第2話 目覚めの朝
「おはよう、アンミ」
両開き戸が音を立てて勢いよく開けられ、マダムが顔を覗かせた。
ようやく落ち着いてきた呼吸を乱さないよう、ゆっくりと視線を動かしながら、アンミは丸めていた背を伸ばした。
「いつもの夢は?」
「……みた」
「そうかい。よしよし、血は吐いてないね」
流し台まで近付いてきたマダムが、アンミの胸の中心に触れる。
途端に、胸の奥で絡まっていた糸が解けるような感覚に包まれる。視界を遮断し、自身の調子を整えながらその温もりに身を委ね、息を吸って、吐き出す。しまいに数度咳払いをすればもう元通り。
再び視界に光を入れると、見慣れた老婆の顔が映り込んだ。その口から、しゃがれた低い女声が発せられる。
「アンタもそろそろ自分で癒せるようになりな」
「だってマダムの治癒の方が効くんだもん」
「当たり前だろ。アンタみたいな坊々にあたしの腕を抜かされてたまるか」
アンミの家系は、治癒を扱うことが出来た。マダムがその最たる例であり、アンミも父も例外なくその内に入る。
しかしアンミは、三十年以上生きてきて、マダムより優れた治癒師にいまだ出会ったことがない。きっと今後も出会うことはない。
「俺が死ぬまで生きててよ、マダム」
「やなこった。アンタを立派に育て上げたら、あたしはさっさと輪廻に還るって決めてるんだ」
輪廻。アンミたち魔族の宿命。
「じゃあ一生半人前でいよっかな」
「ばーか。そんなんだったらもう癒してやらないよ」
「冗談だって」
マダムは背を向けて、水を沸かしている。高身長だった彼女の背も縮んで、またひと回り小さくなったようだ。
「そういや、報せがあったんだ」
椅子に腰を下ろすと、マダムはくるりと振り返って神妙な顔でアンミを見つめた。
「悪い報せ?」
「さあ。アンタ次第かな」
じっと言葉の続きを待つ。
自分と同じ瑠璃色の瞳に、影が落ち込んでいる。
「魔王様の魂が地上に還った」
魔王の魂。彼もまた、輪廻の環の中に入り込み、これまで幾度も地上に舞い戻っては、その度に王家によって封印されてきた運命。
最高位の魔族。魔全体を統べる者。
その魂が、地上に戻った。それが意味するところは。
「魔王復活まであと三十年、か」
「正確には、それに加えて出産までの九、十ヶ月分だね」
今はまだ、砂漠の民――魔王を代々輩出する運命を背負った民族――の娘の腹の中で魂が宿ったばかり。魔王復活の刻は、その魂を宿した赤子が現世に生まれてちょうど三十年経ったその日。要するに、魔王は齢三十を迎えた時に覚醒し復活を遂げる。
「どうだい、悪い報せだったかい?」
「んー、まぁ、そろそろらしいって噂は聞いていたから、そこまで衝撃的な話じゃなくてよかったけど。良い報せではないな」
この返答に、マダムはけらけらと笑った。
同時に、火にかけていたやかんが音を立てて湯気を吹いた。彼女はそれを湯呑みに移して、アンミに差し出す。
「駄目だろ、そんなこと言っちゃ。魔王様に咎められても知らないよ」
わかっている、とアンミは思った。
アンミはあくまで魔族で、魔に忠誠を誓った人間たちの末裔で、先祖が結成し引き継いできた反国家組織「レベリオ」の総長なのだ。
魔王様の復活は、本来喜ぶべきことなのだ。
「誰も告げ口なんかしねえよ」
先人たちの恨みなど知ったこっちゃない。
アンミは湯呑みを受け取って、慎重に、入念に、熱々の湯を冷ました。




