流行画廊
神崎が始めて彼に出会った時、記憶の中の彼は窓際に立っていた。
午後の強い太陽の光を背にしていたため、黒く細長いシルエットだけが照らし出され、一瞬神崎は、自分の影が映し出されたのかと錯覚した。
昼間のせいであろうか、廊下の灯りはついていなかった。辺りは薄暗く、両脇の漆喰の白い壁は灰色に染まっていた。思い出すのは、その中で黒光りした板張りの床だけが妙に目に付いていたことだった。そのまま奥に歩いていく。行き止まりのその左には、厚く重いほとんど廊下と同じ色合いの木製のドアがあった。そしてゆっくり真鍮のドアノブを回した。その瞬間、まぶしい光が目に入り、神崎の瞳はたじろいだ。
外の廊下とは対照的に部屋の中は、壁一面大きな窓から太陽が差し込んでいた。
まぶたを細め、光の明るさに徐々に慣れてくると、自分の影だと思ったのは実は全身を黒いスーツに身を包んだ細身の若い男性だった。しかも、よく見ると少し長めの髪の下の皮膚の色までも浅黒く、神崎が「影」だと感じたのもまんざら間違いではなかったのだ。
だが、あの時、彼がこの部屋で会いに来た人物はこの目の前の男性ではなかった。確か老人のはずだった。
その老人を神崎は出版されている写真での認識しかなかった。最近のものはあまり見たことはなかったが、たいがい白黒に映し出されているその姿は、ほんの少しふくよかな面長な顔と、大きな鼻、そして優しいまなざしが印象的であった。
神崎は急いで視線で部屋の中を探した。そして、現実のその姿を見たとたん愕然とした。
頭の中で彼の経歴がよぎる。確か記憶では七十を少し超えていたはずだった。しかし、目の前の老人はそれ以上に老けているように見えるほどやせ細っていた。その小さな体のせいで、通常でも大きいセミダブルのベッドがさらに大きく感じられるほどだった。穏やかな眼差しと、少し長めの白髪が、どうにかその健康だったころの面影を残していたが、灰色のガウンから伸びているその腕は明らかにもう骨の形がはっきりと分かった。
すでに、以前のころの姿は見る影もなかった。この実際のあまりにも写真と違ったその姿に、神崎はそのまま立ち尽くしてしまったのだった。
その老人はそんな神崎の困惑を隠しきれない視線をそらすように、窓際に立っている青年に神崎を紹介した。
「こちらは北川教授の教え子の神崎佑司君だ」
青年は、右手で招き入れるように手を差し出した。
「そのような所ではなく、どうぞ中へお入りください」
その男性の声は、青年と呼ぶには不似合いな、落ち着いた、ゆったりとしたものだった。
「すみません」
とっさに神崎は意味もなく謝り、ドアノブを握ったままの中途半端な状態で頭を下げ、前へ進んだ。
ゆっくりとドアが閉まる音を後ろで聞きつつ、その男に近づく。すると今度は彼の顔立ちの美しさに目を奪われた。男だから化粧をしているはずもないのだが、顔のつくりが整っているとでも言うのだろうか、これでもし、肌が白く口紅でもつけていれば、立派に女性としても通用しそうであった。
神崎の戸惑いに気づいたのか、からかうようにさきの老人は伝えた。
「残念ながら男性だよ。しかも君より年上だ」
「先生!」
神崎は顔を赤らめつつ老人を見つめ、そして改めて彼を見直した。
年は、二十代後半から、三十代前半という感じだろうか。学生時代野球をしていた神崎は、普通の男性よりも体格がよく、比べようもなかったが、よくみると目の前の彼の身長は自分とほぼ同じくらいであった。しかし、その細身の体のためか、神崎より少し高く感じられる。
その彼は、笑いを含んだ瞳とともに、胸元の奥から金色の名刺ケースを取り出し、自己紹介をした。
「はじめまして、ハヤリ ユウジといいます」
神崎は差し出された名刺を受け取ると思わず覗き込んでしまった。
流行画廊
代表 流行右司
手元にある名刺にはそう書かれてあった。
「ユウジ・・・・・・珍しい漢字を使っていますね」
思わず神崎はそう呟いた。
ユウジという名前そのものはたいして珍しくなかった。実際、神崎の名前も佑司であった。しかし、右という漢字をユウと呼ばして名前に使うのはそう滅多にいないはずだった。
佑司と右司。
違いは、人偏があるか、ないか。
人偏がないユウジ。
彼の黒いシルエットのせいであろうか。
――人ではないものを司る者――
神崎はその時、実に非常識なことを連想してしまったのだった。
「金沢に行くのなら柏木崋山に会いに行くがいい」
これが母校の大学の白川教授に、就職の報告のために研究室を訪れたとき言われた言葉だった。
東京の美大の油絵科に入学して、四年後に待っていたのが北陸の地だとは、神崎自身ピンとこなかったのは事実だった。卒業後の進路として中学校の教師を志望し、とりあえず可能性のある地域を手当たりしだい受けた結果が、石川県金沢市での非常勤講師としての採用だった。神崎にとって試験を受ける前の金沢は、観光地としての認識はあったものの、こぢんまりとした地方の一都市という印象しかなかった。
「あそこはいい街だ。食べ物がうまい」
白い髭を生やし、すでに六十を超え、二年後には退官を迎えるというこの老教授は、椅子に座りながら懐かしそうに話し出そうとした。
「はあ・・・・・・」
教授の横に立っている神崎にとっては決して興味をそそられる話題ではなかった。そんな気のない返事に気づいたのか、教授は話をもとに戻した。
「お前、柏木崋山を知っているだろう」
「はい、油絵画の柏木画伯ですね」
神崎の頭には、過去に訪れたいくつかの美術館に展示されていた絵画を思い出していた。
柏木崋山。
戦後の油絵画家の重鎮の一人だった。画家を目指すものであれば、その名は必ずといっていいほどどこかで耳にしていた。
彼の画風は、すべて山村を中心とした風景画である。特に野鳥をテーマとした風景画は非常に人気が高く、号何十万という値段がついていた。実際学内にも、那須高原の森林の中を飛来する野鳥の幻想的な絵画が展示されていた。
青緑の森林が印象的であった。
しかし、その彼が、現在金沢に住んでいるとは、神崎には初耳だった。
「柏木画伯は金沢のお生まれなのですか?」
「いや、彼は東京生まれだ。フランスから帰ってきて転々としていたが、十数年前からそっちのほうに住み始めた」
「よほど住みごこちがよかったのですね」
「ふむ・・・・・・」
神崎の素直な感情に対して、老教授は視線をそらし、少し言葉を淀ませた。それは、暗にそんな単純なものではないことを示しているとすぐにも察しがつく。しかし、だからといって、学生の身分ではそれ以上深く追求することはできなかった。
そんな雰囲気に気づき、教授は少し間をおいて、話題を変えた。
「たぶんあいつはもう長くはないはずだ。確か、肝臓癌に冒されたとか言っておった」
「・・・・・・」
返事のしようがなかった。
「わしの代わりといっては何だが、見舞いがてらに一度会いに行ってみるがいい。お前のことは先に伝えておく。向こうに行って落ち着いたら早めに一度連絡をしたらいい。元気なうちに会っといたほうが、お前のためにもなるだろう」
そう言われて、神崎は四月に金沢に引っ越してきたのだった。
赴任地の職場は街中の旧市街地といわれる中心部の中学校であった。初の赴任先としては、ラッキーだと、同僚に言われた。しかし、当の神埼は赴任して一ヶ月は全くの新しい環境に慣れるのに精一杯で、正直、市内観光さえもままならない状態だった。したがって、そんな先の教授の言葉も忘れかけていたときだった。意外なことにある日、柏木画伯自身から連絡が入ったのだ。
「北川から手紙が届いた。今ならまだ君に会うだけの体力はあるから、いつでもいいからきたらいい」とのことで、それから三日後に神崎は画伯に会いに行く運びとなったのだ。
先に北川教授から教えてもらっていた画伯の住所は金沢市末広町であった。東京で聞いたときは何のイメージもわかなかったが、実際にこの地に来て、始めて画伯の住まいが、少々不便な所にあることに気がついた。金沢市内の卯辰山の中腹である。それほど標高は高くはなかったが、その山の入り口は、急こうばいになっており、しかも永延と蛇行した道路が続いていた。決して、住宅地としては適切な場所ではなかった。
人嫌い。
直感であった。芸術家にはよくあることである。
同じように自然豊かな山村を創作活動の拠点にした作家たちは多くいる。しかし、周囲には村人がいたり、同じような仲間が住んでいたりと、コミュニケーションが取れる範囲の話である。
「末広町――ほとんど山だぜ、家なんかあったっけな」
赴任してすぐに同僚の教師に尋ねたとき、眉をひそめながら応えた台詞で、画伯の思いが伝わってきた。
体調が悪いこともすぐに思い出す。静かに生活していたいのだろう。
そんな思いから、日、一日と伸びてしまっていた。
連絡があってから三日後、日曜日であった。神崎は、画伯の体調を考え、午後からの訪問となった。
白い小型の自家用車で、北陸特有の黒瓦に覆われた古い町屋の狭い道を潜り抜けると、そこに浅野川にかかる小さな橋が見えた。渡るとそこが山のふもとである。ゆっくりと曲がりくねった坂道の横に小さな小道が脇から奥に伸びている。その先に画伯の家があるはずだった。注意深く車を進めると塀に囲まれた赤い屋根が見え出した。さらに近づいていくと、二階の飾り窓が見えたが、古い木製の門柱が建物の中を遮っていた。灰色の壁の上から見える様子では概観は古い洋風の建物だった。
車を降り、門の側に近寄る。門柱は長年の風雪に曝された後がはっきりと分かるぐらい、ところどころ白木がむき出しになっていた。そしてそのすぐ横にインターホンがあった。
名前を告げると、まもなく初老の婦人が門の扉を開けてくれた。
小柄で、丸顔のおっとりとした雰囲気を漂わせているこの女性は、白くなった髪を短く後ろに束ねていた。
「画伯の奥様でいらっしゃいますか」
そう感じたのは、着ている紬の着物が一目で高価なものであるということよりも、会った瞬間、すでに神崎は彼女を知っていると感じたからであった。
「ええ、妻の洋子でございます」
そういって、洋子夫人は軽く会釈をした。
神崎もあわててお辞儀をする。
