身に余るお言葉、感謝いたしますわ ~それでは、あとのことはご自分たちでどうぞ~
「救ってあげる」という無垢な善意ほど、この世で恐ろしい毒はない。私はそれを、身をもって知っている。
ヴァルハイト公爵家の長女、エルザ・ヴァルハイト。王太子レイナードの婚約者であり、王国の財政と外交を担う政務顧問。
それが私に与えられた肩書きだった。
夜明け前から執務室にこもり、日付が変わる頃にようやく帰宅する。そんな生活を何年も続けてきたが、疲労を訴える暇などなかった。
誰かの笑顔を守るためには、誰かが嫌われ役を引き受けなければならないこともある。私は、その役目を自分に課していた。
「エルザ様って、いつも怖い顔をしていらっしゃいますね」
そんな私の前に聖女マリアが現れたのは、半年前のことだった。
平民の母を持つ伯爵家の庶子で、神殿で癒やしの力を見いだされ、国王の治療のため王宮に迎えられた少女だ。
病床に伏す国王の治療には、すでに何人もの聖女があたっていたが、彼女の治癒能力はその誰よりも高かった。
明るく愛らしく、誰に対しても物怖じしない。身分の高い貴族にも気軽に話しかけ、失敗しても屈託なく笑う。その無邪気さは、窮屈な王宮に新しい風を吹き込んでいる――少なくても王太子は、そう考えていた。
「そんなに毎日お仕事ばかりでは、お体に障りますよ? もっと楽しく暮らさなきゃ!」
「お気遣いありがとうございます。ですが、こちらは急ぎの案件ですので」
「ええっ、またお仕事ですか? エルザ様って、本当に頑張り屋さんなんですね! 私、エルザ様のお役に立ちたいです。だって、こんなに頑張っているのに、誰も休ませてあげないなんて可哀想ですもの!」
マリアは感心したように目を輝かせた。
可哀想?
私は返事をせず、書類に視線を戻した。そのときは、単なる世間知らずな少女の言葉だと思っていた。
まさか彼女の言う「助けてあげたい」が、私の人生だけでなく、国の行く末まで変えることになるとは想像もしていなかった。
◇
最初の異変は、隣国との協定書が消えたことだった。
私は半年をかけて、隣国のヴィンセント・ヴァレンシュタイン公爵閣下と交渉を進めていた。先代の国王が結んだ協定には、我が国に不利な条項がいくつも残されていた。
鉱山資源の輸出量を制限される一方、隣国からの輸入品には高い関税を課せない。さらに、協定違反の際には我が国だけが巨額の賠償金を支払うという、到底対等とは呼べない内容だった。
それを少しずつ改め、双方に利益のある形へ修正する。
隣国のヴィンセント公爵閣下は冷徹な交渉人として知られ、曖昧な約束も感情に訴えるだけの言葉も通用しない。
条文の一つひとつに根拠を示し、こちらが譲れる範囲と譲れない範囲を明確にしなければならなかった。ようやく最終調整に入った、その日のことだ。
執務室に戻ると、マリアが机の前に立ち、満面の笑みを浮かべている。
「……何をなさっているのですか?」
「難しい書類ばかりで、エルザ様が可哀想だったので、私が整理しておきました! はい、これ」
差し出された一枚の紙に目を落とすと、そこには隣国に対する友好の申し入れが書かれていた。
細かな条項も、権利の保護も、賠償条件もない。ただ、互いに仲良くし、困ったときには助け合いましょう、と記されているだけだった。
「……元の書類はどこへ?」
「え? あんな難しいもの、必要ありませんよね? 読んでいるだけで疲れちゃいますもの。だから、処分しておきました」
私は、言葉を失った。
「処分、とは?」
「破棄しました。だって、あんなに難しい決まりがあるから、みんな仲良くできないんでしょう? だったら、なくしてしまえばいいんです」
悪びれる様子はない。むしろ、褒めてもらえると期待している顔だった。
「マリア様。あの書類は、国同士の権利と義務を定める重要な協定書です。勝手に処分してよいものではありません」
「でも、エルザ様はいつも難しい顔をしていらっしゃるじゃないですか」
「それと、書類の破棄に何の関係が?」
「だって、あれのせいで忙しいんでしょう? そんなに頑張らなくてもいいんですよ。もっと人を信じて、優しくなりましょう!」
私は深く息を吸った。怒鳴るつもりはなかった。怒鳴ったところで、この少女が何をしたのか理解するとは思えなかったからだ。
