第26話 マダム
その日は、星がよく見えた。理由を考えると、月がないからだと気付いた。訓練中のアンミの調子が良さそうだったので、マダムも快適に眠っている頃だろう、そう思いながら帰ってきた。
ところが、マダムの寝床はもぬけの殻。炭になった薪の火は消えかかっていて、野営地はひっそりとした静寂に包まれていた。
「マダムは?」
立ち尽くすラードに、あとから帰ってきたアンミが背後から投げかける。声が、いつもより僅かに低い。振り返ると、ぱっちりと目を開いてこちらを見つめるアンミがいた。
顔を見合わせれば、それ以上の言葉は必要なかった。
「――探そう」
くるりと踵を返し小走りで駆け出したアンミを追う。
彼女の居場所に思い当たりは。最近のマダムを思い浮かべる。日中は昼寝をしていることが多かった。代わりに夕方頃に起きてきて、夜に散歩をしていた。一度その様子を見かけた時には、浜辺で遠く海を見つめていた。
アンミも同じようなことを考えたのだろう。海沿いを辿る彼と並んで、視界の悪い闇の中で目を凝らす。
いた、と隣のアンミが呟く。直後、腕を掴まれ、それとほぼ同時にラードは瞬間移動していた。ぼんやりと見える水平線。一瞬、自分が海の上にいるかのような錯覚に陥る。少し考えて、ここが防波堤の上であることに気がついた。
「マダム! 何してんだよ」
そして、その先端に腰掛けているマダム。その小さな肩をアンミが揺らす。マダムは、ただ穏やかに眠っているように見えた。大声で呼びかければ、なんの違和感なくまた目を覚ましそうな気がした。
「マダム! 起きろって」
もう一度、アンミが強く肩を揺さぶる。「マダム」とラードも呼び掛け、彼女の手を握る。深い皺が刻まれたその手は、こんな季節なのにひどく冷たかった。
すると、ピクリとマダムの瞼が動き、半分ほどゆっくり持ち上がった。微かに開いた彼女の口から「あぁ、」と掠れた声が漏れ、そして、小さく笑った。
「あたたかいな」
――なんで。
言葉が喉に詰まって逆流し、鼻に到達してツンとする。視界がぼやけて、熱いものが頬を伝う。なんで、なんで、なんで。何か強い感情が渦巻き、胸の中をぐちゃぐちゃにして痛かった。
なんで、そんな冷たいところに。こっちへおいでよ。傍にいてよ。
ラードの涙は彼女の目には映らなかった。既に瞼は下ろされ、柔らかな表情のまま再び眠りに落ちたようだった。魂を癒しまっさらにする、深い深い眠りに。
感情的なラードとは対照的に、アンミは落ち着いた様子だった。空いている方のマダムの手を両手で包み、自身の顔の前まで持ち上げ、額に当てる。そして目を瞑って唱えた。
「お疲れさま、マダム。安らかに眠れ。いつの日か再びこの世界と相見えることを願って」
その言葉を聞いて、とめどなく溢れていた涙がぴたりと止まる。今まで漠然としていた彼らの価値観を、少しだけ覗けた気がした。ラードはまだ、彼らの見る世界を知らない。歴史を知らない。生きるとは何か。死ぬとは何か。それは祝福であるか、業であるか。恐怖するか、受容するか。
もっと知りたいと思った。魔王が復活するからでもなく、自身が蘇生術師になるからでもなく、己の意思で、必然として。ただ上辺をなぞってできることをやるだけでは足りない。もっと、もっと、積極的に。
「……もっと、マダムとたくさん話せばよかった」
どうして、いなくなったあとにしか気付けなかったのだろう。機会はいくらでもあった。なのに、結局流されるまま始めて、なんとなくで続けて、強く志した時には手遅れ。彼女にこそ聞きたいことが、今なら山ほど思いつくのに。
「俺ももっとちゃんと治癒術習っておけばよかった」
マダムの手を握ったまま、アンミは切なく笑った。彼女と関係の深かった彼でさえ心残りがあるのなら、もうラードにはどうしようもない。
「でも、マダムらしいとは思うよ。自分の運命を受け入れて、最期まで悟らせることなく笑って生きた」
「確かに」
もしかするとそれも、彼女の信念だったのかもしれない。マダム本人が未練なくこの世を去ることができたのなら、それが一番の幸いと言えるだろう。
「――帰るか。みんなにも、伝えないと」
アンミが立ち上がって、マダムの身体を背負った。ラードもその隣に立つ。
ひと夏の旅が幕を閉じる。




