17
『こんなにたくさん席があるのに、誰が座るのかしら』
(誰? 誰の声?)
頭の中に響く声に、茉理は我に返った。
白いもやの中、知っている少女の姿が浮かぶ。
『そう思わない? カラスさん』
(姫乃さん……)
白い大型犬を撫でながら、姫乃の表情が苦しげにゆがんだ。
『ここにいて、あなたの欲しいものをなんでもあげるわ』
(駄目だよ、姫乃さん)
『わたしはもう、一人ぼっちは嫌なの! お願いよ、茉理』
(わかってる。わたし、貴方の友達になったんだもん)
茉理は一生懸命叫ぶ。
(絶対に一人にしないよ。必ず行くから、待っててね、姫乃さん……)
「あ……」
白いもやが、唐突に消えた。
伸ばしたその手は、誰かに強く握られる。
「茉理」
「……み、かど先輩?」
開いた瞼の先に、黒髪がかかった。
いっそう濃く深い色の瞳が、彼女を見つめる。
「この馬鹿っ! 何してたんだっ」
思いっきり怒鳴られ、茉理は目を瞬かせた。
「えーと……、あの、ここは――」
「俺の部屋だ」
茉理は身を起こし、寝台を見た。
(すっごく大きい……それに何、この天蓋は)
かけられた布団は、軽くてふわふわだ。
高級羽毛入りに違いない、と彼女はぼんやり思う。
(ちょっと待って、帝先輩の部屋!? ってことは、これは帝先輩のベッド!?)
突然思考が上ってきて、茉理は顔を赤らめた。
(やだやだやだっ、どうしてこんなとこに――)
気恥ずかしくて顔が上げられない。
気になる男の子の部屋にいるということだけでも緊張するのに、彼がいつも休んでいるベッドまで拝借したなんて、もう何も言えない事態である。
身を細めて固まってしまった少女に、すっとカップが差し出された。
「はい、茉理姫。ハーブティーだよ」
雅人が優しく笑っている。
茉理はそっと手を出すと、カップを受け取り、一口飲んだ。
(暖かい……それに落ち着くわ)
「心配しなくても、帝は君を襲ったりしてないよ。着替えはメイドのお姉様がしてくれたし」
パチンと片目をつぶられて、茉理ははっと自分の格好を見る。
青いワンピースから、白いバスローブに着替えていた。
「……すみません、何から何まで」
茉理はぽつんと謝る。
そろそろ頭の中がはっきりしてきた。
自分は最上階まで上がっていって、不思議な扉に手をかけた。
扉はどれも開かなかったが、かわりに変な巨大蛇に襲われてしまったのだ。
(あれってなんだろう。前に特別書庫に仕掛けられていた魔獣みたいなのかしら)
だとしたら、あれは扉の番人だったのかもしれない。
あの扉を開こうとした者を、襲うように命令されていたのだ。
ますます扉の向こう側に何かあるらしい確信はもてたか、同時に悲しくなった。
(どうしよう。わたしの力じゃ先に行けないよ)
もし帝たちが助けにきてくれなかったら、自分はどうなっていただろう。
巨大蛇に絞め殺されて、それこそ危うかったはずだ。
茉理は胸が痛くなって俯いた。
辛くて、悲しくて、しょうがない。
(姫乃さん……どうしよう)
約束したのに。
絶対会いに行くって言ったのに。
彼女はきっと待っているだろう。
いや――茉理が来れないことぐらい、わかっているかもしれない。
最後に彼女が言ってたではないか。
『自分のことは、忘れて欲しい』と――。
(やだ。忘れるなんてやだよ)
茉理の目から、自然に涙が流れていた。
締め付けられそうなほど痛む胸の奥から、熱いものがこみ上げる。
(せったく友達になれたのに。もう会えないなんて、そんなの悲しすぎる)
誰かを思って待ち続けるのは辛い。
なまじそれが温かくてせつない思い出であればあるほど――。
姫乃はこれからずっと茉理のことを思い出しながら生きるのだろうか。
いつか、もしかして来てくれるかもしれないと――そんなことはありえないと心でわかっていても、それでもあきらめられなくて……。
(お兄ちゃんを待ってたわたしみたい。辛いよ、そんなの)
茉理は思った。
彼女は元々近所に住んでいた少年、水沢明人と仲良しだった。
でも彼は親の再婚によって転校してしまい、最後にかわした約束が『また会いに来る』だった。
(待ってるって約束したけど、ずっと待ってても来なかった、お兄ちゃん)
もうそんな約束なんて忘れているわよ、と母親に気軽に言われた。
そうかもしれない、でもやっぱり会いたい。
そんな想いを抱え、幼いながらもずっと彼女は待った。
そのうち自分から会いに行こうと考えるようになり、ついに明人の転校先クリスティ学園への入学を果たしたのだ。
でも肝心の明人は茉理のことを忘れてしまい、今は別な少女に心を向けていた。
辛い現実に打ちのめされそうになったけど、それでもいつまでも待ってるよりはましだったと茉理は思っている。
「どうした?」
「……」
嗚咽を漏らす茉理に、困惑しながら帝は腕を差し出した。
ベッドの横に座り、彼女を胸に抱きよせる。
まわした手で背中を撫でてやると、茉理は彼の胸にしがみついてきた。
「泣くな」
「うっ……ひっく……うっうっ……」
しゃくりあげる茉理をそっと抱きしめながら、帝はささやく。
「頼むから泣くな。俺が側にいるだろうが」
気遣う声は少し照れくさそうで、でもとてもくすぐったくて――茉理の胸に静かに降りてきて、優しく留まり、ほんのりと暖かくなる……。