「王太子殿下には、このことを報告いたします。いいですね?」
「レイナード様に? きっと褒めてくださいますね!」
マリアはぱっと顔を輝かせた。その予想は、半分だけ当たった。
「エルザ、なぜマリアを責めたんだ?」
翌日、王太子レイナードは私を呼びつけるなりそう言った。
「彼女は君を心配して、仕事を減らそうとしてくれたのだぞ。素晴らしい心がけではないか」
レイナードは彼女を褒め、私のことを責めた。
素晴らしいわけないでしょう? 王太子ともあろう者が嘆かわしい。
「殿下。あの協定書は、隣国との交渉に必要なものです。今から作り直さなければ、我が国の権利を守る手段が失われます。再交渉には相手国の合意が必要ですから、半年かけて積み上げた交渉を最初からやり直すことになります」
「半年? たかが書類に、そんなに時間をかけていたのか?」
私はレイナードを見つめた。彼は本気で不思議そうな顔をしていた。
「条項一つで、国庫に入る税収も領民の暮らしも変わりますので」
「君は何でも難しく考えすぎる」
レイナードは苛立たしげに吐き捨てた。
「マリアは、お前が苦しんでいるのを見ていられなかったのだ。それなのに、感謝するどころか責め立てたというではないか」
「私の苦労を減らすために、国の権利を失っても構わないと?」
「そういうことではない。もっと柔軟に考えるべきだと言っているのだ」
レイナードの隣にいたマリアが、困ったように眉を下げた。
「エルザ様、私、そんなつもりじゃなかったんです。ただ、みんなが仲良くなれたらいいなって……」
彼女は本当に、私を助けたつもりなのだ。
だからこそ、私は悟った。この二人には、正しいかどうかを判断するための知識も、結果に責任を持つ覚悟もない。
それでも、自分たちの善意こそが正しいと信じて疑わない。そして王太子は、私の説明よりもマリアの涙を信じるのだ。
その後も、同じことが繰り返された。マリアは領主たちとの会議を「怖い話し合い」と呼び、出席を取りやめさせようとした。罪を犯した貴族の処罰を決めれば、「もう反省しているのだから許してあげましょう」と嘆願書を出した。
私はそのたびに、なぜ予算を管理しなければならないのか、なぜ法に従わなければならないのか、なぜ善意だけでは解決できない問題があるのかを説明した。
しかし、説明すればするほどマリアは悲しそうな顔をした。
「エルザ様は、どうしてそんなに厳しいんですか?」
そしてレイナードは、私を冷たい女だと責めた。マリアに賛同すれば褒められ、私に賛同すれば冷酷だと見なされる。そんな空気が王宮を支配していった。
◇
最後の決定打が突きつけられたのは、王宮の夜会だった。大勢の貴族が見守る中、レイナードが私の前に立った。
「エルザ、私は、君との婚約を解消することにした」
会場が静まり返る。私は瞬き一つせず、彼を見返した。
「理由を伺っても?」
「君を解放するためだ。君はいつも眉間にしわを寄せ、国の書類仕事や外交に追われていた。公爵家という重圧と、将来の王妃という立場に殺されかけていたのだよ」
「……それが、婚約解消の理由ですの?」
「そうだ」
レイナードは深くうなずき、マリアの手を優しく握った。そのままマリアが一歩前へ出て、心から私を案じる顔で手を握った。
「エルザ様、もう頑張らなくていいんですよ。私、知っているんです。エルザ様が毎日夜遅くまでお仕事をして、他国との交渉で冷たい顔をしなければならなかったこと……すごく可哀想で、見ていられませんでした」
マリアの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「だから私、レイナード様に頼んだんです。『エルザ様を自由にしてあげて』って。全部、私とレイナード様で引き受けます。婚約者の立場も私が変わってあげます。だから、エルザ様は今日から、可愛いお洋服を着て、お花を愛でて、普通の令嬢として幸せになってください!」
会場の貴族たちが息をのんだ。マリアの言葉には、意地悪も蔑みも、優越感すら含まれていなかった。
ただひたすらに、可哀想な私を助けてあげたいという善意だった。
――ああ、そういうこと。
