第15話 旅の始まり
「おはよう、アンミ」
両開き戸が音を立てて勢いよく開けられ、マダムがずかずかと部屋に入っていく。その後ろをついて、おずおずとラードは足を踏み入れた。
流し台のところで前屈みに立っていたアンミは、ゆっくりと振り向いて訪問者たちを交互に見た。ラードがいたのが意外だったらしく、視線が少しばかり刺さる。
「調子悪そうだね、アンミ」
声掛けに無言で返したアンミは、目にも肌にも生気がない。マダムの治癒を受けてやっと、弱々しくも瞳に光が灯ったようだ。思い至って、片手で口元を拭ったようだが、カサカサに乾いた血の跡が唇の端に貼りついたままだった。
彼の身体が訳ありなのはラードも知っていた。が、もう五年も前の負傷がいまだ改善が見られないのには驚いた。いや、これでも改善している方なのだろうか。
「さては夜更かしでもしてたね」
「……ちゃんと寝てるよ」
「身体は嘘をつかないんだよ」
会話を聞きながら、ひどく居心地の悪さを覚えた。以前、朝にアンミの元を訪れて、ひどく機嫌を損ねてしまったことを思い出す。幸い、後の関係には響かなかったが、以降朝の訪問は控えるようにしていたのだ。
ラードは知っている。あの時の不機嫌の理由が、自身の不調をラードに心配させないためであることを。
ラードは知っている。今、わざわざ噓をついた理由が、ラードの前だからであることを。
「マダム、話ってなんですか?」
ひとまず今できるのは、これ以上マダムに体調の話をさせないことだ。もちろんマダムのことだから、わかっていてラードの前で話をしたのだろうけれど。
ラードとしては、アンミの望み通りでいたい。彼が強く在ろうとするのなら、彼の強さを信じていたい。――彼の弱みもきちんと理解した上でそういられるのなら、それが一番本望なのだが。
「お前さんたち。しばらくあたしの旅に付き合ってくれないか」
ラードは首を傾げ、アンミは困ったように溜息をついた。
「どこかに行くんですか?」
「目的地は特に決めてないんだが、まぁ海の方まで行こうかと」
「いつも診てる奴らはどうするんだよ」
「薬師のノラがいるだろ。医療に関することはあの子に託してあるから、あたしがいなくてもどうにでもなるさ」
マダムは合理的な人だ。広く鋭く目が及び、必要なところに手を回すのも上手い。医学に通じ、治癒師としての技量も高いから、多くの人に信頼され慕われている。
でも、たまに、わからない。突然思い立ったように行動して気まぐれの一言で済ませてしまうような、そのくせ周りに迷惑をかけないよう周到に根回ししているような、読めない真意に困惑させられる。
「僕、行きます」
しかし迷う選択ではなかった。未だ蘇生術見習いという身で、せっかく誘ってもらって、断る理由がない。
「そう言うと思ったよ。アンミはどうする?」
「行きたい、けど、長く留守にするのはちょっと……」
「なぁに言ってんだい。たった数月くらいアンタなんかいなくてもどうにでもなるさ。この機会にレベリオから離れてゆっくりしな。
決まり。明朝に出るから、支度しておくんだよ」
そう言ってマダムはさっさと部屋から出ていってしまった。
果たして彼女の意図は。旅をする中で少しでも彼女を理解できるようになれるだろうか。自信はない。とはいえ、理解できなくても、彼女の導く未来が良くないものになるとも思えないが。
「ラード」
少し躊躇うような、頼み事をする時のような、語尾の上がった呼び方。振り返ると、マダムよりも一段階明るい瑠璃の瞳が、ラードを見つめていた。初めて会ったときからラードが大好きな、アンミの目。
「その……俺のことは、気にしなくていいから」
この人の言いたいこと考えていることは、実はラードには結構筒抜けだ。何せレベリオに拾われてからの十五年近く、ずっと彼の傍で育ったのだ。マダムやカンと比べればまだまだ信頼されていないと思うことばかりだが、せめて彼の理解者でありたくて、一挙一動観察しながら生きてきた。
「体調のことは、心配してます。でも旅のことは、僕はアンミさんがいてくれて嬉しい」
彼が今、敢えて「俺のこと」なんてぼかした言い回しをしたこともわかっている。
そして、優しいな、と思う。本当は体調の話には触れたくなかったくせに、ラードが心配しているかもしれないから、体調のことと旅のことと両方で取れる言葉を渡した。そんなところだろう。
わかっているんですよ。だから、もう少し打ち明けてくれてもいいんですよ。
「そう。なら、よかった」
――まだまだ道は長そうだ。これも、この旅の中で何か進展させられれば良いのだが。




