じゃなく俺、今、色々鈍ってるから」
「わかってるよ」
あ、友達らしき人とお近づきになったことは言っておいた方がいいだろうか。ああでもあの人達黙ってて欲しそうだったし、なんか怒られそうだから訊かれない限り黙っとこ。デコられた名前については……うん、みーは忘れていたということで。訊かれたら答えよう。うん。
「……わかってない。いいか、寮生の中にはアホだけじゃなく、変なのも、いるから。そいつらにもし絡ま、れたら……迷わず、俺の名前出せ。いいな」
「?う、うん、わかった」
学くんの名前って印籠になるんだろうか。ともかく、どこかぼうっとした表情といい出し難そうな声といい、学くんの体調が不良なのは明らかだ。熱は下がってるらしいけど、あんまり無理はさせられないし気に障ることも言えない。
「お皿洗っとくから、寝てていいよ。お薬飲んだんだよね? 水分補給した?」
「……した」
「ならよし」
うんうんと頷いて、学くんから空になったお皿を受け取る。ちょっと触れ合った指はやっぱり、熱っぽかった。
「……美恵子」
「ん?」
くたっとどこか力の無い風情で見上げてくる学くんと目が合う。うっすら染まった肌と眼鏡がずれた奥の潤んだ瞳。いつも隙無く背筋を伸ばしている学くんが背中を丸めてぐったりしている。弱っているとはいえこれだけ隙があるのは珍しい。
そして、こんな顔も声も。
「……嘘ついて、悪かった」
「……いいよ。これでおあいこね。こっちこそ、具合悪い時にごめん」
そう言うと、学くんはゆっくり瞬きしてゆっくり首を横に振った。すごく珍しい上目遣い、頬が笑みの形になる。
「……驚いたけど、正直……来てくれて、すげえ嬉しい。ありがと」
わあ、学くんの柔らかい笑顔。
「あ、うん、……」
どきどききゅんきゅんしつつ、笑い返すことが出来た。学くんは男のくせにたまに色っぽく、レア状態だと凄まじく可愛い。なんかこう……一回びっくりすると、その後は氷の仮面が解けちゃうとでもいえばいいのか、表情も素直なのだ。普段からマメマメしいけどポーカーフェイス無表情版なのは変わらないので、こういった感情変化は本当にぐっとくる。
こんなんだからまた、びっくりさせたくなるんだ。私の彼氏は実に罪な(?)男である。
「……それ、どうした」
お皿を洗って水切り籠に載せて(寮生はマイ箸・マイカップやらを持っているので食器の置き場所は各自あるらしい)、まだ起きていようとする学くんをベッドに押し留めていたら、そう訊かれた。
「ん? これ?」
肘を指さしてるので、曲げて持ち上げる。左肘の上辺りに、かさぶた化した小さな擦り傷があるのを気づかれた。
「ああ、部活の時の。外周してる時に仕切りのネット踏んで、こけちゃったんだ」
「……大丈夫か」
「大したことなかったし平気平気」
実は膝も打ち付けちゃったので青あざがある。検査はしてもらったけど骨には異常無し、でも見苦しいので隠している。今日のファッションは上はTシャツ、下は膝を覆うカーゴパンツにスニーカーとごくシンプル。ここまで来るのに物凄く歩いたし、下手にお洒落してないこの服装で来てよかったと思う。
「……ケガとか、他にも」
「あーこの程度なら日常茶飯事だし。我慢して後で深刻化して後悔するのは自分だからすぐ保健室行くし、大丈夫。それより見てよほらー、力こぶ!」
ちょっと陰った学くんの顔を明るくさせるため、Tシャツの短い袖を肩まで捲って二の腕を見せる。見よ、この一般的女子とはかけ離れたけどぷにぷにとも遠ざかった運動部らしい上腕筋を!
「……」
学くんは私の腕を凝視し、私の顔を見て、物凄く何か言いたそうな顔をした。
「ほらほら、盛り上がるんだよすごくないー!?」
「……」
吹き出すどころかますます渋い顔になってる。あれ、当てが外れた。
(あ、もしかしてファッションがまたお気に召さないとか!?)