大学を卒業したての年若い青年のそんな姿に夫人は軽く微笑み、そして門の中へと導いた。中は、一面石畳になっており、辺りには落葉樹が植えられ、今の時期には葉桜が見事に茂っていた。そしてその奥には、大正時代の洋風建築の建物があった。
「今、ちょうど来客がおりますが、気になさらないでください」
樫の木で作られたどっしりとした玄関のドアを開け、薄暗い廊下を婦人が先に歩きながら神崎に声をかけた。
「ああ、構いませんよ。私は先生のご様子を伺いに来ただけのようなものですから」
まさにそうであった。連絡がなければ、もしかしたら忘れていたかもしれなかった。
いくら恩師の紹介とはいえ、重い病を患っている人間に対して、一度も面識のない人間が訪れることに対して、二の足を踏んでいたというのが本心だった。
神崎は黒光りする廊下の突き当たりの、玄関と同じ形のドアに導かれた。
「ここが柏木の部屋です。どうぞお入りくださいまし」
そういうと婦人はその反対側の部屋へと入ってしまった。
神崎は軽くノックをして、ドアを開けた。
その瞬間、明るい日差しの中に、流行が立っていたのだった。
部屋の中はちょうどドアを真ん中に、左が寝室、右がアトリエとなっていた。窓に向かって、中型のキャンパスを置く三角形の木製のイーゼルと椅子が置いてある。真新しい乳白色の壁にはいくつかの油絵が立てかけられていた。その中には、まだ描きかけのものもいくつかあった。それらすべては山をモチーフとした風景画であった。体調のことを考えると、この近郊の白山を背景とした町並みであろうということはさっしがついた。
視線を左に移すと、そこにベットの上の画伯が神崎を見つめていたのだった。足元には来客用の黒いソファーが一組置いてあった。
「ここで、描いていらしたのですか」
「ああ、そうだ。元々アトリエ専用だったのだがな、わしの容態が悪くなってから改装したんじゃ」
画伯がゆったりとそう言った。
確かに、この部屋だけが真新しく造られていた。
流行との自己紹介が終わり、神崎が改めて画伯に挨拶をし、ソファに腰掛けた。静かにその様子を見ていた画伯が口を開いく。
「北川から君の事は電話と手紙で聞いとる。わしが生きとるうちに今まで描いた作品を持ってくるがいい。金沢で絵の勉強を続けたいのならわしが先生を紹介してあげよう」
その言葉に改めて神崎は、ベッドの上に上半身を起こしている画伯を見つめた。目の前の老人の容態は、明らかに素人目に見ても、決してよい状態であるとはいえなかった。すでに、皮膚の色はどす黒い黄色に変色しており、白目も黄色くなっている。
「肝臓癌じゃよ。もう、長くはない」
神崎の視線に気づいて、画伯の方から切り出してくれた。
神崎は正直どう答えたらよいかわからなかった。一瞬瞳が泳ぐ。自分の死期を悟った人間に、「元気になってください」とは言えるはずもなく、かといって、慰めの言葉は失礼に当たる。自然に顔が下に向いていった。
「神崎君の件は、私も協力しましょう」
背後から声がした。
流行が助け舟を出してくれたのだ。
ほっとして再び画伯の顔を見ることができた。
「ああ、そうだな」
画伯がソファーの後ろに立っている流行を見つめた。
――ああ、そうか。画伯は私のために彼を呼んだのかもしれない。
至極当然の考えであった。
「君のためだけではありませんよ」
「えっ・・・・・・」
神崎の心を見透かしたのか、流行の否定する言葉が出る。
神崎は思わず後ろを振り返った。
黒いスーツに身を包んでいる流行は、相変わらず微笑んでいた。
「今度の個展の準備の打ち合わせですよ」
「今度の?」
「七月に先生の個展を出す予定なのです」
七月。
――あいつはもう長くはないはずだ。
金沢に来る前の教授の台詞が浮かんできた。
見上げていた視線を改めて、画伯の方に向ける。しかし、目の前の老人の容態は、どうみても夏までもちそうにはなかった。
「生前葬儀みたいなものだ」
画伯が、軽く返事をした。
神崎は思わず二人を見比べた。
自分の死期を悟った老人が死んだ後のことを考えることは、最近では珍しくはなくなってきている。しかし、その思いを受け取る人間が流行である、ということが、あの影のせいであろうか、あまりにも当てはまりすぎていたのだ。
「今日はこれからどうしますか?」
流行が神崎を無視するかのように画伯に尋ねた。
「若い者には少し刺激が強すぎたようだ。この辺で止めておこう」
「では、先生はお疲れの様子ですから、私たちも失礼させていただきます」
「私たち?」
確かに今日は、画伯への挨拶が訪問の目的ではあった。しかし、まさか本当に挨拶だけで帰ることになるとは思ってもおらず、この初対面の男性の少々強引なやり方に対して、神崎は驚きとともに少々不愉快になってしまった。
その様子に気づいたのであろうか、画伯は神崎を見つめながら言葉を続けた。
「流行君、そうせっかちにならなくてもよいではないか。二人で隣の居間でお茶でも飲んで落ち着いたらいい。そう、神崎君、君はどうも流行君に気に入られたようだね」
画伯は神崎の気持ちを察してでた台詞だったのだろう。しかし、今日初めて会って、しかも、まだ自己紹介をしただけである。そんな自分のいったいどこを気に入ったのかわからず、神崎は当然今の台詞は画伯の社交辞令だと思ってしまっていた。画伯にとりあえず御礼を言おうと思ったとき、「確かにこれからのことはわしよりも、流行君にお願いしたほうがいいかもしれん・・・・・・」なんと画伯は、そう言いながら上半身を起こしたままで眠り込んでしまったのだ。
流行が瞳で席をはずすように言った。
その暗黙の指示に従って神崎は、できるだけ音を立てないように立ち上がり、部屋の外へと足を運んだ。
再び、ドアを開けると、先程は気づかなかったが、廊下を挟んですぐ目の前が居間の入り口になっていた。奥には大きなレンガ造りの暖炉とすぐ上に等身大の若い婦人の裸体像の絵が掲げてあるのが目に入った。
「あら、もう終わりましたの。」
視線の中に先ほどの老婦人がお盆にお茶を持って入ってきた。
そのとき神崎は、先ほどなぜ自分が彼女を知っていると感じたのか理解できた。
壁にかかっている絵は、目の前の老女の若き日の肖像画だったのだ。たしか柏木画伯の初期のころの作品であった。絵のタイトルは「我が妻 洋子」。四十年も前の作品であった。その絵は油絵特有の鈍い光を放ち、群青の背景から浮かび上がるように白い肌が描かれてあった。
「どうぞ、中に入ってお茶でもおめしになってくださいまし」
「ああ・・・・・・はい」
神崎は誘われるままにビロードの濃い緑の長椅子に腰掛けた。
部屋の中は、さすがに古い洋館の外観から察しがつくように、太い節くれだった柱の張りが手前の居間とその奥の台所を区切っていた。
金沢の五月の初旬はまだうすら寒く、暖炉の中の灰はほんの小さな火が照らされてあった。
「この絵がここにあるとは、驚きでした」
神崎は、優雅にお茶を差し出してくれる婦人に向かって、声をかけた。彼が感嘆の声を上げるのも無理はなかった。柏木画伯の初期のころの作品はほとんどないといってもよく、さらに、人物像を描いた作品はこの一点しかなかった。そのため作品集、出版物には必ずといってよいほどこの絵が写真入で紹介されている。したがって、神崎はこの作品はすでにどこかの美術館か企業が所有していると勝手に思い込んでいたのであった。
「この絵ですか」
婦人が神崎の言葉に答えて、壁にかかっている自分の裸体像をみながら、言葉を続けた。
「ずいぶん多くの人が買いたいという希望があったのですよ。でも柏木がどうしてもこれだけは手元におきたいと言い張って・・・・・・」
画伯のその気持ちもわからなくはなかった。
柏木崋山も、多くの画家たちと同じく、初期のころの作品はまったく売れなかった。彼が画家として成功したのは、渡仏し、向こうで認められ、それが日本でも、という形であった。この婦人の裸体像は、まだ画伯が日本に滞在していたころの作品だった。すでにその頃画伯は新人賞を一度とっていたが、その後、まったくどこに出品しても評価されない年月が何年も続いていた。その時代の作品であった。
その後、フランスでの作品が評価され、その影響から除々に初期の作品の価値が見認められたのであった。
それは見方を変えれば、この絵に価値が生まれたのではなく、画伯の人生に価値がつけられたということになるのかもしれなかった。
神崎は、画家に限らず、多くの作家は、できれば自分の作品を愛してくれる人に所有してもらいたいのではないかと考えていた。誰かに言われたわけではなかった。売れなければ生きていけないのが現実である。しかし、そんな青臭い理想像を神崎は気持ちのどこかに持っていたのだった。
もう一度、夫人の裸婦像を見る。
たぶん、画伯は誰よりもこの絵を愛していたのだろう。
「夫人はそれほど愛されていたのですね」
流行の言葉だった。
また、だった。
気がつくと、彼は向かいの長椅子に腰掛けていた。
神崎は再び不愉快になった。彼はまるで、自分の心を読んでいるかのように言葉をかけるのだ。その台詞は間違ってはいないのだが、あたかも分かっているかのようなその様子は、人を不機嫌にさせるものだった。
「画伯の病気のことは夫人から話されたのですか?」
神崎は、さっきの仕返しとばかりに、流行を無視して、そばに立っている洋子夫人に声をかけた。
このいくぶん無礼な態度に驚いた様子で、夫人は流行に気を配りつつ質問に答えた。
「ええ、柏木には隠し事はしたくはありませんので・・・・・・」
「ずいぶん冷静にご自分の状態を把握しておられたので、驚きました」
「確かに最初はそうとうショックだった様ですよ。でも・・・・・・」
なぜか、夫人は次の言葉を流行に視線を渡すことで、彼に助けを求めた。
「結果的にはそれでよかったのかもしれません。画伯は、夫人に感謝しておられますよ」
流行の穏やかな返事が返ってきた。
「そう、よかった」
夫人の安堵のため息が聞こえそうだった。
「では、洋子夫人。今日のところはこれで用が終わりましたので、失礼させていただきます。そう、確か神崎君とかいったね。すまないけど、私を自宅まで送ってくれないか」
