第14話 夜の森
あの絶望から救い出された日のことを、彼への恩を感謝を、きっと忘れないと思う。
森は暗く寒かった。出口のない闇だった。行く宛ても、帰る場所もない。心血を蝕む恐ろしいところを逃げ出し、着の身着のまま、ドクドク煩い心臓と共に、悴んだ裸足で夜を歩いた。
いつ追手が来るか。今頃血眼になって自分を探しているだろう。またあの場所に引き戻されるかもしれない。もっと痛い目に遭うかもしれない。考えるだけで震えが止まらなかった。
ところが追手より先に、いかめしい大蛇の魔獣が立ちはだかった。
胴は自分の太腿よりも太く、長さは自分の何倍もあって、ぐねぐねと地面を這いずる重そうな身体がひゅるひゅると動く。縞模様の鱗が月明かりに反射して、仰々しく自分を照らした。
蛇に睨まれた蛙の気持ちなんて知りたくなかった。震えが全身から力を奪い、尻餅をついたまま、二股の舌がするすると口を出入りするのを眺めるしかなかった。
そのとき、薄いシャツ越しに、背中の一部分に温もりが触れたのを感じた。まもなくその温度は腰に広がり足に広がり、胸に広がったのち全身に回った。
気付けば自分は、一人の青年に抱きかかえられて森を進んでいた。青年の肩越しに大蛇が遠ざかっていく。蛇は怒ることも追ってくることもなく、森の闇へと消えていく。さっきまでの絶望が嘘だったかのように一転した。
「お前、家は?」
隣で発せられた、まだ声変わり前の男声。暴力も振るわずのんびり歩いているあたり、この人がどうやら恐れていた追手ではないことだけはわかった。
「ありません」
声にならないカサカサの喉でどうにか返答すると、青年が立ち止まって顔をこちらに向けた。釣られて見返すと、暗闇の中でも鮮やかな瑠璃の瞳と目があった。
「じゃ、うち来るか?」
警戒しようと思えばいくらでもできた。目の前の男が善人か否かを疑えるくらいの知性はあった。
でも、そうすることをやめた。そうしたくなかった。また森を彷徨い独り蛇と対面するかもしれない。まして、本当に追手に捕まって、元いたあの地獄の中に引き戻されるなんて、絶対に嫌だ。
仮にこの男がとんでもない悪人で、これから行く先で辛い目に遭おうとも、以前いたあそこより酷い場所などないと信じるしかなかった。信じないと心が壊れてしまいそうだった。
コクリと頷くと、キリリとした切長の目が、上にカーブした三日月型に曲がった。少しイタズラっぽくも見えるその顔を見ると、ようやく身体から力が抜けた感じがした。
「俺はアンミ。お前は?」
家の場所も、親の名も、何一つ記憶にない。当時は五歳かそこらの幼児だったし、親元を離されてからも数年あったから、仕方のないことだ。
それでも唯一、自分の存在を証明するものがあった。
「ラード」
この名前を覚えているから、自分は今日も生き続けているのだと言えた。忘れてしまいたい痛みや嫌な記憶がどれだけ増えても、これだけは忘れないように、忘れないようにと。
「わかったよ。よく頑張ったな」
安心して、眠気の押し寄せるままに瞼を下ろした。もう独りじゃない。大丈夫。




