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教室に鞄を置くと、クラスメイトたちはさっさと更衣室に向かっていた。
「茉理、早く早く」
待っていてくれたらしい。奈々が教室に入るなり、茉理の腕を取る。
「鞄、早く置いて。ほら、更衣室に行くよ」
「あっ、ちょっと」
茉理はぐいぐいと腕を引っ張る奈々についていきながら、あわてて鞄を置いて廊下に出た。
更衣室は1階 保健室の横にある。
中に入るとロッカーが並んでいて、風呂屋の脱衣所のようだ。
木製の長い椅子がロッカーに平行して並んでいて、早く来た子たちはもう着替えを済ませてきゃあきゃあ言っている。
「やだあ、どうしよう」
「わたし、泳げないんだけど」
本日からプール開き。
一番手は、一年A組とB組だ。
本来なら月曜日の朝、1時間目は現国なのだが、今日だけ初めてのプール日ということで、学年全体がプールに入ることになっていた。
そのため時間割が変更になったのである。
「ねえねえ、あとでさあ、5時間目終わったら、ダッシュで更衣室、行かない?」
「きゃあっ。雅人様よね、華麗なる水着姿も、ぜひ見なきゃ」
更衣室の隅ではしゃいでいる一部の女子を見ながら、茉理は思わず天井を仰ぐ。
(そんなにあの変態ナルシスト男がいいのかなあ)
理解に苦しむわ、と茉理は手早く制服を脱ぎながら思った。
「ねえねえ、茉理。茉理はどうするの?」
着替え終わった奈々が、含み笑いをしながら寄ってくる」
「えっ、何が」
「もう、とぼけちゃって。帝様よ、帝様。3時間目、帝様のクラスがプールでしょ」
「それがどうかしたの」
「帝様の水着姿、こっそり見にきたくない? ねえ、行こうよ、わたし、付き合ってあげるからさ」
3時間目終わったら、すぐ行けば会えるかも、と奈々はにやにやしている。
(って、あんたが見たいだけなんじゃないの?)
茉理はげんなりした。
どうもここの女子たちの思考にはついていけない。
いくら本当に好きで付き合ってたとしても、そんな彼の学校でのスクール水着姿を覗きにわざわざ行くなんて、茉理には考えられなかった。
(大体、そんなの見てなんになるっていうわけ? 面白くもなければ、なんか変態かストーカーみたいじゃない)
彼女は思いっきり渋い顔をすると、奈々にわたしは行かないからねと告げた。
「えーっ、どうしてえ」
「だって別に見たってつまらないし」
「そんなあ、好きな人のたくましい胸とか見たら、きっとドキドキするよ~。こんな機会でもなきゃ、見れないじゃん」
「別に興味ないし」
茉理は目をついっとそらす。
「茉理ってば、冷めてる」
「熱くなれるわけないよ。だって期間限定なんだもん」
そうつぶやいた彼女の顔を見て、奈々は目を丸くした。
「茉理、あんたって……」
「え?」
「ううん、なんでもない」
――すごく今、傷ついてる顔してた。
(もしかして、本当に本気で、帝先輩のことを好きなんじゃ……)
そう言いかけた言葉を、奈々は飲み込む。
今、茉理にそのことは言うべきではない。
何故か直感で彼女はそう思った。
シャワーを一通り浴び、準備体操をして、茉理たちはプールサイドに並んだ。
広いプールの真ん中に、赤いロープが浮いている。
プールサイドの端から向こう側の端まで伸びたロープは、きっちりプールを二分していた。
小学校のプールは縦25メートル横10メートルだったが、このプールは縦50メートル横25メートルと、茉理が以前泳いだプールの約2倍の大きさである。
「今日は最初だから水に慣れないとな。各自、自由に泳いでいいぞ」
体育の一年担当教師、大沢先生の声が響く。
「右が男子で、左が女子だ。レッドロープを越えるなよ」
「はいっ」
皆、勢いよく返事をし、次々プールに入る。
「なんか、冷たそうだね、水」
「外、暑いから丁度いいぐらいでしょ」
さ、入るわよ、と奈々は、さっさとプールの中に体を沈めた。
ゆっくりと茉理も水の中に入る。
「あー、気持ちいい」
「ほんとー」
茉理も笑って同意した。
(それにしても広いわねえ、このプール)
普通の学校にあるプールの二倍ぐらいだろうか。