私はようやく、すべてに納得した。彼女は、私が何を守ろうとしていたのか知ろうともしなかった。自分ならもっと優しい案で解決できると本気で信じているのだ。
私が徹夜で精査していたのは、他国からの不当な要求を跳ね返すため。冷徹に振る舞っていたのは、譲歩の一つが国の損失につながる外交の場だったから。厳しい決断を下してきたのは、目先の優しさだけでは守れない人々がいると知っていたからだ。
それらすべてを、この少女は「可哀想なお仕事」と呼んだ。そして、それを取り上げることが救済だと信じている。レイナードはそんな彼女に心惹かれた。
私は深く優雅に一礼した。
「レイナード殿下、聖女マリア様。そこまで私の身を案じ、お慈悲をくださるとは、思いも寄りませんでした」
「分かってくれたか、エルザ!」
レイナードが嬉しそうに顔をほころばせた。
「身に余るお言葉、感謝いたしますわ」
私は微笑み、二人に向かって優雅に一礼した。
「殿下方のお心遣いを無駄にするわけにはまいりません。謹んで、婚約解消と王城におけるすべての役職の辞任を受け入れます」
「よかったぁ!」
マリアが弾んだ声で手を叩いた。
「これでエルザ様も、みんなも幸せになれますね!」
「ええ、本当に」
私は極上の笑みを浮かべた。
「明日より、私は遠方の別邸へ移り、一切の政務から手を引かせていただきます。なお、私が担当しておりました案件の資料は、執務室の保管棚に整理してございます。未決事項には付箋をつけ、必要な手順も記載してありますので、引き継ぎにお役立てください」
「任せてくれ。マリアと一緒に、みんなが笑顔になれる国をつくってみせる!」
レイナードは胸を張った。
「素敵ですね。心より応援しておりますわ」
私は誰よりも美しく淑女の礼をし、二人に背を向けた。必要としていないのならば、望みどおりにして差し上げよう。可哀想な私を救ってくださる、優しいお二人のために。
◇
家に帰り、私は父に報告した。父は、国王が病床にある間にこのような処遇が決められたことに激怒したが、私はこのまま進めてほしいと頼んだ。
「お父様。私、可哀想なのですって。ふふ、自由にしてくださったのですから、そのお気持ちを尊重すべきですわ」
父はしばらく私を見つめたあと、深いため息をついた。
「……お前がそう決めたのなら、止めはしない。二度とあの王太子のために身を削る必要はないしな」
「ありがとうございます」
別邸に行ってからも、王宮で何が起きているのかは、その後、父が定期的に報告書で知らせてくれた。
マリアは王太子とともに、国民が幸せになれる政策を次々と打ち出していた。最初に実行されたのは、税の一律免除だった。
「税金が払えなくて困っている人がいるなんて、可哀想です! みんなから税金を取るのをやめれば、きっと笑顔になれますよ!」
マリアの提案にレイナードは即座に賛同したが、財務官たちは当然反対した。税収がなければ、兵士への給与も道路の補修費も、国境の防衛費も捻出できないからだ。しかし、二人は聞く耳を持たなかった。
「そんなにお金のことばかり考えなくてもいいじゃないか。国庫にはまだ余裕があるのだろう?」
レイナードは、私が残した帳簿の数字だけを見て判断した。そこに記されているのが、各種の支払いと将来の支出を見越した予算であることなど理解していなかった。
翌月には王都で公共事業の支払いが滞り始め、その次には辺境の守備隊への補給が遅れた。
さらに、国庫の不足を補うために備蓄資金を取り崩そうとしたところ、すでに災害対策費や年金の支払いに割り当てられていたことが判明した。
「税金をなくしたら、みんな喜ぶと思ったのに……」
マリアは困惑し、レイナードは財務官たちを怒鳴りつけるばかりだった。
そこへ、隣国から正式な通告書が届いた。我が国が旧協定に定められた義務を履行する意思がないものと判断した。ついては、協定違反に基づく賠償を請求する――。金額は、国家予算の数年分に及んだ。
「そんなのおかしいです! 私たちは仲良くしたかっただけなのに!」
泣き崩れたマリアを見て、レイナードは抗議の手紙を送ったが、返ってきたのは簡潔で冷徹な回答だった。
協定は善意や友情ではなく、署名された文書によって成立する。その文書を破棄し、新たな協定も正式に締結していない以上、従来の義務は消滅しない。それだけの話だった。