去年、真夏の服装にあーだこーだ言われたのできっと露出度高いのは好きじゃないんだろうと思ってたけど、これにもダメ出しされたらどうしよう。私、夏に限っては学くんのお気に召す格好出来る自信無い。
「どうしたのまぁくん。言いたいことあるなら言ってよー。ほら、触りたいなら触っていいよ、カッチカチやで!!」
「…………」
眉間に皺を寄せ、完全に口をへの字にしてしまった学くん。あれれ、いつもの顔の更に機嫌悪いバージョンになってしまった。ウケ狙いのネタが滑るって辛い。
私の彼氏は、長々と深い溜息をつく。そしてネタが滑ったお笑い芸人に、きっぱりと言い放った。
「――帰れ、あほみー」
ひどくない?
(なんなのあの態度)
そりゃちょっと調子に乗ったの悪かったけどさ。途中まであんなに素直で可愛いまぁくんだったのに、急に「桐原学」に戻っちゃって、どういうことよ。「あほみー」って久々に聴いたよ!この場合、関西人のボケに対する褒め言葉な「アホ」のニュアンスじゃないってみーは知ってるよ!お見舞いに来たのにギャグがスベったから部屋を追い出される彼女って、あり得なくない?かわいそうじゃない?!あそこは、あの場面はどう考えたって「ははは、こいつぅ(はぁとまぁく)」「うふふ、じゃあ眠るまで傍に居るからね(はぁとまぁく)」「なんて優しい彼女なんだ(はぁとまぁく)惚れ直した(はぁとまぁく)」な展開でしょうが!なんでああなるかな!!そりゃ病人にリアクション要求したの悪かったけど!!それともカッチカチのネタが古かったからいかんのか!?どうなのよまぁくん!!
以上、美恵子ちゃんのごちゃごちゃモノローグは読み流していただいて構いません、はい。
(……でもまあ、良かった。最後は元気そうで)
ふう、と息をついて脳内の不満を追い出す。なんだかんだで学くんは病人なのだ、調子に乗ってあんまり長居しないで良かった。学くんに逢えたことが嬉しくて、一緒に居られることが楽しくて、ついつい暴走してしまった自覚はある。反省、反省。
これでも、学くんの「寮の外まで送る」との言葉を断固として断った程度に分別はある。病人に無理させては本末転倒だよね。
(でも珍しい、学くんが風邪なんて。医学部志望だし、体調管理しっかりしてたはずなのに)
先週末は部活やテストやバイトなんかでお互いに大忙しで、なかなか逢えなかった。今週末やっと逢えると思ったら、まさかの学くんがドタキャン。しかも、理由を隠してた。なんだか久々にムッカーとなって意趣返ししてやろうと思ったのが今回のアポなし訪問の大半の理由。
体調が純粋に心配だったのも本当。何より、逢いたかったし。
逢いたかったんだ。
「……」
給湯室を過ぎ、階段の手前。廊下を歩いていた足取りが、ちょっと止まってしまう。後ろを振り返ると、学くんの寮室ドアはもう見えなかった。
腕に掛けているトートバッグは、階段をのぼった時とは違ってほとんど空。その軽さが少し、虚しい。
ふっと笑う。温かい笑みじゃなく、打算的な女のダサンテキな笑い。
……本当は。
(本当は私、――安心したかった)
そう、私はここに直に来て、確かめたかった。学くんが、一人でいることを。部外者立ち入り規制が厳しい天学寮に入れる数少ない人間が自分であることを、学くんの言葉が嘘じゃないことを、自分自身で確かめたかった。
私は、私は。
(あの頃の記憶に、上書きしたかった)
小学校六年生の、あの日。修学旅行から帰ってきて、真っ先に学くんの部屋に行って、そして、……学くんの部屋には初彼女が居た。
思い出すだけで心に何かが突き刺さって風穴が空く、それから感じた色々なものが胸に渦巻いてぐちゃぐちゃになる、あの時のあの光景。あの声。それを消して欲しかった。他の誰でもない、学くん自身に。学くんの、嘘偽りない今の姿で。
意趣返しっていうのは、そういう意味も含まれてた。
だから、私は。
……いま鏡を見たら、きっと凄くかっこわるいみーが映るだろうなあ。