2組合同だって、まだ十分に泳げるスペーズがある。
プールの四隅には、朝雅人から聞いていた芸術的な彫刻が飾られていた。
よくある噴水の銅像のように、ヴィーナスは手に持つ薔薇の花から、キューピットはなんと股の間から水を噴出させている。
(絶対に学校のプールにそぐわないわ、これ)
茉理はその銅像の側まで泳いでいって、ため息をついた。
それにしても。
さっきから彼女は水の中に頭まで潜るたびに、妙な感覚に囚われる。
(何かな……変な感じ)
まるで体がぎゅっと縮小されていくかのような――水圧とはまた違う、変な違和感だ。
いぶかしみながら、少女は水の中をスイスイと泳ぐ。
思い切って中に潜ると、青い水の世界が広がっていて気持ちよかった。
(違う世界にいるみたい)
あまり団体で入っているときにはいけないことだけど、彼女は潜水が好きだった。
すうっと底まで潜って、手をつく。
(あれ? なんか、また……)
茉理は、徐々に体が縮小されていく感覚に襲われた。
今度はゆっくりとだが、確実に体が締まっていく――そんな変な感じ。
思わず両手をばたばたさせてみると、それもなんか妙だ。
そしてどんどん息苦しくなってきた。
水の中で、思うように体が動かない。
腕も、思ったとおりに動いてはくれなかった。
(やだ、変だよ、これ。どうしちゃったの?)
茉理は体に残るありったけの力をかき集め、浮上した。
プールサイドに駆け込むように上がると、濡れた体をぶるぶるっと震わす。
(なんか床が近い……気がする)
立ち上がったつもりが、何故かプールサイドの床は座ったときと同じぐらいの目の位置にあった。
首を振りながら、彼女はプールの方を向く。
「……」
茉理は、プールの水に映った自分の姿を見て絶句した。
(な……な、な、な、何よ、これええええっ)
3年D組の教室は、一時間目から真剣さがみなぎっていた。
英語の抜き打ちテストが配られたのだ。
問題に目を走らせ、直樹は別に動じることもなく、せっせとシャーペンを走らせる。
余裕で問題を解き終わり、彼は所在投げに校庭を見た。
(確か一時間目は1年AとBだったな)
今頃、あの後野茉理もプールに入っているのだろう。
そんなことをぼんやりと考えていた彼の黒眼鏡が、きらりと光る。
手からぽろっとシャーペンが落ちた。
窓際の席から身を窓に乗り出し、彼は下に見えるプールを凝視する。
(なんだ、あれは)
そこには彼の想像を絶する光景が見えていた。
(そ、そんな……まさか)
直樹は驚きもそのままに椅子から立ち上がり、クラスメイトと英語の教師をびっくりさせた。
「先生、すみません。失礼します!」
書きあがったテスト用紙を机に載せたまま、直樹は叫ぶと教室を飛び出す。
いつも冷静な彼の突然の行動に、教師とクラスメイトは驚きで何も言えなかった。
(まさか、そんなはずは……)
直樹はダッシュで校庭を横切り、プールサイドに上がった。
「うわわわわわーっ。なっ、なっ」
飛び込み台の横に、腰を抜かした体育教師。
直樹も、あまりのことに何も言えなかった。
本来なら楽しそうな2クラスの生徒達が、水の中ではしゃいでいるはず。
しかしプールサイドには沢山のカラス達が、ぎゃあぎゃあ喚きながら集まっていた。
「……」
黒い羽が、プールの水に何枚も浮いている。
それはよくある動物の大群に襲われる映画のワンシーンのように、不気味で背筋が寒くなる光景だった。
カラスの一羽が、直樹を凝視する。
次の瞬間、カラス達は一斉に直樹めがけて突進してきた。
「うわわっ、やめろ」
直樹はあわててバリアを貼り、カラスに襲われるのを防ぐ。
カラス達はばたばたと歩いたり、羽を動かしたりしていたが、そのうち一羽、一羽と空へ飛び立っていった。
あとには呆然としりもちをついたままの体育教師と直樹が残される。
(参ったな)
直樹は、空を先回しながらあちこちに飛び去っていくカラス達を仰いだ。
(また俺のせいか? 帝に怒鳴られそうだな)
最後に飛び立ったカラスの翼から、黒い羽がひらりと落ちる。
目の前に下りてきた羽を拾うと、直樹は重いため息をついた。