私は別邸で報告書を読み、静かにカップを置いた。
「……予想どおりですわね」
半年かけた交渉を、あの場で壊された。相手国がこちらの事情をくんでくれる理由などないのに。
こちらが約束を守れないと判断されれば、より厳しい条件を突きつけられるのは当然だった。もっとも、私はその後の交渉を引き受けるつもりはない。私を解放したのは、ほかならぬ殿下方なのだから。
◇
事態がさらに悪化したのは、マリアが犯罪者の恩赦を提案してからだった。
「罪を犯した人だって、やり直す機会が必要です!」
彼女はそう訴え、王太子の権限で重罪人を釈放するよう求めた。司法官たちは必死に止めた。すでに複数の被害者を出した者、何度も罪を繰り返した者、刑罰が確定した者まで含まれていたからだ。
「でも、閉じ込めておくだけじゃ何も変わりません! 信じてあげれば、きっと改心してくれます!」
レイナードは、その純粋な願いをかなえてやりたいと思った。
結果、釈放された犯罪者の一部は再び罪を犯し、王都の治安は急速に悪化した。商人たちは店を閉め、街道を行き交う荷馬車は護衛を増やした。市民の不安は怒りへと変わり、王宮前には抗議する人々が集まり始めた。
「どうして? みんなと優しくしたいだけなのに……」
レイナードはそんな彼女を慰めながら、次第に苛立ちを募らせていった。なぜ自分たちの善意が理解されないのか。なぜ誰も感謝しないのか。
考えたらわかることを、二人は考えようとしなかった。
しかし、さすがに治安の悪化は見逃せない。
私は父に、考え得る対策を記した手紙を送った。父は内々に動いてくれると返事をくれた。すでに王太子を見限り、第二王子アレクシスを支持する者も増えているという。
国王は病に伏せっていたが、マリアの癒やしの力によって快方に向かい、ようやく政務に口を出せるまでに回復していた。それまで王太子に異を唱えられなかった重臣たちも、もはや黙ってはいられないのだろう。
しかし、王宮の混乱はすぐには収まらなかった。ついに二人は、私の暮らす別邸へ押しかけてきた。
「エルザ! 王宮に戻ってきてくれ!」
応接間に通されるなり、レイナードが叫んだ。
「国が大変なことになっているのだ、頼む」
「お話は伺っておりますわ」
私は穏やかに微笑み、二人にお茶を勧めた。
「それで、私に何をお望みですの?」
「決まっているだろう? 財政を立て直し、隣国との交渉を再開し、治安を回復させてくれ」
「それは大変ですわね」
「他人事のように言うな!」
レイナードの顔が赤くなった。
「君ならできるだろう! 今までだって、ずっとそうしてきたではないか」
「ですが、私はもう政務から手を引いております。殿下の婚約者ですらありませんし」
「そんなことはわかっている。だが、国民が苦しんでいるのだぞ」
私は静かに首を傾げた。
「殿下。私が政務を続けるとしたら、また以前のように厳しい判断を下さなければなりません。マリア様のお考えに反対し、税を徴収し、犯罪者には法に従って罰を与えることになるでしょう」
「それは……」
「そのような私の振る舞いを、殿下は冷酷だとおっしゃいました。マリア様も、私を自由にしてあげたいと願ってくださった」
私は微笑みを深めた。
「ですから、私はお二人のお心遣いに従っているのです。今さら戻っては、せっかく与えてくださった自由を無駄にしてしまいますわ」
「エルザ様!」
マリアが泣きそうな声を上げた。
「私たち、みんなを幸せにしたかっただけなんです! どうして助けてくれないんですか?」
「皆様を幸せにしたいという、そのお気持ちは素晴らしいと思いますわ」
「だったら!」
「ですが、マリア様。私のような冷酷で融通の利かない人間が口を出せば、あなたの望む温かい世界を壊してしまいます。お二人がそう判断されたのですから、私はそのご意思を尊重しなければなりません」
マリアは口を開いたまま、何も言えなくなった。私は、二人が望んだとおりのことをしているだけだ。
「どうか、お二人の理想を貫いてくださいませ。私は遠くから、皆様のお幸せをお祈りしておりますわ」
◇
