番外編 夢を見た
ヴァルニアを発って三日。
道は山肌を縫うように続いていたが、途中から天候が崩れ、リリエラは急な雨に足を止めることになった。
石畳が濡れて滑りやすくなり、山の霧があたりを包む。
道沿いにぽつんと建つ、古びた石造の小宿――**「風隠亭」**に、リリエラは足を踏み入れる。
宿には数人の旅人が暖炉を囲んでおり、室内には木の香りと、かすかにスパイスの匂いが漂っていた。
「おや、旅のお嬢さん。濡れておるな。上着をお預かりしようか」
老婦人の宿主が微笑み、タオルを差し出す。
リリエラは礼を述べ、しばらく暖炉の前で乾いた椅子に腰掛ける。
そこで彼女は、隣に座っていた一人の中年の書記風の男と話すことになった。
「君、旅の人だろう? 私は“記録官”をしている。
各地を巡って、消えかけた民話や伝承を記していてね」
彼は自分の名を名乗らなかった。だが、その言葉には重みがあった。
「記録とは、“他人の人生の断片”を写す作業だ。
でも、時々……自分の記憶か、人の記録か、分からなくなるときがあるんだ」
そう言って、彼は一冊の古いノートを差し出した。
そこには、数年前にどこかで出会った“黒髪の小さな女性と、その主”の話が書かれていた。
(これは――)
リリエラは、一瞬だけ心が揺れるのを感じた。
けれども、記憶には映らない。名前も、顔も、感情も、どこか霞がかかっていた。
「……その記録、続きを書くときが来るのですね」
「ああ、君に会えたなら、な」
彼は、何かを知っているようで、何も語らなかった。
リリエラは礼を言い、ノートの最後のページにそっと一言だけ書き加えた。
『その人は、今も誓いを守るために歩いている』
男は静かに笑い、それ以上は何も言わなかった。
その夜、リリエラは夢を見た。
石造りの回廊、風の中で誰かの声が聞こえた。
「名前を忘れる前に、心は手放さないで」
起きた時、右目には痛みもなく、魔眼も眠ったままだった。
(今は――思い出さなくても、いい)
リリエラはそうつぶやいて、薄い布のブーツを履き直した。
雨は上がっていた。




