1-3 港町の失踪事件 後半
さらに老婆の掠れた声が、酒場の喧騒を吸い込むように響いた。
「昔から、この港には『霧の番人』と呼ばれる者たちがおってな。奴らは霧を指先一つで操り、消えた者たちの行方を知る唯一の存在だと囁かれておる……」
リリエラは、記憶の底に沈んだ古い単語を掬い上げるように眉をひそめた。
「……霧の番人、でございますか?」
「そうじゃ。だが、その正体も、どこに潜んでいるのかも誰も知らん。街の者たちは報復を恐れ、その名を口にすることさえ忌み嫌っておるのだよ。ま、あんたがそいつらをお何とかできるのかは知らんが、気を付けな。」
老婆はそれだけを言い残すと、霧に溶けるように酒場の奥へと消えていった。
残されたエリアスが、眼鏡を拭きながら静かに口を開いた。
「もし本当に、霧を御する術を持つ者が実在するのなら……彼らこそが十年前から続く、この不気味な連鎖を解く鍵になるかもしれません」
「左様でございますね」
リリエラは、漆黒の眼帯を指先でなぞった。
「霧の番人とやらを探し出し、その不作法な口を開かせて、真実を明らかにいたしましょう」
その夜。
二人は、視界を塞ぐほど濃く立ち込めた霧の中、港の岸壁へと向かった。
冷たい潮風が吹きつけるたびに、黒いドレスの裾が重くはためく。遠くで砕ける波の音だけが、ここが世界の境界であることを辛うじて教えてくれていた。
リリエラはエリアスの前に一歩出ると、周囲の気配を鋭く探った。
街の灯りは届かず、ただ乳白色の闇が支配する世界。
――カツン。
不意に、濡れた石畳を叩く硬質な音が響いた。
闇に包まれた霧の向こうから、誰かの足音が近づいてくる。
その音は規則正しく、しかし感情を排した機械のような冷たさを帯びていた。
エリアスが息を呑み、リリエラは魔法の鞄に手をかけ、銀のナイフの感触を確かめる。
足音はすぐ近くで止まった。
霧が揺れ、そこから現れた影は――。
闇を切り裂くように現れた人物は、夜の色を写した長いマントを纏い、その顔は深いフードの陰に没していた。
地を這うような冷ややかな、しかし、どこか遠い弔いの歌を聞くような哀しみを帯びた声が響く。
「私が霧の番人だ。……お前が、あの『不滅の主』に仕えしリリエラ・クローデルか」
リリエラは僅かに眉を動かしたが、すぐに端正な一礼を返した。
「左様でございます。過去の失踪事件、そして今、この街を蝕む霧の真実を伺いに参りました」
番人はゆっくりと歩み寄り、霧を指先で弄びながら語り始めた。
「この港の霧は、自然が産み落としたものではない。古くから続く禁忌の取引、醜い権力争いを覆い隠すための、血の匂いがする隠れ蓑だ」
エリアスが顔を強張らせ、声を潜めて番人に問う。
「……つまり、何者かが意図的にこの霧を呼び、街の人間を『生贄』として攫わせていると?」
番人は肯定するように、深く重く頷いた。
「そうだ。だが、その正体は容易には暴けぬ。霧の奥には、幾千もの嘘と呪いが渦巻いているのだからな」
リリエラは眼帯の下、熱を帯びる“契約の目”にそっと触れた。
「ならば、その嘘ごと霧を掃き清め、真実を曝け出すのが、私の役目でございます」
番人はフードの奥で一瞬だけ、慈しむように微笑んだ。
「……よかろう。お前の覚悟、この霧の果てで見届けさせてもらう」
翌朝。街を飲み込む霧はさらに密度を増し、陽光さえも白く濁らせていた。
リリエラとエリアスは、昨夜番人が残した魔力の残滓を追い、港の最果てに佇む巨大な廃倉庫へと辿り着いた。
潮風に晒され赤錆びた扉を押し開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
冷え切った空気の中、床から壁に至るまで、燐光を放つ魔法陣の痕跡が血管のように脈打っている。
「これは……ただの霧ではございませんね。これほど大規模な術式、並の術者に扱える代物では……」
エリアスの呟きが、広い倉庫内に虚ろに響く。
その時、倉庫の奥から、贅沢な革靴が石畳を鳴らす重い足音が聞こえてきた。
霧の帳を割り、ゆっくりと姿を現したのは、ヴェルナール随一の富を誇る商会の長、アルフォンス・ヴェルディであった。
「リリエラ・クローデル。ネズミのような嗅覚で、よくぞここまで辿り着いたものだ」
彼の瞳には、本来人間が宿すべきではない、霧と同質の冷たい魔力が不気味に揺らめいている。
アルフォンスは手に持った銀の杖を床に突き立て、尊大に言い放った。
「だが、身の程を知れ。これ以上深入りすれば、お前もあの十年前の男と同じように、霧の藻屑となるだけだぞ」
リリエラは、その「十年前の男」という言葉を聞いた瞬間、全身から温度が引いていくのを感じた。
(……今、この男はなんと申しましたか?)
