まなぶくんのじこまんぞく 3
美恵子との繋がりを絶つということは、すなわち命綱を断つということ。
それをわかっていなかった、との言い訳は正しくない。そう、始めからわかっていたのだから。すべてをわかっていて、敢えて知らない振りをしていた。
解き放ったら最後、到底制御に負えないだろう自分自身の恋心が恐ろしくて。
食欲及び睡眠欲が極端に落ち、見る間に情けない風体になっていた俺。それを見かねたお節介な奴らのお陰でなんとか身体的な衰弱は回復出来たものの、精神的な衰弱は解消出来ない。学園全体に影響力持つ友人が俺の部屋に乱入し、「説明しなければ退学させるぞ」と脅してきた。渋々と事情を話し終えたのち、続いた会話が以下のものである。
「――で、桐原。お前は一体何がしたかったのだ」
「……は?」
「聞くに、桐原がその女に凄まじく執着しているのは事実。そして、今までその執着心を半端に否定し、半端に行動を起こした挙句、ほぼ自業自得でそこまで弱ることになったのも事実だな」
「……有坂」
「耳が痛いだろうが、聞け。俺自身、恋愛にはさほど経験も無い。が、恩義ある人間に対して持ち合わせる最低限の誠意というものは弁えている」
「……」
「その常識から判断するに、そこまで意地を張る理由がわからん。今の桐原たる男を作りえた恩人たる存在に対し、はっきりと一定以上の好意を自覚しながら、どうしてその事実を伝えない。例え恋情に応えられなくとも、礼儀は通せ。不義理な態度は恩人に対しての誠意ではない」
「……」
何も返せなかった。俺が、素直なあいつに対して不自然に気持ちを押し隠していたのは、事実だったから。告白を、受けるでも断るでもなく流してしまったマズい態度も。
「誰よりもお前に好感情を抱いていると知れているのだろう。そんな女相手に、より優位に立ちたかった? その思考こそ、意味の無い代物だ。相手が駆け引きを好む類の人間ならともかく、打算など思いつきもしないような類の人間に駆け引きをぶつけたとて、得られるものは皆無。むしろ率直な感情表現を旨とする者ならば、己が素直な分、外面通りに受け取るだろうことは知れている。『桐原学』ともあろう男が、わかっていなかったはずはあるまい」
その通りである。裏表の無い、感じたままを素直に受け取る相手に、どうして誤解される態度を取り続けたのか。みーでなかったら、とっくに愛想尽かされてるだろう。
それでも、押し通してしまったのは。
「俺が訊きたいのは、桐原の真意だ。これから先、己の過ちを取り返したいと願うなら、最低限の内省が必要だ。どうして今までそういう態度を取り続けてきたのか、その理由を今いちど振り返り、最も刳貫すべき箇所を押さえない限りは進展も為しえない。再会したとて、また同じことを繰り返す」
それでも、それほどまでに。
「……」
「言え、桐原。どうして、惚れた女の心を試すような真似をした?」
「……俺、は……」
―――怖かった。
「怖かった? 何に対しての恐怖心だ」
「……美恵子と、俺自身」
みーが「どじみー」でなくなって、その脚が傷だらけでなくなっても、俺は医者になるという志は捨てなかった。勉強に打ち込むうち、その中で見えてくる達成感というものに意義を見出したからだ。学力はもとより、財政的・労力的な問題で減少傾向にある医師という職業、それを目指すということがどういうことなのか、生まれ持った能力を無意味に潰すことが、世の中にとって如何な損失なのか。それを真面目に考えるようにもなった。いつの間にか、無気力なガキは無気力でなくなったのだ。
その原点はなんてことない、ただの初恋だ。誰よりも好きな女が出来たから。あの日、真っ直ぐに俺を見つめてくれた視線があったから。そいつに、純粋に尽くしたいと思ったから。
「たぶん、一目惚れだった。そこからずっと好き、で。好きで好きでたまらなくて、いつからか、それだけじゃない変な執着心も出てきて」
「……」
保育園のあの時から連綿と続く、恋心。それはおさまるどころが、どんどん強くなっていく。打算だとか、下心だとか、そういうのを微塵も持ってないあいつだからこそ、正反対な性質の人間を惹きつける。俺は美恵子を通し、真っ当な人間になったつもりでいた。誇張でなく、あいつが見つめてくれる限りどこまでも頑張れるのはそういう理由でもあった。
嫌だった。こんなきれいな人間を、他人にとられるのが。どこまでも、独占したかった。
「修学旅行とか、部活の遠征とか。数日離れただけなのに、半端無く寂しくて。なにやってても、あいつ抜きで楽しんでても、ここに美恵子がいたらもっと楽しいのにとかアホなこと考えてる自分がいて。こうして離れてる間にも、あいつが心変わりしちまったらどうしようとか、頭ん中堂々巡りで」
「……」
河上美恵子という人間は、俺にとって人生観を良い方向に変えてくれる恩人。そして同時に、好きな女。俺を慕ってくれる、可愛い妹分。……すべての要素を持つ、例えようも無く、重要で、大切なひと。苦しいこと、辛いことがあっても存在を感じるだけですべてにモチベーションが上がるし、楽しいことや嬉しいことがあると「みーにも教えてやりたい」と思う。この俺が、そんなことを極自然に感じてしまう。
「気付いたんだけど、今の俺がいるのは、ぜんぶあいつがいたからなんだ。あいつがいなくなったら、あいつが俺から、は、なれていっちまったら、」
あいつは、俺にとって途方もなく巨大で、深遠で、広くて、――影響力が強すぎる。
「冗談じゃなく、気が、狂う」
みーは、美恵子は、俺の中でそういう人間だったから。それをはっきり認めるのが怖かった。
あいつは、誇張でもなんでもなく、俺のすべて、だから。
「だから、否定してた。あいつは俺にとってそんなに重要な存在じゃないって、思いたかった」
それが、真実だった。
「あいつともし、完全に離れたら。俺はまた、つまらない無気力人間に逆戻る。だから、怖かった。それほど俺を翻弄する美恵子が。それほど、一人の人間に執着する俺自身が」
俺がこれほど執着してるのに、あいつが抱くのは「頼りがいのある年上の幼馴染」に対するただの恋心。もしかしたら、幼少時の刷り込みからなるただの親愛、その延長程度なのかもしれない。
いや、きっとそうなんだろう。あの日あのとき、あの言葉を真正直に受けてしまったから、俺を盲目的に慕うようになったんだ。そうでもなきゃ、無気力なガキがあそこまで好かれるなんてことあり得ない。こんなつまらない男が、素直で純真でどこもかしこも可愛い女に好かれる要素なんて、微塵も無いんだから。
「はっきり認めるのが、怖かったんだ。それほどの執着をあいつに向けて、あいつを束縛しちまうのが」
俺とあいつとでは、気持ちの大きさ重さが違いすぎる。正直に認めたらそのことを否が応でも思い知らされる。それが、わかっていたから。
「――ふん」
そんな俺の独白を受け、友人は言った。心底呆れた、という風情であった。
「阿呆だな。そんなもの、悩む余地も無い」
「有、坂」
「もっとたいそうな理由があるかと思ったのに。それしきのことであったら、単純明快な解決方法がある。俺でも思いつく、至極簡単な方法だ」
「――」
「さっさと、告白してこい。そして、完膚なきまでに振られろ。積もり積もった自己満足を、当人の手で粉砕されてこい。――それが、」
それが、半端な策士たる恋の結末なんだよ。




