1-2 港町の失踪事件 前半
薄明かりが海面をなめるように照らす港。
波間に揺れる小舟の上で、リリエラはゆっくりと深呼吸をした。
冷たく湿った風が潮の香りを運び、眼帯の奥に眠る、形にならない記憶を淡く刺激する。
「次の街までは、半日ほどの航海じゃ。もっとも、このまま風が眠らなければの話だがな」
老いた船頭が、重い帆を操りながら独りごとのように言った。
リリエラは黒いスカートの裾を揃え、静かに頷く。
「構いません。急ぎはいたしますが、海を急かすほど不作法ではございませんので」
海を眺めながら、彼女の心は過去と現在の狭間を漂っていた。
(主と共に渡った海も、このような色をしていたでしょうか……)
しかし、どれほど記憶の糸を辿ろうとしても、魔眼がかけた呪縛の霧がそれを阻んでしまう。
やがて、船は重苦しい波を切り進み、港町ヴェルナールの灯りが見えてきた。
だが、視界に入るその街は、リリエラが想像していた活気ある港とは程遠いものだった。
桟橋に灯る火は弱々しく、広場は死に絶えたように静まり返っている。
リリエラは宿を兼ねた古い酒場の隅に腰を下ろし、住民たちの囁きに耳を傾けた。
「……ここ数週間、夜になると誰かが消える。不自然な霧は、決まって夜にだけ立ちこめるんだ」
一人の漁師が、震える手でエールの杯を握りしめている。
「みんな口を閉ざしているが、海の下に何か、とてつもなく恐ろしいものが潜んでいるんじゃないかと……」
「最近じゃ、海の底から奇妙な音が聞こえると言う者までいる。まるで、何かを探して這い回るような音だ」
リリエラは給仕を待つ人形のように微動だにせず、その言葉を心に刻んだ。
(夜の霧、神隠し、そして海底の音。……ここには、主の足跡ではなく、別の“闇”が根を張っているようでございますね)
リリエラは慎重に目を細め、眼帯の下の右目をそっと意識した。
彼女の魔眼は、対象の「真の名」を読み解く力を持つ。
名を知れば、その存在の正体を、弱点を、あるいは隠された記憶を曝け出すことができる。
(“真の名前”を読み取ることができれば、この霧の正体も、消えた者たちの行方も見えるはず。……ですが)
リリエラは、手袋越しに右目の奥に疼く熱を感じた。
強大な力には代償が伴う。名を暴くたびに、彼女の記憶はさらに削り取られ、いつか主の存在さえ完全に忘れてしまうかもしれない。
その時、窓の外で不自然なまでに濃い霧が、ずるりと街路へ這い出してきた。
「……いらしたようでございますね」
リリエラは席を立ち、老婆から受け取った魔法の鞄のベルトを締め直した。
主を捜す旅の途上、彼女はこの停滞した夜を切り裂かなければならない。
リリエラは眼帯にそっと指先を触れた。
奥底で疼く魔眼が、記憶の深淵に沈んだ「何か」と共鳴し、欠片が不規則に揺らぐのを感じる。
翌朝、リリエラは港の外れに佇む、廃れた灯台へ足を向けた。潮風に晒され、石材が剥落しかけたその塔には、街の静寂とは異なる異質な気配が澱んでいたからだ。
灯台の内部は、陽光を拒むように暗く、冷たい静寂に支配されていた。
一段登るごとに、朽ちかけた木板が悲鳴のような音を立てて軋む。
ふと、壁に掲げられた色褪せた地図が彼女の目に留まった。
それは通常の海図ではなく、複雑な潮流と、いくつもの×印が書き込まれた沈没船の配置図だった。
リリエラは手袋を脱ぎ、細い指先をその地図に滑らせた。
「これが、真実への道標でございますか……」
灯台で見つけた海図の写しを手に、リリエラは次に街の記録館を訪れた。
埃の積もった棚には、過去の失踪事件に関する新聞の切り抜きや、行政の記録が乱雑に山積みになっている。
その中から、彼女は一枚の黄ばんだ記事を見つけ出した。
『ヴェルナールで謎の失踪事件発生。解決には至らず――』
リリエラは小さく息を呑み、紙面をなぞる。
それは十年前の記事だった。当時の状況は、現在起きている神隠しと酷似していた。しかし、不自然なことに、ある時期を境に捜査記録は途絶え、誰もその結末を語ろうとした形跡がない。
(この事件……記憶の霧の向こうで、私が主と共に追い求めた未解決の謎に似ております)
胸の鼓動が速まる。記憶の欠片が、一瞬だけ鋭い輝きを放った。主の背中、戦いの火花、そして――。
だが、肝心な部分は、呪いのような魔眼の力によって再び闇へ押し戻されてしまう。
「……答えを見つけなければなりません。あの方に再びお仕えするために」
リリエラは決意を新たに、住民への聞き込みを開始した。
だが、事態は難航した。記録館を出て古老を訪ねても、返ってくるのは重い溜息ばかりだった。
「十年前も同じように人が消えたのじゃが、結局、海霧の怪異として片付けられた……。霧の夜、港に近づいた者が、遺留品だけを残して忽然と消える。人為か、事故か、あるいは海の魔物か……いまだにわからんのだ」
リリエラは路地を歩きながら、住人たちの視線に違和感を覚えた。
彼らはリリエラの眼帯を認めると、一様に顔を伏せ、距離を置く。その反応は恐怖というより、何か「触れてはならないタブー」を隠している者のそれだった。
「失踪事件について、お話を伺いたいのですが」
リリエラが丁寧に声をかけても、商人は「昔から霧の夜は人が消えるものだ」と、言い訳のように繰り返すばかり。
(街全体が、何かを隠している……。あるいは、守っているのでしょうか)
