1-1 旅の目的
霧の深い街、ベルグリフ。
市場はまだ眠りの中にあり、鐘楼が夜の名残を引きずるように重く軋んでいた。
そんな薄闇の中を、一人の女が歩いている。
黒いドレスに、夜を溶かしたような黒い瞳。
そして右目には、漆黒の眼帯。
少女のような背丈のその者は、夢の中を彷徨う人形のように静かであったが、その佇まいには底知れぬ凄みが潜んでいた。
「……この街でも、ございませんか」
リリエラ・クローデルは、そっと足を止めた。
視線の先には、旅人たちの掲示板がある。
人探し、護衛依頼、失せ物の報酬――。
乱雑に貼られた紙の束を、彼女は祈るような、あるいは検品でもするかのような手際で改めた。
どこかに、自らの記憶からこぼれ落ちた“主”の手がかりがあることを信じて。
霧が晴れ始めた広場で、リリエラは一人の老いた女と対峙した。
女は古びた外套に身を包み、まるで最初からそこにいたかのように、リリエラの行く手を遮っていた。
「リリエラ・クローデル……あなたに会うのは、いつ以来かしらね」
老婆の声には、灰色の懐かしさと、氷のような冷たさが混ざり合っていた。
リリエラは、記憶の淵にある曇った鏡を覗き込むように目を細める。
「……どこかでお会いいたしましたでしょうか」
右目の奥が、脈打つように熱を帯びた。
呪われた「魔眼」が、かつての主の記憶を霧の向こうへ押しやってしまう。
老婆は応えず、懐から一通の古ぼけた手紙を差し出した。
「これは?」
「主から預かったものよ。あなたの、果てしない旅のために」
リリエラの手が、わずかに震えた。
「あなたは……あの方の行方をご存知なのですか?」
問いに、老婆はただ微笑を返すのみだった。
「知っているわ。けれど、今のあなたに話せることは、それ以上にない」
二人の間に、冷たい沈黙が降りた。リリエラの黒い瞳が鋭く細められる。
主を求める渇望と、情報の不透明さに対する警戒が火花を散らす。
「真実は、あなた自身の目で見つけなさい。その目が、光を失っていないのなら」
老婆はそれだけを告げると、霧の向こうへと溶けるように背を向けた。
リリエラは手紙を握りしめ、深く息を吐く。
「私の旅は、まだ終わらないようでございますね……」
老婆の気配が完全に消えた後、リリエラは震える指先で封を切った。
驚いたことに、薄い封筒の中から現れたのは一枚の古びた地図、そして――重さを感じさせない魔術でできた革鞄だった。
空間を歪めて封入されていたのであろう、その鞄はリリエラの手の中で本来の大きさを取り戻した。
「これは……主と共に歩んだ、径路でございますか」
地図に記された古の街道は、彼女の知らない過去を指し示しているようだった。
リリエラは眼帯に手を触れ、ぼんやりとした主の背中を思い描く。
地図と鞄を手に、彼女は再び歩き出す。
霧が完全に晴れたベルグリフの街を、メイドの黒い裾が静かに翻った。