突然であった。確かに神崎にとっては、初めての来訪であった。自分ひとりこのまま残る必要はなかった。したがってこの状況で断る理由もなかった。だが、勝手に決められてしまったことで、流行に対する不満だけが残ってしまった。
「え・・・・・・ああ、いいですよ。」
奥歯に物の挟まった返事しかできなかった。
流行が立ち上がると神崎もつられて軽く会釈をし、居間を離れ玄関を出た。外には白い小型車が停めてあった。
門を出るなり、神崎は足早に車に近づき、さっさとシートの中に座った。
少し後に、流行がさも、当たり前のように隣に座る。
「住まいはどちらですか。」
明らかに不機嫌であるという色を露にして神崎は聞く。
「玉川町です」
「では、近くになったら細かいところまで教えてください」
画伯の紹介ということもあって、むげにはできなかった。だが、親しくする気分にもなれなかった。早々に家まで送って別れたかった。神崎はそれっきり黙ってハンドルを握った。
気まずい雰囲気の沈黙を破ったのは流行の方からだった。
「神崎君とか言ったね。君は面白い子だ」
「何が面白いのですか」
少々きつい口調になってしまう。
「普通なら、死期が近づいている人間に対して、もう少し上手な言葉をかけるものですよ」
先ほどの画伯との面談であった。神崎はそう言われて初めて、自分が何も画伯と話をしていなかったことに気づいた。
「すみません。でも、私はそれほど器用な人間ではありませんから。それに自分の死を理解している人の気持ちなんて解りませんよ。流行さんなら解るんじゃないんですか」
「たぶん、誰も解らないのではなにのですか。本人以外は」
神崎の押し付けるような言葉に対して、流行はさらりとかわした。
「え・・・・・・確かに・・・・・・」
何の確信もないのに、この男は人の心を読むことができると思い込んでしまったようであった。
「でも、想像はできます」
流行が言葉を続けた。
「相手を思いやる気持ちとでもいうのですか」
「それは、画伯が夫人を思いやる気持ちですか。自立しないっていうことも案外役に立つんですね」
神崎の脳裏には、夫人が流行に助けを求めた場面を思い出していた。
「神崎君。君はやはり面白い子だ。普通だったら、夫人も画伯を支えていると考えないかい。病人の介護は大変ですよ」
流行の至極当たり前の意見に、神崎は反感を覚えた。
老婦人とはいえ、今思い出すと、あの夫人は介護につかれきった様子を微塵にも感じ取れなかった。生活に追われ苦労している様子は見受けられなかった。
流行に言われ、初めて神崎はあの夫人が画伯を看護しているという事実を認識させられたのだった。彼の台詞から、とっさに脳裏によぎったのは、他人の介助の存在であった。
―あの老婦人が中心となって介護をしているわけではない。
「残念ながら。愛されているだけの女性は、支えられていることしか存在意義はないと僕は考えているのでね」
「神崎君。やはり君は面白い子だ」
それだけいうと、流行は黙ってしまった。
そして、再び口を開いたのもやはり流行からだった。
「今日は、作品は持ってこられなかったのですか」
「いえ、本当に見舞いに来ただけですから。」
「では今から私の店に来てみませんか、今後のこともありますので。画伯との話はついています」
神崎は先ほどの柏木と流行との会話を思い出した。
――私も協力するので。
画伯の容態から見て、もう一度面会できるという雰囲気ではなかった。
そして神崎はふと、この奇妙な男をもう少し知りたくなった。
確かに、少々強引なところもあり、あまりにも人の心を見透かすような台詞を言うことで、神崎の気分を不愉快にした。しかし、冷静になって考えてみると、彼の意見は至って常識的なものである。むしろ、自分の方が、何も知らないのに初対面の印象だけで偏った意見を言ったことに少々後悔していた。
「ありがとうございます」
ちらりと流行を見て返事をした。
流行の画廊は、金沢市の中心地近くの武蔵が辻のすぐ裏手にあった。画廊であるから小さな店舗だと想像していたが、車を指示通りに走らせていくと、三階立てのこのあたりにしては大きめの近代的なビルの前にたどり着いた。車を停めて初めて、金沢駅から職場へ行く途中にいつも見ている建物であることに気がついた。
正面は半地下に駐車場が作られてあり、右手に短い階段があった。そこが入り口のようであった。駐車場から表に出ると、上の方に横文字で「流行画廊」と彫られてある看板が目に付いた。銀メタルの縁取りでアクリル板が仕切ってあった。その中にはポスターが貼られており、「現代作家によるイコンの創造」と書かれてあり、モザイク画のキリストの姿が描かれてあった。
「宗教画ですか」
―めずらしい。
金沢に赴任してから分かったのだが、北陸は仏教が盛んな地であった。
キリスト教の絵画はファッション的には見栄えがするかもしれないが、信仰上のことを考えると、なかなか商業的には向かない気がした。
「どうぞ、中にお入りください」
神崎の呟きが耳に入ったのかどうかは分からなかったが、流行が先に立って、ドアを開けた。
室内は多くの画廊と同じく、白い壁に絵画が飾られ、それぞれにスポットライトが照らされていた。後方の事務所から出てきたのであろうか、中年の夫人が立って、先に流行に挨拶をし、神崎に深々と礼をする。
「二階にもありますが、見ていかれますか」
流行が尋ねる。
「ええ」
神崎は部屋の中の絵画をぐるりと見渡しながら応えた。流行は軽くうなずくと部屋の奥にある机に向かって歩いていった。その様子を目の端で追いつつ、入り口から、ゆっくりと絵画を見ていった。
イコンとは、キリスト教において神や天使や聖人を記念し象徴として模られた絵や像で、敬拝の対象とされるものである。 その画風は通常の写実的なものではなく、身体の一部をより強調された描き方をするのが特徴であった。
神崎自身はそれほど宗教には興味はなかったが、現代画法、ポストモダニズムで描かれたイコンの姿は、素人が見ても十分興味を引かせるものであった。
二階にも上がり、絵画を一通り見終わって下に下りていく。その姿を確認した流行が立ち上がり、神崎を奥の左側へと導いた。そこには大き目の木製のテーブルを中心に同じ色調のベージュの奥行きのあるソファーがコの字型に配置されていた。
神崎は壁側の隅に腰掛けようと奥に進んだときだった。小さな一枚の油絵が目に入った。
高台から浅の川沿いの町屋を描いたものだった。
柏木崋山の中期の作であった。
平坦な陰影の少ない、一見すると切り絵と思える画風である。この日本画の技法を使った描き方は、彼独特のものであり、海外での評価の高さの一因となった。
神崎が座りながら見ていると、流行が向かい側に腰掛けた。
「流行さん、この絵は画伯の絵ですね。何故これだけがここに?」
部屋のインテリアとしては考えにくかった。
「地元の作家ですから」
至極当然の返事が返ってくる。
「画伯の作品は人気がありますからね、すぐになくなるのではないのですか」
そう、神崎は口にしてしまってから、はっと気づいた。そして、複雑な表情で、流行を見る。
一般的に絵画は、生前のものよりも、死んだあとの方が高く売れるものである。商売を考えた時、今ここに画伯の絵があることは決してよい時期とはいえなかった。
流行の意図が分からなかった。
神崎の脳裏に先ほどの画伯のベットの上の姿が思い浮かぶ。
慌てて前の言葉を打ち消すように神崎は言った。
「画伯の命はあとどれくらいは持つのでしょうか」
「画伯自身は夏までは大丈夫だろうと言っておられましたが、たぶん、そこまでは無理でしょう」
店員が持ってきたコーヒーを飲み、思いがけないほど普通に流行が言った。
だが神崎自身も予想していた答えだった。
「個展は、無理なんじゃないのですか」
流行はその問いに対して、絵の方を見ながら応えた。
つられて神埼も絵を眺める。
「画伯は、生前葬儀といっておられましたが、本当は、亡くなられたあとの打ち合わせをしています」
「え?」
神崎は流行の横顔を見つめた。
「人には言いにくいものです」
その答えに応えようがなかった。
「そのことは夫人は?」
そのとき、やっと流行が神崎の方を向いた。
「たぶん、知らないと思います」
「なぜそのことを夫人には言わないのですか」
「画伯の意思です。それに、個展を開く事は、画伯の生死にはあまり関係あませんよ」
「え?」
神崎は眉をひそめた。
流行の台詞は、明らかに少々強引だった。生きている間にする個展と死んだあとにする個展では、執着とでも言うのだろうか、思いの強さは格段に違うはずであった。
何故なら、死んだあとにする個展は、自分自身ではもう何もできないのである。
流行はそんな神崎の不審そうな表情を見ても表情一つ変えず応えた。
「何故ですか。画伯の意思はすでに聞いております」
「しかし、亡くなってからでは、何もできないんですよ。個展を開いて、さまざまな人が来ても、ただ、眺めていることしかできないじゃないですか」
個展は、直接作品に対しての批評を聞ける貴重な場所でもあった。
「神崎君は人は死んだらどうなると思いますか」
「え?」
突然の流行の質問に神崎は狼狽した。今まで、一度も真剣に考えたことはなかった。
「眺めているという考えは、霊の存在を意味します。無意識ですがある意味、宗教的概念と関わっています」
「違うのですか?」
正直神崎はここでこんな神秘主義的話をするとは思わなく、少々いぶかしんだ。
しかし、そんな様子を無視して、流行は話を進める。
「多くの宗教は善行は、天国に行き、悪行は地獄に行く。少なくとも、天国と、地獄というカテゴリーが存在します。最近の体験談では、花園の様なところに行くとか。対外はそこで後ろから呼ばれ振り返ると意識が戻るそうですよ。」
「違うのですか。それに、日本の仏教では輪廻転生という考えもあります」
輪廻転生。人は生まれ変われる。本気で神崎は信じてはいなかったが、今改めて考えてみると、一般的な意見が出てきた。
「死んだら生まれ変わるのですね。ですが都合がよすぎませんか、いつでも人生をリセットできます」