ひと時だけのぬくもりだと自分に言い聞かせながら、茉理は帝の胸にすがって泣いた。
「落ち着いたようだね」
「はい。心配かけちゃって、ごめんなさい」
茉理はぺこりと謝る。
帝の私室は3つあり、寝室と居間と勉強部屋である。
最もこの邸の部屋はほとんど許可なく、彼が好きにして良いのだが――。
居間のソファに座り、茉理は赤く泣き腫らした目を伏せがちに俯いていた。
かなり泣いて、大分気が楽になった。
向かい側のソファに座る帝も、先ほどシャツを着替えてきた――茉理の涙でぐしゃぐしゃになってしまったからだ。
彼の横にはさりげなく優雅な笑みを浮かべて雅人が座っている。
これから何を聞かれるのかわかってるだけに、余計に茉理は身を堅くした。
「そんなに肩を張らないで、大丈夫だよ、茉理姫」
穏やかな声で雅人は話しかける。
「僕は怒ったりしないから、事情を打ち明けてくれないかな。どうして最上階まで行ったりしたの?」
「……」
茉理は思いっきり言いよどんだ。
何と言っていいか――全部話してよいものかどうか、本当に迷う。
「君は何かを知っている。それで気になって、上まで上がっていった。君の探しているものは一体何?」
彼女は沈黙したままだ。
雅人はふうっとため息をつき、横でじいっと彼女を睨みつけている帝を突っつく。
「帝。君がそんな怖い顔してたら、姫が余計におびえちゃうよ。表情硬すぎ。もっとリラックスしないと」
「これが悠長にしてられる場合か。一歩遅かったらお前は死んでたんだぞ、マジで」
帝の怒鳴り声に、茉理はビクンと肩をすくませた。
ため息をつき、彼は腕を組んでまたじいっと彼女を見る。
「いい加減に白状しろ。ちょっと探検してみたかったとか、そういう言い逃れは聞かないぞ。お前、何が目的だった?」
「その前に聞いていいですか」
茉理は小さな声で聞き返す。
「あの上の部屋には何があるんですか。わたしを襲ってきたのって魔獣なんでしょ」
「そうだ。あの扉を守る魔獣だ」
「やっぱり。じゃあの扉に誰かが触れて開けようとしたら、襲われる仕組みになってたんですか」
「正解。よくわかってるじゃん、茉理姫」
彼女が少しずつ会話してくるようになったので、にっこり雅人は笑んで答えた。
「あの扉の向こうには何があるか、先輩たちは知ってますか」
茉理の質問に、二人は無言になった。
扉の向こうのことは、よく知らない。
そもそも向こう側なんてないであろうに。
「お前は何を言ってるんだ」
一瞬の沈黙のあと、帝が口を開いた。
「あの扉自体が魔獣なんだ。向こう側に部屋なんかないぞ」
「ええっ」
「あそこにある12の扉を見ただろう。あの扉はね、扉の形をしてるけど、本当は魔獣なんだ」
雅人が説明してくれる。
「昔、危険かつ獰猛な異次元から迷い込んできた魔獣12体を、僕達クリスティのご先祖が封印して扉化したんだ。扉に彫り付けてある魔獣の紋章は、どんな奴が封じ込まれているかを模っている」
「えーとつまり危険な魔獣を魔法で扉の形に変形させちゃったってことですか」
「そう。だから別に、あの向こうなんて何もないんだ。でも12体の魔獣はかなり力が強いから、もし一体でも復活させて使役しようなんて大馬鹿者が現れたときのため、あの扉に誰かが触れたら即座に襲うように、守護する魔獣をつけといたってことさ」
「そうとも言い切れないぞ」
突然割って入った声に、3人は驚いた。
「おや、直樹君、調べ物は済んだ?」
「ああ。とても興味深いものだったよ」
黒眼鏡を煌かせ、満足そうに直樹は笑む。
「で、そうとは言い切れないってどういうことよ。直樹君」
「お前達は小さい頃からあの扉――いや最上階について、どう聞かされていたんだ?」
「どうって、さっき話したとおりだが」
不思議そうに帝は答える。
「大和からは絶対に近づくなと言われていた。魔獣を縛り、使役出来る力が備わるまでは危険だと。ガキの頃なんて、いくら俺でもそこまでの魔力はなかったからな。おとなしくしていたさ」
「右に同じ。ねえ、でも君の考えは違うみたいだね、直樹君」
薔薇の花をくるくる弄びながら、雅人は聞き返す。
「ああ。それだけじゃないな。あれはとても凝った封印結界だよ」
「封印結界?」
「あの先にある何かを封印し、絶対に外部からわからないように遮断させている。おそらくあの向こうには何かがある」
「なんだと?」
帝は驚いて声をあげた。
「馬鹿な! 一体何があるというんだ」
「俺にもそこまではわからないが」
直樹はため息をつき、ちろりと茉理を見る。
「そこから先は、俺より後野さんの方がくわしそうだな」
話してはもらえないかと言われ、茉理はもう一度聞いた。
「あの、本当にあの先に何があるか知らないんですね」
「くどいぞ、茉理」
帝は青筋を立てて苛立つ。
「さっさと話せ。時間がもったいない」
(帝先輩たち、本当に知らないみたいだ)
茉理の心に希望の火がともる。
(もし本当に知らないのだったら)
すべてを話すことで、助けてもらえるかもしれない。
このまま自分ひとりであがくより、はるかに可能性がある。
「あの、こないだのことなんですけど」
茉理は心を決めてすべてを打ち明けた。
――この先の未来に、あの少女に希望が訪れることを願って。




