その10
離れてから、やっと気づいたこと。
ヒグラシの鳴き声の中。私達は、近くの公園のブランコに座っていた。薄暗い、夕闇が差し込み始めた午後の公園。
「――私ね、学くん。保育園の頃から学くんにべったりで、色々考えることやめてたの」
この場所も、思い出の場所だ。小さい頃、学くんと一緒に通り抜けたジャングルジム、一緒に掘り返してた砂場、喉が渇いたら飛びついてた水のみ場。学くんは私のために、優先的に鉄棒を登りながら手を引いてくれたり、スコップを貸してくれたり、固く閉められた蛇口を捻ってくれたりしていた。その全部を、私は当然のように受け入れてた。そして、幼心に募っていた想い。
「ちっちゃい時から、学くんが一緒にいることが当たり前で。無意識だったけど、トウゼンだと思ってた。うん、離れるなんて、考えもしなかったくらい」
大きくなったら、そういうわけにもいかないのにね、と苦笑する。よいしょ、と台に付けたお尻を持ち上げ、脚を離す。力いっぱい漕ぐと、ブランコは高々と揺れた。小さい頃は何度も何度も漕いでいたのに、今はひと漕ぎで到達出来る高さ。
「学くんが別の高校行くって決めた当時は、確かにショックだったけど。今ではそれが正解だったんだなって、思うの。やっと私、『学くん離れ』出来たみたいだから」
表面的には、の話だけど。
「今までごめんね。ずっと鬱陶しかったでしょ」
「――」
隣に腰掛け、俯いたまま沈黙している学くんの髪が、左右に振られた。
「無理して、否定しなくていいんだよ」
「――ッ」
更に振られる綺麗な髪の毛。
「だいじょうぶ。私、もう付きまとわないから」
だから。
「お願い、泣かないで、学くん」
微動だにしない彼の膝元。ジーンズの上に今も、絶えず零れ落ちる雫がある。私の言葉が、どうして彼を泣かせてしまったんだろう。学くんは私の言葉程度に、動揺するひとじゃなかったはずなのに。
『どうして学くんが、そんなこと私に命令するの?』
その言葉で、学くんは凍りついたように固まった。表情の読めなかった顔が、崩れた瞬間だった。私にもはっきりわかるぐらい動揺した様子で、彼は呆然とこちらを見つめた。その凝視にちょっと戸惑ったけど、普通に返したつもりだった私は、軽い調子で続けた。
『だって、変だよ。今すぐ着替えられるわけないじゃん。代わり持って無いし、それに、』
それは、極当然なことを。
『付き合ってるわけでもないのに。いきなりそんなこと言うの、ちょっと理不尽だと思う』
『……そ、うだな』
学くんは。
『悪かっ、』
『え、あ、ど、どうしたのっ! 学くん、どっか痛いの!?』
言葉の途中で、ほろり、と零れ落ちた雫。逆光の中でもはっきりわかったいきなりの学くんの落涙。私は慌てた。
全然状況がつかめなかったけど、とにかくそのままじゃいけないと思ったのでポケットからハンカチを出して学くんに押し付けた。目の前で泣く年上の男性、それだけでも私の許容量超えてるのに、そのひとは好きなひとでもあるのだ。どうしよう、どうしようと混乱しつつ、ほたほたと涙を零す様にわたわたと慌て、しばらく右往左往した挙句、丁度目の前に見知った市立公園があったのを救いとばかりに『ちょっとこっちで話そう!』と学くんを引っ張った。特に抵抗も無くついてきてくれた学くんと一緒に空いていたベンチに腰掛け、荷物を置いてから『えっと、私ヘンなこと言ってたらごめん』『そんなつもりじゃなかったんだけど、嫌なふうに聞こえたら本当にごめん』とよくわからないなりに謝った。学くんは何も返さず、更に焦った私は『ねえブランコ乗ろうよ、久しぶりに!』とこれまたよくわからない誘いをして、学くんも特に抵抗無く(略)。
そうして、冒頭の会話に戻る。
(どうしよう)
何を注釈しても、どう言い繕っても、学くんは泣き止まない。私の言うこと、見当違いなのかな。このひとが落涙してる時点で、非常事態なのは間違い無いのに、私はなんにも出来ないのかな。
さすがにこちらも泣きそうになった、そのときだった。
「――想定外、だったんだ」
ぽつりと。
「お前に否定されること自体は、覚悟してた。でも、」
掠れ声で、彼は言った。
「俺自身こんなに諦め悪かったなんて、思いもよらなかった」
「……諦め?」
問い返した私に、学くんは続ける。吹っ切ったような口調で、滔々と、流れるように。
「振られる覚悟は、してた。してたはずなのに、お前の顔見たら諦められなくなった。それどころか、当たり前の事実が堪えた。今更なのに、もうそんな余地なんか無いのに、それでもお前とそうなりたいって思ってる自分が心底情けなくて、でももう否定のしようもなくて。俺は一生こうやってお前に縋りついて生きてゆくんだろうなって確信したら、それが案外苦痛じゃないってことにも気づいたから、身勝手に嬉しくもなったんだ」
(『振られる』? 『諦められなくなった』? 私と『そうなりたい』『縋りついて』……??)