「ですが、多くの人が信じています」
「では、もし、無に帰るとしたらどうなさいますか」
「無?」
「そうです、消えるのですよ」
「それが本当なのですか」
「どうでしょうかそうゆう考えもあります」
神崎は流行のその言葉に困惑した。
決して肯定も、否定もしない。その真実を――もし、本当にそこに真実があるのならば、その真実を闇の中に放り込むようなその言葉自身が暗に無であることが真実であるように感じさせたのであった。
そして、また少しの沈黙。
奇妙な静けさの中、流行がまた会話を続ける。
「ですが、人として、ただ消えてしまうのはあまりにも寂しすぎませんか」
「本当はどうなんですか」
「知ってどうなさいますか。本当にそれを知る権利があるのは確実な死がある人だけです」
「何故ですか、もし、物理学的な論理で話を進めるならば、人が知りたいと思うのは当然の権利ではないのですか」
「では、人は死ぬために、生きているのですか」
「流行さん、宗教はそんな単純なものではないでしょう」
その台詞に流行の顔がほころんだ。
「そうです。死の存在はある意味生への執着を問いただします。そう、例えば恨みは生への執着の一つかも知れません」
「恨みが生への執着?ホラーですか」
「いいえ、恨み、憎しみでは、人を殺すことはできません。憎しみで殺された人間は、自分を殺したモノを憎まないのでしょうか」
「すみません、流行さん、私はここにオカルトの研究をするためにきたのではありません」
「ああ、そうでしたね」
そういうと、流行はテーブルの上のコーヒーを一口飲んだ。
「ところで、この町はいかがですか」
神崎の明らかに不機嫌な態度に流行は話題を現実に引き戻した。
「ここに来て一ヶ月ほどですが・・・・・・・・いい町ですよ。下宿先が町屋の中で、皆さん親切です」
金沢に来て以来、何度か同じような質問をされていた。そのつど同じ答えをする。
「出身は、東京ですか」
「ええ、それがなにか」
「あなたは、客人ですよ」
「え?」
「先ほどの車の中の話ですが・・・・・・この町で長く暮らしていくおつもりなら、あまり、ご自分の意見は言わないほうがよろしいですよ。これは忠告になるかもしれません」
先ほどの夫人に対する神崎の意見であった。
神崎自身も後悔していたことであった。返す言葉がなかった。
流行がそんな様子を見て言葉を続ける。
「あなたが間違っているというわけではありません。ある意味、夫人もあなたと同じなんですよ。客人なのです」
「十数年住んでいると聞きましたが?」
「年月ではありません。人との関係の深さです。夫人は幸せな方です、限られた人間関係の中だけで生きてこられた方です」
「幸せ?」
「神崎君、この町は東京とは比べ物にならないほど小さな町です。そして、人の心も町の規模と同じになっていくものです」
流行の悟ったような言い方に神崎は反論をする。
「流行さん、それは町の規模とは関係ないのではないのですか。その・・・・・・心の狭い人はどこに出もいるものですよ」
利己主義で、現実を重視する人間はどこにでもいた。中学校の非常勤講師。この微妙な立場に対する他人の対応は東京でも金沢でもほとんど同じだった。それはすべてにおいてマイナスでもなく、またプラスでもなかった。それが人なんだろうと神崎は思っていた。
だが当の流行はそんな神崎を見て、呟きとも思えるような台詞を言った。
「そうですね、そこに住んで、生活をしていかなくては分からないこともあるかもしれません」
その後は、後日、改めて神崎の作品を持ってくることと、金沢での先生の紹介の話となった。意外なことに流行は神崎の恩師北川教授を知っており、近く地元の美大の先生を紹介する話になった。
「それではそのときにまた」
帰り際に流行はそういい、神崎は車に戻った。
最後まで流行がなぜあんな死後の世界の話をしたのか分からなかった。
だが、――死者は恨みで人を殺すことはできないのですよ。
なぜかこの一言が妙に記憶に残っていた。
そして、この奇妙な流行の台詞を後に神崎は身をもって思い知らされたのだった。
それは、神崎が柏木画伯に会ってわずか一週間後の朝のことだった。二階の自室で何気なく新聞を開くと地方版に大きく画伯の死去の記事が載っていた。それほど長くは生きられないだろうと先日話していたばかりだったのでさほど驚きもしなかった。だが、何気なく記事を読み進めていく中、視線がある一行で止まった。
喪主、柏木美津子。
聞いたことがない名前だった。
いやな予感がした。
記事によると通夜は身内だけで行い、葬儀は明日に行われるということであった。
次の日、神崎は小学校を早退し、葬儀場に駆けつけた。
式場は比較的街中にあり、駐車場も完備されていたが、画伯の知名度の高さから、大きな会館の中はマスコミと参列者で埋めつくされていた。
しかし、神崎は車を降り、式場に向かう道すがら、なにか葬儀である以上に重苦しい雰囲気が漂っているのを感じた。と同時に新聞記事を読んだあの不安がよぎる。そして神崎はその空気の原因を会館の中に入って確信した。
ほのかに暗い室内に入っていくと、中はほとんど来訪者ですでに埋め尽くされていた。視線を奥に伸ばすと、遠くからでもはっきりと、親族席を確認することができる。
その、白い菊の花で飾られた祭壇の右手の親族席の中に、洋子夫人の姿が見えなかった。
喪主の白い花をつけているのは何処かの老婦人であった。年は、洋子夫人と同じくらいだろうか。小柄な夫人に比べて、喪服を着て、親族席の最前列に座っているこの女性は、遠目からもはっきりと容姿が分かるぐらい大柄だった。緊張の中にも、本来ならば、穏やかで人望の厚い人格であることは読み取ることができた。そして着物を着慣れている、そんな雰囲気が漂っている上品な女性であった。
この人が、柏木美津子。
神崎の中で、何か悲しみを含んだ哀れみの感情が生まれた。そして同時に神崎の記憶が、生前の健康なときの柏木画伯の写真を思い出させた。たしかに、あの画伯の隣にこの女性が並んでもまったく違和感はないだろう。むしろ、日本を代表する画家の妻としては申し分ないほどの、まさに、絵に描いたような夫婦とはこのことを言うのだと感じさせた。
が、あまりにも理想的な夫婦象。
理性の向こうで、本能がおかしいと言っていた。
それは、当然過ぎるほどの連想だからかもしれなかった。しかし、何故そこにただの親族、もしかしたら姉か妹かもしれないという考えがおこらなかったのだろうか。
それは妻であるという雰囲気を漂わせていることかも知れなった。
しかし柏木崋山の妻は洋子夫人のはずであった。
必然的に微妙な関係が見えてきた。
――内縁の妻。愛人。
神崎はそんな言葉を抱えたまま、会場を見渡して洋子夫人を探した。
そのとき、後ろから神崎を呼ぶ声がした。振り向くと喪服を着た流行がそばに立っていた。神崎は軽く頭を下げ、「夫人は?」と流行にささやく。
それに応えるように、流行が前方の一番左端に視線を向けた。神埼もその視線を追う。斜め後ろ姿ではあったが、遠目からでも喪服を着た洋子夫人と分かった。祭壇の最前列、しかし明らかに一般参列者の席であった。
流行が神崎の背中を押して、すぐそばの椅子に腰掛けた。
話をする間もなく、程なくすると葬儀が始まった。経のあと、葬儀の進行者がマイクを持って話し出した。
「それでは喪主の美津子夫人からお焼香をお願いいたします」
葬儀はつつがなく進んでいった。
だが、そこには暗黙の緊張感が漂ってきていた。それは、もしかしたら、神埼が勝手にそう感じていただけかもしれなかった。だが、このまま行けば、故人を前に本妻と愛人との対面が起こるのは必然であった。
たぶん、何事も起こらないであろう。だが、その状況だけで、十分スキャンダラスだった。好奇の視線が集まるのは目に見えていた。
そんな会場の雰囲気の中、一般参列者の一人として洋子夫人が席を立った。神崎が息を飲み込んだその瞬間、葬儀会社の職員の女性が夫人に近づき、何か耳元で話をする姿が見えた。
そのとき、流行がささやいた。
「車の用意をしていただけませんか、職員の人に夫人を呼ぶように私がお願いしました」
神崎はうなずくと、席を立った。そして会館を出るなり、急いで駐車場の方へと走っていった。
程なくすると、流行に抱きかかえられるように歩いてくる洋子夫人の姿が見えた。二人が後部座席に収まるとすぐ夫人は崩れるように意識を失った。神崎はそのまま車を発車させた。同時に流行がため息とともに婦人を支えなおした。
「よくまあ、あの席に一人でお行きになったものです」
「どういうことなんですか」
神崎はうすうす分かっていてはいたが、前を向いたまま流行に尋ねた。
「夫人は柏木画伯とは籍は入っていません。画伯は夫人と出会ったとき既に結婚していました」
「あの葬儀の婦人ですか」
多くの参列者に対して、当たり前のように自然に挨拶をしていた美津子夫人を思い出した。
「でも、どうしてこんなことに」
「ともかく、自宅に行ってからです」
「ああ」
神崎は車を飛ばした。ほどなくすると車は、画伯の自宅に到着した。その間、流行がずっと支え続ける結果となり、とりあえず画伯のいた部屋に運び入れベッドに夫人を寝かした。
夫人の意識が戻り、それからどうにか普通に話ができるようになるまでには2時間ほどの時間が必要だった。
「死んだ人間のベッドで申し訳ございません」
神崎が言った。
洋子夫人は、喪服のまま上半身を起こして、それに答えた。
「いいえ、ありがとうございます。柏木が入院してから私がここを使っておりました」
「入院?」
「ええ、神崎さんが帰られて次の日、気分が悪いということで病院に行きましたらそのまま入院となってしまいました」
「しかし、どうしてこんなことに・・・・・・」
さきほどの葬儀のことであった。
「入院して、そのまま面会謝絶となり・・・・・・病院から危篤状態だとの知らせが入り・・・・・・柏木の最期を看取って、それから私の親戚や仕事の関係者の方に連絡をしましたら、葬儀の方がやってきて、遺体だけを持っていってしまって・・・・・・今日あそこで葬儀があることも私新聞で知りましたの。で、いても立ってもいられなくて・・・・・・」