主と共にあった日々、彼女はこうした「沈黙」が招く悲劇を何度も見てきた。
リリエラは眼帯の下の“契約の目”に意識を集中させかけたが、すぐにそれを打ち消した。安易な力に頼れば、主との大切な思い出がまた一つ、砂のように零れ落ちてしまう。
「真実は必ず、この足で見つけ出してみせます」
霧が再び街を浸食し始める中、リリエラは黒いドレスを翻し、さらに深い闇の奥へと踏み込んでいった。
港を見下ろす高台に建つ、ヴェルナール市立博物館。
そこは、潮風に削られたこの街の記憶を静かに封じ込めた墓標のようであった。
リリエラは館内の古びた展示品――沈没船から引き揚げられた錆びた計器や、主を失った航海日誌などを眺めながら、学芸員のエリアス・モールトンに声をかけた。
「失踪事件について、少しお話を伺えますか?」
背を向けていたエリアスが、ゆっくりと振り返った。痩身で、彫りの深い顔立ち。無表情ながらも、眼鏡の奥にある瞳には射抜くような鋭い光が宿っている。
「その事件か……。街の人間は皆、それを『海の呪い』として思考を止めている。だが、君のように真実を測ろうとする者には、少しだけ話しておこう」
彼は館の奥にある、埃の匂いが染み付いた薄暗い書庫にリリエラを案内した。
棚から取り出された一冊のファイルには、10年前の失踪事件の詳細が綴られていた。
「当時、この街は今よりもさらに深く、粘りつくような霧に覆われていた。被害者は海に近い場所から忽然と姿を消し、後には濡れた衣服や持ち物だけが残された……。まるで、中身の人間だけが溶けて消えたようにな」
エリアスは言葉を区切り、震える指先で古びた資料をなぞった。
「私は当時、現場の近くにいた。……あの夜のことは、今でも悪夢に現れるほどだ」
リリエラは彼の僅かな動揺を見逃さず、静かに、しかし逃げ場を塞ぐように問いかけた。
「何か、隠していらっしゃることがあるのでございませんか?」
エリアスは一瞬だけ目を伏せ、苦いものを飲み込むようにして頷いた。
「……あの霧は、ただの自然現象ではなかった。霧の中に、まるで血管のような淡い光の筋が走るのを見たのだ。それは、誰かが魔術的な意図を持って、霧を『操っていた』証左に他ならない」
リリエラはその言葉に、眼帯の奥が微かに熱くなるのを感じた。
「意図的な霧……。その『術者』に、心当たりはございますか?」
エリアスの沈黙は長く、重かった。
「確信はない。だが、当時の記録には、ある『外部から来た魔術師』の名が幾度も登場する……」
二人は過去の事件の真相に、一歩ずつ近づいていることを確信していた。
しかし、その影にはさらなる大きな闇――あるいは、リリエラが探してやまない“主”の足跡に繋がるかもしれない、残酷な謎が潜んでいるのだった。
エリアスが書庫の奥から持ち出した、羊皮紙の古い地図を広げながら、リリエラは手袋を脱いだ指先でその表面を辿った。
「……この湾の入り口付近。ここが、失踪者が最後に目撃された地点でございますね」
リリエラの静かな指摘に、エリアスは苦々しく眉をひそめて頷いた。
「そうだ。だが、そこは排他的な漁師や利権にうるさい商人たちの縄張りだ。余所者がまともに話を聞き出そうとしても、霧を掴むような結末になるだろう」
「案ずるよりは、まずは足を運ぶべきかと存じます。私たちが真実の端を掴まなければ、この事件はまた、都合よく霧に巻かれて消えてしまうでしょうから」
リリエラの瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。
二人は潮風が染み付いた港の酒場、『海猫の嘆き亭』へと向かった。
薄暗い店内には、安酒の鼻を突く匂いと、波の音にかき消されそうな低い話し声が澱んでいる。
「少し、お伺いしたいことがございます。近頃の失踪事件について、何か知っていることはございませんか?」
リリエラは、場違いなほど穏やかな笑みを浮かべて尋ねた。
だが、漁師たちは一斉に視線を逸らし、重い沈黙が場を支配した。彼らの背中からは、未知の存在への恐怖よりも、何かを「守らされている」という卑屈な拒絶が伝わってくる。
その時、隅の席で独り、薄汚れた杯を傾けていた小柄な老婆が、幽霊のような足取りで近づいてきた。
「……あんた方、真実を知りたいのかい?」
ひび割れた土のような老婆の声が、かすかに震えている。リリエラは姿勢を低くし、老婆の視線に合わせた。
「この街には、口にしてはならぬ『契約』がある……。霧はただの自然現象じゃない。ある者たちが、己の利益と安全のために、あの深淵にいるものを利用しているのさ」
老婆は周囲を怯えたように見渡し、さらに声を潜めた。
「十年前も、そうだった。あの時、霧を鎮めようと立ち上がった立派なお方がいたが……そのお方も結局、街の裏切りによって霧の奥へと消えていったんだよ」
リリエラは、眼帯の奥の魔眼が、脈打つような激痛を放つのを感じた。
(……今、この方がおっしゃったのは、あの方のことでしょうか…?)
脳裏に、霧の中でこちらを振り返る、名前を思い出せない“主”の背中が浮かびかける。
事件の背後に潜む、街ぐるみの腐敗と黒い影。リリエラは老婆の言葉を噛み締めながら、自身の記憶の鎖が、このヴェルナールの闇と固く結ばれていることを予感した。