その日の夕方、別邸に一通の書状が届いた。差出人は、隣国のヴィンセント・ヴァレンシュタイン公爵閣下だった。
閣下は冷静沈着で、感情に流されず、利益と損失を正確に見極める人物だ。敵に回せば厄介だが、信頼を得ればこれほど頼もしい相手もいない。書状には、短い言葉が記されていた。
『あなたが王宮を去ったと聞いた。実に惜しいことだ。もし今の国に未練がないのなら、一度、話をしないか』
私は思わず笑みをこぼした。閣下は、私がどれほどの仕事をしてきたかを知っている。私の厳しさが、何を守るためのものだったのかも。
数日後、ヴァレンシュタイン公爵閣下本人が別邸を訪れた。
「久しぶりだな、エルザ嬢」
「お元気そうで何よりですわ、公爵閣下」
挨拶を済ませると、閣下は早速本題に入った。
「君の国から、鉱山資源の採掘権を無償で譲渡するという申し出があった」
「……まあ」
まったく、何をしているんだか。本気で国をつぶす気なのだろうか。
「友好の証だそうだ。正式な手続きに従って受け取るつもりだが、こちらとしても、交渉と友情は別だと理解している。君なら、あのような条件を提示するはずがない」
「ええ。あの鉱山は、我が国の財政を支える重要な資産ですもの」
鉱山から得られる利益は、国庫を潤すだけではない。そこから生まれる雇用や周辺地域の経済、そして他国との取引における交渉材料としても、大きな価値を持っている。
そんなものを友好の証などという曖昧な理由で手放せば、失うのは目先の収益だけでは済まない。
「それを無償で譲れば、財政はますます苦しくなる。だが、先方は自ら申し出た。こちらが断る理由はない」
閣下は淡々と告げた。そこに、相手国への遠慮も、私への同情もない。提示された条件を冷静に受け止め、国益という観点から判断しているだけだ。
かつての私なら、どうにかしてこの事態を収拾しようとしただろう。王太子を説得し、失われる利益を計算し直し、国が被る損害を少しでも減らすために奔走したはずだ。けれど、もう私には、その責任を背負う理由がない。でも――。
「閣下、もし王太子が代わることがあったら、友好の証として、また鉱山を返却していただけますか?」
「はは、そうだな」
閣下は愉快そうに笑ったが、すぐに真剣な表情に戻った。
「ただし、条件がある。我が国で働かないか。外交でも財政でも、君の望む仕事を用意しよう。相応の権限も報酬も約束する」
「……私、ですか?」
これまでは、成果を出しても、それは役目を果たしただけ。
「少し、考える時間をいただけますか? 父にも相談してみないと」
すぐに答えを出すことはできなかった。新しい国で働くというのは、簡単な決断ではない。慣れ親しんだ土地を離れ、これまでとは違う環境で、自分の居場所を一から築くことになるのだから。
それでも、不安より先に、小さな期待が膨らんでいることに気づいていた。
「もちろんだ」
閣下は急かすことなく、穏やかにうなずいた。
「一つだけ言っておこう。私は君を利用するためだけに誘っているわけではない。君の仕事を評価している。君自身の判断と能力を、正当に評価しているのだ」
私の判断を信じ、能力を認め、これからの道を自分で選んでいいと言ってくれる。ずっと欲しかったのは、誰かにすべてを代わってもらうことではなかった。
ただ、私が積み重ねてきた努力を正当に見てもらい、自分の意思で未来を選ぶことだったのだ。私は久しぶりに、心からの笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。前向きに検討させていただきますわ」
◇
王宮の状況は、その後さらに悪化した。
マリアは新たな慈善政策を打ち出したが、その費用を賄う方法はなかった。レイナードは側近たちに責任を押しつけようとしたものの、長年国政を支えてきた官僚たちは次々と辞職を申し出た。自分たちの専門知識を軽んじる者の下で、これ以上働くことはできないと考えたのだろう。
ついに国王が動いた。父からの報告によれば、王太子の権限を停止し、マリアが独断で行った政策の調査を命じたという。
「父上、マリアのおかげでお元気になられたのに、これはあまりにも無慈悲です!」
レイナードは国王に抗議したそうだ。