神崎はため息しか出なかった。
「柏木家は名門ですから」
神崎のそんな様子を見ていた夫人は諦めにも似た、分かりきった、「いまさら」という思いの言葉を吐いた。
確かにそうであった。柏木家は戦前は華族の出身であった。戦後、華族制度が廃止されてからも、柏木グループとして繁栄を保っていた。しかし、画伯自身はそれらすべてを嫌っており、生前は一切関係をとらなかった。
だが、柏木一族の長男であったこと、さらに画伯として有名になったことから、一族の方から画伯との関係を主張し続けていたため、周知のこととなってしまったのだ。
しかし、神崎にとっては画伯の結婚に関しては初耳だった。
「いつからこんな状態に?」
画伯と、夫人との関係のことであった。
神崎が柏木画伯の名を知るころにはもうすでに、このスキャンダラスな状態は話題にもなっていなかった。
「私が柏木と出会った時、既に彼は結婚をしておりました。フランスから帰ってからなんどとなく離婚を要求してきたのですが、向こうが一向に応じてくれませんでした。それに柏木はあまり表に出たがらない人ですし、柏木家もこのことは恥部だと思っていたようで、世間にあまり知られないようにしておりました」
「これでいいのですか」
「いいも、悪いも、私の力ではどうにもならないことですわ」
「じゃあ、これからどうするんです」
夫人の、あまりにも他人任せの台詞に思わず、神崎はきつい口調になってしまった。
それは、どこかで、このあまりにもむごい状況に追い込まれていることに夫人自身が自覚していないことに、そして、画伯が死んだとき、何もできなかった夫人に対するふがいなさが、そんな言葉になってしまったのかも知れなった。
神崎の思いがけない言葉の強さに洋子夫人は驚き、そのまま沈黙が続いた。
そのとき、玄関のベルが来客を告げた。
神崎は一瞬夫人と顔を見合わせた。
「私が行きましよう」
神崎の後ろに立っていた流行がそういって、部屋を出た。
そして、次に部屋の中に入ってきたのは、先程葬儀場でみた、柏木画伯の本妻の美津子夫人だった。
喪服を着た婦人は、葬儀場からそのままこの家に来た様子にみえた。
婦人は部屋に入るとわき目も振らずにベッドに近づき、側に立ち洋子夫人を見つめた。互いに以前から知っているようであった。当の洋子夫人もこの突然の来訪に驚きはしたものの、どこかで覚悟をしている様子であった。
「今日はわざわざ主人の葬儀に参列していただいてありがとうございました」
すべての感情を押し殺した台詞だった。間近で改めて美津子夫人の顔を見たとき神崎は自分の第一印象は間違っていないことを改めて確認できた。しかし、その気品にあふれた顔は、能面のように表情を消えうせていた。
洋子夫人は真正面から本妻の美津子夫人を見つめ返した。
その視線を跳ね返すかのように、美津子夫人が口を開く。
「先ほど、弁護士から夫の遺言状が渡されましたの」
神崎は、美津子夫人の後ろにいる流行の顔を見た。だが、彼の表情は一つも変わることはなかった。
美津子婦人は手に持っていた黒のハンドバックから白い封筒を取り出し広げ、ゆっくりと広げた。そして、慈悲深く、読み出した。
「杉村洋子には、私柏木崋山が描いた、表題「わが妻 洋子」の肖像画を贈る。あなたのことに関してはそれだけしか書いてありませんの。したがって、本当にすみませんが、あの絵を持って、ここから出て行っていただけないでしょうか。あの絵以外はすべて、今後一切の作品の管理は柏木家が致しますので、あなたにはご心配はおかけいたしませんわ」
「そんなばかな!」
どんなに丁寧な言葉で言われたとしても、内容は、画伯の作品、その他すべてをこの美津子夫人が相続することを意味する、いたって理不尽なものであった。
神崎は冷静に落ち着き払って立っている美津子夫人から、遺言状を奪い取ろうと前に出ようとした。
「神崎さん」
それを洋子夫人の静かな声が押しとどめた。
「分かりました。でも、私の方もこれからのこともあるので少しお時間を頂けませんでしょうか」
神崎は洋子夫人を見返した。
その表情は言葉と同じように冷静であった。
「ええ、それくらいならいいでしょう。でも、初七日が終わりましたら、夫の作品を取りにきます。それまでには終わらせてください」
なんと、美津子夫人はそれだけ言ってしまうと、きびすを返して部屋を出て行ってしまったのだ。
神崎は理不尽とも言える要求を、反論一つせず飲み込んだ洋子夫人に苛立ちを感じ、強い口調で怒鳴った。
「どうしてこんなことを!」
「かまわないのです!」
驚いたことに、しっかりと、だがはっきりと強い口調で夫人は答えたのだった。
「柏木は自分の作品は手元に置きたがらない人でした。柏木家が所有するといっても、たぶんほとんど作品はないはずです。私はあの絵だけで十分です」
神崎は助けを求めるように流行を見た。
だが、彼はただ黙って立っているだけだった。
「お二人とも帰っていただけませんか」
再び強い口調で夫人が言った。
神崎はそんな夫人を見、改めて流行を見つめた。
「神崎君、夫人はああ言っておられる。我々は退散したほうがいいよ」
流行が神崎を促した。
神崎はしぶしぶ流行に導かれて部屋を後にした。
しかし、帰りの車中で神崎の怒りは爆発した。
「本妻も本妻だが、夫人も夫人だよ。よくもまあ、あんな条件飲んだもんだ。普通だったら裁判ものだぜ」
「普通とはなんですか」
「え?」
静かに流行が反論した。
「美津子夫人は遺言状を直接持ってこられました。あなたが言う普通ならば、弁護士が持ってくれば事は十分足りえたはずです」
「それは・・・・・・・・」
詰まった台詞の後ろには、「それは、夫を奪った愛人に復讐したかったからだろう」とう言葉があった。だが、それを口にしてしまってはあまりにも洋子夫人が惨めだった。
流行が言葉を続けた。
「ですが、たった一枚の遺言状で駆け出した美津子夫人の気持ちも思い計ってください。どこかであの方も画伯を愛していらしたのでしょう。私からすれば非常に愚かな行為だと思いますが」
愚かな行為。
神崎は流行がなぜそういうのか分からなかった。それに、もしかしたら、駆け出した本人もそんな気持ちに気づかなかったのかも知れなかった。
それでも流行は言葉を続ける。
「あの方はわずか十六歳の時に画伯と結婚させられました。画伯の父親は、自分の後を継いでもらいたがっていました。美津子夫人は画家になりたいという画伯の意思をずっと父親に告げ、説得し続けていたそうです」
「・・・・・・」
「それに、画伯が美大の学生時代、学費の捻出は美津子夫人がやっていました。当の美津子夫人自身も師範学校まで出た秀才ですよ。今でも、柏木財団の理事をしておられ、経済界から厚い信望をもらっている、立派な方です」
「では、何で画伯は本妻を棄てたんだ?」
「もっと早く、今日のようにすべてを投げ出して画伯の胸に飛び込んだならば、状況はもっと違っていたかも知れません。ですが、遅すぎました。画伯は・・・・・・権力に包まれた女性を愛することができなかったのでしょう」
愚かとは、死んでから行動しても遅すぎるという意味だったのだろうか。
「洋子夫人はそうではなかったのですか」
「あの方は何も持っておられない方でした。画伯がよく行く喫茶店で働いていたそうです。そこで親しくなられたとか」
「そんな昔の話」
そういいながらも、神崎も洋子夫人に対しての同情の念が薄れたのも事実だった。
すべてを投げ出すという判断に苦しまなくてもよい女性。愛情だけしかなかった女性。
冷静になった神崎を見て流行は話を進めた。
「見方を変えれば、洋子夫人は画伯を支える機会をもらえたともいえます」
「つまり、別に洋子夫人でなくても、画伯は画家として成功した、ということですか」
「そのような考え方もあります」
「それがあの葬儀か・・・・・・」
唇をかみ締めながら出た台詞であった。どう考えても、美津子夫人一人が自己主張したところで、あのような大掛かりな葬儀が行われるはずがなかった。
たぶん流行の言うことは間違っていないだろうと神崎は思った。狭い町である。本人たちが何も言わなくても次第にその過去が人の口によって知れ渡ってしまったのであろう。まして有名人である。その微妙な関係がさらに洋子夫人に対する興味が強まったことも十分理解できた。
流行の説明で今の自分の中に沸き起こった感情は特別なものではないと神崎は思った。多くの人も同じように感じるであろう。自分があまりにもむごすぎると感じたあの葬儀は、立場が変われば、自分自身も加担したかもしれなかった。
「先日神崎君は私にこう言いました。愛されるだけの女性は支えられることに意義があると。そのような考え方は、ある意味非常にマイノリティーの考え方です。多くは、夫の成功に対する妻の努力は評価されるものです。ですがこれもこの街の考え方でもありません。だから面白いといったのですよ」
「では、この街の普通の考え方とはどういうものなんですか」
神崎はそれでも話を続ける流行を不思議に思った。
「この町は、何も言いません」
「えっ?」
「この町は、力のあるものが正しいのです。たとえ、柏木家のやり方が、どんなに理不尽であったとしても、力があれば、この町の人々はそれを黙って受け入れるだけです。あなたのように自分の意見、主張などは言いません。たとえ、心の中でどのようなことを思っていたとしても、です。決して口には出さないのです。だからこそ、この街では平然と葬儀が行えたのですよ」
神崎は、あの葬儀の言いようのない重苦しい沈黙の雰囲気の意味がようやく分かった。多くの参列者の、平然とした喪主に対する挨拶は、何も分かっていないのではなく、すべてを知っている上での行為だったのだ。そこに、本妻と内縁の妻が同席している事実を知りながら、それでも、本妻に頭を下げる姿は、流行の言った言葉そのものの態度だった。
神埼自信は認めたくはなかったが、妻の内助の功は流行の言うとおり、社会一般には認められ手いるものだった。