「……アルフォンス様。お客様を不快にさせるのは、メイドとして最も避けるべき不手際でございます」
リリエラの声から一切の感情が消え、右目の眼帯から、封印を食い破るような黒い光が漏れ出した。
「あなたのその口、これ以上醜い言葉を吐けぬよう、丁寧に『お掃除』して差し上げましょう」
リリエラは指先で眼帯をなぞり、その奥で疼く“契約の目”をそっと解放しかけた。
「失踪事件の真相、そしてこの霧の魔術の秘密を曝け出すまで……私は一歩も退きません」
対峙するアルフォンスの顔に、険しい陰影が落ちる。
「この街の平穏は、私が泥を被ることで守られてきたのだ。……小娘、お前にその代償の重みが理解できるか!」
アルフォンスが吠えるように手をかざすと、床を這う霧が意思を持つ蛇のように鎌首をもたげ、二人の間に淡く青白い魔力の結界を展開した。
「これが私の『霧の牢獄』だ。人の身で、この法則を破ることは叶わん!」
だが、リリエラは怯まない。彼女は完全に眼帯を押し上げ、封じられていた“契約の目”を見開いた。
その瞳が見通すのは、物理的な防壁だけではない。魔力の奔流の綻び、アルフォンスの精神に潜む「欺瞞」、そして術式の核となる偽りの層。
「あなたの魔術は巧妙でございます。……ですが、私の忠誠は真実を貫くために」
リリエラは風を切り、燕のような速さで踏み込んだ。結界の流動が最も停滞する一点、嘘が重なる「継ぎ目」へと、銀のナイフを正確に突き立てる。
硝子が砕けるような音と共に結界が霧散し、アルフォンスは驚愕に目を見開いた。
「くっ……なぜ、そこがわかった……!?」
「あなたの嘘も魔術も、私の目には『不作法』に映るだけでございます」
激しさを増す魔力の閃光。リリエラの鋭い斬撃が霧を切り裂き、ついにアルフォンスを追い詰める。放たれた最後の一撃が彼の杖を打ち砕くと、倉庫を満たしていた不浄な魔力は、天井の隙間から吐き出されるように抜けていった。
まるで、呪縛されていた街そのものが、長い眠りから目を覚ますかのように。
リリエラは静かに眼帯を戻し、深く息を吐いた。
戦いの余韻が体の奥で熱を帯び、過剰に使用した魔力がじわじわと倦怠感に変わっていく。
「……終わりましたね、リリエラさん」
影で支えていたエリアスが駆け寄り、彼女の顔を覗き込むようにして言った。
「いいえ。まだ、すべてが終わったわけではございません」
彼女は少しだけ目を細め、港の方角を見つめた。夜明けの光が、重たかった海を優しく、しかし無慈悲なほど鮮やかに照らし始めていた。
倉庫の奥からは、魔術で眠らされていた失踪者たちが無事に発見された。
街が歓喜に沸く一方で、アルフォンスがどこからこの禁忌の術を得たのか――その真相は、彼の失脚と共に再び深い闇へと沈んでしまった。
宿に戻った夜。
リリエラは一人、ランプの灯りの下で今日一日の出来事を反芻していた。
戦いの最中、魔眼が捉えた一瞬の幻視。
炎に包まれる屋敷。聞き慣れた主の穏やかな声。必死に剣を振るう自分――。
そして、耳の奥にこびりついて離れない、叫びにも似た主の「逃げろ」という声。
(……今はまだ、思い出してはならないようでございますね)
彼女はそっと眼帯を撫で、鏡の中の自分に寂しげな微笑みを浮かべた。
思い出せば、今の自分を保てなくなる。主が自分を遠ざけた理由すら、今はまだ、霧の向こう側だ。
「次の街へ向かいましょう。……主の残り香は、きっとまだ、この世界のどこかに」
翌朝。
リリエラはエリアスと短く、けれど確かな信頼を込めた別れを交わすと、一人、馬車に乗り込んだ。
車窓から見えるヴェルナールの街には、昨日までの淀んだ霧はなく、ただ清々しい風が吹き抜けていた。
メイドの旅は、再び動き出す。