「聖女としてのマリアには感謝している。だが、政務は聖女の仕事ではない! ここまで国を追い詰めた責任を取らせねばならぬ!」
国王の声には、深い疲労がにじんでいたという。
「お前たちは、自分たちが何をしたのか理解しているのか?」
「父上、私は国民を幸せにしようとしただけです!」
レイナードはなおも訴えた。
「マリアの考えは間違っていません! 誰もが笑顔で暮らせる国をつくろうとしたのです!」
「ならば、なぜ国庫が空になった? なぜ犯罪が増えた? なぜ隣国から賠償を請求されている!!」
「それは……」
二人は答えられなかった。
「善意があったかどうかを聞いているのではない。お前たちの行いが、何をもたらしたのかを聞いているのだ」
しかし、二人には最後まで理解できなかったらしい。
レイナードは王太子の地位を剥奪され、マリアは政治に関わることを禁じられた。聖女としての力を人々のために使うよう命じられ、各地を巡って治療にあたることになった。
なぜ、みんなを幸せにしようとした自分たちが、こんな目に遭わなければならないのか。その答えを、彼らはこれからも探し続けるのだろう。
◇
それから数か月後、私はヴァレンシュタイン公爵閣下の招きに応じ、隣国を訪れていた。そこで私は、財政再建と外交政策の顧問として正式に迎えられた。
新しい職場では、厳しい判断を下すときこそ、その理由を明確に説明し、結果に責任を持つことが求められた。誰もが当たり前のようにそれを理解していたし、困難な問題を前にして、安易な優しさで現実から目を背ける者もいなかった。
ある日の午後、閣下が私の執務室を訪れた。
「仕事には慣れたか?」
「ええ。おかげさまで、充実した日々を送っておりますわ」
閣下は満足そうにうなずいた。仕事の話をしているときの彼は、いつも無駄がなく、判断も早い。けれど、私が新しい環境に馴染めているかどうかは、折に触れて気にかけてくれていた。
おかげで、私はこの国でも自分の力を発揮できている。誰かの顔色をうかがう必要も、理不尽な要求に振り回されることもない。努力した分だけ仕事に反映される日々は、想像していた以上に心地よかった。
「……少し、いいだろうか」
不意に改まった声で告げられ、私は首を傾げた。
「何でしょう?」
「君に、個人的な申し出をしたい」
閣下は、いつになく慎重な様子で私を見つめた。
「私は君の能力を高く評価している。だが、それだけではない。君と話す時間は有意義だ。仕事の話だけではなく、何気ない会話を交わす時間も、私にとっては大切なものになっている」
いつも冷静な彼の口から語られる言葉は、驚くほど真っすぐだった。
「これまで、結婚など考えたこともなかった。必要性を感じなかったからな。だが、君に会うたび、もっと話したいと思うようになった。君が何を考え、何を望んでいるのか、知りたいと思うようになったのだ。私は、君に惹かれている」
心臓が大きく跳ねた。仕事を離れた私自身に興味を持ち、もっと知りたいと言ってくれる人がいるなんて、考えたこともなかった。
「……公爵閣下」
「私の伴侶として、これからの人生を共に歩んでほしい。もちろん。君の返事を急かすつもりはない」
閣下は微笑んだ。
「公爵閣下。お返事をする前に、一つだけよろしいでしょうか」
「何だ?」
「私、これからは可哀想な私ではなく、幸せな私になろうと思っています」
「それは素晴らしいことだ。君が幸せであることを、私も望んでいる。そして、私の望みは、いつか君がこの申し出を受け入れ、私の名を呼んでくれることだ」
「……私、閣下の前で、冷たくて怖い顔をしていませんでしたか? そんな私に、本当に惹かれたのでしょうか」
「交渉のときの話か?」
閣下は少しだけ目を見開き、それから呆れたように笑った。
「あれは真剣な顔というのだ。ヘラヘラと取り繕って笑われるより、何倍もいい顔だった」
「ふふ、ありがとうございます。喜んでお引き受けいたしますわ、ヴィンセント様」
私は微笑み、彼の目をまっすぐに見つめた。隣に、この人がいてくれるのなら、きっと、これからの日々は今までよりずっと明るい。
私は差し出された彼の手に、自分の手を重ねた。
END
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