「神崎君。通常あの様な席、葬儀のようなところでの内縁の妻という立場は、ある意味影であることを分かってください。厳しい言い方ですが、他人が喪主を務めることはほとんど不可能だと思った方がよいでしょう」
流行が神崎の気持ちを分かった上で、改めて現実を言った。
「ああ――」
言われなくても分かっていた。それでも洋子夫人に対する神崎の不満は消えなかった。それは、長年連れ添ってきた伴侶であった。たとえ、どんな醜態を見せようとも、最後まで画伯の側に付き添うのが当然ではないのか。そうであってほしい。あまりにもふがいなかった。
神崎は納得いかない思いを持ちながら、口にできない苛立ちのまま、乱暴にハンドルを切った。
「あの絵を持っていかなくてはなりませんね」
突然流行が、神崎の思考を中断するかのように言った。
「えっ?」
最初、神崎は彼が何を言っているのか分からず、もう一度、流行の言葉を頭の中で反復し、そして、やっと気がついた。
「ああ、洋子夫人の肖像画ですね」
先ほどの遺言状の内容から、洋子夫人には、あの肖像画しか手元に残らないことになったことを言っていると気がついた。
「画伯の作品の管理は私に任されています。夫人が落ち着かれるまで、一度私の手元においておいた方がいいでしょう」
流行は独り言のように言った。
そして、そのころになると、車は交差点の近くに来ていた。神崎は流行を画廊の前で、彼を降ろし、別れたのだった。
それから、一週間ほどたったくらいだろうか、神崎は流行と後味の悪い別れ方をしたため、作品を持って再びあの画廊を訪れる気になれなかった。一度、母校の教授に相談をして、改めて金沢での創作活動を考えてみようかと思いあぐねていたときだった。職場の中学校の二時限目の授業が終わったとき、流行から携帯に連絡が入ったのである。
「今日、洋子夫人のご自宅から画伯の絵を運び出すのですが・・・・・・」
神崎は、流行と最後に会ったときの会話を思い出した。
「実は今日突然私に急用ができまして、立会いにいけなくなりました。神崎さん、すみませんが、私の代わりに立ち会ってもらえないでしょうか」
「何時ですか」
「三時です」
「ああ、いいですよ」
その時間なら、神崎の担当の授業は終わっていた。立ち会うだけならばということで、軽く引き受けてしまったのだった。
その日はあいにく朝から天気がすぐれず、お昼過ぎ外に出ると、今にも雨が降りそうな曇り空だった。
仕事が終わり、そのまま画伯の家に行った。到着したとき、時計を見て、予定より少し早めだったことに気がついた。車の中でフロントガラス越しに玄関を見るとまだ誰も来ていない様子だった。
程なくすると、下から、トラックの走る音が聞こえ、運送業者の車が見えた。神崎は、すぐに車から降り、業者を出迎えた。トラックからは作業服を着た男性が降りてきた。
「神崎さんですか」
「はい」
神崎の返事に男性は安心したように、言葉を続けた。
「依頼主の流行さんから、今朝立会いにこられなくなったと連絡がありました。代わりに神崎さんという方がおられるということを聞いております。よろしく願いいたします」
そう挨拶すると、業者の男性は、門柱の扉に手をやった。しかし、門は、鍵がかかっているようだった。するとその男性は、ポケットから、鍵の束を取り出し、その中の一つを鍵穴に差し込んだ、
「えっ・・・・・・」
側で見ていた神崎は、少し驚いて、軽く声を上げた。
「流行さんから、夫人には話してあるので、鍵がかかっていても入ってください、と言われています」
神崎の様子に気づき、男性はそういって、門を開け、車を中へ進ませた。
そして、玄関のインターホンを押したが、やはり返事がなかった。何度も押してみたが、同じだった。少々この状況に神崎はいぶかしんだが、それでも仕方がないので、同行している男性が、預かった鍵でドアを開けた。
開けた瞬間、廊下の奥から漂ってくるかすかな異臭に神崎はすぐに気がついた。一瞬二人で顔を見合わせ、注意深く中に入っていく。
屋敷の中に踏み込んだとき、そのにおいが、ガスの漏れる臭いだと気がついた。
「台所!」
神崎はとっさにそう叫ぶと、先日の居間へ駆け出した。
慎重にドアを開け、中に入ると、咳き込むほどのガスが部屋の中を充満していた。
「窓を開けて!」
大声で叫び、部屋の奥を見た。そこには、先日と同じ紺の着物を着た洋子夫人がテーブルの上で、うつぶせの状態で座っていた。駆け寄ると、すぐそばには、柏木画伯の処方箋の紙袋と、睡眠導入剤らしき錠剤のフィルムが置いてあり、一目で自殺と分かる状況だった。
神崎はすぐにポケットの携帯を取り出して、救急車を呼んだ。
真っ青になっている運送業者に、今日はキャンセルと言い残し、神崎は夫人に付き添って、救急車の中に同乗した。救急車は柏木画伯の入院していた病院へと運ばれた。
待合室のところで、何度か携帯で流行の連絡先にかけたが、電源が入っていない状態が続いていた。
あせりと不安な中、医師が、神崎を呼んだ。
「命には別状はありません。奥様は、ご主人が残された薬を飲まれたようですね」
そういいながら、カルテに何か書き記していた。
神崎は何故か、夫人が助かったということよりも、目の前の医師が、当たり前のように洋子夫人を「奥様」と呼んだことに、ほっとした。
医者はカルテを書き終わると、神崎のほうに体を向けて、言葉を続けた。
「ですが、あの薬では、死ぬことはできません。それに、最近は、ガス中毒では死ねないんですよ。奥様にそういっていただけないでしょうか」
今までに、何人も同じような経験をしているのだろうか、特別変わった表情ではなかった。そして、神崎に、洋子夫人の病室を教えてくれた。
病室は個室だった。窓際の椅子に腰掛け、夫人の寝顔を見ていた。
医師の話では、病院についてすぐに胃の中を洗浄し、その痛みで意識が戻った夫人に安静のため鎮静剤を打ったらしかった。
どれくらいたっただろうか、眠っている洋子夫人の寝顔をただ見続けていると、ふと、夫人のまぶたが開いた。
「夫人、洋子夫人大丈夫ですか?」
神崎はゆっくりと呼びかけた。
「あなたは確か、神崎さん・・・・・・」
夫人は何事もなかったのかの様につぶやいた。
「何で、こんなことをしたんですか」
神崎は、言い方は穏やかではあったが、厳しい言葉を発した。
それに対して、夫人は、上を向き、天井を見つめたまま、黙り込んだ。そして、ぽつりと言った。
「あなたが助けてくださったんですか」
そういって、また黙り込んでしまった。
もう一度、神崎は、今度は問いただすように同じ台詞を言った。
「どうして、死のうとしたんですか」
それでも、夫人は何も応えなかった。
「画伯のあの、遺言状ですか」
神崎に思い当たる理由はそれしかなかった。
「そうかもしれませんわね」
その問いに対して、まるで夫人は他人事のように答えた。
神崎はあきれ果てて、ため息をついた。
「画伯がなぜあのようなものを書かれたか分かりませんが、だからといって、死ぬのは単純ではありませんか。それとも、画伯は本当にあの絵以外に夫人には何も残しては下さらなかったのですか?」
「いいえ、違います」
即座に夫人が反論した。
「柏木はちゃんと残してくれました。私がこれから生活できるようにきちんとお金は残してくれました」
「ならば・・・・・・」
何で死のうとしたのか、など、いくら正論を言っても無駄なのは分かっていた。
「ご自分で言ったじゃないですか、画伯の絵に未練はないと」
神崎自身、それが、夫人の強がりであったと思いながら、あえて言った。
確かに、遺言状が存在すること、そして、それが、美津子夫人の手元に渡ったことのショックの大きさは他人でも十分納得できることだった。
それでも、神崎は現状を夫人に認識させることで、遺言状のショックから立ち直らせようと言葉を続けた。
「画伯が、お金を残されていたならば、それが画伯の望みだったんじゃないんですか。今後の生活を考えたら、どれだけそちらの方が現実的か、お分かりになりますか」
「お金があったって・・・・・・」
夫人はそう言って顔を背けた。
その瞬間、神崎は眉をひそめた。
彼自身はそれほど余裕のある生活をしているわけではなった。非常勤講師という、非常に不安定な身分で、将来の保障はほとんどなかった。親からの支援もそれほど期待できない。そんな自分の状況を考えたとき、画伯にすべてを守られていた世間知らずで幸運なこの老婦人に対して、非常に腹が立ってきた。
柏木画伯は戦後日本を代表する画家である。その遺産の額は神崎が生涯かけて稼げる金額をはるかに上回っていると想像できた。
一気に口調がきつくなる。
「きれいごとを言って、どうするんですか。もし、画伯がお金を残してなければ、今後どうなるか想像してみてください。画伯の絵を何枚か持っていても、これから、それを売っていかなければ生活できなくなるんじゃないんですか。あの家を出て、これから新しい生活を始める。いくらかかると思っているんですか」
夫人は顔をそむけたまま黙って聞いていた。
「これから、楽しんで生きていけばいいじゃないですか。人と会うのがいやだったら、海外で生活すればいい。あなたは、これから何でもできるんですよ、残りの人生。うなるようなお金がある。それだけで、どれだけの人があなたの生き方をうらやましがると思いますか。しかも、愛する人と四十年以上一緒に、生活して、ですよ。贅沢すぎます」
「私の気持ちなど、分かるわけがありません。そんな人たちに」
夫人は反発するように神崎の方に顔を向けた。
始めてみる夫人の怒りの顔だった。突き刺すような瞳で神崎をにらみつけ、唇はかすかに震えていた。
だが、夫人の非難したその人は実は神崎そのものだった。他人の言葉を借りながら、それは神崎の言葉だった。神崎の目にはこの老婦人の怒りは現実を未だに認識していないただのわがままにしかすぎなかった。
「あの薬では、死ねなかったそうです。最近のガスも、中毒にはならないそうです。少し、病院で冷静に考えてはいかがですか」
神崎は思わず先ほどの医師の言葉を伝えてしまった。それは、「あんたこそ、世の中のことをまったく知らないくせに」というこの思いが思わず言葉になってしまったのかもしれなかった。