すべての言葉にぴんとこない。
「えっと……」
どういうことだろうか。
考えても意味がつかめずぽかんとしたままの私。マヌケな顔したこちらをちらりと見て、学くんはどこか自嘲気味に微笑んだ。さっきから、珍しい表情ばっかりしてる。
「悪いな、俺だけで完結してて」
「あ、いや……学くんがどっか痛いとか、かなしいとか、そういうのじゃなくて良かったよ」
「――美恵子は、優しいからな」
「ややややさしい? そ、それほどでもない、いや、あるかな~」
学くんに褒めて(?)もらえたのって、しばらくぶりだ。こんな場合なのにやっぱりテンション上がる。わたわたと慌てふためきながら嬉しがる私に、学くんは再度微笑んだ。
大きな手が膝に置いた私のハンカチをそっと握り、綺麗に畳み直す。いつの間にか、落ちる水滴はなくなっていた。そうしてハンカチをジーンズのポケットに仕舞い、眼鏡もシャツの胸ポケットに突っ込んで、ブランコから立ち上がった長身。ほんのりと腫れた瞼が、赤くなった切れ長の瞳が、決意を帯びたようなその視線が、更に見たことのない表情を作り上げていた。
「その優しさに、つけ込ませてもらうよ」
「へ」
漕ぐのをやめ、呆然と止まったままの私の前にゆっくりと歩を進めた学くんは、そのままそこに「手をついた」。そう、私の足元に――
「え!? え、ちょ、まなぶくん、何やって、」
「美恵子」
跪いた、のだ。土下座の姿勢と言っていい。そんな格好のまま、私の好きなひとは言ったのだ。
「好きだ。俺と、付き合って欲しい」
……そんな、私の許容量を完全に超えたことばを。
* *
俺の親友は、言った。
『その女はつまらない男の恋着程度で潰される女か。それとも、真正直な告白にはっきり答えを出せぬほど志の虚弱な人間なのか』
違う。美恵子は俺とは違って、毅い人間だ。向けられただけの誠意を返せる、真っ当な人だ。
『例え、悪し様に拒否され、如何様に拒絶されたとて。その程度で諦められる感情なのか、お前の言う幼少期からの執着とやらは』
違う。
『ならば、その諦めの悪さを最後まで見せろ。完膚なきまでに振られ、微塵に破壊された自己満足の果て、生まれるものが何なのか、確かめて来い』
今では、はっきりわかる。
振られた程度で、俺は美恵子のことを諦めることなんて出来ないんだ、と。
・
・
・
こうして、好きな女に心底の形で懇願してる今、ちっともそれが恥辱だと思わない自分に気づく。そう、これが本当の望みだったから。
「ままま学くんっ」
「好きなんだ。離れてからわかった、お前は俺になくてならないんだって」
「ととと取り敢えず、顔上げて、立って、お願い、もう、」
「頼む、美恵子。俺に愛想尽かしてることは知ってる、でも、ちょっとでも俺が嫌いじゃないなら、もう一度俺のこと好きになって」
「ああああもうわかった、わかったから、」
「美恵子」
「も、もとから愛想なんて尽かしてないからッ! 今だって、学くんのこと好きだよ、だいすきだよ!」
跪いた顔の下、にやりと笑う。そしてその表情をコンマで消して、真摯な視線で見上げた。
「じゃあ付き合って」
「……っ」
彼女は、真っ赤であった。しばらく沈黙したあと、続いた言葉。
確信した。やっぱり俺は、美恵子なしじゃ生きてゆけないんだろうな、と。
全部ぶつけてこいと言われたのに、巧妙に自分の真意を隠して告白した辺り、やっぱり策士な学くんでした。
次が最終話です




