第10話 戦前
――あの頃。夜、アンミが眠りに落ちて魔界に行くと、どうも魔物たちが騒がしくて。深夜によく現世に戻っては眠れない夜が続いていた。
あの日もそうだった。嫌な胸のざわめきが意識を散漫させ、寝つけないことを確信し、身を起こして、居間――父の仕事部屋へ向かったのだった。
「――馬鹿な王のために戦うなんてどうかしてる」
部屋の手前で耳に入ったタスカの低い声に、アンミは歩みを止めて気配を潜め、そっと耳を澄ませた。廊下に漂う血の匂いが、彼の起こした惨劇を物語っていた。
「だが、国は戦旗を揚げなければならない。いくら愚王であれど、王が暗殺されたのを看過するわけにはいかない」
カンの正論を、「わかってる」と掠れた声が制止する。
「だからわざわざ総長の俺が出向いて名乗って帰ってきたんだよ」
倒すべき敵が誰であるかを明確に把握してもらうために。
「魔族嫌いもほどほどにしてほしいね。魔獣だってただ生きてるだけなのにさ。どうして残らず排除するなんて考えが生まれるんだよ」
「生かすか殺すかしか選択肢がないんだろう」
「反対派を残らず処刑したのもそうだよな。反対されたからって、王妃まで殺すかよ?」
「ああ。全く馬鹿げている」
長い長い溜息、そして沈黙が落ちる。時を刻み続ける振り子時計の音だけが、壁の向こうからやけに響いて聞こえた。
「タスカ。お前は正しいことをしたよ」
古き親友の名を呼んだカンの声は、今まで聞いたどの声より誰の声より、温かかった。
「既に魔界は混乱に陥っている。このあと更に国中で魔獣討伐政策が進めば、間違いなく現世にも影響を及ぼしていた。そうなれば俺たちの手にも負えない」
「うん」
「王妃の忠言すら聞けない暴君を止めるには、暗殺する以外の方法はなかった」
「うん。でも、」
「ありがとう、タスカ。嫌な役を背負ってくれて」
そこで一度、鼻を啜る声が聞こえた。そして、湿り気を帯びてくぐもった声が「でも、」と繋いだ。
「これから多くの人が死ぬ。俺が嫌な役を背負ったって、結局みんなを苦しめる。俺はこんな選択しか選べなかった」
「いいや、これが最善だった。確かにしばらくは苦労させるだろうが、自然界が狂って手遅れになるよりいい」
「しばらく、か。……いや」
ぱし、と強く頬を叩く音。ぎし、と椅子の軋む音。部屋から零れた影が揺れる。
「さっさと片付けてやろう。結末はもう決まってる。カン、手伝ってくれるか」
「……わかった」
二人の動き出す気配を受け、アンミは部屋を後にし、自室に戻って、再び布団に潜った。そして、父が思い描く結末とやらをいくつも、何度も頭に思い浮かべてみた。
苛立ちと悲しみがドロドロに混ざって、胸の奥が軋んで仕方がなかった。