そして、そう神崎が言った瞬間、夫人は、両手で顔を覆い、嗚咽した。
その姿を見たとき、神崎は少し後悔の念に駆られたが、それ以上自身が何も言いたくなく、病室を出て行った。
流行との連絡はその日の夜、ようやくついた。今日の出来事を手短く説明すると、「それはよかったです。後日改めてあの絵は取りに行きます」とだけいって、流行は電話を切ってしまった。
だが、この出来事はこれで終わりではなかった。それから程なくたつと、柏木画伯の追悼記念の個展が金沢で開かれることを神崎は耳にした。
ある日曜の朝、何気なく朝刊を広げると、社会面に柏木画伯の追悼展が開かれた記事が掲載されていた。写真の中には、画伯の正妻として美津子夫人が紹介され、その傍らには画伯の最後の作品として、白山の風景画が写っていた。そして画伯の遺言状の内容が簡略的に記載され、その絵は画伯が美津子夫人に対して贈ったものとして紹介されていた。
しかし、神崎はその夫人の傍らに飾られている絵を見て、自分の記憶を疑った。その絵は、確か、画伯が死亡したとき、まだ完成していなかったはずだった。葬儀のあと洋子夫人を自宅に送ったとき、あの部屋のアトリエには、まだこの絵は描きかけのまま壁に置かれていたはずだった。
神崎は部屋を駆け出し、車に乗り展示されている県立美術館へ飛んだ。駐車場から、急いで入り口へと向かう。
館内は、休日のため多くの人で込み合っていた。神崎はその中を駆け抜け、下に下りる階段を走り抜けた。広い吹き抜けのロビーを過ぎると、いくつかに分かれている展示室の案内矢印が見える。あの画伯の絵を探すために最後の部屋を示す矢印の方へと走った。
息を切らしながらあたりを見渡すと、入り口の左手に何人かの人ごみの中に流行の横顔を見つけた。急いで近寄り、展示されている絵画を見る。
それはまさにあの白山の絵であった。
神崎は流行に挨拶する前に、その絵をまじまじと見つめた。
冬の晴れ間の中の雪に覆われた白山の絵であった。北陸ではその時期にはめったに見られないという青空がひときわ眩しく山々に照らされていた。油絵でありながら、ほとんど水墨画に見間違うほどの濃淡の効いた美しい絵画であった。それは、確かに画伯の画風であった。画伯のものであるというサインは見られなかったが、神崎の目には画伯が描いたものに間違いはなかった。
「今日、洋子夫人が帰郷されるそうです」
呆然としている神崎に流行がそう囁いた。
「流行、これはどうゆうことなんだ」
叫びだしたい気持ちを必死で押さえ、目の前の油絵に釘付けになりながら神崎も囁いた。
「ともかく、画伯の、夫人の家に行きませんか」
静かに流行が誘った。
神崎はその言葉に従うしかなかった。
「あの絵は、洋子夫人が描いたものです」
車中で流行がそう言った。
「詳しくはご本人に聞いたほうがよいでしょう」
「流行はこのことは知っていたのか」
「ええ、画商ですから」
当たり前のように流行はそう言った。
神崎はフロントガラスに映る流行を見つめた。
切れ長の瞳は何事もなかったかのように前を向いていた。
――知っていた。
神崎は初めて、今までの流行の奇妙な言動を理解することができた。
そして美津子夫人の行動を愚かだと言い放ったその理由も。
もし、あの時美津子夫人が直接遺言状を持ってこなければ、もしかしたら、洋子夫人はこんな絵を描かなかったかも知れなかった。まして、自殺などしなかったかも知れないのだ。
そして、冷静に常識的な意見を言いながらも、どこかで洋子夫人をかばっていた。からといって、社会的に成功した夫の内助の功を認めていたからという風にも思えなかった。
理由はないのだが、神崎の意見に同調しているふしもあった。
それが、すべてを知っていたからだということでつじつまあった。
――すべてを知っていた。
ふと神崎は自らの妙な感覚に気づいた。
この男性と出会って、今車の中ですべてが明らかになった今までの出来事を思い出した。
そしてそのとき何故、言葉に出してしまったのか、今でも神崎自身分からなかった。
「すべてを知っていたのではないのですか?」
すべてとは、絵画の秘密以上のことを意味していた。
だが、その問いに流行はいつもと変わらぬように答えた。
「どういう意味ですか」
神崎は今とんでもないことを口にしようとしていた。
現実には決してありえないことを。
「葬儀場のあとのことも、夫人の自殺未遂に私が遭遇したのも、そして、今日美術館で会ったことも、すべてあなたは分かっていたんじゃないのですか。今、気づきました。あの美術館であなたがあの絵画の前で、僕が来るまでずっと待っていたとは考えにくい。偶然にしてはできすぎています」
「偶然でなければなんだと思いますか」
流行の静かな返事が返ってきた。
神埼が意外だと思ったのは、この突拍子もない、非現実的な質問に流行が特段否定をしなかったことだった。そして神崎は、この奇妙な男性に会った意味を考えた。
少しの沈黙のあと、神崎は答えを出した。
「僕の役目は洋子夫人を助けることだったんですか」
「あなたでなければ、だめだったんですよ」
それは、暗に神崎のこの突拍子もない考えを肯定するものだった。
神崎は思わず横を向き現実にはありえないことを平然と口にするこの男の顔をまじまじと見つめたい衝動に駆られた。しかし、ハンドルを握る手が、こわばり、視線は動こうとしなかった。
そんな神崎の動揺に気づいていないのか、流行は言葉を続けた。
「私は画商です。利害関係があります。どれだけ説得しても、夫人の心には届きません。誰かが必要だったのです」
「ですが私では役不足だったのではないのですか」
神崎は今改めて思い返すと、決して夫人に対してとってきた態度は、やさしいものではなかった。むしろ、誰一人助けのいない異郷の地にいる人間に対してある種突き放したような態度をとってきた。
「あなたでなければ、だめだったんですよ」
それでも流行はまた同じ台詞を言った。
「人は敏感なものです。中途半端な、うわべだけの親切心はすぐに見破られます。あの時、夫人が一人で死を覚悟し、それでも死にきれなく、一人で目覚めたときの孤独を救えるのはあなたしかいませんでした」
「ですが、私は非常にきつい言葉を放ちました」
「普通ではない精神状態では、冷静な対応は何の意味もなしません。力ずくで行うことも時には必要です。自殺願望はもう一度訪れるといいます」
流行の視線が遠くに行った。そしてこう言ったのであった。
「画伯は夫人が死ぬことを望んでいません」
神崎は、この流行の言葉に妙な違和感を覚えた。
なぜなら画伯はもうすでに亡くなっているはずだった。だから、普通ならば、「望んでいなかった」と過去形になるはずであった。
――望んでいません。
まるで、画伯がまだ生きているかのような台詞だった。
それは、生きている人間の代弁者の台詞だった。
だが、画伯はすでに死んでいた。
死者の代弁者。
流行の黒いシルエットが目に浮かんだ。
「君は人なのか?」
――人ではないものを司る者
「人ですよ」
ポツリと流行が言った。
「もし、あなたがナイフで私の胸を刺させば、私は死にますよ」
その台詞に神崎は返す言葉がなかった。
そして、二人は黙ってしまった。
車はあの坂道を登り、そしてあの洋館の家に止まった。
門はすでに開け放たれていた。そのまま玄関先まで車を進ませる。
「夫人にはすでに連絡してありますので」
そう流行は言うと、先に降り、家の中に入っていった。神崎は車を門の前にまで戻し、遅れて洋館の中に入っていった。
神埼が部屋の前に立つと、夫人は、居間の中でソファに座っているのが見えた。最後にあったのが病院のベットの中だったが、思いのほか元気な様子に見えた。思わず向かい側に座っている流行を見つめる。流行はそんな神崎を見ると視線でソファーに座るように進めた。神崎はそのまま部屋の中に入って行った。引っ越すという話だったが、部屋の中はほとんど以前と変わっていなかった。だが、たった一つ以前と違っていたのは、暖炉の上の夫人の肖像画がなくなっていたことだった。
神崎の姿を見ると夫人はにっこりと微笑んだ。その神崎は一歩前に出て、溜めていた言葉を吐き出した。
「いつから、描いていたのですか」
夫人は静かに答えた。
「柏木のフランスで最初にとった特別賞からですわ」
神崎は絶句した。
そんな神崎の様子に、夫人は言葉を続けた。
「私が柏木と出会って、それから一緒に暮らすようになってから、柏木が私に絵を教えてくれましたの。最初の絵は、私と柏木が一緒に相談しあって描いたものですわ。でも、晩年は、ほとんど私が描いておりました。柏木は私に時折アドバイスをするぐらいになっていましたのよ」
「そのことは、夫人以外には誰かご存知なのですか?」
「いいえ、たぶん、流行さん以外は知らないと思いますわ」
神崎は流行を見た。
「公表できると思いますか」
「いや」
とっさに神崎は答えた。
公表などできるわけがなかった。余りにもスキャンダラスすぎた。たとえ、そのことをマスコミに公表しても、その後夫人が絵を描くにしても、余りにもその波紋は大きすぎて、予測が不可能だった。
「神崎さん、絵の価値とは何でしょうか」
夫人が言葉を発した。
「柏木は苦しんでおりました。私が最初に彼に出会ったとき、彼は自分の絵の才能に絶望しておりました」
夫人の瞳が過去を思い出していた。
「美大には入れたのも、卒業できたのもすべて、お父様の力なのではないかと。卒業して何処の展覧会に出品しても絵はまったく評価されず、親類や周囲からは親の言うことに素直に従ったほうがよいと勧められておりまいた。そんな中、ほとんど意地を張った状態で柏木は絵を描き続けておりました」
夫人は言葉を切り、外を眺めた。
「柏木は人一倍苦労したと思います」
想像はできた。なまじっか、逃げ帰る場所がある人間ほど誰も助けてはくれないものだ。援助してくれる人は、本人の意思を尊重しない。
「では、画伯の方から洋子夫人に絵の手ほどきを言い出したのですか」
「ええ」
夫人の視線が神崎に合わさった。
「柏木はいつの頃からか、私と一緒に絵を描くことが楽しいと申しておりました。柏木にとっては出来上がった作品は何の価値もありませんでしたのよ」
