3-2 ミルザンの依頼
青く晴れた空の下、草原の道が緩やかに続いていた。
風にそよぐ草の音と、遠くから聞こえる小鳥のさえずりだけが、旅路のBGMのように鳴っている。
リリエラは黒の外套を風に揺らしながら、静かに歩いていた。
腰に下げた水筒が軽くなっている。ザトレムで渡された干し芋も、残りひとつ。
「……次の町では、きちんとした保存食を調達しなければなりませんね」
空腹ではない。
けれど、食料が乏しいという事実には、どこか不安がつきまとう。
丘を越えた先に、小さな町が見えた。
白い壁と、木造の屋根。背の低い民家が並び、風車がゆっくりと回っている。
ミルザンの町。
牧畜とハーブ栽培で知られた、静かな町だった。
町の入り口には、背の高い牛を引く女性が立っていた。
「おや、旅の人? 迷ったんじゃないなら、歓迎するよ」
「ミルザン……間違いありません。通行の許可を、お願いいたします」
軽く身を屈め、丁寧に挨拶するリリエラ。
町の人は少し驚いたような顔をして、笑った。
「そんな丁寧な言葉づかい、久しぶりに聞いたよ。旅人さん、宿なら広場の南側にある“緑の窓”がいいよ。料理が美味しいからね」
ミルザンは、争いや騒ぎとは無縁の町だった。
町の中心には、広場と市場。ハーブを束ねた香草屋、パンの屋台、ヤギのチーズを売る農家の出店。
リリエラは市に出向き、パンを一つ、ラベンダー入りのハーブティーを一袋、そして木の実のジャムを購入した。
「……甘すぎない香り。主のお好みに、似ているような……」
不意に、微かな記憶がよぎる。
笑って手を振る、誰かの姿――けれど、はっきりとは思い出せなかった。
ある日、町の子どもたちが、広場でヤギを追いかけていた。
柵をすり抜けたらしく、大騒ぎになっている。
「そっちはだめ! そっち行ったら、ラベンダー畑が――」
リリエラは、ヤギの前にひょいと立ち、静かに右手を差し出した。
「おやつをご所望でしたら、こちらにございます」
手には、さっき買ったパンのかけら。
ヤギは素直に近づき、むしゃむしゃと食べ始める。
「……すごい、あのヤギが静かになった……」
子どもたちのざわめきの中、リリエラは微笑を浮かべ、ヤギの首をやさしく撫でた。
その日以来、町の人々は彼女を「お行儀のいい旅の人」として親しみを込めて呼ぶようになった。
町のハーブ師の老婆には、「おまえさんの歩き方は、まるで高貴な人に仕えてるみたいじゃ」と言われ、
パン職人の娘には、「あたしの焼いたレモンパンが好きって、なんか嬉しいな」と笑われた。
そして数日が経ったある日、リリエラは町の掲示板に気になる依頼を見つける。
「ハーブ畑にて、不思議な虫害。夜だけ姿を見せ、朝には消える」
「畑を守ってほしい。報酬あり」
「……夜の行動、記録を取り、正体を見極めましょうか」
その夜、リリエラは静かに畑の小道を歩いていた。
広がるハーブ畑には、ミントやラベンダー、ローズマリーが並び、
月明かりの下で、淡い影を地面に落としている。
だが、彼女の目が止まったのは――畝の間に点々と広がる、ほのかに光る苔の群れだった。
「……これは」
しゃがみ込んでよく見ると、それは淡い銀色に輝く苔で、
風もないのに、わずかに揺れているように見えた。
苔自体は植物の一種。だがこの光は、自然のそれではない。
リリエラは懐から取り出した小瓶に、それを少しだけ採取しながら呟く。
「……“月影苔”――希少種。だが、なぜここに?」
旅の記録の中に、かすかにあった知識。
この苔は、月の光と魔力に反応して発光する。
そして、その苔を好んで食べる小動物が、畑を荒らす原因となることがあるのだ。
夜半。
静かに観察を続けるリリエラの耳に、かすかな足音が届く。
「……来ましたか」
草の間をかさこそと走るのは、小さな丸い生き物――夜すずめ鼠。
珍しい魔物ではないが、苔に含まれる微弱な魔力を吸収し、動きが素早くなるという特徴がある。
それが群れをなして畑に入り込み、苗を踏みつけ、香草をかじっていた。
「お引き取りいただきましょう」
リリエラはそっと、手にした小袋をふりまいた。
粉末状のミントと、穏やかな退魔香――魔物を傷つけず、離れさせるための調合。
ふわりと香りが広がると、ねずみたちはくるりと向きを変え、草原の向こうへ走り去っていった。
「……これで、明日からは安心でしょう」
翌朝、畑の主であるハーブ師の老婆が、畝の間を見て目を丸くした。
「な、なんじゃこりゃ……苔が全部、なくなっとる」
「苔は、少しばかり採取して研究所へ送ります。鼠たちは、害のない方法で追い払いました」
「……ほんとに、おまえさんは只者じゃないねぇ……」
老婆は感心しきりに何度もうなずき、
その日の午後には、町の人々がこぞって広場でリリエラに焼きたてのパンやチーズを贈った。
ある者は、銀の刺繍が施されたミルザン織のスカーフを。
またある者は、乾燥ハーブと小さなレシピ帳を。
そして、ハーブ師の老婆は、そっと苔色の小瓶を手渡した。
「これ、中には“月影苔”の一房が入ってる。滅多に手に入らんもんだが、おまえさんなら、持っておいてもええじゃろ」
「ありがたく、頂戴いたします」
リリエラは深く礼をし、その夜、星のきらめく空の下で小さく呟いた。
「……この苔の光、主に見せて差し上げたかったですね」