だから、だったのだ。だから、画伯の作品はほとんど画伯の手元に残っていないのだった。
「でも、なぜ、あの作品を描き上げたのですか。私が気づかないとでも思っていたのですか?」
神崎は、白山の最後の絵と、その傍らに立っていた美津子夫人の写真を思い浮かべそういった。
「あれは、美津子さんに対する意地ですわ。それに、こんなこと言ってもどうなるってことになりますの?私は、正式に画家としての訓練を受けたことはないのですよ。そのような者が、この社会で評価されますの?」
正論だった。過去において、どんなに画家として、芸術家として才能がありながら、美大を出ていないというだけで、社会で全く評価されない人間を、何人神崎は聞いたことかしれなかった。
洋子夫人は神崎を見つめた。
「それに、神崎さんは気づかれると思っていました」
そのあまりにも普通に気づくであろうと話す目の前の女性に神崎は、この女性は自分のしたことの重大性を認識していないのではないのかと疑った。そして、同時に怒りがこみ上げてきた。
「自殺なされて・・・・・・・もし、ですよ、本当に亡くなられて、そしてこの事実を私が知って、私にどうしろというんですか?言っておきますが、私は何もしませんよ。卑怯ではありませんか。すべてを私に押し付けて、あなたは逃げたのですよ」
「誰かにそうかもしれません。でも知ってもらいたかったんです。それだけでした」
「それだけで、死ぬんですか?」
あきれた台詞が出てくる。
そのとき初めて、夫人の顔に影がさした。
「そうですね・・・・・・あの遺言状・・・・・・」
そうつぶやくと、すべてを放り投げたように夫人は話し出した。
「確かにそうですわ。美津子さんが持っていった絵は、それに今まで描いた絵は、すべて、私が描いたものです。未練なんかあるわけないじゃないですか。でも、それを改めて、柏木が遺言状という形で、書いたことが、・・・・・・分かりきったことです。でも、それを改めて、文面に書かれると、独りになったとき、思いましたの。確かに、あの残された絵だけは、柏木が一人ですべて描き上げたものです。でも、それだけです。あの遺言状が美津子さんの手に渡ったとき、まるで今までの私たちの人生、柏木と二人で歩んできた人生までそのまま美津子さんに持っていかれたような気がしました。私は、これからたった一枚の絵画にしがみついて生きていかねばならないのかと思ったら、死にたくなりましたの。でも・・・・・・」
夫人は、神崎の方を見て、言葉を続けた。
「でも、病院で、あの後、考えましたの。」
神崎の胸が痛んだ。あの時、感情に任せて、相当きつい言葉を吐いたのだった。
そんな様子を見て、夫人はさびしく微笑んだ。
「神崎さん、おおかれ少なかれ、人はみな同じものです。流行さんが、次の日の朝早く来てくださいましてね。こう言ったのですよ。親族か誰か、連絡を取れる人はいますかって。そのとき、私とっさに、誰も思い浮かばなかったのです」
返す言葉がなかった。
「そのとき、つくづく思いました。私は一人なのだ、と。そしてそのあと、流行さんこう言いましたの、死んだら何もできませんよ、って」
夫人のその言葉には憎しみが含まれていた。
――えっ。
憎しみ。
あのときの流行の言葉が今鮮やかに蘇った。
――死者は恨みで人を殺すことはできないのですよ。
「そうですわよね、あのまま死んでしまえば、柏木家に言いように言われてしまいますわよね。あの遺言状がある限り何とでもいえますわ」
確かにそうだった。一歩間違えれば、捨てられた女性の惨めな自殺にしかならなかった。また、そうゆう後付がされることも十分可能であった。
「死ねなかったんですもの。生きるしかないじゃないですか。そして、私が死んだら、私は美津子さんに負けたことになるじゃないですか」
夫人は独り言のようにつぶやいた。
――違う!
神崎は心の中で叫んだ。
間違ってはいない。復讐は生きてなければできないかも知れなかった。しかし、それは・・・・・・倫理ではなかった。許されるかどうかの問題ではなかった。あまりにも無謀であった。
「夫人、たとえ、あなたが描いたからといって、正直何も変わりませんよ。人前であなたが描くパフォーマンスをしたところで、単なる物まねとしか見られませんよ」
「それでも、もしかしたらそれしか方法はないかも知れないじゃないですか」
「画伯が・・・・・・」
神崎は思わず言ってしまった。
「画伯は、そんなこと望んではいないでしょう!」
「そうかも知れませんわよね」
あの時と同じだった。病院のベッドで言ったときと同じ台詞だった。
そのとき神埼は、今自分が言った台詞がどれだけ目の前の夫人にとって無意味であるか痛感させられた。本人ではないのだ。何を言っても憶測でしかないのだ。それはただの倫理観に基づいた推測でしかないのだ。
夫人は軽くため息をつくと、さばさばしたように流行のほうを向いた。
「流行さんもうそろそろよろしいかしら。駅まで送っていただけるということで、お待ちしていましたのよ」
「ええ、分かりました。ただちょっと寄り道をしてもかまいませんでしょうか」
今まで黙っていた流行がそういいながら立った。
「ええ、かまいませんが」
「神崎君、すまないが、小立野まで寄ってくれないか」
「あ、ああ」
呆然としている神崎に、流行が声をかけた。神崎と流行の二人はすぐに外に出て門の前に停まっている車に入った。そのあとから洋子夫人が屋敷から出てきた。玄関を出ると少し下がって赤い屋根の家を見つめていた。
それからどれくらいの時間がたったのだろうか、夫人は何事もなかったかのように神崎の車に乗り込んだ。
「これからどうなさるおつもりですか」
神崎は何も変わっていない部屋を思い出して言った。
「ええ、私、宮城の生まれですので、そちらに帰ろうかと思います。先日神崎さんがおっしゃったように、とりあえず、向こうで落ち着いてからこれからのことを考えますわ」
車が玄関を出てからも夫人は一度も後ろを振り返らなかった。
神崎がちらりとバックミラーを見たとき、鏡に映っている夫人の表情は泣いてはいなかった。沈んでいる表情ではあったが、決して思い出に浸っている様子にも見受けなかった。
少なくとも十数年近く画伯と一緒に住んでいた家である。
そんなものなのか、と神崎は思った。
車は、兼六園の横の坂道を登っていった。
そのまま車は小立野の方面へまっすぐと走っていった。このまま進むと山の方に入ろうとするところで流行が指示を出した。
「神崎君、もうしばらくすると、左側に曲がると倉庫が見えるから、そこに止まってくれないか」
流行の指示のまま車を左折させた。
程なくするとねずみ色の殺風景な建物が見えた。
周りには木々が茂っており、土の地面がむき出しになっていた。
神崎は三つ並んでいる倉庫の真ん中の前に車を停めた。
「二人とも降りていただけますか」
そう言うと、流行はそのまま目の前の倉庫に進んだ。続いて二人も車から降り、流行の隣に立った。
流行は神崎の隣に立っている夫人に話し出した。
「実は、洋子夫人、生前画伯に私は頼まれていたことがあります。画伯が亡くなられたら、洋子夫人にお渡しするようにといわれた物があります」
夫人は不思議そうにそう言う流行を見つめた。
「でも、あの遺言状では・・・・・・」
「ともかく中に入ってみてください」
そう言って流行は銀色の鍵らしきものを夫人に手渡した。
倉庫の扉は鉄製にできており、老婦人一人では開けられそうもなかった。必然的に神崎
が一緒についていき、大きな扉を開けた。
最初、扉の中は薄暗く、外の光のため神崎の目には真っ暗く何も見えなかった。
しかし徐々に暗さに慣れてくると、倉庫の中には、何十枚という油絵が置かれているのが見えた。
「画伯に頼まれてフランスから運んできました。どうぞご覧ください」
呆然としている夫人の後ろで、流行が言葉で前に押し出した。
中に入り、その油絵を見てみると、そこには一人の女性の肖像画が何十となく描かれていた。
それは、すべて若き日の洋子夫人であり、そしてその後の洋子夫人であった。
読書をしている姿、座っている姿。絵を描いている姿。それはまるで、夫人のアルバムがちりばめられているようであった。
夫人はその中に立ちすくんでいた。
神崎はそんな夫人の後姿を呆然と眺めていた。
それから、どれだけ時間がたっただろうか、ゆっくりと誰に話すわけでもなく、夫人は話し出した。
「柏木は、年に一度必ずパリに行っておりました。私は飛行機が苦手で、いつもあの人だけが出かけていました。でも、十日ほどでしたし、ちゃんとスケッチしたものを持って帰っておりました・・・・・・」
流行が、そんな夫人の背中に向かって話し出した。
「画伯は、分かっておられました。生前から、柏木家は画伯の作品を買い集めていました。もし、ご自分が亡くなられれば、必ず、どのような手段をとってでも、あなたからすべての作品を奪い取るだろうと、画伯は予測されておられました。あの遺言状は、これらの絵画をすべて守るために書かれたものです。作品名は、お分かりになると思います。すべて、「わが妻 洋子」です。これらがすべて画伯の作品であるという証明はすでにフランスですませました。そしてこれらはすべて画伯がお一人で描かれたものです」
流行がいった。
だが、神崎の目には流行の言葉は不要だった。夫人の周りにちりばめられているその絵画は、もし、画伯が人物画を描いたならばと誰もが納得する、その技法は夫人が描いたものとまったく変わらなかったのである。
流行の言葉に答えるように洋子夫人がゆっくりと振り返った。そしてそのほほには一筋の涙が流れていた。
「流行さん、柏木は天才でしたわよね」
その台詞に対して流行はにっこりと微笑んだ。
「はい、奥様」
そして流行は、深々と夫人に礼をした。
だが夫人はそんな流行を見ていなかった。夫人の瞳は倉庫の扉の向こうにある青い空を見ていた。
そしてその下に死者の代弁者としての流行が立っていた。
外は、五月の新緑が日の光に照らされ、その木漏れ日が暖かく地面に差し込まれていた。
完




